偶像墓地

小夜 鳴子

第1話

 通り過ぎてゆく電車を見ていると、吸い込まれそうな感じがする。時速何キロだとかそういうことはよくわからないけれど、人間が走ったってあんな速さにならないことぐらいは猿でもわかる。そんな速度を持った物体は確実に私を殺してくれるってことも。


「あの、夜野さん?」

「は、はい」


 聞いてる? と優しい笑みを浮かべる唇に反して、眼鏡の奥の真っ黒な瞳は正直だ。慌てて向き直り、きちんと現実を認識していく。PM5時。冷めたパンの匂いと、有線。そうだ、今はバイトの面接中だった。


「緊張してる?」

「……少しだけ」


 この店の店長だという西村さんは、私の小さな嘘を珈琲の一口で丸ごと飲み込んでしまってから、履歴書を再び手に取った。


「高校時代は茶道部? 中学のときは合唱部かぁ」

「はい」


 その部分だけボールペンが少し滲んでいたことを思い出したけれど、特に指摘するほどのことでもないだろう。どうだっていい、そんなこと。


「じゃあ、何か、その活動を通して得られたことはある?」


 体が強ばる。というか、さっきからずっと手が小刻みに震えている。高校生活で最も頑張ったことはなんですか部活ですではそこから得たものはなんですか「な、仲間と協力する喜びです私は、わ、私は……」

「わ、すごく緊張されてますねこれは」


 ことり、と日焼けのあまりしていない腕で茶色いトレーがテーブルに置かれる。珈琲とフレッシュ、砂糖、白いお皿の上にはくるくると巻かれた生地を焼いたパン。


「クロワッサンです。試作品なので」


 よかったらどうぞ、とにこりと笑う。店長さんと同じように眼鏡をかけた背の高い男性だった。全体的に色素の薄い感じのする彼の茶色い瞳は柔らかい光をたたえている。


「店長、自分の分だけ珈琲用意してどうするんですか。ただでさえ気が利かないのに、こんな若い子ビビらせちゃダメですよ」

「いや、そんなつもりないんだけどなぁ」

「店長は存在が怖いんですから他で挽回しないと。ねぇ、そう思いますよね?」


 肯定する訳にも行かないので、私はふるふるとかぶりを振った。

 柔らかそうな物腰でけっこうな毒を吐くその男性のエプロンの胸元には「四宮」とある。グレーのTシャツにデニムのエプロンってダサくないかなとバイトに応募するときに少し悩んでしまったけれど、その制服は彼にとてもよく似合っていた。


「んーーまあ今日はお客もそんなにいないし、ゆっくり話聞いていこうか。まずはうちのパン、食べてみて」


 私の不甲斐なさに若干イライラしていた様子の店長さんだったけれど、四宮さんの登場でそれが和らいだみたいだった。すごいことをさらっと仕出かしている彼はにこにこと私と店長を眺めている。その目線におされて、私はクロワッサンを手に取った。


「じゃあ、いただきます」


 程よい甘みと生地のサクサク感。上に乗ったナッツの食感がいい仕事をしている。蜂蜜だろうか、甘い液体が中の生地にしっかりと染み込んでいて、噛む度に幸せな気持ちになる。と、いう巧妙な食レポができるはずもなく、私の口から飛び出したのは何の変哲もない酸素ぐらいありきたりな言葉だけだった。


「美味しい!」

「でしょう?」


 四宮さんが頷く。珈琲に砂糖とフレッシュを入れて喉につっかえたクロワッサンを流し込んだ。私はあまり珈琲は好きではないので、美味しいか不味いかはよくわからない。私がクロワッサンを食べている間、店長さんは所在なげに私の履歴書を眺めている。


「月末はこういう感じで試作品とかもらえたりしますよ」

「そういうのは採用が決定してから教えてあげて。四宮くん、そろそろ仕事に戻りなさい」


 履歴書から目を離さず、店長さんが指でしっしっと四宮さんを追い払う。彼はいたずらっ子っぽく少し目を細めてから、ぺこりとお辞儀をして店の奥に戻っていった。


「何の話だっけ。あ、学校生活で得られたことか。何かある?」

「そ、うですね……高校の文化祭でお茶会をやったんですけど、皆で協力して1からやったのでとても達成感がありましたね」


 手の震えは、いつの間にか収まっていた。

 その後も面接は続き、クロワッサンが冷め始めた頃、そして店長さんの珈琲がなくなりかけた頃。それが最後だった。

 

「それで……働けるのは土日祝……平日は来られないってことでいいんだよね?」

「そうです。大学が遠いのと、あまり体が強くないので」


 遠慮がちに頷く。


「うーーん」


 ボールペンの先を机にトントンと当て、何やら考え込んでいる様子だった。やっぱり希望時間がネックなんだろうか。私はこれまでにもう2件も採用を見送られている。でも、勤務時間はどうしても譲れない。通学に片道2時間もかかるし、門限だってある。そんな22時まで働いてられないし、平日は講義で忙しいのだ。あと1ヶ月もしないうちに、私は大学生になる。


「長期休暇は毎日入れます。土日と祝日は絶対に入ります。駄目、ですか?」

「いや、駄目って言うわけじゃないけどね。他の希望者さんもいるからねぇ」


 店長さんは私の方をちらりと見て、また履歴書に目を戻すといった仕草を繰り返すと、うん、と頷いた。


「聞きたいことも聞けたので、今日の面接はこれでおしまいにします。採用の可否は電話で返しますね。採用しない場合は電話はいたしませんので、そのつもりでお願いします」


 急に畏まった言い方でそう締めくくると、店長さんは立ち上がる。私は大急ぎで残っていたクロワッサンを口の中に押し込み、珈琲で流し込んだ。クロワッサンは冷めても美味しかった。


 入口近くの席に座っていたので、店長がドアを開けて、退室を促してくる。私はそんなに準備が早い方ではないので、急いで鞄を手に取って、外に出た。


「ありがとうございました」


 深くお辞儀をすると、軽くお辞儀を返され、無慈悲に扉は閉まっていった。あまりにも呆気ない幕切れに、私はどこか釈然としない気持ちになりつつ、今日のためにとおろしてきた新品の花柄のスカートの裾を整え、歩き始める。そしてすぐに、店の前で四宮さんが箒を掃いていることに気づいた。

 すれ違いざまにありがとうございました、と会釈すると、にこりと笑ってまた来てくださいね、と。一陣の風が吹き抜けるかのように。

 私はもう一度スカートの裾を整えると、少し早足で歩き始めた。

 それは、なんだか魔法使いみたいな人だったな、と感じた、とある春の日のこと。

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