第三話

「二人で車に乗るのも久しぶりね」


 車に乗り込むなり、嬉しさと不満が混じったような顔で妻がそう言った。


「…入院する前から家のことを任せてばかりですまない。今度まとまった休暇が取れたら三人で旅行でも行こう」


 フロントガラスに顔を向けたまま、以前も似たようなことを言ったのを思い出す。


 退院後の妻とはやや距離ができてしまったように感じる。以前よりは家事も頻繁に行っているし、療太を病院に連れて行くのも一人の時間が欲しいだろうという配慮があってのことなのだが、機嫌が良くなっているようには思えない。死を覚悟したことで何か心境の変化でも生まれたのだろうか。


 車道を走り出しても、沈黙が重いままだ。何か話したほうが良いのだろうが、妻と二人きりというのが久しぶりすぎて、取っ掛かりが見つからない。


「療太、元気そうで良かった。友達も増えたみたいだし、本当に心配していたから」


 破ってくれたのは妻だった。そうだ。子供の話題は事欠かない。何を萎縮しているんだ私は。


「心配していたのは療太の方もだよ。帰ってくるって聞いたときの顔、今まで見たこと無い笑顔だった」

「だから早退って…私が入院してる時もよくあったの?」

「いや、初めてじゃないか。時間が空いてる時で良かったよ」


 丁度、長時間勤務を終え、休みとは言えないまでも次の出勤までそれなりに時間のあるタイミングだった。妻は運転免許を持っていないから、学校まで迎えに行くのはは負担がかかる。


「そう…」


 助手席に浅く腰掛けている妻は、納得できていない様子で車窓を眺めている。自分が入院したことで、他者の身を過剰に憂うようにでもなったのか。


「別に心配いらないよ。ただの頭痛のようだし、あの年代の子じゃ珍しいことでもない」

「そうね…」


 まだ妻は腑に落ちていない様子だ。死を覚悟した者にしか、持ち合わせることのできない感情はあるだろう。しかし、子に対する過保護な愛は可能性を奪うことになりかねない。特にあの子の可能性は甚大だ。となれば、いつかは妻にも力のことを言わなければならない。


「最近、頻繁にあの子を病院に連れて行ってるのは、どういう考えなの?」


 黄色信号を渡れそうだったが、強めにブレーキを踏んだ。この流れで出てくるとは思えない言葉だった。


「…入院してる時からたまにあったんだよ。家で一人にしとくのもと思ってね」

「病院側は何も?」

「叔父さんが院長だしね。大抵院長室で大人しくしてるよ」

「療太からは、パパと一緒に院内をうろついてるって聞いたけど」


 右折しようとする車が、横断歩道を渡る歩行者を待っている。


「あなたも療太の将来のことを思って、そうしてるのは分かってる」


 この状況では車は停止するしかない。


「けど、今の療太にとってはそれが重荷になってるように思うの。今はまだそんな時期じゃなくて、学校で元気よく遊んで、友達を作って、健康的に過ごす。それがあの子のためになるんじゃないかって、退院してから思う」


 私も妻の話を聞き終えるまで待つしかなかった。


「今日の療太の早退も、それと全く無関係とは思えないの。私が知ってる療太は熱が出てても友達と会いたくて、新しいものが見たくて外に出ていく子だった。でも退院してからそんな姿が見れてない。元気なんだけど、以前は持っていた好奇心みたいなものを失っているような」

「それを俺が削いでると?」


 信号が青に変わると同時に、言葉が出てきた。


「そうとは言わないけど…以前あなたは医者になるしかなかった自分のような人生を歩んでほしくないと言った。だから医療に関係のない習い事にも通わせて、あの子の可能性を広げたいって。でも今は、まるで医者にすることを決めているような、そんな気がするの」


 思わず、それはあの子の力が無かったときの話だろうと言ってしまいそうだった。


 療太の好奇心を、可能性を削いでいる?俺が?冗談じゃない。


「なんだか…変わったのはあの子じゃなくて、あなたなのかもしれないと最近思うようになって」

「考えすぎだよ」


 ハンドルを握る手に力が入る。違うんだよ、あの子の可能性は君が考えているレベルじゃない。実際に目にすれば分かる。俺や父とは比べ物にならないんだ。


「あの時期から現場の雰囲気を分かっておくのは悪いことじゃない。これもあの子の可能性を広げることになってるよ。療太も医療に興味があるようだしね。僕は何も変わっていない。それに」

「それに?」


 君の一人の時間を作ろうとして連れ出していたのにと言いかけ、口が止まった。


「いや、もしあの子が行きたくないと言い出せば、無理に連れて行ったりはしないさ」

「そう。なら良いんだけど」


 もう小学校にたどり着く。上手く気持ちの整理を付けなければ。妻は何も知らないのだからしょうがない。いくら理解してもらおうとしても、どうせあれが見えなければ納得はできないだろう。巧みに質問をかわしながら付き合っていくしか無いんだ。私が院長になるまでは。


「あなた、場所分からないでしょう?私一人で行ってくるから、車停めたら少し待ってて」

「え、ああ、分かった」


 場所が分からないこともないが、今、妻と二人の時間が増えるのは少し酷で、来客用の駐車場に停めながらそのまま返事をしてしまった。


「じゃあ、行ってくるね」


 助手席のドアが普段よりやや強めに閉まり、妻の姿が小さくなっていく。あまり感情を表に出さない妻だが、今回は行動に現れている気がする。距離があるように感じていたのはこれが原因だったのか。


