香る真夜中
蓮乗十互
【本文】香る真夜中
とある有名ホテルの一階に位置する高級フランス料理店。その入り口に一組の男女が現れたのは、夜の七時を少し回った頃だった。
男はパリッとしたスーツに身を固め、髪を七三に分けている。仕事の帰りに直接寄ったらしく、手には小さなビジネスバッグが抱えられていた。女は小柄で眼鏡をかけており、なかなかにかわいらしい顔立ちだ。地味なツーピースが自然と似合うような、大人しい美しさをまとっていた。
二人はウエイターに案内され、席に腰を下ろす。ウエイターが下がると、二人はそっと見つめあった。
「君は今、何を見ているの」
男がささやくようにいう。
「あなたの真心よ」
女が潤んだ瞳で答える。
キラキラと目を光らせて、三流ラブロマンスでも使わないような歯の浮く台詞を投げ合いながら、二人の頭はもっと別の事柄で一杯だった。今日は二人の四度目のデート、そろそろ肉体関係を意識する頃合いである。
男の名前は俊雄といった。今年二十七才、大手商社に勤めるエリートビジネスマンだ。仕事に夢中になるあまり人間関係がおろそかになり、大学時代から付き合っていた彼女が彼の下を去って、もう二年になる。同僚に連れられて幾度か風俗産業に足を運んだ事もあったが、生真面目な性格の俊雄にはなじめず、といって新しい彼女を作る機会もなかなかなくて寂しい毎日を遇ごしていた。
女の名前は優子といった。もうすぐ二十二才になる大学生だ。高校時代に年上の男性と付き合っていたために性体験はあるのだが、大学に入ってからは独り身を持て余し、友人の「いった・いかない」とかいうY談やノロケ話をうらやましく聞くばかりだった。
そんな二人が出会ったのは、とある共通の友人の紹介だった。相性が良かったからか、はたまた早く彼氏・彼女を作りたいという切実な欲求が合致したためか、二人は互いに魅かれ合い、デートを重ねた。
前回、すなわち三度目のデートの別れ際に、俊雄は優子にキスをした。優子はのめり込みそうになる気分を押さえ、そっと俊雄から身を離した。はしたない女だと思われたくなかったからだ。俊雄はそのまま胸に手を伸ばしたい欲求を我慢し、おやすみ、といった。飢えていると思われたくなかったからだ。言葉は交わさなくとも、二人の脳裏には「次回こそ」という思いが渦巻いていた。
そして、今夜。
「愛してるわ」
「愛してるよ」
胸の欲望を押し隠しながら、二人の瞳に星が流れた。テーブルの上に置いた手の平が、どちらからともなく互いに近寄って、そっと指先が触れる。
と突然、俊雄の耳元で声がした。
「ワインはこちらでよろしいでしょうか」
「わっ」
二人の世界に入っていたために、ウエイターがやって来るのに気付かなかったらしい。俊雄と優子は慌てて手を引っ込めた。
「あの、ワインを」
「あ、ああ」
俊雄はグラスを手にした。ワインが注がれるのを待ち、そっと香りをかぐ。’
「む、かなりきつい香りだね」
「はい。香木に接木したブドウを原料としたもので、フランスでも生産量の少ない、珍しい銘柄でございます」
そこまでいうと、ウエイターは急に声を落とし、俊雄の耳元でいっだ。
「ご予約の際に、精のつくものをお望みとのことでしたから」
ぎくり、として俊雄は優子の方を盗み見た。優子には今のウエイターの言葉は聞こえなかったらしい。俊雄も声を低めて、ウエイターにささやいた。
「すると……これ、効くの?」
「お試しください」
俊雄はそっとグラスの中の液体を口に含んだ。ほのかなぶどうの薫りに交じって、香木のスッとする感覚が口中に広がる。それがやがて、少しビリビリするような、心地よい刺激に変化してゆく。ごくり、と飲み込むと、刺激が喉から食道を通って胃に移動する様がよく分かった。冐に入るとそれはすぐに、ぽかぽかと暖かいものに変わった。ワインである以上、アルコール度数はたかが知れている筈だ。とすると、これは香木の威力なのだろう。後口は、ワインというよりもむしろウォッカに近いものがあるように思えた。ただそうした酒類よりはアルコール分が少ないため、独特の香りにも関わらず女性にも飲み易いだろう。
