『神戸港物語』

北風 嵐

第1話 兵庫の津か神戸港



前置き

 深見エミは淡路洲本商業を卒業して仲間5人とともに神戸にやって来た。エミは野球部のマネージャーをやっていた。親友の高島花子は野球部の応援団のチアーガールであった。花子の応援を見惚れて敵チームは戦意どころではなかった。花子の伯母がやっている婦人服飾店を手伝うことになった。野球部のエース池野良太も実家の洋装店を継ぐべく神戸の婦人服店に就職。3年の年季であった。あとの二人(竹野義之と平田佳祐)は先輩の薦めでその頃勃興してきていた神戸のアパレルに就職、独立を夢見ていた。エミは神戸の洋裁学校(2年)に入学してデザイナーを夢見ていた。兵庫区水木通にある叔父の家に寄宿し学校に通うことになった。家は市場筋にあり、叔父は個人タクシーのドライバーで、奥さんの良子さんは蒲鉾の取り売りをしていた。そこには2つ上の従兄の勝治いた。私が書いた『神戸ファッション物語』の神戸港について書いた一節を紹介して物語とする。その方が神戸港の歴史が堅苦しくなく知れると思うのだ。


2 『兵庫の津か神戸港』


 学校は最初、基礎科目が多く、実習も課題もなくゆっくりしていた。出来るだけ要るものは持ってきたつもりだったが、買い整える物が結構あった。又、学校で指定された物を買い整えるにも時間が取られ、エミは結構慌ただしかった。そこに、勝治が部屋替えを言い出したのだ。

 エミの宛てがわれた部屋は、中学校の2年の夏休み過ごしたあの4畳半の部屋で、市場のアーケードがあって、昼でも電気が要った。勝治の部屋は6疊あって、西に向いて窓があって明るい。物干しもある。

「俺は帰って来て寝るだけやし、エミちゃんはミシンを置いたら狭いやろぅ」と、替わってやるというのだ。良子さんによると、勝治は3才を過ぎたのに「あー」とか「うー」とか声を出すだけで言語を発しなかった。やっと4才で簡単な言葉を話したが、知恵遅れではないかと心配した両親は方々の病院に見てもらい、挙句には祈祷、占いにまでたよった。5才を過ぎてやっと人並みに話せるようになったと云う。

「話せなかったけど、その間、人の話は理解して、聞いてたんやね。あの子は人の気持ちが以外と察せられる子よ」と云うことだった。勝治は余り男前とは言えなかったが、陽気で誰からも好かれるタイプであった。


 勝治の本を運んでいて、『神戸港の歴史』なる本を見つけ、借りて読むことにした。本は、奈良時代から”大輪田の泊”と呼ばれる明石海峡の潮待ちの良港として栄えたところから書き出し、この良港の盛衰が記されていた。特に平安時代には平清盛は中国宋との貿易を考えて、兵庫、福原を都とし、大輪田の泊を大改修して、歴史上に重要な意味を持つようになる。鎌倉時代には源平の戦いで消失したが、東大寺の復興に重要な役割を担った僧、重源(ちょうげん)の大輪田泊の修築により、国内第一の港として"兵庫津"と呼ばれるようになった。

 南北朝時代には湊川合戦の戦場となって廃墟と化したが、豊臣秀吉が大坂を城下とし難波に大型船の船着を禁じたので、堺港と兵庫の港が栄えることとなった。江戸時代には朝鮮通信使や北前船、尾州廻船など瀬戸内海運の拠点として栄え、江戸末期には人口2万人を数えるまでになった。1868年日米修好通商条約により、神戸港が開港され、交易の拠点としての地位を隣接する神戸港に譲り、兵庫では新川運河や兵庫運河が開削され、川崎造船所や三菱造船所といった重工業をはじめとする工場が建設され、産業の拠点として発展して来たと記して終わっていた。


 エミは一つ分からないことがあったので、隣室でギターを弾いていた勝治に話しかけた。

「教えて欲しいことがあるのですが、お聞きしていいでしょうか?」

「かしこまって、なんでっしやろ」と勝治がギターを抱えて、襖を開けてエミの部屋に入ってきた。

「何で、開港が、すでにあった兵庫港でなく、新たな神戸港の開港になったのでしょうか?」先生に教えを乞うのである。口調は普段と異なる。

「兵庫港、つまり兵庫の津は当時人口も2万人近くあって国内一級の重要な港で、それを外国に開放するということは攘夷をいう朝廷としては認める訳にいかず、反対したんや」

「それで、幕府はどうしたん?」慣れない口調は元に戻る。

「それはやね、外国と兵庫港開港を約束した幕府はやね、困ってしまって、近くに作って兵庫港や云うても分からんと思ったわけや。幸い勝海舟が作って幕府が破れて残していった「神戸海軍操練所」があったからそれを見せて納得させたわけや。それと何より離して作らないと外人と厄介があったら困るやろう」

