めおとばなし
ヤチヨリコ
おっとばなし
「私を殺して貰えませんか」
妻が日本人形のような顔色で、目尻を下げて、いつになく神妙な顔で言った。
そんなところで隆太郎は目が覚めた。隣の布団で眠っているはずの妻が、そこにはいなかった。整った布団に誰かが寝た形跡はない。
妙に心がざわついた。妙に悪い予感がした。妻が死ぬような気がして寂しくてたまらず、思わず家中を探し回った。
「みつ、みつ」
電気をつけるというのを思いつかなかったものだから、暗がりの中を手探りで足探りで歩いた。隆太郎の生まれついての貧乏性で物が多い。つまづいて転びそうになること、数え切れず。裸足で冷たいフローリングの床を一歩ずつ歩いていくと、凍えそうになった。息切れをこらえて、絶えず肩は震える。足に物が触れるたび、それが妻の死体でないことを質感から感じて、ほっとした。
妻はこっちの気も知らないで、リビングでカップ麺のそばを食べながら、「おはよう」とのんきに言った。
隆太郎はあまりののんきさに呆れて、「おはよう」と返して妻の隣に座った。
「どうしたの?」
妻はあの夢の妻とは別人のように笑っていた。
ふと、テレビを見ると紅白歌合戦がやっていて、大みそかだなと思った。
眠ったのは夕方のことだったか。ずいぶん寝ていたものだ。眠った気がしないのに。夢であってよかったと思った。夢であってくれと願った。
隆太郎は安心して妻の肩に無言でしなだれかかった。こたつに入っているからかいつもより温かくって、彼女に体温があるのに一つ心が落ち着いた。
「おれが夕メシ作るっていったろ」
「だって、隆ちゃん疲れてるでしょ。今日くらい家のことまでさせてられないよ」
「それにしたって、カップ麺ってのはなあ……」
もう半分に減った添加物まみれのそばもどきは、妻の身体をむしばみ、最後には…………。そんな想像をして、嫌になった。
「風呂は入ったのかよ」
隆太郎はその声が少し不機嫌だったのに気づいて、後悔した。
「シャワーだけね。湯船にはつかってない」
「それじゃダメだ。もういっぺん風呂入れ。風呂沸かしてやるから」
「いいよ、めんどくさい」
「ダーメーだ。ちゃんと入れ。女が身体冷やしてんじゃねえよ」
「シャワー温かかったもん」
「シャワーは後で冷えるだろ。それに髪も乾かしてないし」
「短いしすぐ乾くからいいもん」
妻の視線は完全にテレビ画面に向かっている。話をちゃんと聞いているのか、言うことを聞けなどと言いそうになった。妻が死んでいなかったことを思い出して、ぐっとこらえて、彼女のふくらんだほっぺたを骨ばった手のひらで包んで、つぶした。
「ちょっと、なにするの」
怒る妻。
隆太郎は気まずそうに目をそらしながら、
「何もしてねえよ。……」
ところどころつっかえながら、無理に落ち着いた顔で話し続けた。
「何もしてなくてよかったってだけだ。ただなんだかおれがおまえを殺してなくってよかったってだけだ。ただおまえがおれの隣から消えてしまったような気がして……」
妻は隆太郎の目をまっすぐ見て、真剣そうな顔をしていった。
「あたしが隆太郎に殺される前に、あたしがあたしに殺されるのが先だよ」
冗談じゃない。ふざけるな。隆太郎の不安の色は怒りに塗り変わって、妻をにらみつけたまま黙り込んだ。
隆太郎は無言で立ち上がって、風呂を沸かすついでに湯たんぽを作り、湯たんぽが出来たら布団に放り込み、風呂が沸いたら妻を放り込み、妻が煮えたら布団に放り込んだ。それから、妻を寝かしつけたあと、風呂に入って、妻の隣で眠った。
朝、妻のみつえが隣で眠っているのを見て、二人で過ごしたら一年があっという間に過ぎてしまって、だから、妻と二人で生きていけたのだと思った。妻のブサイクな寝顔が愛おしかった。生きていてよかった。当たり前だけれど幸せなことだ。
今年一年、彼女といっしょにいられるだけで、隆太郎は丸儲けだなと思う。そうであるようにと初詣のときに信じてもいない神に祈った。
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