「これでいいよ」
「はい」
ウエイターは優子のグラスにもワインを注ぐと、一礼して場を去った。
「僕たちの四回目のデートに、乾杯」
「乾杯」
二人はグラスを軽く掲げて、ワインを口にした。
「変わったお味ね」
「あまり好みじゃないかな」
「ううん。おいしい」
「よかった」
二人は互いに見つめ合い、そっと微笑んだ。
やがてウエイターが前菜を運んで来た。セロリとピーマンの入ったサラダと、ネギを散らしたサーディンマリネが二人の前に並べられた。
「サラダは香味野菜を中心に組み立てました」
ウエイターが得意げにいう。
優子はサーディンを小片に切り取り、口に含んだ。いわしの臭みがビネガーとネギの風味に包まれ、絶妙なうま味となって口中に広がる。鼻から息を漏らすと、その風味が更に膨らむように感じられた。
俊雄はサラダを口にした。スパイス・オイルと魚醤で香り付けをしたドレッシングが、香味野菜の爽やかさを引き立てて、これもまた絶妙であった。
「おいしいわ」
「おいしいね」
今度はスープが運ばれてきた。ぷうん、と独特の香りが辺りに漂う。
「これは?」
「地中海の海産物で濃厚なフォンを取り、スープに仕立てました。きっとお気に召すことと存じます」
「海産物というと、貝かなにか?」
「主に海蛇でございます」
きゃっ、と優子が小さな悲鳴をあげた。海蛇のスープなぞフランス料理とは思えぬゲテ物だが、これも俊雄の「精のつく物を」という注文に即したものなのだろう。
俊雄はスプーンを手に取り、薄茶色に澄んだ液体をすくった。一滴の油も浮いてはいない。口に入れ、軽く風味を確かめて飲み込む。獣よりは魚に近いが、それでも独特の漫厚な味わいがあった。一瞬それは、とても生臭く感じられたが、すぐにどっしりとした味のベースとして、一緒に煮込まれたと思われる香味野菜やスパイスの風味と相俟って旨味に変化した。一歩行き過ぎれば下卑た味になる、そのぎりぎりの線で見事に仕上げられた料理であった。ここのシェフはかなりの腕前だな、と俊雄は思った。
彼は間を置かず、二杯目をすくった。優子は俊雄が満足気にスープを口にするのを見て、おそるおそる自分もスプーンを手に取った。
「あら、案外とおいしいわ」
「有り難うございます」
ウエイターが軽く会釈をして立ち去る。二人は夢中でスープを口に連んだ。
スープを飲み終えた頃合いを見計らって、ウエイターがメインディッシシュのステーキを持ってきた。2㎝はあろうかという厚切りの松坂牛のヒレ肉が、鉄皿の上で心地よい音を立てながら焼けている。優子はほのかに立ちのぼる肉の薫りに、ふっ、と息を吸い込んだ。その時、なんだか妙な風味が口腔を流れるのに彼女は気付いた。
(いやだ、匂いの強いものばかり食べたから、口臭になってるんだわ)
優子は少し頬を染め、口元に手をやった。
香木接ぎの葡萄ワインに香味野菜のサラダ、いわしの酢漬け、それに海蛇のスープ。どれも食べている時は美味しいのだけれど、後になって匂いの残りそうなものばかりである。俊雄がこの店に予約を入れる時に「精のつく物を」と注文したが為にこのようなメニューになったのだということを、無論、優子は知らなかった。
今日はデート、それも特別な意味を持つデートの夜なのだ。それなのに口臭などをさせていたら、せっかくのキスも甘い味を失ってしまう。
(──でも、もう仕方ないわね。二人とも同じものを食べているのがせめてもの救いだわ。夢中になっていれば、きっと気にならないわよね)
今夜二人が何に「夢中に」なるのかを想像して、優子は自分で恥ずかしくなり、ぽっ、と頬を赤らめた。
しかしその時、優子の葛藤を知らぬ気に、俊雄がウエイターにこう注文した。
