第6話
JRのK駅で電車を降りた。二人は駅前の或るビルの地下へ続く階段を降りていった。そのビルの地下には焼き鳥屋や割烹などの店が五、六軒入っていた。二人は「伝助」というおでん屋に入った。
L字形のカウンター席に四畳半ほどの座敷が付いた小さな店だった。野元が塚本とこの店に来るのは三度目だった。塚本の話ではこの店の主人は彼の高校の同期生らしかった。国立の工業大学を出たらしいが、親の跡を継いだという。戦後間もなくの開店というから店の歴史は長かった。
まだ時間が早いせいか、客はいなかった。二人はカウンターに腰掛けた。店主は二人が入ってきた時、奥から顔を出して、「いらっしゃい」と言ったが、ニコリともしなかった。そして二人が椅子に座った時には顔を引っ込めていた。塚本が言うように愛想のない店主だった。代ってアルバイトの娘が出てきて二人の前におしぼりを置いた。この娘は地元の公立大学に留学している中国人だった。野元が塚本に連れられこの店に初めてきた時からいる娘だ。二人はおしぼりのビニール袋を破り、手を拭いた。二人の様子を見ていた娘が、「何にしますか」と声をかけた。やはり抑揚が少し変だった。「どうしようか」と塚本は野元の顔を見て、「ビールでいい? 」と訊いた。「はい。どうぞ」と野元は答えた。塚本はジョッキの生ビールを注文した。
「担任はなかなか大変だろう」
乾杯して一口飲むと塚本は言った。
「ええ。まあ」
と野元は苦笑して応じた。野元の頭に不登校になりつつある生徒のことが浮かんだ。担任クラスは四月、五月と無事に過ぎたのだが、六月に入って文化祭が終った後、一人の生徒が急に休み始めた。その生徒は文化祭の取組みでは中心になって頑張った生徒で、文化祭前日は十時まで学校に居残ってお化け屋敷を作り上げたのだった。中間考査の一週間後に設定され、十分に準備するひまもなく、消化行事になっている傾向の強い文化祭だが、野元のクラスは参加生徒も多く、よく取組んだ方だった。この経験はこれからの学級経営やクラス作りにプラスになるだろうと思っていた矢先に、その中心になった生徒が学校を休みだしたことは野元には意外であり、不可解なことだった。本人や親に事情を尋ねても要領を得なかった。その生徒は中学時代、いじめを受けていたということが分かっただけだった。欠席が始まって既に二週間が過ぎようとしていた。
「先生は楽でしょう、今年は」
野元は訊き返した。
「まぁね、クラスがないからね」
と塚本は答えたが、
「しかし授業は去年よりエネルギーをつかうよ。三年の私文私理だからね」
と続けた。塚本は去年は一年のクラス担任をして、一年生だけを教えていた。今年の野元と同じだった。まだおとなしく、実力テストの成績というモノサシで選別されていない一年生は確かに教えやすいはずだった。二年生から進路別にクラス分けが行われるが、実態は進路別というより成績による選別であり、国文、国理などの特進クラスには成績の上位の者しか入れなかった。国文・国理に入れなかった者が次に編入されるのが私理・私文の〈優秀クラス〉であり、それにもこぼれた者が入るのが私理・私文の一般クラスなのだ。私理・私文の生徒は学校のそういうシステムを反映して落ちこぼれ意識が強く、学習意欲は稀薄だった。その分、教師にも反発しがちで、授業はやりにくくなるのだった。
「これはここだけの話にしておいてもらいたいのだがね」
と塚本は急に改まった調子で言い、
「実は俺、今年は門立ちの当番に入ってないんだ」
と続けてにやりと笑った。常勤講師以上の身分の教員は、時間割変更の作業で朝が忙しい時間割係の教員を除いて、正門、裏門、駅前の三つの場所に分担して立ち、登校してくる生徒の服装や持物のチェックをすることになっていた。六人一組で一週間交替であり、年間、五、六回、当番が回って来る。当番の教員は始業時より二十分早く出勤しなければならなかった。年度始めに一年間の割当表が配られる。それに塚本の名前が載ってなかったというのだ。
「俺は時間割係じゃないしね。作った人が書き落したんだろうけど。名前がないと申し出ようかとも思ったけど、やめたよ。わざわざ自分から負担を求めることもあるまい、と思ってね。せっかく作った表をやり直すのも大変だろうし」
塚本は弁解の口調で言った。
「先生、今年は楽ばかりじゃないですか」
と野元は応じた。塚本に皮肉を言いたい気持が動いていた。「ここだけの話にしておいてもらいたい」と言った時の塚本の語調に怯えがあったことへの反発がその刺激となっていた。
「うん。ラッキーだった。でも、やがてわかるだろうな」
〈ラッキー〉という強気な物言いの後に弱気な言葉が続いた。
「分かりませんよ、黙っていれば。皆、自分の担当のところしか見ないんだから」
野元はそう言って、ふと、塚本は自分がしゃべってしまうことを疑っているのかなと思った。疑われることへの反発、塚本の小心さ、一方では、塚本の弱みを握っている優位のような感覚が野元の意識を掠めた。
「まぁ、わかってもいいや。俺のミスじゃないんだから」
と塚本は呟いた。そしてジョッキを持ち上げた。野元は〈しゃべるなら喋っていいよ〉と言われたような気がした。
「おでんをください」
と塚本は奥に声をかけた。中国人の娘が出てきた。目の前で煮えている、材料毎に区切られた矩形の鍋の中を見ながら、二人はそれぞれ二、三品を注文した。
