杉ちゃんとイタリア協奏曲

増田朋美

杉ちゃんとイタリア協奏曲

寒い日だった。日が出ていないと、こんなにも寒くなるのかなと思われるほど寒かった。やっぱり冬というのは、必ずやってくるんだなと思う。季節が正常にやってきてくれるということは、なんか、嬉しいという気持ちもしてしまう。

その日も、杉ちゃんは、先日着物の仕立てをしたお客さんから、もらったみかんを持って、製鉄所に行った。なんでも、そのお客さんは、親戚からみかんをもらったらしいのであるが、二人家族なので、食べきれなかったということである。

「おーい、今日も来たぞ!水穂さん皆さん元気している?」

杉ちゃんはでかい声で、入り口の引き戸をガラッと開けると、なんだかピアノの音が聞こえてきた。水穂さんが弾いているのかと思ったら、なんだか偉く間違えるので、別の人物が弾いているらしい。

「お、バッハ先生のイタリア協奏曲か。」

と、杉ちゃんは、四畳半にはいった。四畳半では、水穂さんが布団の上に座って演奏を聞いていた。隣には、桂浩二がいた。ピアノを弾いていたのは、ちょっと訳ありなのかなと思われるような服装をしている女性であった。

第1楽章が終わると、彼女は演奏を止めた。水穂さんも浩二も、拍手を送った。

「ウン。良い演奏ですよ。もう少し、音の粒が揃っていると良いですね。16分音符を、もう少し、揃えて弾くと良いと思います。じゃあ、第2楽章を弾いてみてください。」

と、水穂さんがそう言うと、

「ごめんなさい、第1楽章しか演奏できなくて。」

と、彼女は恥ずかしそうに言った。

「そうですか。わかりました。じゃあ、もう一度、第1楽章を演奏してくださいますか?」

と水穂さんが言った。ガチガチに緊張して居る彼女は、わかりましたと言って、もう一度、演奏を開始した。確かにうまくはない。音は間違えているし、テンポもゆっくりであるし、十六部音符が、崩れてしまっている。それでも、水穂さんは、彼女の第1楽章を、最後まで聞いた。

「ありがとうございます。まずはじめに、指を、鍛えることから初めましょうか。一拍の中に、4つの音を規則正しく入れられるようになりましょう。一度手をたたきますから、それに合わせて、第1楽章を弾いてみていただきますか?」

そう言って、水穂さんは手を叩いた。女性は、それに合わせて、第1楽章を弾き始めた。水穂さんもそれを続けたが、第1楽章は長いので、手を叩いているうちに、咳き込んでしまった。

「右城先生、大丈夫ですか?」

と、浩二が心配する。ピアノを弾いていた女性も、心配そうに水穂さんを見るのだった。ああ、ほらほらまたやると言いながら、杉ちゃんが水穂さんの口元を拭き取ってあげた。

「すみません。申し訳ないです。」

水穂さんは、そう言うことには言えるのだが、また連続して咳き込んでしまうのであった。

「ほらあ、しっかりしてくれ。お弟子さんが心配しているよ。もうそこまで苦しいんだったら、横になりな。」

杉ちゃんは、水穂さんに薬を飲ませた。そして、浩二に手伝ってもらいながら、水穂さんを布団に横にならせてあげた。

「右城先生。せめて第1楽章を最後まで指導してあげてほしいと思ったんですが、その体では無理ですね。」

と、浩二は、残念そうに言った。

「せっかく、あずささんも気合を入れて練習してくれたのに、先生が応えられないんじゃ、悲しいですね。もうすぐ発表会なんです。それで、ちょっと右城先生に見て貰いたいと思いましたが、これでは、意味がないじゃないですか。」

「あずささん?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい、大山あずささんです。彼女の名前ですよ。」

浩二はすんなりと答えた。どこかで聞いたことのある名前であるが、杉ちゃんは、それはいわないで、

「発表会って、浩二くんの教室で発表会をやるの?」

と聞いた。

「いえ、違います。発表会というか、正確にはコンクールです。長らく社会と接してくることができなかった彼女に、コンクールに出て、自信をつけてもらおうと思って。」

浩二は、杉ちゃんの問に答えた。

「そうなんだね。でも、大山あずさという名前は影浦先生がよく話していた名前だったけど、同一人物なのかな?影浦先生は、非常に厄介な患者がやってきて、その名前が大山あずさという名前だったと言っていたぞ。」

「そうなんです。私、影浦千代吉先生の診察に言っていました。家族は、そのことは黙っていろと言いましたけど、私、影浦先生の前で、何度も泣いたり叫んだりしましたので、影浦先生も、ご存知かもしれません。」