「嘘ついたわけやね」

「結果としてはそうや。25ヘクタール近くの居留地(外国人の自治区)を作らされたんやからそれで良かったわけや。後の発展も二つ合わせて神戸港となっていったし、神戸の発展は”嘘”にあったというわけや」

「勝治さん、それ嘘やないやろね」

「保証はせんけど、多分せやと思うでぇ・・」勝治の声は急に小さくなった。

「本より、一度港を案内したるわ。港から神戸を見てみ、神戸がようわかるわ。百聞は一見に如かずや」とエミに言った。

 勝治は神戸港の通船会社に就職してタグボートに乗り込んでいる。一人っ子の勝治は妹が出来たみたいで、嬉しくて仕方がない。襖の向こうにうら若き女性がいるかと思うと、従妹と云え、妙に落ち着かない。陰金田虫で団扇みたいな醜態は見せられない。バーミューダも3本も奮発して買った。


 勝治は20トンの小型専用のタグボートの甲板員であった。艀(はしけ)なら8隻をいっぺんに曳いた。4隻ずつ二列縦隊で、沖に停泊している貨物船まで引いて行くのである。艀というのは、港になくてはならないものだった。分かりやすく云えば、倉庫やトラックの役割をするものである。積み込みの場合だと、岩壁にある倉庫から荷物を出して艀に積み、沖の貨物船まで運んでいって船積みをする。積み下ろしの場合は、その逆になる。雨が降り続くときや、岸壁の倉庫がいっぱいのときには、艀に積み込んだまま待機する。ピーク時には千七百隻ものはしけがひしめき合っていたという。

 港と云えば、船脚深く貨物を積み入港する大型船が主役のように思われがちだが、角度を代えて観察すれば、あながちそうでもない。たとえば艀やタグボートやランチ(通船)パイロットボート(水先案内船)、貨物船が入出港の際、船からロープを渡す役の船、食料を積んだ「沖売り」の船等が隠れた主役とも云えた。 


 特に艀は、昭和30年代から40年代にかけて需要が高まった。港と瀬戸内の貨物輸送に不可欠になり、主役として表舞台に登場したのである。メリケン波止場の西側、兵庫突堤の奥の中之島、国産波止場と、海面を埋めるが如く無数の艀が群がっていた。その殆どは木造船で大きさも百トンから三百五十トンと小型で、機関はなく、曳船との間をロープで結んで曳かれていく。専門的には雑種船と呼ばれ、海運局の船体検査もなく、船員のむつかしい資格試験もなくて、比較的誰でも乗れると思われがちだが、船頭と呼ばれる艀の船員には、様々な操船術、積荷の勘がそれなりに必要とされた。当時、この艀で水上生活を送る家族も多かった。デッキで遊ぶ幼な児たち、満船飾のように張られた洗濯物、夜は石油ランプの薄明かりのもと、不便なりといえ、一家団欒があった。

 これらの雑多ではあったが、賑わいを持った港の景色を一変させたのは、摩耶埠頭に出来たコンテナーヤードや、後のポートアイランドのコンテナーターミナルであった。港の合理化や近代化のためには必要だったのであろうが、人気のないコンテナーが置かれたコンクリートの港は、人を遠ざけ、港を寂しいものとした。


3  『さくら咲く港めぐり』


 桜が綺麗に咲いている。まもなく学校が始まる。

「勝治さん、花見に連れて行って」とエミは言った。花見と言えば、近いところで会下山か諏訪山である。

「うん、雨が降ったあくる日にな」と勝治は返事を返した。

「なんで雨の日の翌日なんやろう…」桜が散ってしまわないかと、エミは心配した。


 勝治が勤める会社の『港めぐりの船』にエミを乗せて神戸港を案内してやろうと云うのだ。港めぐり船は中突堤から出ている。乗るのは一般船室ではなく、運転室の特等席であった。

「勝治が特別なお客さんやというから、どんな偉い人かと思っていたら、こんな可愛いべっぴんさんかいなぁー」と云って、船長の直々のお出迎えであった。

「お世話になります。従妹の深見エミです」とエミは礼を述べた。

「いとこか、はとこか知れんが、神戸港の春を楽しんで下さい」船長は笑顔で敬礼をした。

 

