第7話

「鏑木さんなんか、朝、こちらが挨拶しても挨拶を返さないからね」

 塚本はビールを一口飲んでから言った。野元は苦笑で応じた。

「もっとも、こっちがあまりいい感情を持ってないのが向こうにも伝わるんだろうけどね。だからこっちも挨拶はしないよ」

 塚本は笑みを浮かべてはいたが、語気は強かった。

「あの先生にはそういう所がありますよ。僕らが挨拶しても何も返ってこないことが多いですよ」

 野元が返すと、

「ふむ。どうしてそんなふうに傲慢なのかな。私学の教員をちょっと低く見ているところがあるのかな」 と塚本は言って、考えるように目を細めた。

「どうですかね」

「あの人、写真コンテストで一年間毎月金賞取ったとか言いよるやろ。あれだけ言うんやったら、なぜ教員なんかやめて、それに打ち込まんのかな」

 塚本は皮肉な笑いを浮かべて言った。

「先生ならとっくにそうするでしょうね」

 野元がそう応じると、塚本は頷いた。早く定年になってやめたいというのが塚本の繰り返してきた言葉だった。

「隣の吉塚君も無口な人だね。ほとんど話しかけてこない。ま、こちらも話しかけないけど。あのね、あの人の本立てに宇宙論の解説書があってね。暇々に読んでいたんだよ、彼がいない時に。黙ってね」「ええ」

「そしたら、読んでる時に彼が戻ってきてね。それで、これ読ませてもらってます、と言ったんだ。ええ、とか、ああ、とか彼は頷いていたんだけど。それから三日ぐらいたったら、本立てからその本が消えてるの」

「ほう」

「無断で読んでいたのが気に食わなかったのかな、と思ってね。それにしてもこっちが了解を取った後に本を隠すとは嫌な奴だなと思っていたんだ」

「そうですね」

「それで、二週間ぐらい経った時に何気なく訊いたら、化学の、えーと、名前何て言ってたかな、女の先生」

「尾崎先生」

「うん、そう、尾崎先生が息子に読ませたいと言うから貸したらしい。それでほっとしたけど。自分に悪意のある奴は隣にいてほしくないからね」

 サラリーマン風の二人連れが入ってきた。二人はL字形のカウンターの、野元達とは別の一辺に座った。中国人の娘が出てきて、おしぼりを出した。塚本は娘が出てきたのを機に、焼酎のお湯割りを注文した。野元もそれにならった。

「田岡先生とは話さないんですか。先生の高校の先輩でしょ。同じ学年で席も近いし」

 野元が訊ねた。塚本は苦い顔をして唇をへの字に結んだ。

「あの人とは最近、と言うかこの一、二年話さないな」

「そうですか」

「僕は同窓生ということで人間関係を結ぶというのは好きじゃないんだ。そんな枠で人間を括ろうという考え方がね。僕が田岡さんとつき合ったのは高校の先輩だからということじゃなくて、あの人が一人の人間として面白かったからでね」

 野元は塚本の言葉に頷いた。塚本なら当然だろうと思った。

「でもちょっと行き違いが起きた。原因はゴルフで、それはつまらないことかも知れない。でも、ちょっと僕としては不愉快な経験だった。僕はそれで彼から離れたんだ」

「そうですか」

「僕は彼の先輩ぶらない、フランクな態度にひかれてつき合ったんだ。いつも冗談や彼独特の面白い物言いを欠かさない、柔らかさというか、余裕こそ僕の学ぶべきものと思っていた。ところが彼はゴルフ場で全く反対の面を出してきた」

 塚本はそこで言葉を切って一息ついた。

「まぁ、それはよくあることなのかも知れないし、そんなことで腹を立ててはいけないのかも知れない。そう思って僕も、帰りの車の中で訣別の言葉を吐いてしまいそうな自分を抑えたんだ。しかし、一度冷水を浴びた心は元にもどらないね」

 ゴルフ場で何が起きたのか分からないが、ゴルフをするのも大変だなと野元は聞いていて思った。一方で、たかが遊びの中で起きたことではないかという気もした。

「ところが彼はそれを理解しないのさ。あくまでも同窓生という枠組みの中で接してくる。僕の後ろを通り過ぎながら、ハチとかドボンとか言う。ハチは一ホールで八打叩くことで、ドボンは池の中にボールを打ち込むことなんだがね。そういう形で僕とのコミュニケーションの維持を計っている。しかし、それは本当に僕とのコミュニケーションを求めているのではないんだ。お前は知らん顔をしているが、俺はお前をあくまでも同窓生と思っている、という程度の意思表示なんだ」

 塚本の口調にはさっきから興奮がみられた。

「第一、失礼と思わないかね。こちらは彼から離れようとしているんだ。話しかけないし、接触を避けている。それは明らかに彼にも分かる変化だ。こちらはそれなりの覚悟をしてそういう態度に出ている。それを彼は無視する。以前と同じように冗談を言ってくる。それが先輩としての度量を示すことであるかのようにね。少しも誘ってくれん、とか、全然声をかけてくれん、とか、これも通りすがりに彼独特の言い方で冗談っぽく言ってくる。僕は個人としての彼に興味をなくしたんだ。だから積極的につき合う気持はなくなった。そしてその気持を態度に出している。その僕と敢えてなおつき合いたいと思うなら、背後を通りすがりに冗談めいた言葉をかけるのとは違った対応があってしかるべきではないかな」  

