アジャラカモクレンテケレッツのパー

谷 友貴

第一話

 この仕事をしていると、人間の死に鈍感になる。


 日本の死因第1位である癌死亡者数は、年間で約38万人。全体の患者数は約100万人で、100人に1人が癌を患っている計算となる。生涯で何らかの癌になる割合は、男性で2人に1人、女性で3人に1人とも言われており、早期発見、早期治療を促すCMや、保険会社のPRを散見するようになって久しい。


 そんな世の中になっても、診察に来た時点で進行した癌を患っている患者は少なくない。救えない命に対する同情は、いつの間にか薄れていった。


 自分が医師になったのは、名医と呼ばれ医療関係者の間では有名人だった父の影響が大きい。幼い頃から医療の道へと英才教育を施され、物心がついた頃には幼いながらに自分の道は医師のみなんだと思うようになっていた。母は、自分の意思を引き出そうとしてもいたが、家庭内において父の発言力は強く、医学部に合格して以降、全く口を出さなくなった。


 決して、医師になりたくなかったわけではない。研修医のころは、自分も名医と呼ばれるようになり、難手術を成功させ続けることを夢見てもいた。ただ、医師の仲間入りを果たすと、父の偉大さと自分の非力さを痛感しただけだ。今更になって、自分の生まれや父の育て方に悲観になることもないが、孫の療太に対して何でも要求に応える父を見ていると、自分もそんな育て方をされていたら違う人生もあったのではないかと、想像してしまうことはある。


「ご家族の方もよく聞いてください」


 目の前にいる、精密検査を終えた患者はステージ2。自分がまだルーキーの頃なら、もっと希望的な言葉を投げかけるだろうか。


「率直にお話するとステージ2の食道がんです。まだ転移はしていませんが治療を施さなければまずい状況です」

「はあ…」


 癌を宣告されたショックと聞き馴染みの無い言葉に、多くの患者は言葉が出てこず、現実を受け入れられないといった様子になる。中には、何かの間違いでは?と、症状が現れていないばかりに精密検査の内容を信じない患者までいる。こんな時は分かりやすい数字を提示すると手っ取り早い。


「全癌において、ステージ2の5年生存率は約70%です。ただ食道癌の場合はこれが40%程度まで下がります。入院と手術の日程を早急に決めていきましょう」


 40%という言葉に、ようやく事の重大さを思い知る患者は、そこから自分に神頼みでもするように下手に出て、お願いしますと頭を下げてくる。


 やめてくれ。今は40%でも、転移でもして一気に進行してしまえばどうしようもない。救えないものは救えない。引退した父のような腕はないんだ。そのことは、自分が一番知っている。




「アジャラカテケレのパー、アジャラカテケレのパー」


 リビングで療太が不思議な言葉を喋り続けるようになったのは、父が我が家に寝泊まりを始めてからだった。


 医師という仕事をしながら、男手一つでまだ幼い療太の面倒を見るのは難しく、県を1つ跨いだ先に住んでいる父が、頼んだわけでもないのに家で過ごすようになったのは2週間前。父も1人で過ごすようになって寂しさを感じていたのかもしれないが、まだどこかに蟠りを感じている自分としては、同じ空間で過ごすことに違和感を覚えている。特に休日は家の中から逃げることもできない。


「違う違う、アジャラカモクレンテケレッツのパーだよ」


 療太と話す父は相変わらずにこやかで、表情も口調も柔らかい。


「アジャラカモクレテケレのパー?」

「惜しい惜しい、アジャラカモクレンテケレッツのパー」


 落語なんて、まだ小学生低学年の子供には早すぎると思ったが、療太はこの妙に耳に残る呪文が気に入ったようだ。父の膝の上で、古典落語の死神をYouTubeで見てから、毎日のように繰り返している。まだ一度も正確には言えていないようで、父が何度も繰り返し見せて教えている。


「アジャラカモクレンテケレッツのパー!」

「そうそう!よく言えたねぇ」

「アジャラカモクレンテケレッツのパー!アジャラカモクレンテケレッツのパー!」


 療太は見るからに嬉しさを弾けさせ、踊りながら呪文を繰り返す。


「療くんはすごいねぇ。まだ小さいのに難しい言葉が言えて」


 父がより一層柔らかい表情で、療太に語りかける。そこに、かつて見た偉大な名医の面影は無い。


「これって、なにができる呪文なの?」

「えーとねぇ、これは、そうだなぁ…人を元気にする呪文かなぁ」

「パパのお仕事と一緒だ!」

「そうだねぇ。療くんもこの呪文を使えばパパみたいになれるかもしれないよ」


 療太の目が、呪文を言えた瞬間よりも輝いて見えた。


「そろそろ時間になるし、行こう」

「おっ、もうそんな時間か。療くん、お出かけの準備するよ」

「ママのところに行くの?」

「そうだよ。ママ体調良くなってると良いねぇ」


 父が医者を引退したのは、母を膵臓癌で亡くしたのがきっかけだった。


 膵臓癌は症状が出にくい上に治療が難しく、発見できても手術に至れないケースも多い。仮に手術が行えたとしても、術後の5年生存率も高くはなく、発見した段階で家族には覚悟をしてもらわなければならない。母の癌が見つかった時、進行度はステージ3。入院直後に転移も始まってしまい、懸命に闘病していたが、ほぼどうしようもないという状況だった。そんな母は自らの命が危ういというのに、名医の妻でありながら病を患ってしまったことで、死後の父の様子を気にしていた。お人好しで、人当たりの良い母らしい最期だったが、その心配は的中してしまった。