「あ、ニンニクを持って来てくれないか」
優子は思わず俊雄の顏を睨んだが、俊雄はウエイターの方を見ていて優子の様子には気付かない。
「薄切りでよろしゅうございますか」
「いや、おろしたやつを頼むよ」
ニンニク。ただでさえ薫りの強い料理の続いた後に、ニンニク。それも、固まりやスライスなどではなく、強烈な薫りのおろしニンニク。優子は栄養学の授業で習ったことを思い出した。ニンニクにはアリインという成分が含まれており、それをすりおろすと酵素の働きでアリシンに変化する。そのアリシンこそがニンニクの匂いの元なのだ。
(俊雄さんたら、せっかくのデートなのに、何を考えているのかしら)
優子はジト目で俊雄の顔を見つめた。俊雄は優子の様子に気付くとすぐに、ニンニクを注文した事をとがめているのだと察した。
「あ、いやその、今夜は頑張らなきゃいけないから……」
思わず口にしてしまって、俊雄は慌てて口を押えた。優子はその時、初めて今夜の料理の真の意図に気付き、真っ赤になってうつむいた。そして、小声ですねるようにいった。
「ばか……」
「ご、ごめん……」
しばらくの間、気まずい沈黙が続いた。二人はもじもじと下を見るばかりで顔を上げようとしない。ウエイターは黙って立っていたが、やがてしびれを切らし、それでも何事もなかったように平然とした顔で俊雄に尋ねた。
「ニンニクは、どうなさいますか。ご不要ですか」
俊雄が応えるより早く、優子がいった。
「いえ、あの、私の分もください」
優子にしてみれば、死なばもろとも、といった心境である。どうせニンニク臭くなるのなら、二人で同じ匂いをさせていれば、少しは気にならなくなるだろう。それに、俊雄がそんなに「頑張る」つもりならば自分も精力をつけておかなければ身体が持たないのではないか、という思いもあった。
「かしこまりました」
ウエイターは早足でその場を立ち去った。俊雄は大きく目を見開いて優子の顔を見た。優子は少し視線を反らしながらも、笑顔を作っていった。
「いっしょにニンニク食べましょ」
それは、いっしょに今夜頑張りましょ、と言っているようなものだった。少なくとも俊雄にはそう聞こえた。
「あは、あははは、あははははは」
俊雄は頭をぽりぽり掻きながら、不自然な笑い声を上げた。
やがて、皿に山盛りのおろしニンニクがやってきた。
二人はステーキソースにたっぷりとニンニクを投入し、一口大に切った肉に乗せて、口に運ぶ。肉はとろけるように柔らかく、歯で軽く噛むと、じゅっ、と肉汁が口の中にあふれ出した。焼き方はレア、肉の中心部にもほのかな温みが感じられ、全ての旨味が見事に活性化している。火の通し方が絶妙なのだ。しばらく口の中の感覚を楽しんだ末、ごくり、と飲み込む。喉から食道、そして胃袋へと美味がたゆたい流れ、最後に、かあっ、とニンニクが身体中に染みてゆくのが感じられた。それは既に、人類に許された最高の快楽のひとつであるかのように思われた。
「むふう」
「ほはっ」
思わず二人の口から溜息が漏れる。二人は言葉を交わすことも忘れ、夢中になってステーキを平らげた。
メインディッシュを食べ終わり一息つく頃になると、俊雄も口臭が気になりだした。鼻で息をしても、口の中の風味がふうわりと香ってくるのだ。一番強い香りはやはり今食べたばかりのニンニクであったが、その他の香りも複雑に交じって、なんだか妙に強烈なのだ。食べた本人ですらそうなのだから、他人にとってはかなり嫌な匂いに感じられるだろう。もともと「匂い」というものは本人は気づかないか、気づいてもさほど嫌なものとは感じないものだ。特に食事による匂いなどは、本人には美味の残り香に思えるものでも、他人にとっては悪臭でしかない。
(今夜はせっかくのデートなのに、メニューの選択を失敗したかな)