 塚本はそこで言葉を切ると、自分の興奮に気がついたようにふっと笑い、お湯割りを飲んだ。そして、

「まぁ、事を荒立てても仕方がないから、彼のそういう接触に対して僕も冗談を返し ているんだがね」  

 と言って、野元の顔を見て、ニヤリと笑った。

「右田さんも同窓ですよね。後輩でしょ」

 野元がそう言うと、

「ああ、そうだよ」

 と塚本は眉をしかめて答えた。そしてちょっと沈黙したが、意を決したように口を開いた。

「彼には僕は言ったんだ。高校の先輩・後輩は関係ないって。彼が職場に入ってきた時、彼の方からそういう事を言ってきたからね。僕のためなら何でもしますっていう雰囲気だった。僕がそう言ったら変な顔してたけどね。それから僕にいい感情持ってないんだ。こんなことがあった。成績のデーターが入ったフロッピーがなくなってね。あれがないと学年末の書類は何もできないからね。僕は少し慌てて机の引きだしの中を全部捜したけど、見つからない。パソコンのところに忘れたのかも知れないと思ってパソコン室に行ったら、彼がそのパソコンを使ってるんだ。嫌な奴がいるなと思ったけどね。僕が周りをウロウロする。彼は知らん顔をしている。僕としては彼にちょっと席を立ってもらって、その辺りを捜したいんだ。二、三十分前にそのパソコンにフロッピーを入れて使ったんだからね。二分くらい彼の側をウロウロしたかな。普通の人なら、何ですか、くらい訊くだろう。彼は知らん顔だ。で、フロッピーの置き忘れはなかったかと僕は訊いたんだ。なかったですよ、の一言だけ。作業をしながらね。ちょっとどいて捜させてくれないか、という言葉を僕はなんとか抑えたよ。今こそ俺に仕返しをする時だって感じなんだな。冷ややかなもんだよ。僕は彼に敵対的な行動を取ったことはないんだけどね。あんたが先輩・後輩は関係ないと言うなら、俺もあんたを無視するよ、ということだ。俺は彼のそういう打算的なところが嫌いだから、つき合いたくないんだ」

 塚本は最後の言葉を吐き出すように言った。そして、皮肉な笑いを浮かべて、

「そんな奴が田岡さんの仕事を肩代わりして、コンピューターの打ち込みをやったりしている。その見返りはちゃんと計算しているはずだよ。前の職場の東京の高校ではずいぶん苛められ、鍛えられたと自慢気に言っていたが、どう鍛えられてきたのか」

 塚本は前を向いたままそう言い、お湯割りを口に運んだ。野元は初めて聞く話で、返す適当な言葉が浮かばなかった。職場に入って四、五年で特進クラスの担任になっている右田は確かに要領のいい男だろうとは思うのだが。塚本が徐ろに口を開いた。   

「人間的に合えば、引かれるところがあれば、僕はつき合う。出た学校が同じなんて偶然に過ぎない。ところがそんなところで括ろうとする。その枠に入っておれば無条件につき合うべきだと考える。じゃ、そのつき合いの中身はなんだと言ったら、結局、功利主義的な便宜だろう、処世上の。人間的な理解や共感は二の次だ」

「まぁ、日本人の伝統的な人間関係ですね」

 野元が言葉を挿んだ。

「うん、そうだ。しかし俺はそれは嫌なんだ。これからの時代はそれではいけないと思うんだ。俺は個人原理を立てたいな、人間関係にも」

 塚本はそう言って苦しそうな表情で天井を見上げた。野元は塚本の考えは理解できるが、対応に幅がないような気がした。人間的に共感する、あるいは引かれる人とだけつき合うというのは確かに理想的だが、そんな生き方をしていたら職場では孤立を深めるばかりだろうという気がした。また、塚本にそんな生き方を貫いていく強さがあるだろうかとも思われた。

「先生はやはり詩を書く人ですね」

 と野元は言った。

「どうして」

「理想を追って突っ走っているような気がしますよ」

「そうかね」

 塚本は少し苦い顔をした。

「しかし大事なことだと思うよ。個人が基本になるということは。あらゆる問題は個人のところで決着が着くと思うんだ。その社会がよい社会かどうかが、結局そこで生きている個々人が幸福を感じているかどうかで決まるように」

「それはそうですね」

 野元は相槌を打った。

「個人原理ですか」

「そう。それが確立されてこないと日本は変わらないと思うな。民主主義も本物にはならないだろうし」 こんなことを熱心に語るこの人はやはり面白い人だと野元は塚本のことを思った。しかし、負け犬の  

遠吠えのような感じがする。彼の口にすることと職場の現実とを比較すればその感は深い。結局、こうして現状への不満を吐き出して、憂さ晴らしをしているのが二人の関係なんだなと野元は思う。

「同窓生などは関係ないという先生がここに来るのは、この店の主人が個人として気に入っているということなんでしょう」

 野元が笑いを浮かべてそう話を転じると、塚本は少し戸惑った表情をしたが、

「まぁ、そうだな」

 と苦笑した。

「しかし、あなたがいるからこんな話ができるんだな。他の人には話せないし、話す気にもならないことだよ」

 塚本は嬉しそうな表情で言った。それは二人が文学について語る時、野元が塚本から何度か聞いた言葉だった。

「それはあなたが個人としての僕をある程度理解してくれているということなんだ。僕の知己なんだな、あなたは。そういう意味で」

 野元もそう言われると少し嬉しい気がした。    

「知己という関係が日本人には少ない気がする」

 塚本は呟くように言うと、遠くを見るような眼をした。

 その日本人には少ない人間関係をこの男は求めていこうと言うのか、と野元は思った。それは決して明るい展望を抱かせなかった。それはまさにこの地下のおでん屋で二人で飲んでいるような侘しさを心の内側にひき寄せるものだった。しかしその侘しさに耐えることができれば、自分には合う生き方のように野元は思った。

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知己 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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