茶碗に眠るファムファタル

天方セキト

茶碗に眠るファムファタル

 全く見たことがないものを見た時、人間とは考えが全て止まってしまうものらしい。そんな大層なものを見たのかと言われれば正直、なんとも言えないが僕は確かに見たのだ。今まで見たこともなかったような建物を。その建物に行こうと思ったきっかけは人伝にサラッと聞いたその内容であり、気になって仕方のなかった僕は休みを利用して行ってみることにしたのだ。


 僕の家から隣町に位置しているところにある目的地。地図をあらかじめに確認はしていたが入り組んだ街であった。これを世間では「下町」という。室外機が邪魔なのか猫が飛び上がるようにして路地を走り抜けていた。絡み合う電線、黒く伸びた路地、電車が来るのかもわからない寂れた駅。住宅街から抜けた隣町にこんな光景があったのかと驚いたが僕の目的地はそこではない。陽炎が揺れるアスファルトの上を歩きながら坂を登っていた。


 この坂を登って左に曲がれば目的地のはずなんだ。僕はそう思いながら歩いていると雑木林が見えてきたのだ。ビンゴ、地図をあらかじめに確認しておいて本当によかった。下手くそな指鳴らしは「パスん」と頼りない音を残して消えた。一人で気まずくなりながらその雑木林を右手に曲がる。勝手口のようなドアを見つけた。


 この雑木林の中に目的地があるらしい。僕は勢いに任せて勝手口を開け、全く知らない雑木林の中に入った。これこそが若さゆえの勢いとでも言うのであろう。「やかましいわ」と思わないで。アスファルトから土へと変わり、靴裏から感じる熱が一気に冷めた気がした中で僕は歩いていた。そしてとうとう目的地を発見したのだ。


 少しだけ屋根が高く、ハゲかけた壁には引っ掛けるために使っていた釘がそのまま放置されて会釈をする様に曲がっていた。ぼうぼうに生えた雑草に囲まれたその目的地は納屋であった。そう、納谷こそが僕の目的地だったのである。


 僕の目的地は納屋のはずがなかった。喫茶店のはずだ。僕の呟きは誰も拾わなかった。いや、近くの木は聞いてくれていたと思うが奴ら、聞くだけ聞いて何も返事をしないもので枝だけ揺らして僕を見ている。僕は意を決して納屋の中に入って行った。


 ちゃんと中で店員さんがいてくれていたことから喫茶店であることは合っていたらしい。しわっしわな紙にメニューが書かれてあり、僕はコーヒーを一杯注文した。納屋ということもあってか店内はすごく狭い。僕が座った席以外にはあと四つしか椅子がなかった。窓もなく、裸電球さえもなく、外からの日差しとガタガタの机の上に置かれたキャンドルはそれぞれ一個づつ。


 高い屋根から差し込む光や蝋燭に溶け込むように家具が存在しており、土の感覚を感じる土間や寂れた壁に会釈する釘。本当にここは現代、令和の世の中なんだろうかと。貧しいと言われればそれで終わりかもしれないがここまで貧しさ、そして質素さ、その無造作を美に昇華できている喫茶店は見たことがなかったのだ。


 お茶をするところ、ここはそうだ。まさにここはお茶をするところだ。現代に蘇った無駄のない和の茶室なんだ。意味が分からなくなるほど僕は興奮していた。考えて見てほしい。人伝に聞いて行って見たところが納屋であり、そこは暗がりの中でも木や土と共に生きる日本人の誇りが詰まったような空間だ。眠る和の心が起きたって仕方がないじゃないか。


 コーヒーが届いた。蝋燭に照らされながらみるコーヒーは一味違う。それにまた驚いたのがカップではなく、お茶を入れる粘土の焼き物にコーヒーが入っていたことなのだ。柄もなく、煤けた灰色の茶碗。そこにいれられた鮮やかな色のコーヒー。持ち手はないので両手で優しく持ってあげる。人の手によって作られた茶碗だ。指の跡を感じる。ゆっくり回しながら確認すると気持ちの良いほどハマる型があるのだ。


 その茶碗にはコーヒーだけが存在し、茶碗とコーヒーという和と西洋の混ざり合わないはずのものが見事に共生していた。抹茶パフェを越える西洋と和の合体である。暗がりの中で写る茶碗の灰色によって中のコーヒーが際立つ。逆も然りだ。コーヒーの黒のおかげで茶碗の灰色が際立つ。土や木や水や虫や、日本人は数多の命と共に生きてきたとずっと思っていたがコーヒーと茶碗。お前達も共に生きていたのか、僕はそう思った。


 茶碗に口をつける。音も聞こえぬこの納屋の中で、シルエットが壁に写る。優しく口づけるように茶碗に触れた唇はコーヒーと共に土の質感さえも啜り込んだ。深いコーヒーの香りと今まで僕が踏みしめてきたような土の香りと、僕が共に生きてきたものが口の中に流れてなんとも言えない味を生む。ファーストキスの相手は茶碗だった。本気でそう思う。僕はこの茶碗とコーヒーに惚れてしまったのだ。


 人の手によって育てられてきた茶碗はコーヒーという深みを得て僕の元にやってきた。舐め回すように僕はその茶碗を見ていたわけだが焼き跡のような窪みや出っ張りはなんとグラマラスなことか。そんな品のある茶碗を僕はそっと口づけしてあげる。いい茶碗だ。君は本当に品のあるいい茶碗だ。


 その結果、貪るようにコーヒーを飲み込んだ僕はカフェインが頭の中に回った。絶頂。今まで行きたかった場所に行き、運命的な出会いを果たした後の味わいは僕にとって刺激が強すぎた。吸い尽くした茶碗と満足そうな僕。次も会えたらいいね。そう思いながら会計を払って納屋を出て行った。


 また会いたい。そう思えた喫茶店だったと思う。まさかコーヒーを飲むときに「共に生きる」ということを、グラマラスだということを思うとは……。僕も中々に尖った男らしい。邪魔をせず、表にも出たがらず、ただそこに生きている、周りと共に生きているあの茶碗。渋いとはこういうことだろうか。僕は勝手口を出た時にそう思った。


 土はもうない。アスファルトを踏みながら僕は雑多な街へと帰っていった。懐が豊かになればまた君に会いに行くよ。あの納屋は喫茶店であり、僕にとってはいけないことをしたような甘い毒のある場所なのだ。

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茶碗に眠るファムファタル 天方セキト @sekito_amagata

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