杉ちゃんがそう言うと、あずささんと呼ばれた女性は、すぐに答えた。そうなると、影浦先生のもとに通っている患者だったのだろう。

「で、今現在、仕事はしているのか?」

と、杉ちゃんが聞く。

「していません。先生は、少しづつなれていけばいいからと言うことで、それでピアノ教室に親が通わせてくれたんです。たまたまはいったのが、浩二先生のピアノ教室でした。」

彼女は、静かに答えた。

「なるほどね。まあ、世の中から隔離するしか今の精神疾患にできることは無いからね。本当は、世の中と関わり合いながら、治療ができると良いんだけどね。それは、無理のようだからな。少しづつ、ゆっくりピアノ教室を通して世の中を知るといいさ。」

「それにしても、今日は残念でした。右城先生のレッスン、受けたかったのに。それでは、もうしばらく目を覚まさないでしょうね。」

浩二は、がっかりした顔で言った。水穂さんは、薬が効いてしまったのか、静かに眠り始めてしまっている。

「多分今日より調子が良い日は無いと思うからさ、少しでも、いい状態が続くように、頻繁に来てやってくれ。そうしてくれれば、水穂さんも良い状態が続くように努力してくれるだろうから。」

と、杉ちゃんが言った。そうなると、水穂さんの体は、回復することはないのかなと浩二は思った。

「わかりました。右城先生、また来ますから。右城先生、僕達は、先生が必要なんですからね。疲れて咳き込んでしまわないでくださいよ。」

それだけ浩二は言っておく。

「それでは、僕達は、今日は帰りますが、またこさせていただくと思います。先生、ぜひ、彼女に、イタリア協奏曲、第三楽章まで見てやってください。」

水穂さんは、眠ってしまっていて、答えなかった。

「悪いなあ。鎮血の薬は、眠気を催す成分があるみたいだ。」

杉ちゃんが、帰り支度をしている浩二に、そう言うが、浩二は仕方ありませんよとだけ言った。そして、じゃあ、ありがとうございましたと言って、あずささんを連れて帰っていく浩二を、杉ちゃんは、玄関先まで見送った。でも、浩二たちを見ていたのは、杉ちゃんだけではなかった。一人の女性が、二人が帰っていくのを眺めていたのだ。

浩二たちが帰っていく車の音を聞きながら、その女性は、なにかを思いながら、勉強していた食堂へ戻っていった。彼女、高野京子さんは、浩二たちがレッスンをしてもらっているのを、羨ましいというか、妬ましく思っているようであった。他の利用者たちが、同じように食堂で勉強や仕事をしているが、その人達がちょっとひいてしまいそうになるほど、彼女は怖い顔をしていた。

「京子さんどうしたの?そんな怖い顔していると、ろくな事ないよ。」

いつの間にか食堂にやってきた杉ちゃんが、そういう事を言った。

「嫉妬心は、人間の原動力にもなるが、それは大概良い結果を産まないぜ。お前さんも実は、ピアノ弾きたいんじゃないのか?あのあずささんが水穂さんに演奏をきいてもらっているのを見て、お前さんも聞いてほしいと思った、違うか?」

「ええ、そういうことなのかよくわからないのですが、なんか、あの人が、レッスンを受けていると、嫌な気持ちになってしまうんです。」

と、京子さんは答えた。

「まあ確かにそうかも知れないけどさ。あの大山あずささんと言う人は、重い精神障害のあったひとだ。まあ、長らく、この世の中から隔絶されてきた人だ。それがいま、少しづつ、世の中と関わろうとしているんだぜ。それは、嫉妬するのではなくて、祝ってやるべきじゃないのかな。」

と、杉ちゃんが言うと、

「良いわね。そういう人は恵まれてて。私は、世の中から逃げる自由も無いのよ。だって、私は、逃げることもできないで、嫌な家にずっといなければならないのよ。それに、そういう症状を出した人は、お金出せば、そういうことを、話して、相談にも乗ってもらえるじゃない。私は、そういうことはできないで、ずっと同じ家にいなければならないんです。」

と、彼女は言った。

「まあそうなのかもしれないが、お前さんも、音楽が好きなのか?水穂さんのレッスンを受けてみたいのか?それははっきり言えよ。」

杉ちゃんがまたいうと、

「ええ。そういう気持ちだと思います。でも、あたしには、そんな高名な演奏家に合わせる顔もないでしょうし、他にも、すごい人たちがいっぱいるでしょ。それに私もあの曲を好きなのよ。イタリア協奏曲。」