その時、俊雄はある事に気づいた。それは、優子も俊雄と同じ物を食べたということだ。つまり俊雄は、これを他人の口臭として強いられることになる。俊雄は急に気分が沈んでゆくのを感じた。
俊雄はわがままな性格だった。自分が他人に臭い思いをさせるのは許せるが、自分が他人から臭い思いをさせられるのには我慢できなかった。
いやな思いはしたくない。が、食べてしまったものはもうどうしようもない。といって、せっかく今夜はそのつもりでいたのに、今更ホテルの部屋をキャンセルするのも嫌だ。やることはやる。それだけは今夜の至上命題である。ならば手段はひとつ──優子より臭くなる。これしかない。
俊雄がそこまで考えた時、店の奥からシェフが現れた。どちらかといえぱ痩せぎすの、少し神経質に見えるタイプだ。おそらくどの客にも、メインディッシュの後で挨拶をするのだろう。フランスの一流店で七年もの長期に渡って修行した者の矜持である。
「料理はご満足いただけましたでしょうか」
シェフはにこやかに俊雄に尋ねた。
「あ、ああ。とてもおいしかったよ」
「それはよろしゅうございました。お嬢様はいかがでしたか」
「ええ。素晴らしかったわ」
「今夜のメニューは特別料理でございまして、材料からすべて私が直接吟味いたしました。気に入っていただけましたなら、シェフとしてこれ以上嬉しいことはございません」
丁寧な口調でそういって、シェフは深々と一礼した。
「デザートは胡桃のシロップをかけたプディングでございます。運ばせていただいてよろしいでしょうか」
優子が頷こうとした時、俊雄が不意に声を上げた。
「あ、ちょっと待って!」
突然大きな声を上げた俊雄に、優子もシェフも驚いて彼の顔を見た。
「あの、何か」
「あ、いやその……」
俊雄は口ごもった。シェフは不思議そうに、彼の応えを待った。
「その──もう少し腹に何か入れたいのだけれど、一品作ってもらえないか」
「ああ、そうでございましたか。わかりました。それでは鴨肉のソテーなどはいかがでしょう」
「いや、も少し匂いの強い……いや、その……」
俊雄はしどろもどろになった。優子より臭くなろうと考えているなんてバレたら、一発で嫌われてしまう。早く何か言わなければ。早く。
「えーと、その、あ、そうだ。ニラレバは出来るかい」
「はあ?」
優子は思わず声を上げた。ニラレバなど、フランス料理の店で注文するメニューではない。
傍らに立っていたウエイターが、あきれたように口を開いた。
「申し訳ございませんが、当店はフランス料理店でございまして、そのようなメニューはちょっと……」
「いや、待て」
シェフはウエイターを押しとどめた。
「我々はお客様に楽しんでいただく事を生業としているのだ。フランス料理だからこのメニューは出来ません、など、せっかくこの店を選んで食事をしてくださったお客様に申し訳ないじゃないか。わかりました。ニラレバ、謹んで作らせていただきます」
独特の職業倫理を持った、妙なシェフであった。
「しかしシェフ、ニラなんて厨房にありませんし、もう市場も閉まっている時間ですよ」
「そこの角に中華屋があったろう。事情をいって、分けてもらってきなさい。レバーは夕方に仕入れたばかりの物がある」
シェフは俊雄と優子に一礼すると厨房に戻っていった。ウエイターは慌てて駆け出し、中華屋に向かった。
「あきれた。まだ食べ足りないの、俊雄さん」
「ん、ああ、ちょっと昼とか抜いたもんだから」
本当は昼にもちゃんと大盛りのカツ丼を食べていた。だから結構お腹はくちいのだが、食欲よりも「匂い付け」の必要があるのだ。
十五分も経たないうちに。ニラレバが運ばれてきた。フランス料理店内に、ぷうん、と中華の異質な香りが漂う。
「それじゃ、いただきます」