 遮るものはない。視界は180度のワイドである。後ろもガラス張りで、振り返れば360度のパノラマであった。エミはそこで感動的なものを見た。

 六甲の山並みに咲いた桜の花びらが、雨に流され、川や溝を伝って海へと流れ、しばらく海面に浮かんで漂うのである。特に中突堤付近は諏訪山公園*の桜が流れ込み、一面の花びらの中に船の通った航跡が残るのであった。勝治が「雨が降ったあくる日」と云った意味が分かった。

「海で花見ですね」とエミが船長に云うと、船長は舵を切りながら、頷いて「最高な時の港めぐりやね。勝治君の恋の花も咲きますように」と云った。勝治は「船長、いとこです」と云ったが、船長はかまわず、「昨日の雨で今日は格別な恋花見ができるなぁー、勝治」と続けた。エミの頬がピンク色に染まったのはあながち、海の桜の反映だけではなかった。船長は汽笛を高らかに2度鳴らした。


 船はまず南に舵を切り、〈兵庫の津〉といわれた兵庫港に向う。まず目に入ったのは川崎重工の大きなガントリークレーンであった。3つの兵庫突堤が見え、さらに和田岬の三菱重工神戸造船所のドックを望むところに来る。この付近から見る神戸の市街地は大変素晴しいのだと船長は説明した。紫色の六甲の連山を背後に、白い街並みが東西に美しい広がりを見せていた。

 向きを東に変え、船は新港第4突堤を目指す。税関の真下にある突堤で外国の大型船が接岸出来る所だ。新港第7突堤沖を折り返し、ポートタワーの中突堤に戻るのがコースであった。

 エミは今度、清盛塚とか兵庫運河や大輪田の泊まり跡、兵庫の陸を歩いて見たいと勝治に云った。勝治は「洋裁そっちのけで、歴史にはまるエミちゃんやなぁー」と笑った。


『神戸ファッション物語』からの一節はここで終わりとしよう。なんせ長いのである。辛口の友人は長いのだけが取り柄やなぁ~と云ったが、「前半は神戸案内書としてはよく出来ている」と語った。それでも読んでやろうという方は、https://kakuyomu.jp/my/works/4852201425154976266#


その後の神戸港、摩耶ふ頭が出来、海上コンテナーの取扱個数が世界一になるなど世界有数の港として知られていた。そこに影を落としたのがあの震災であった。東アジア諸港から集荷していたトランシップ貨物(積み替え荷物)はアジア諸港へのシフトが進んでいる最中であり、これが震災によって拍車がかかることとなった。震災前に世界6位の国際順位が、震災後には24位にまで後退することになった。

しかし、港湾機能だけでなく、メリケンパーク、神戸ハーバーランドといった観光や商業施設の開発、沖合いに神戸空港を開港するなど、日本のウォーターフロント開発の先駆けとなった。

また、後背地たる神戸市街地は、明治時代に神戸外国人居留地として整備された建造物が数多く残っているほか、エキゾチックな市街地の雰囲気や、神戸の夜景スポットとして非常に有名なハーバーランドやメリケンパーク周辺は、観光地としても人気の高い地域となっている。



注釈と資料

諏訪山公園:神戸の中心市街地を見渡せる最も近いところと三宮で聞かれたら、迷わず諏訪山公園と答えるだろう。神戸の中心市街地から非常に近く、市街地を見渡せるスポットとして市民の憩いの場所になっている。諏訪山山頂の近くには、ビーナスブリッジやレストラン・展望広場・駐車場などあり、アベックの人気ポイントである。(標高約160m) 山麓から徒歩で登ったところに位置する中腹の金星台(標高約90m)は、眺望やサクラの花見が楽しめるスポットとなっている。戦前ここに動物園があり、戦中動物たちは悲しい運命にあった。戦後、今の王子動物園に移転した


神戸港の名称:1872年(明治5年)、和田岬に和田岬灯台が設置されて1892年(明治25年)に勅令により、旧生田川(現フラワーロード)河口から和田岬までの全体が「神戸港」となる。


六甲の水:寄港の一つに船の給水があった。明治33年には国内で7番目となる近代水道が整備され、布引五本松堰堤からもたらされる清澄で硬度が低い水は、「赤道を越えても腐らない水」と世界中の船乗りから好評であった。

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『神戸港物語』 北風 嵐 @masaru2355

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