第二話

「ママ!」


 病室の扉を開けると療太がいの一番にベッドで横になっている妻の元へと駆け寄っていった。背後にこの世のものとは思えない物体を連れて。


「療太久しぶりだね〜。元気だった?」


「超元気!ママは大丈夫なの?」


 妻は抗がん剤で髪が抜け落ちた頭を隠すためニットを被り、手術の影響で体も細く痩せてしまっている。


「大丈夫だよ〜。どう学校は?楽しい?」

「うん!このまえまた友達がふえてね」


 療太は分かっているのかいないのか、明らかに普通ではない妻の姿を見てもそのことについては聞かない。好奇心旺盛な普段の療太なら、なんでニットを被っているのか、見るからに痩せてしまった理由は何なのか、無邪気な声で聞いてきてもおかしくないが、幼いながらになんとなく事情を察しているのかもしれない。単純に、数週間ぶりに妻と会えたことへの喜びでそれどころではないのかもしれないが。あの物体のせいで、妻への見舞いどころではなくなってしまった今の自分のように。


「お義父さんもありがとうございます。療太の面倒を見ていただいて」


 妻も療太の背後については何も言わない。ここに来るまでに受付、エレベーター、廊下で数人の患者や看護師とすれ違ったが、誰一人として気づいている素振りは見せなかった。


「いやいや、家に一人でいてもどうせ暇だからね。それにしても療くんは賢い子だね。このまえ落語を見せたらすごい興味を持ってね。まだこんなに幼いのにねぇ」


 死神。あの物体に名前を付けるならその言葉が相応しいかもしれない。療太の頭の丁度上辺りに骸骨があり、腰から下は完全に透けている。イメージしていた大きさよりは小さいものの、羽織っている黒い布のようなものからはみ出している手は妙に指が長く、先のほうだけが不気味に黒ずんでいる。


「そうなの?落語なんて難しいのに」

「あのね、大好きな言葉があったの」


 妻への贖罪の感情と、療太への憂慮の気持ちが入り混じった末に見えている幻なのだろうか。こんなにも長く?療太の背後にだけこんなにもくっきりと?頭がおかしくなりそうだ。


「ほら、ママにも聞かせてあげて」


 父が促すと、療太が掴みっぱなしだったベッドのフレームから手を離して、妻と少し距離を取った。家で見せていた踊りも一緒に披露するのだろう。


「行くよ。アジャラカモクレンテケレッツのパー!アジャラカモクレンテケレッツのパー!ママ元気にな〜れ、アジャラカモクレンテケレッツのパー!」


 幻覚ではないと確信した瞬間だった。


 療太が呪文を唱えると、死神がカチンと骨と骨を響かせて指を鳴らした。すると、妻の額の上に妙な光が浮き出た。その光は数秒としないうちに輪郭を明瞭にさせていき、ロウソクの形となって、そのまま浮かんだ。今にでも火が消えてしまいそうな、ドロドロと溶けた短いロウソク。療太が不格好な踊りを続けていると、死神がふらっと療太の元を離れ、妻の方へ動き出す。嫌な予感がした。確か古典落語ではあのロウソクは人の寿命で、その火が消えれば…。


「おい、ちょっと…」


 踊っていた療太が動きを止めて、三人がこちらに目を向ける。思わず声が出てしまった。


「パパ?」


 死神がロウソクに手を近づける。妻はこちらを不思議そうに見つめたままだ。


「どうしたの?」


 覚悟はしていたが、今なのか。


「おい、お前さっきから少し変だぞ。大丈夫か?」

「きっと疲れているのよね」


 本来こちらがそうするべきなのに、様子のおかしい自分に対して妻が気遣った言葉をかける。


 火は消えなかった。それどころか、ロウソクが数倍以上に伸びている。死神は両手でロウソクを囲い、筒状の物を伸ばす要領で10回程手を動かすと療太の背後へと戻り、もう一度カチンと指を鳴らした。ロウソクは見えなくなり、死神はさっきまでと同じようにふわふわと浮かんでいる。


「ああ、すまない。昨日も遅かったものだから」

「あなたまで倒れないでくださいよ」


 どういうことなんだ。死神がロウソクを伸ばした?なぜ?いや、そもそもこいつは本当に死神なのか。落語の話から勝手に結びつけてしまったが、こんな非科学的なもの、自分の情報だけでは何も判断できないだろう。幻覚とは思えないが、今まで無縁だった霊感の類かもしれない。それにここで今の現象を口に出したところで、妻に余計な心配と恐怖を与えてしまうだけだ。いずれにせよこちらに害を加えてくる様子がないのなら、このまま静観しておくしか選択肢は取れない。