俊雄はいそいそとニラレバに箸をつけた。オイスターソースがからめられた新鮮なレバーはほんのりと甘く、口の中でとろけるようだ。その舌触りに触発されるように、ニラの独特の香りが身体に染みてゆく。さすがは一流フランス料理店である。そこらの中華料理屋のニラレバとは一線を画した出来栄えだ。腹は一杯だったが、それでもあまり無理を感じずに食べることが出来た。
「ふう、満腹々々」
皿を平らげると俊雄は、ふうぅーっ、と大きなため息をついた。ぷわわわあん、と匂いが周囲に拡散し、優子は顔をしかめた。
(いやだ。なんだか臭いわ、俊雄さん)
優子は、これからこの口とキスをするのかと思うとげっそりしてしまった。これに対抗するには、自分も臭くなるしかない。そう彼女が考えたのも自然な事だった。
彼女はウエイターに向かって追加注文をした。
「ごめんなさい。私ももう少し食べたいのだけれど、納豆あるかしら」
「げっ」
思わず俊雄は声を上げた。納豆は、大阪生まれの俊雄の天敵ともいえる物なのだ。
ウエイターは露骨に嫌な頗をしながらも、厨房に注文を伝えに行った。やがて、よく熟成した水戸納豆が、ご飯と共に運ばれてきた。無論スーパーのパック物などではない。無農薬栽培の国産大豆を使い、藁束につつまれた上質の納豆である。フランス料理店にどうして納豆があるのかといえば、料理人のまかない用に買い置きがあったのだ。
優子は藁束を開いて納豆を器にうつした。そして箸でぐるぐるとかき混ぜ、粘りを出す。納豆の旨味を十分に引き出すためには、醤油をかける前にしっかりと混ぜることが大切だ。それは同時に香りを立てることでもある。優子は茨城の生まれで、納豆の美味しい食べ方を熟知していた。十分に粘りが出た所で、本醸造の醤油を数滴垂らす。からしは加えない。納豆と醤油、どちらも大豆を原料として旨味を追求した和食の雄である。その味を純粋に楽しむのに、からしはむしろ邪魔になる。
優子は納豆をご飯に乗せ、口に運んだ。その様を、まるで字宙人を見るような目で俊雄は眺めていたが、やがてハッとしてウエイターを呼んだ。
「俺も追加注文だ。さばのなれ寿司をくれ」
「えっ」。
今度は優子が叫ぶ番だった。彼女は青物の魚が大嫌いだったのだ。特にサバは天敵といえた。それも、ほとんど腐らせたとしか思えない調理法のなれ寿司である。和歌山や福井などの名産で、食い倒れの街・大阪でも一部食通が珍重している。俊雄も数年に一度しか口にすることのない珍味だった。
どこから調達してきたものか、やけになったウエイターが、すぐに注文通りの品を持ってきた。つうぅーん、と鼻にくる酸味の異臭が辺りに漂う。隣の席に座っていたカップルが、そそくさと席を立ってレストランを出ていった。
「あたしも追加するわ。ブルーチーズを頂戴っ」
「むう」
俊雄は優子を睨んだ。優子も負けずに俊雄を睨み返した。二人の視線がぶつかり、ばちばちっ、と火花が散った。
「追加だ!」
「追加よ!」
もはやそれは、デートの光景ではなかった。
二人は次々と、思いつく限りの臭い食物を注文し、ことごとく平らげていった。レストランの中には次第に強烈な臭気が立ち込めてゆく。ひとつひとつの料理の香りは食欲をそそるものであったとしても、それらが混融した場合、いまだ人類が経験したことのない領域に突入する。
モツ煮込みがテーブルにやって来た時、ウエイターが吐き気を催して床にうずくまった。俊雄も優子も、それには目もくれずモツを奪い合うように口にした。くさやの干物が運ばれると、ぷわわわああん、と独特の刺激臭が一気に広がった。店内の一番端っこにいた家族連れのお父さんが、がちゃん、とナイフを取り落とした。幼稚園くらいの子供が、何かに脅えるように大声で泣き出した。お母さんはナプキンを口に当て、胃の腑から込み上げてくるものに耐えながら子供とお父さんをせかし、逃げるように店を出ていった。それを見て、それまで我慢していた店内の他の客たちも先を争ってレジに並んだ。