と、彼女はそんな事を言い始めた。

「そうなんだ。じゃあ、お前さんも、イタリア協奏曲を水穂さんに見てもらえばいいじゃないか。きっと、水穂さんも、親切だからさ、お前さんのイタリア協奏曲を効いてくれて、悪い方にはしないと思うよ。」

と、杉ちゃんが、単純な答えを出した。

「そうかも知れないけど、あたしは、そういうことは、できないからな。だって、そんな事したら、また贅沢を言うなとかいわれるでしょ。」

「はあ、いわれるってだれにだ?」

杉ちゃんはすぐにそこに漬け込む。

「ええ。それは、わからないけど、家に帰れば、そういう事ばっかり。家では、どうせ私は、だめな人間よ。大したことないっていわれるし、働かないなら出てけといわれるだけよ。一回、心が病んでいると診断されてしまうと、人間、もうだめよね。そういうふうにされて、世の中から、爪弾きにされちゃう。そういうことで、もう二度と、同じ日々は来ないわ。」

「まあ待て待て。お前さんのことを贅沢だと言うのはだれなのか教えてくれ。どこのだれなんだよ。そういうことを言うのは。」

京子さんの話に、杉ちゃんは言った。

「具体的にだれなのかは知らないわ。強いて言えば、私の家族や、親戚や、私に関わる全ての人かな。その人達は、みんな私なんか要らないって思ってるのよ。」

「そうか。じゃあ、思わないと言っているやつがいたら、どうするのかな?」

と、杉ちゃんは自分を指さした。

「そんな人、だれもいないわよ。あたしの事、必要としてくれる人なんてさ。」

「そうかなあ?」

わざとおどけた顔をして杉ちゃんは言った。もしかしたら、大山あずさよりも、高野京子のほうが、病んでいるのかもしれなかった。

「まあ、たしかにお前さんは逃げられないし、今住んでいる家庭以外、行くところ無いと思うけど、少なくとも、医療関係者以外でも、お前さんの事を、必要とする奴はいるって事を、わかってもらえないかな。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうなんですか?」

と、彼女はいう。

「ああ、そうだとも、じゃあ、お前さんも今度イタリア協奏曲持ってこいよ。それでお前さんも見てもらえばいいよ。何だ、簡単な答えじゃないか。そういうことであれば、そうすれば良い。何も、焦ることもないし、嫉妬することもない。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「じゃあ、お前さんも、水穂さんに、イタリア協奏曲を見てもらうんだな。できるだけ早く、やってもらうと良いさ。」

「わかりました。ありがとうございます。」

そういう彼女であるが、まだなにかわだかまりのようなものがあるらしく、杉ちゃんに対して、お礼を言うこともしなかった。

「もし、なにかしたかったら、お前さんから動いてくれよ。僕達は、お前さんが、動いてくれるのを待ってるから!」

そう言って、また勉強に戻った彼女に、杉ちゃんはそういった。彼女にその言葉が届いているかどうか不明だが。確かに、今の世の中を変えたければまず自分が変わることという言葉があるが、それが実行できるのはある意味では恵まれた人でないとできない。どうしても、そのとおりにできない足を引っ張る何かがある人のほうが多くて、実行できないのが、本当の話であるだろう。

その次の日のことであった。杉ちゃんがいつもどおり、また製鉄所に手伝いにやってきたときのことである。高野京子さんが、杉ちゃんのところにやってきた。

「昨日はありがとうございました。ぜひ、いわれたことを実行してみようと思いました。」

彼女の右手にはイタリア協奏曲の楽譜があった。

「そうかあ、じゃあ、すぐに実行しようよ。水穂さんにお前さんの演奏を聞いてもらえ。」

と、杉ちゃんは急いで彼女を四畳半に連れていき、

「水穂さん、お前さんに見てもらいたいと言っているやつが居る。ちょっと起きて、演奏を聞いてやってくれ。」

と、言った。水穂さんは、は、はいと言って布団の上に座った。じゃあやってみろと杉ちゃんにいわれて、高野京子は、ピアノの前に座って、イタリア協奏曲を弾き始めた。彼女は、一楽章、二楽章と演奏していき、三楽章までしっかり弾ききってしまった。確かに、三楽章まで、ちゃんと、ふは読めているし、指も動いていて、しっかりした演奏になっている。それでは、ちゃんとできているな、と杉ちゃんも思うほど