「ならパパにも元気が出る呪文言ってあげる!アジャラカモクレンテケレッツのパー!アジャラカモクレンテケレッツのパー!パパ元気にな〜れ!アジャラカモクレンテケレッツのパー!」


 カチンと死神が指を鳴らした。すると眉間の上辺りにドロっとした白い棒状のようなものが見える。音も無く死神がこちらに近づいてきて、目の前でフワリと浮かぶ。すっと両手を俺の頭の上にやり、妻の時とは違い2、3回上下に動かすと、また何事もなかったかのように療太の背後へと戻りカチンと指を鳴らした。


「…療太ありがとう。元気が出た気がするよ」

「ほんと?またいつでも言ってあげるからね!」


 これは…もう確信していいのではないか。


「療太が元気そうで良かった。本当に心配してたから」

「僕はいつでも元気!」


 もう一度、念のため確認しておく。


「ほら、療太。おじいちゃんにも元気を出す呪文言ってあげたら?」

「おじいちゃんも言ってほしいなぁ〜」


「わかった!いくよー…、アジャラカモクレンテケレッツのパー!アジャラカモクレンテケレッツのパー!おじいちゃん元気にな〜れ!アジャラカモクレンテケレッツのパー!」


 死神がカチンと指を鳴らした。




「ほら、療太。あのおじいさん。名前は加藤さんだ。」

「かとうさん元気になーれ。アジャラカモクレンテケレッツのパー」


 ふわふわと死神が移動を始める。


「よし。よくできたぞ、いい子だ」


 カチンと指を鳴らしてするするとロウソクを伸ばし、またカチンと音を立てると療太の背後へと戻る。


 こいつの姿が見えるようになってから数ヶ月が経つ。


「信じられませんが、あまりに体調が良いというので前倒しで定期検査を行ったところ、ほぼ完治状態だったんです」お見舞いの数週後、妻の退院時に見せた主治医の驚いた顔が蘇る。


 こいつは人を救う力。正確にはロウソクを伸ばすことで人の寿命を伸ばす力がある。あのお見舞いの日以降、私も疲れが取れやすくなったし、父もよく眠れるようになったと話していた。どうやら療太も姿は見えていないようで、なぜ私にしか見えないのか。なぜ療太にこいつが取り憑いたのか。様々な疑問はあるがこの数ヶ月で時間が取れるたびに、見学と称して療太を院内で連れ回るようになってから、呪文を唱えた全ての患者の容態が良くなった。もうこの力に疑いようはない。


「パパ、ほんとにこれで僕もパパみたいに人を元気にできるの?」


 初めはこの見学に乗り気だった療太も、最近では疑いの気持ちを持つようになっている。それもそのはずだろう。いくら小学校低学年とはいえ、今行っている事が普通の行為ではない予測はつく。しかし、今この力のことを伝えても正確には理解しきれず、誤った使い方をしてしまうかもしれない。


「ああ。まずは患者さんが元気になることを心から祈ること。それが良いお医者さんになる第一歩なんだ。これは前にも話しただろう?」

「そうだけど…」


 片膝をつき、目線を合わせる。両手を優しく掴みながら、語りかけるよう意識する。


「療太はパパやおじいちゃんだって超えられる才能を持っているんだ。これはおじいちゃんだって言ってただろう?そのためには一からお医者さんになるための心を学んでいかなきゃいけない。パパも協力するから、一緒に頑張ろう」

「そうだね、わかったよ」


 この説得の方法で、いつまで持つのだろうか。


 いつかは、背後に取り憑いているこいつのことを言わなければならない。しかしどうやって?いくら療太が呪文に疑いを持ち始めても、俺にしか見えていないこいつを説明できるだろうか。


 病院の経営は現在苦しい。元々院長だった父が突然辞め、小さい病院での勤務がメインだった叔父がそのポストにありつき、慣れない環境で運営されているというのもあるが、やはり療太のこの力だ。ここ数ヶ月の退院者の数が入院者を大きく上回っている。当然といえば当然だが、この状況が続けば叔父は責任を取って退任せざるを得なくなり、そのポストは私に回ってくるだろう。そうなればより療太の力が発揮しやすくなる。療太に真実を伝えるのは本格的に医者の勉強を始めてからの方が良いかもしれない。そして療太が私の年齢になる頃には、今よりも遥かに有名な日本屈指の大規模病院の院長となっているはずだ。


 今伝えたとしても、結局は余計な誤解を与えるだけで、療太が持っている医者への志を捻じ曲げてはしまわないだろうか。それだけは避けなければならない。ここまでの才能を自分の手で潰すようなことだけは。子の可能性を親が奪ってはならないのだ。


「ほら、今度はあの車椅子のおばあさんだ。名前は吉田さん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る