赤い星のカップ麺

太刀川るい

第1話

 火星は何だってしみったれてる。空気だってそうだ。

 分量を間違えたインスタントスープみたいに薄い空気を吸いながら、俺は脱いだばかりのスーツをロッカーにしまった。

 スーツにくっついていた微粒子が舞って、俺は吸い込まないように顔をそむける。

 この微粒子は、どんな小さな隙間にも入り込み、至る所に侵入する。どんなに気をつけても、シャワーを浴びれば髪の毛の隙間から錆びた色をした水が滴り落ちてくる。俺が火星が嫌いな理由の半分がこれだ。残りの半分は薄い空気。こればかりは実際に呼吸してみないとわからないだろう。


 そりゃ、意味があるのは俺だって解るさ。火星で空気は貴重品だ。視認すら難しいほど薄いフィルムで区切られた居住区を空気で満たすなら、パンパンに圧力をかけるより、少し薄めに空気を満たして量をケチったほうが良い。そうすれば事故の時のロストも低減できる。それに、外での作業時に宇宙服が膨らまないためにも、低い気圧は重要だ。しかしだからといってこれはあんまりじゃないか。合理的判断が導き出した答えは限界値。人間が日常生活を送れるギリギリの高さの気圧まで俺たちの空気は薄められている。ああ、地球に戻ったら、胸いっぱい深呼吸してみたい。あの濃い空気を肺に満たして、大きく横隔膜を広げ、そしてゆっくりと、余韻を楽しむように息を吐くのだ。そして本物のコーヒーを飲む。こんな沸点の低いお湯で入れたフリーズドライじゃない。本物のコーヒーだ。

 だが、そのためには、まず稼がないと……。


「ヤマモト・サン、これなにか解るかい?」

 部屋に入るなり、俺はそれを手渡した。

 ヤマモトはベッドから身を起こすと、ヒビの入ったメガネをかけ、俺の手にしたものを見た。俺のルームメイト、ヤマモト。だいぶ小柄でやせ細った老人。大戦前から生きているそうで、もうかなりの年齢だ。


「お前さん……これ、どこで?」

「外に落ちてた。昔のコンテナかな。多分大戦前のやつだ」

 大戦前、地球の周りには莫大な太陽光エネルギーをあてにして、いくつもの宇宙工場が浮かんでいた。その中で生産された物資は、風船みたいに薄っぺらいコンテナに詰め込まれて地球と一緒に太陽の周りを回っていた。必要なときは地球に向けてそっと初速をつければ出せばあとは落ちていく。大戦時に大部分は破壊されたけれど、いくつかのコンテナは起動を外れて、時々火星にも落ちてくる。

 大抵中身はめちゃくちゃになってしまっているけれど、今日のこれはもともと軽かったのが幸いしたのか、昨日作られたばかりのような状態で残っていた。


「そうか、まさかこんなものが残ってるなんてな……」

 ヤマモトはしみじみとした顔で、俺の手渡したボウル状のそれを眺める。

「その文字、ヤマモトの母国語だろう? なんて書いてあるんだ?」

「ああ、そうだ。私の母国のメーカーの品だ。子供の頃、食べたことがあるよ」

「食べる? これ、食い物なのか?」

「そうだ。インスタントうどんでね。つまり、ヌードルの一種だよ」

「なるほど、ヌードルか」

 俺は赤いパッケージをじっと見つめる。そういえば、お湯を入れて食べるインスタント食品が昔あったんだっけ。

「これ、名前は何ていうんだ?」

「名前?」

「商品名とか、あるだろ。ここに書いてある」

「ああ、それか、赤いきつねレッドフォックス

「フォックス? キツネを食べるのか?」

「あ、いいや、そういう名前なんだ。説明するのは面倒くさいが……」

「じゃあいいよ。とりあえずそういうものだってことにしておくから。おい、それ、もしかして食べる気なのか? 大戦前のものだろう?」

 パッケージに顔を近づけて匂いをかごうとするヤマモトに、俺は驚いて声をかける。

「多分、大丈夫だと思う。真空にあったのなら劣化はないはずだ」

「理論上はそうかもしれないが……」

 俺はそう言いかけて、一つのことに気がついた。

「ヤマモト、お湯はどうする?」

 ここじゃ気圧が低いので沸点も低い。ぬるいお湯でも調理できるものであれば良いんだが……。

 だが、ヤマモトは、落ち着いた調子で答えた。


「大丈夫だ。これをもってきたお礼だ。いいところに連れて行ってやる。休みは残ってるか?」

「フルで残ってるよ」

「じゃあ都合が良い。明日は休め」


 居住区の下、第三ブロックまで降りて通路を進んでいく。ヤマモトは驚くほど狭い通路をまるで自分の家のように歩いていく。

「ヤマモト、ここは会社の持ち物だ。勝手に入って良いのか?」

「どうせ、俺はもう地球に戻れない。罰金を取られようが、なんだろうか、怖いものはないさ」

 廊下の突き当りに小さなドアがあって、金庫みたいな大きなハンドルがついている。ヤマモトをはそれを回すと、俺を手招きした。

 素直にそこに入ってみると、俺はそれがなんだか気がついた。気密室エアロックだ。

「ヤマモト、これはどうしたんだ?」

「初期の宇宙船に使われていたエアロックの部分を、切り出して持ってきたんだ」

「会社に無断でか?」

「資源の有効活用さ」

 エアロックは二重構造になっている。外側のドアをしっかりと締めると、ヤマモトは内側のドアのロックをゆっくりと回していく。


「こりゃ驚いた……」

 ドアが開くと同時に、一気に空気が流れ込んできた。耳が少し押されて痛くなる。

 ドアの向こうは小さなバーだった。宇宙船をそのまま地下に埋めて、バーとして使っているらしい。カウンターの向こうからマスターらしき人物がこちらをじっと見つめている。

「久しぶり」ヤマモトはそういうと、カウンターについた。

 店の中には他にも二人ほど客がいて、静かにコーヒーを飲んでいた。

 店の中にはジャズのような音楽が流れていて、その音があまりにもクリアに聞こえるので俺は驚いた。と同時に気がついた。良いのはスピーカーじゃない。この音は……そうだ。まちがいなく……空気そのものが……。