 名医と慕われ業界内での知名度も高く、数多くの患者を救ってきた父は、仕事に追われて大切な人の体を気にかける事ができなかった。もう少し早く発見できていれば母は助かったかもしれない。癌のことを人一倍知っている分、父はその負い目に苛まれていた。


 そして今、自分もその気持ちが分かる立場になった。


「ママはいつおうちに帰ってくるの?」


 父に着替えを手伝ってもらいながら、実態を知らない療太が当然の疑問を口にする。これでこの質問は何度目だろうか。


 妻の膵臓癌が見つかった時、進行度は最悪のステージ4。母の死後、自分たちも他人事ではないと検診を受け発覚した。既に肺への転移も済んでいて、余命宣告も受けた。


「そうだねぇ。もうちょっとかかるかなぁ」


 父がこうしてはぐらかして答えるのも何度目か分からない。


 結婚してすぐに子供を授かり、夜勤や突然の呼び出しなどが頻繁にある医者という職業をしている以上、通常の家庭より妻の負担は大きかっただろう。振り返れば、妻には結婚して落ち着ける時間が無かったかもしれない。そんな中、妻は癌で死んでいく。それを治療することが生業の男と結婚しておきながら。


 医者の道に進むしか無かった、自分の運命を呪った。


 もし自分が医者になっていなければ、日々の生活で妻の負担は軽いものになっていた。


 もし自分が医者を志していなければ、薬学部に通っていた妻と出会うこともなかった。


 もし自分が医者の家系に生まれていなければ、身内を癌で亡くすことをもっと上手く割り切れた。


 だとしても、痛いほど気持ちが分かる以上、父にこの気持ちをぶつけることはできない。父も曽祖父の代から続く、医師の血脈に巻き込まれた被害者の一人だ。


「ほら、療くんボタン」


 エレベーターに乗り込み、父がまだ背の低い療太の脇を抱えて、B1のボタンを押すように促す。療太は好奇心が抑えられないような顔でカチャカチャと何度かボタンを押した。


「こらこら。ボタンを押すのは1回で良いんだよ」


 療太は私立の小学校に入学し、塾や英会話教室にも通っている。その甲斐もあってか学校での成績も良く、イタズラ癖がある以外は家庭訪問の際にも褒められることが多いと妻から聞いた。幼いながら、自分と父の仕事もなんとなく理解しているようで、幼稚園のアルバムには、おおきくなったらおいしゃさんになりたいです。と書いてあった。


 このまま、この血脈に息子も巻き込んで良いのだろうか。


「アジャラカモクレンテケレッツのパー。アジャラカモクレンテケレッツのパー」


 地下駐車場に着いても、療太は呪文を唱え続けている。口癖としては不気味すぎるが、この子の好奇心はこうなったら抑えられない。


「はい療くん」


 父が手を繋いだまま後部座席のドアを開け、療太がチャイルドシートに乗り込んだ。もう療太はチャイルドシートに乗る義務は無いものの、まだ100センチとちょっとしか身長が無いため、シートベルトを付けるには危険だ。


「これでよし。早く外せるようになると良いねぇ」

「えー、僕これ大好きだから外したくない」


 父がドアを閉めたことを確認して、エンジンボタンを押す。もちろん父は療太から離れず、後部座席に座っている。


「そうなの?」

「だってフカフカなんだもん!」


 駐車場の出入り口に車を移動させながら、本人も気に入っているから外すのはもう少し大きくなってからにしようと、妻と会話したのを思い出す。


「そうかそうか。療くんはものを大切にする子なんだね」

「大好きなものは大好きだもーん」


 そう言うと、療太はまだブツブツと呪文を唱え始めた。


 確かに、療太は対象年齢を過ぎたおもちゃも、大事に使いながら遊び続けている。いつか、それらに見向きもしなくなった姿を見るのは、寂しくなるのかもしれない。


「その言葉も大好きになった?」


 ただ、その気持ちを妻と分かち合うことができるかは、チャイルドシートが外せるほど大きくなった療太の姿を妻は見ることができるのか、もう分からない。


「うん!僕この言葉大好き!僕もパパみたいに人を元気にさせたいし!」


 車が建物の外に出て、光が車内に入り込んできたタイミングだった。


 バックミラーに写り込んだそれが、療太や父、街道の影なんかではないことは瞬時に分かったが、あまりにも現世からかけ離れたもので振り返ることすらできず、硬直した体でミラー越しにそれを見つめながら、マンションのゲートから車道に出るところで右足だけを動かし、車を止めてしまった。


「パパ?どうしたの?」

「おい、車来てないぞ」


 骨が浮き出て骸骨のような見た目をした物体が、療太の後ろに存在する。いや、そもそも物体なのか、自分の目の錯覚なのか、まともな判断がつかない。


「ああ、ごめん」


 2人は気づいていないのか?療太はともかく、父の座っている角度からなら見えるはず。もう一度バックミラーを目だけで確認する。光の反射や錯覚ではない。明らかにそれはそこに存在している。しかしあれは…振り返って自分の目で確かめてしまえば、このまま運転することすらできないかもしれない。一度、深呼吸をする。できるだけ体の力を抜け。妻の容体が急変したわけじゃないんだ。焦る必要はない。普通に考えろ。ただ単に疲れているだけで、妙な幻覚という可能性の方が高いんだ。


 両手でハンドルを握り直し、ゆっくりとアクセルを踏む。それでも、なるべくバックミラーは見ないようにして、妻が入院している総合病院へと車を走らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る