店内の異変を聞いてシェフが厨房から出て来た時、既にほとんどの客は姿を消していた。つい十分ほど前に店に入り、オードブルの皿が運ばれたばかりのカップルが、真っ青な顔でフラフラと店を出ようとしている。
「お、お客様。まだ料理は済んでおりませんがっ」
シェフの震える声に、カップルの男の方が何か答えようとしたが、ひどくむせて言葉にならなかった。女が口と胸を押さえ駆け出し、男は後を追って店を出た。
二人の消えたガラス戸を、シェフは呆然と眺め立ち尽くしていた。すると向こうから、別のカップルがやって来るのが見えた。男の方は、何度か店に来たことのある馴染みの客だ。もっとも連れの女性はいつも違っていたのだが。シェフは無理にニッコリと作り笑いをして、ガラス越しにお辞儀をして見せた。男は軽く微笑みを返してドアに手をかけた。ガラス戸が開いた次の瞬間、ぐけっ、という奇妙な音を発して女が卒倒した。男は腰がくだけるようにその場にうずくまり、しばらく何かを堪えるように胸を押さえていたが、やがて女を引きずるようにしてその場を立ち去った。
シェフはゆっくりと振り返り、惨憺たる有り様の店内を見回した。客が耐え切れずに戻した跡が数箇所。悶絶してひっくりかえされたテーブル。引きちぎられたカーテン。悪臭の満ちた店内は、気のせいか黄緑色のモヤにつつまれているようだ。
ウエイターが床を這うようにして近づいて来た。
「シェフ。大丈夫ですか」
「だだだ大丈夫だ」
「ほっぺたがピクピクしてますけど」
「ここここれはチチチチチチック症状というやややつだ」
シェフはふらふらと歩き出した。しかしよほど動揺していたらしく、がつん、と壁に正面からぶつかり、よろめいて手近にあった大きな花瓶に手をついた。ゆらあり、と花瓶は揺れて床に落ち、音を立てて粉々に砕け散った。それは、先年他界した人間国宝の作品であり、値段をつけるなら億の単位はするものだった。
シェフの心がイッてしまったのも、無理はあるまい。
「くけけけけ」
シェフは宙空をギラギラと見つめながら、立ち上がった。そして俊雄と優子のテーブルに向かった。
二人は最後に注文したキムチと腐乳を食べ終え、膨らんだ腹を抱えながらぼんやりと天井を眺め、深呼吸をしていた。店内に立ち込める異臭も、その発生源である二人にはあまり感じられていないようだった。
俊雄はシェフの姿を認めると、気だるそうに手を上げ、いった。
「御馳走様。もう腹一杯だよ」
「けけ」
「デザートはもう入らな──」
「食うよな」
「え?」
「ここまで食べたら、デザートも食うよな」
シェフの目はくるくると狂気の色を湛えていた。ここで断ると、何をされるかわかったものではない。俊雄は気力を振り絞り、愛想よく笑っていった。
「プディングだったよね。ちょっと刺激物をとりすぎたから、口直しにいいかも知れないいな」
「うんにゃ。デザートは変更だ。おい、アレを持ってこい」
「アレですね」
その頃にはもうウエイターの目もイッてしまって、うきゃうきゃきゃと高笑いをしながら厨房に行くと、すぐになにやら果物らしき物を手にしてスキップで戻ってきた。
「こ、これは?」
俊雄はおそるおそる尋ねた。
「これは果物の王様といわれるドリアンだ」
ドリアンの名前くらいは俊雄も優子も知っていたが、食べたことはまだない。切れてしまったシェフの様子からよほど変な物を食べさせられるのではないかと心配していたが、割合まともそうなので二人はホッとした。
シェフは満面に笑みを貼り付かせ、宇宙からの電波を受信しているような目でいった。
「これが今夜のデザートにふさわしい。うっきー!」
気合一発、シェフはナイフをドリアンの堅い骰に振り下ろした。ぱかん、と殼が割れ、カスタードクリーム色の果肉が現れるのとほとんど同時に、強い腐臭が店内の臭気を加速した。
「げ、こ、これ腐ってる」
俊雄の言葉に、シェフは映画「シャイニング」でジャック・ニコルソンが見せたような笑顔でいった。
