第4話
ふと、足を止めた。
「こんなとこ、あったっけ」
ちいさな花屋がそこにあった。本当に小さくて見落としかねない。おしゃれなプレートが掲げてあるが、フランス語のようでそれをどう読むのかわからなかった。足を止めていたの自体は数秒だったと思う。でもそれに気づいた店員らしき女の人が私に声をかけた。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
その明るい声に私は店内に吸い寄せられた。
色とりどりの花。自らが美しいことを知っているような花たち。
私はまた否定されたような気持ちになってしまう。
「こんにちは、どんなお花お探しとかありますか」
先ほど私に声をかけた店員さんだ。純朴という言葉が似合うような女性だった。彼女一人でこの店はやっているのだろうか。やや焼けた肌にはうっすらとそばかすが浮いている。化粧自体も薄く、それを隠そうとはしていないが、逆に女性の素直さを表しているようで見ていて好感がもてた。ひとつにくくったポニーテールも飾り気がない。年齢は私くらいだろうか。もしかしたら少しだけ上かもしれないけれど。
「いや、こんなところにお店あったかなって……ちょっと気になって入ってみただけです」
私が正直にいうと、女性はふふっとはにかんだ。
「そうだったんですね。実は昨日からのプレオープンなんです。見つけてくれてありがとうございます!」
彼女の笑顔に胸の中のなにかが痛んだ。
花の中にいる彼女は、凛としている。
ふいに唇が震えてしまった。いつも、私は唇を引き結んでいる。それが緩むと微笑ではなく、苦しさがこみあげてしまう。喉の奥がヒクついている。生唾が自然にあふれ出す。そしてそれらはゆっくりと、目に上がってくる。
呼吸ができない。熱いものが喉につっかえている。声が漏れないように口を押えると、私の意思とは反して喉が鳴った。抑えきれない。苦しい。
ああ、だめだ。
私は強くないと。
弱い私を彼女に見せたくなくて目をぎゅっとつむった。涙は出ていない。唾を、ゆっくりと飲み込んだ。大丈夫。ほら、飲み込めた。
眼を開くと、彼女はなにも言わずに花を見つめていた。意図的に私から目をそらしてくれたのかもしれない。
視線が彼女の視線を追った。
そこにはガーベラがあった。
「きれい」
私は思わず口に出していた。花をきれいだなんて思ったのはいつぶりだろう。高校の時、先輩たちが卒業式で抱えていた花束はやけに美しく感じた。自分がもらったときはそんなこと思わなかったけれど。
私は白いガーベラを一輪だけ買った。
なんでこの色かわからない。なんとなく、ガーベラは赤いイメージがあった。でも赤ではなく白を選んでいた。
かわいらしい店員は、最後まできれいなお辞儀をした。
家に着くと、テーブルの上にコンビニ袋を投げ出し、花瓶になりそうなものを探した。花瓶なんて持っていない。まだ資源ごみの日じゃないから幸いなことにビタミンドリンクの瓶があった。ラベルもそのままで、あまりおしゃれではない。でも一輪だけ挿すにはちょうどいい口の大きさだった。
先ほど丁寧に包んでもらった花の周りのビニールを無造作にはがし、適量水を入れた瓶にガーベラを活けた。
さきほど耐えていたものがあふれてくる感覚があった。
どうしてだろう。いつもの私の城塞なのに。私の生活空間にある異物。ガーベラを中心に私の世界が変わっていく感じがした。
私がほしかったもの。熱。先ほどの店員の無邪気な笑顔が浮かぶ。見つけてくれてありがとうございます。ありがとうございます。リピート。どうしてそんな顔で笑えるんですか。
自分が汚く思えてしまう。やめて。そんなにきれいに笑わないで。純朴そうな彼女はどういう男を選ぶんだろう。この人ひとりと決めて一生添い遂げるんだろう。きっと芯から温まることができる。
ガーベラの白さは彼女みたいだ。
私。暗闇の中に、希望を見つけられるのだろうか。このまま走り続けていたら見失ってしまう。でも、どうやって止まればいいの。
ガーベラが揺れる。淡い光をはらむような花びらが、静かに私を手招く。
外はまだ明るいのに、部屋は薄暗いし湿っぽい。私の城塞。私の心を守るお城。ここには男を入れたことがない。私の好きなものであふれているきれいな場所。テーブルもラグも淡いベージュで統一されている。全身が映る、シンプルな木枠だけの鏡。映っている私は、私の知っている私と少し違って見えた。泣いているの? 鏡の中の女は弱弱しくうなずいた。嘘でしょう? 首を振る。辛いの。それは私が言ったのか鏡の中の女が言ったのか。鏡の中の女から私は目を逸らした。
統一感のある部屋の小さなテーブルの上の柔らかな一輪。
光は私を優しく包み込んでいる。ほのかな温かさすら感じる優しい色彩。
この部屋にはこのガーベラがないといけなかったんだ。やっと完成したね。私はたった一輪を探していた。
「ああ、私、がんばってたね」
やっとみつけたよ。
どうして、あんなにも耐えていた涙がこぼれるのかわからず、私は声を上げて泣いた。
暗闇の平熱 藤枝伊織 @fujieda106
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