しっかりイタリア協奏曲になっているのだった。

水穂さんと杉ちゃんは、彼女の演奏が終わると拍手をした。

「頑張って練習したんですね。それは、すごいことだと思いますよ。」

と、水穂さんは言った。

「きっと、大山あずささんより、上手だと思います。そうでしょう?」

京子さんはそう言うが、

「いえ、どちらが上手なのかは決められません。」

と水穂さんは答えた。

「どうしてですか。私のほうが、ずっと演奏技術もあって、音だって間違えもしないし、それでは、優れていると思いましたのに。」

京子さんはそう言うが、

「相手を比べることは僕はしたくありません。僕はただ、お二人のイタリア協奏曲はいずれも素晴らしいと思いますし、素敵な演奏だったと思います。お互いそれぞれ一生懸命やっていらして、良かったと思いますよ。それだけしか言うことはできませんね。」

と、水穂さんは静かに言うのだった。

「やっぱり、あずささんのほうが、上手だったと言いたいのですか?そんな、私のほうが、演奏技術もあるはずなのに。」

京子さんはちょっと涙をこぼしてそういうのである。

「いやあ、そういうことはいわないよ。それに、誰々より誰々のほうが上手だなんていう考えをしていたら、いつまで経っても、お前さんは納得しないで不安定な情緒で生きることになる。それじゃ、やっぱりいけないからさ、もうこれっきりということを考えなきゃ。」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「そんな、私は、あの人より上手いっていわれたくて、イタリア協奏曲を練習してきたのに!」

と京子さんは、泣き出してしまった。杉ちゃんも水穂さんもそんな彼女になにか手を加えようとはしなかった。

「もし、あまりにも辛かったら、安定剤でも飲めばいいさ。それが、きっとお前さんを楽にしてくれるよ。」

と、杉ちゃんがそういうのみだった。

「そんな私、そういう気持ちで言ったわけではありません。ただ、あの人よりはうまいんだってことに、生きがいを見出したかったのに。」

「いやあ、それは間違いだよ。誰々より上だとかそういうことで安心する考え方は、絶対成功しない。」

と。杉ちゃんが急いで言った。それと同時に、

「右城先生、また来ましたよ。今日は調子が良さそうだから、無理を言ってこさせてもらいました。またあずささんの演奏を聞いていただけますか?」

という声が聞こえてきたので、京子さんはハッとする。思わず入り口の方を見てみると、あずささんと、浩二が経っているのが見えた。

「京子さんの演奏、聞かせていただきました。あたしには到底追いつかない演奏です。あたしは、京子さんの演奏を目標に今まで頑張って来ましたし、京子さんが、一生懸命やっているから、あたしも見習わなければと思ってました。」

あずささんは、静かに京子さんに言った。

「本当は、ガチンコバトルする必要もなかったんじゃないのかな。」

と杉ちゃんにいわれて、京子さんもあずささんも恥ずかしそうな顔をする。

「どっちがうまいかなんて、だれも判断することはできないと思います。音楽なんて、結果がすべてと言いますけど、それぞれの良さがあってそれぞれの持ち味があるという世界であっていいと思うんです。それは、いけないことでは無いと思いますから。お二人が、音楽を楽しめると良いですね。」

水穂さんは、そう二人ににこやかに笑った。

「あたし、何をしていたんだろ。人より上手いが、いつの間にか生きがいになってて、まさかこういう事をいわれるとは思わなかったわ。ほんとどうしたら良いのかしら。」

京子さんはそういうことを言っている。

「答えは簡単じゃないかよ。音楽を二人で楽しむことだな。音楽なんて、もともとガチンコバトルをするためのもんじゃないんだからな。バッハ先生だって、そんなことは望んでいないはずだ。だからさ、お互いのいいところを、お互いで感じ取ればいい。それだけのことだ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうですね。僕もそうなってほしいと思います。いくらコンクールでうまい演奏しても、楽しめなければ何も意味が無いと思いますし。」

浩二が、杉ちゃんに続けてそういうのだった。不思議なもので、音楽をしている若い人は、みんな音楽を武器にして戦おうとするが、年長者になると、音楽は楽しむものだとくちにするようになる。なぜが知らないけれど、そうなってしまうらしい。でも、それがもしかしたら、人間の人生そのものを示しているのかもしれなかった。

「そうね。あたしも、イタリア協奏曲が、楽しめるようになりたいな。もちろん、今はちょっと無理だけど。」

「私も、京子さんのような上手な演奏ができるように、まだまだ努力しなきゃ。」

京子さんとあずささんは、相次いてそういう事を言った。なんだか、ふたりとも、ちょっと変わったようだった。


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杉ちゃんとイタリア協奏曲 増田朋美 @masubuchi4996

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