娘が引っ込むと、のそりと店の主人が出てきた。
「忙しいかい」
と塚本が声をかけた。
「いや、大して」
と店主は答えた。
「ああ、葉書受け取ったよ。」
と塚本は言った。そして、
「あれは他にも出したんだろ。どんな人にだしたの」
と訊いた。
「この前の同窓会に来た人には皆出そうと思ってね」
と店主は少し笑みを浮かべて答えた。
「まだ全部は書き切れてないけど」
「そうか。店はまだつぶれていません、とか書いてあったから、危ないんじゃないかと思って来たんだ」 塚本は微笑しながら言った。
「それも狙いだけどね」
店主はそう言ってニヤリと笑った。塚本はハハと笑った。店主はまた奥に引っ込んだ。
「どうですか、一年の学年は」
塚本が野元に訊いた。
「と言いますと」
と野元が訊き返すと、
「いや、学年の雰囲気はどうかと思ってね」
と塚本は言葉を足した。
「英語科はよくないですよ」
と野元は答えた。
「鷲尾先生と竹川先生が仲悪いんですよ。三島先生と竹川さんの間もよくないしね。皆殆ど話をしない。同じ学年であんなに話をしない英語科というのも初めてだな」
「ほう、そう」
塚本は興味深そうに頷くと、
「そう言えば、鷲尾先生と水田先生との間もうまくいってないみたいだね。この前、水田さんが鷲尾先生に文句を言いよったよ。いつもあんた達だけが集まって話を決めて、結果だけを私に言ってくる。何でわしを外すんだ、とね」
「そうですか。でも水田先生は非常勤講師だから」
と野元は応じた。鷲尾も水田と同じく公立高校を停年退職した後、再就職した教師だが、年齢は水田より若く、身分はまだ嘱託教諭だった。
「竹川さんも嫌われとるみたいやね。水田さんが竹川さんとは組まないから、とそんとき鷲尾さんに注文しよったよ」
塚本は少し笑いを浮かべて言った。
「自分は誰々とは組まない、と初めから言うんだからすごいな」
野元はそう言って、やれやれというように首を振った。そして、
「組みたくなくても組まなければならないのが仕事というものでしょうけどね」
と言って苦笑を浮かべた。
「竹川さんはいかにも教師タイプの教師だが、これまた教師らしいタイプの人からは嫌われるんだな。近親憎悪かな」
塚本はそう言って皮肉な笑いを浮かべた。竹川は生徒を職員室に呼びつけて、長い時は一時限の間中、ガミガミ、ネチネチ叱る教師で、それが始まると周囲の教師の中にはうるさくて席を立つ者もいた。竹川のそういう面を塚本はいかにも教師タイプと言ったのだった。
「先生はどうです」
と野元は塚本に訊いた。
「周りにはどんな人がいるんですかね」
「えーと、右隣が松本。左隣が吉塚、あの物理の若い。そしてその向うが水田、その後ろが鏑木か」
塚本は自嘲的な笑いを浮かべながら挙げていった。
「あまり話ができそうなメンバーじゃないですね」
野元が苦笑しながら言うと、
「うん。一日何も言わずに終ることもあるよ」
そう言って塚本は笑おうとしたが、その笑いは少し歪んだ。
「もともと先生は周囲とあまり話をしなかったですからね。清水が僕に言ってくるくらいだから」
野元がそう言うと、
「そうだがね」
と塚本は唇をへの字にして頷いた。清水は去年塚本が担任していたクラスの生徒で、野元は去年塚本のクラスに週四回教えに行っていたが、授業中、その清水が、「先生、塚本先生は職員室で話し相手がいないんじゃないですか」と言ってきたのだ。清水はよく突飛なことを言い出す生徒だったが、野元もこれには返事に詰まった。早速、「生徒はよく見てますね」と塚本に報告すると、「あいつはよく職員室にくるからな」と塚本は苦笑いをしたものだ。
「いや、今年はちょっと話をしようと思っても、おいそれとは話しかけられない人達に囲まれた感じでね」
と塚本は言った。
野元は塚本が、水田や鏑木など公立高校を定年退職してきた教師を嫌っているのを知っていた。そのことを彼はかって野元に語ったことがあった。それは掻い摘まむと以下のようだった。〈学校で行われている教育は偏差値至上の受験教育であり、知識の切り売り、詰めこみ教育に過ぎない。そのメダルの裏側は生徒の個性や自主性を損なう管理教育だ。そういう大して価値もない教育を、定年を過ぎても続けようとする、その無自覚さが嫌悪される。それも生活のためというなら、やむを得ない面もあるが、公立高校を定年退職して生活には困らない退職金や年金を得ていながら、なお教員を続けようとする。そこには自分の教員としての力量への自負があるようだが、もともと公立高校には偏差値の高い生徒が集っているのだし、生徒達が教師によく従い、勉強するのは教師の力量に関わらない部分が大きい。それを自分の力と錯覚する傲慢も鼻につく。生き方の問題としても批判がある。家にいてもすることがなく、時間を持て余すから学校に出てくるというのが本音ではないか。そこには日本人の仕事依存症(ワーカ ホリック )という貧しさが出ている。余暇を自分自身の人生の充実に使うことができない。というより自分自身の人生というものがない。仕事という外からの枠に自分を嵌め込まなければ日々の過ごしようがない。〉大体以上のようなことを塚本は語ったのだった。
「
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