「今はどれくらいだい?」

 ヤマモトがそう問うと、男は壁に吊るされてた手作りの気圧計を指差した。

「ちょうど、加圧をはじめた所だ。タイミングが良かったな」

 店の隅にはボンベがおいてある。船外活動の時の酸素を貯めておくボンベだ。なるほど、そういうことか。コンプレッサーで圧縮した空気を持ち込んでいるのか。十分に気密した状態でバルブをひねれば、加圧できる。人体が耐えられるようにうまく調節できればやがて……。


「この音、良いだろう?」マスターが話しかけてきて、俺は我に返った。

「ああ、音がこんなにクリアに聞こえるなんて、ずっと忘れていた」

 マスターは既に電気ケトルを取り出してお湯を用意している。

「ここは俺たちがこっそりやってるんだ。バレないようにな。時々こうやって、懐かしい地球の感覚を取り戻しているのさ。濃い空気を吸うためにね」

 ケトルが音を立てて止まり、マスターはヤマモトにそれを差し出す。

 ヤマモトは、「赤いきつね」のパッケージを剥がした。ペリペリと音を立てて薄い蓋が剥がされていく。中には白い平たい麺が、よじれたセーターの様に絡まって入っている。薄茶色の平たいスポンジのようなみたいなものが上に乗っかっているのはよくわからない。ボウルの中からアルミパウチの袋を取り出すと、ヤマモトはそれを開き、茶色い粉を上にまぶした。なにか無性に懐かしい匂いがする粉だった。


 そして、ヤマモトはケトルから、熱い、100度のお湯をゆっくりと注いでいった。とくとくという音とともに、麺にお湯が染み込んでいく音が響く。ヤマモトのメガネが湯気で白く濁った。100度のお湯なんて、考えてみればもう何年も見ていない。


 ヤマモトは貴重な宝物でも隠すように、一旦蓋を閉じると、デバイスでタイマーをセットした。

「マスター、箸あるかい?」

「前に作ったやつで良ければ」

「ありがてぇ」

 マスターが金属の短い棒を二本、カウンターの下から取り出した所で、タイマーが止まった。ヤマモトは両手を合わせると、ペリペリと蓋を剥がしていく。


 一世紀近い時を超え、それはそこにあった。もうもうと白い湯気を上げ、なんとも言えない良い匂いを放っている。

 ヤマモトは少しの間、それを見つめていたと思うと、両手でボウルを持ち、そっと口をつけた。


「ああ……」ボウルをカウンターに置くと、ヤマモトは湯気で曇ったメガネを外して、誰に聞かせることもなくポツリと「故郷の味だ」とつぶやいて、目頭を抑えた。


ヤマモトはそのあと少しの間、そうしていると、やがて金属の棒を二本を手に持ち、涙を流しながらズルズルとヌードルを食べ始めた。


 俺も赤いきつねとやらをごちそうになった。不思議と懐かしい味だった。透明なスープは独特の味わいで、ヤマモトいわく、海藻を煮出して味を取っているらしい。それに魚を加えているそうだ。

「地球の海の味だ」と言われて、なんだか懐かしさの理由が解る気がした。麺は程よく弾力があり、中々美味い。驚いたのが上に乗っている食器用スポンジのようなもので、これも食べ物だと聞いたときは驚いた。アミノ酸が溶け込んだ汁をたっぷりと吸わせて口に運ぶと、滲み出たスープの旨味がじゅわりと口中に広がり、俺は思わず目を閉じた。


「昔、よくこれを食ってたんだ。親がまとめ買いしてきてな」

 最後の一滴まで飲み干すと、ヤマモトはぽつりぽつりと語り始めた。

「大戦前の話か?」

「そうだ。皮肉なものだな。カップ麺なんて安価でよく食べてたモノの方が、記憶に残っているなんて。いや、全部そうかもしれないな。思い出にしようと、張り切ったものは残らないで、なにげないものの方が不思議と心に引っかかってる」そう言うとヤマモトは遠い目をした。

 その目には、きっと在りし日の地球が見えているのだろう。


「今日は本当にありがとうな。いい思い出ができた。お礼に奢らせてくれ」

「悪いが、アルコールは止められてるんだ」

「いや、アルコールじゃない」

 ヤマモトはそう言うと、マスターに目配せした。マスターがカウンターの下から取り出したそれを見て、俺は自分の目を疑った。まさか、ここに存在するなんて……

「ちょっとした密輸品だがね。秘密にしておいてくれよ」


 マスターの指がコーヒーミルを回す。天国のような良い匂いが、重い空気に満ちていく。ケトルがグツグツとお湯を沸かす。静かに流れるジャズの音。俺は目を閉じると、胸いっぱいにそれらすべてを吸い込んだ。


赤い星も、そう悪くない。

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赤い星のカップ麺 太刀川るい @R_tachigawa

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