「これがドリアンの匂いだ。美味いが臭い。臭いが美味い。さあ食えやれ食えどんと食え」
シェフはスプーンで果肉をすくうと、俊雄の口元に近づけた。腐っているとしか思えない異臭に俊雄は逃げ出そうとしたが、ウィーアーザワールドの節で般若心経を唱え続けるウエイターに羽交い締めにされ、無理やり口に押し込められた。酸味と甘みの交じりあった濃厚な味わいが、滑らかな舌触りを残して、腐臭と共に胃袋に落ちてゆく。ひょっとしたら美味いのかも知れない。いや、匂いにさえ慣れればきっとこれは抜群に美味いのだろう。だが、今の俊雄にとってこれは最悪の拷問だった。
優子はそっとその場を逃げ出そうとした。だがシェフは、うっきー、の掛け声と共にひらりと優子の前に立ち塞がり、ドリアンを無理矢理口の中にねじ込んだ。
「さあ、食ったか。食ったら出てけこの疫病神がああああっ」
俊雄と優子はほうほうの体で店を出た。しばらくの間、「俺の店が、俺の店があ」と叫ぶシェフの声が聞こえていたが、やがてそれはおいおいという泣き声に変わり、そして消えた。
店の外はホテルのロビーだ。二人はソファに崩れるように腰を下ろして、そのまま何十分も放心状態で遇ごした。ホテルの客が何人かロビーに現れたが、異臭に顏をしかめ、じきに姿を消した。
「──とんだデートになっちゃったわね」
優子がぼんやりという。
「──うん」
俊雄もぼんやりと応える。またしぱらくの無言。次第に二人は、自分たちの発している異臭を認識しだした。それは、口の中からだけでなく、もはや全身の毛穴から吹き出しているようだった。
やがて、俊雄は気力を振り絞るようにいった。
「あの、さ」
優子は俊雄の顔を見た。
「上に部屋を取ってあるんだけど」
優子の目が大きく見開かれた。
「い、いやよ」
「いいじゃないか。今夜は君もそのつもりだった筈だ」
俊雄は優子の手を取ると、引っ張ってエレベーターの方へ歩きだした。優子は顔を歪め、大きくかぶりを振りながら叫んだ。
「い、いや。密室は、いやあぁぁぁ!」
俊雄はいやがる優子を引きずって、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターの箱の中は一気に異臭で満たされ、乗り合わせた赤ん坊が泡を吹いた。母親は真っ青な顔で、慌ててエレベーターを降りた。空気が黄色くなり、優子も俊雄も頭がクラクラとするのを感じた。客室階でエレベーターを降りる頃には、二人ともトリップしたような状態だった。
ゆらゆらとよろめきながら、俊雄は部屋の鍵を開けた。部屋に入る時、ある恐ろしいヴィジョンが二人の頭に同時に浮かんだ。
(69の最中に、相手がおならをしたら──)
それは、あまりにも破滅的な想像だった。
*
翌朝早く、一組の男女が土気色の顔をしてそそくさとチェックアウトをした。不審に思った支配人がボーイを部屋にやると、そこはこの世のものとも思われぬ悪臭に包まれていた。
ゴミ箱には大量のガムの噛みかすと空いた牛乳の紙パック、それから口臭除去スプレーが捨てられていた。浴室の大型ボディシャンプーも、満タンだった筈のものがほとんど空っぽになっていた。
ベッドのシーツは、若いカップルが泊まった時には大抵そうであるように、激しく乱れていた。だがそれは、若い二人の情交の跡というよりも、ガス室送りにされた死刑囚の苦悶の痕跡のように見えたと、ボーイは後に語っている。
部屋の匂いはなかなか取れず、ほぼ三ヶ月の間、そこは開かずの間となった。一階のフランス料理店は、いつの間にか中華料理屋に変わっていた。あの夜以来シェフの姿を見た者は誰もいないが、風の噂では、彼は上野駅でレゲエになったということだ。
了
香る真夜中 蓮乗十互 @Renjo_Jugo
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