 言えるならば言ってしまいたい。しかし、どう理解してもらえばいいんだ。療太の背後に死神のようなものが憑いていて、そいつが人の寿命を伸ばすんだ。君の命を救ったのもこの力なんだよ。


 なんて言ったところで、私にあれだけ不信感を抱いている妻が納得するわけがない。余計に距離が生まれて、今以上に険悪な関係になってしまうだろう。


 状況次第だが、やはり療太があの力を使いこなすまでは言えない。そうだ。私はあの力を唯一知っている人間の責務として、療太の将来を考えている。妻だけでなくこれから多くの懐疑的な目が向けられるだろうが、屈してはならないのだ。


 決意を新たに、グラウンドで体育の授業を受けている児童達を眺めていると、窓の端から見覚えのあるストラップを付けたランドセルが見えた。妻と手を繋いだ療太が少し俯き気味に歩いている。頭痛で体調が悪いというのは本当のようだ。私には後ろに憑いてるもののせいに見えてしまうが、そのことを悟られないよう、心持ちを新たにしながらチャイルドシートの向きを整えた。




「いただきまーす」


 夕飯の時間には療太はすっかり元気になっていた。この年頃の子は一過性の頭痛に苦しむ事が多い。療太もその類だったのだろう。向かいの席で大好きなオムライスを頬張るようにして食べている。後ろに奴がいなかったらなんとも微笑ましい光景だったはずだ。


 ギッと、音を立てて療太の隣に妻が座った。以前は私の隣に妻が座ることが多かったが、退院後は一度も隣の席が埋まったことはない。療太と会える嬉しさ故の行動だと思っていたが、今日の話を聞く限り違うようだ。


「療太、明日は元気に学校行けそう?」

「うん!もう元気!」


 スプーンでチキンライスをこんもりと掬いながら妻の質問に療太が答えた。こうして三人で夕飯を食べるのも数週ぶりだ。妻の昼間の発言さえなければ何も心配事など無く、この時間を楽しめていたはずなのに。


「明日は体育があってね、それが楽しみなんだー」

「そうなんだ、晴れるといいね」


 消しようが無い焦燥感に身を委ねていると、妻がそれを煽るような言葉を放った。


「週末はまたパパと病院に行くようだけど、それも楽しみ?」


 何を言えばいいのか分からず、療太の顔を見つめてしまった。療太は口を尖らせておどけたような困ったような顔を見せている。やはり妻は療太を病院に連れて行くことをよく思っていない。その上こうして三人で会話をするタイミングでこの話を持ち出してきたということは、ここで連れて行かないと決めさせるつもりだ。昼間の説得では足りなかったか。


「うーんパパといるのは楽しいけど…」


 けど。


 やはり療太もなにかしらネガティブな感情は持っていた。流石にそれは察していたが、あえてそこを追求はしなかった。現時点で解決可能なものではないからだ。思わず奴にも目が行くが、変わらない様子でフワフワと浮かんでいるだけで動く素振りは見せない。


「けど?」

「けど…」


 療太がチラっとこちらを見た。妻が小声でほら、と療太に促すように背中に手を当てている。


「パパに呪文を言ってって言われるのが嫌」

「…それはなんで?」

「えっと…」

「ほら、ちゃんと全部言いなさい」


 今度は、妻が私にも聞かせる大きさで促した。


「…僕は、ママとかパパには元気になってほしくて、あの呪文を言ってたけど、知らないおじさんとかおばさんには、ほんとは元気になってほしいってあんまり思ってないから、嘘ついてるみたいで嫌だ」


 なぜだ。


「それだけじゃないんでしょう?」


 なぜ妻だけでなく療太まで。


「…うん、なんか、前までは…嫌なこととかやりたくないことはパパにすぐ言えたけど、ママが帰ってきてからパパに言っても違うとか、そうじゃないだろとか言われるようになって…パパがちょっと怖い」


 なぜ、二人とも分かってくれないんだ。


「そんなことはない」

「ほら、それよ。私と話す時もそう」

「違う。これには訳があって…」

「訳ってなんですか?」

「それは…」


 駄目だ。現段階ではまだ話せない。まだ、その時じゃない。ここで話してしまえば今までの計画が崩れてしまう。


「…今はまだ話せない」

「なぜですか!」


 珍しく妻が声を荒らげた。


「もう僕、パパと一緒に病院に行きたくない」


 療太までもが私を拒否した時、二人が手を繋いでいるのが見えた。その時、私の中で何かが途切れた。


「なぜだ!療太!君は私や父も超えられるすごい素質を持っているんだ。どころか、世界一だって狙える!そんな力を持っているんだ!」

「そんなこと言われたってもう嫌だ!病院に行っても、前は優しかった看護師さんとか叔父さんだって今は怖い目を向けて来るし、もう嫌だ!」

「もう少しの辛抱だよ。耐えるんだ。療太も大好きだって言ってたあの呪文。今はあれを唱えるだけで良い。それだけで良いんだ」

「もう嫌だよ。パパはなんか変わっちゃった。前までは僕になにかしろなんて言わなかったのに。もうあの呪文なんて、アジャラカモクレンテケレッツのパーなんて大嫌いだ!」


 その瞬間、死神がカチンと指を鳴らし、黒ずんだ指先で療太のロウソクの火を消した。

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アジャラカモクレンテケレッツのパー 谷 友貴 @taniyuki

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