赤い天ぷらと緑のお揚げ
汎田有冴
赤い天ぷらと緑のお揚げ
バイトが終わって大学に戻ったのは午後七時半。この時間には大学の食堂も閉まってしまうが、併設された販売部は八時まで開いている。
師走の冷たい夜風の吹くキャンパスの中心で暖かな明りを灯す平屋の建物に、背中を丸めた学生が次々に入っていく。半額になった弁当を目当てに集まってくるのだ。僕もたまに買うが、今日は違う。手に取ったのは「赤いきつねうどん」だ。
レジ横のポットからお湯を入れ、傍らのイートインスペースのテーブルに着く。人目が気になるけど、ここで食べればガス代も水道代も浮いてゴミも捨てられる。
五分きっかりにカップのふたをめくった。鰹だしの香りが広がり、白いうどんと器いっぱいに敷かれたふっくらお揚げが現れた。
割り箸でうどんをほぐしながら残っていたスープの粉末も溶かしてお揚げを沈めると、琥珀色の出汁がしみてお揚げが色濃くつやつやしてくる。そうなったところを箸で挟み上げると、お揚げはくたりと体を折る。まるで「観念しました。どうぞお食べください」と言っているようだ。僕が山で狩った獲物のように。
ならばそのつもりでかぶりつこうと口を開く──が、急に胃の中が酸っぱくなり、苦いものが喉の奥に上がってきた。全身に冷汗をかいて箸も口も動かせない。
お腹は空いている。授業も4時限あったからくたくただ。それなのに、お揚げを持ったまま食べることができない。
ふと集まる視線を感じて、顔に手を当てた。吊り目で茶髪になるのは僕の力が未熟なせいだけど、それだけで正体はばれないはず。赤いジャンパーが目を引いたのかなと思いながら前を見ると、はす向かいに座る女子学生と目が合った。
互いにばつが悪くて愛想笑いになる。カーキ色のコートを着て黒髪を一つにまとめた目のくりっとした子で、お湯を入れた「緑のたぬき天そば」が出来上がりを待っていた。
「今日はお腹いっぱいで……」
何げない会話ではぐらかそうとしたが、僕の腹の虫は黙っていなかった。
テーブルの下で、ぐうううーーっと景気よく鳴いた。
「え、お腹空いているじゃないですか!」
彼女が上げた声はかなり大きくて、レジに並んでいた学生が一斉に振り向いた。注目されていたことは気のせいではなくなり、彼女も僕と同じ舟に乗せてしまった。
彼女は真っ赤になって頭を下げた。
「ごめんなさい。お揚げを持ったままずっと睨んでいるからどうしたんだろうと思って。お揚げ、嫌いなんですか?」
心臓が一回強く脈打ち、胸がきゅっと締めつけられた。
「嫌いなわけないじゃないですか。お揚げはみんな大好きですよ」
「でもすごい顔でしたよ。まるで親の仇みたいに」
「それは、僕が小さいころ、古いお揚げにあたったことがあるからです……」
高熱が出て、力は入らなくて、おなかは気持ち悪くて、本当に死ぬかと思った。それ以来お揚げが食べられない。食べられない体質なのか、工夫したら食べられるのか。それを知りたくてこの大学に通い始めたのだ。
彼女は真剣な面持ちで頷いた。
「それなら食べないほうがいいですよ。アレルギーかもしれません」
「アレルギーなんかじゃありません。豆腐や唐揚げは食べられますから。それに、うちの一族はみんなお揚げが大好きで、よくいただいたりするんです。願いのこもったいただき物を食べれば、こもった願いの分の力がつきます。一人前になるには食べないわけにはいきません」
「へ? 一族? お願い?」
彼女が奇妙な顔をして黙ったので、僕は再びお揚げに向き直った。
これはインスタントなんだから悪くなっているはずがない。みんながよく食べるのは普通の油揚げだけど、これだって油揚げだ。出汁と一緒にみんながよく食べる方の匂いもする。みんなが僕に気を使って隠れて食べて、「何してるの」って聞くと「何でもないよ」って答える時の口の匂い。隅で頭を寄せて「おいしかったね」と囁き合っている時にかぐ匂いだ。
「あのう、そんなに無理して食べなくてもいいんじゃないでしょうか」
彼女が心配そうに声をかけてきて、無意識に歯を食いしばっていたことに気づいた。これでは口に入らない。
「食べられないものがあっても他の食品で栄養素を補えばいいって講義で言ってましたよ」
「僕もそれ聞きました。栄養学の古だぬき先生が」
「古だぬきじゃなくて古田先生ですよ。力のつくいただき物は油揚げ以外にないんですか」
「いや、圧倒的に油揚げやいなりずしが多いだけで、願いが込められていればなんでもいいんですが」
「それなら他の食べ物も試してみましょうよ。これはどうですか」
彼女は緑のたぬきのふたをはがした。薄い湯気が上がり、そばと丸い天ぷらが顔を出す。
「そっちはまだ……なんだか手を出しにくくて」
彼女はそばの器を両手でどんと僕の前に置き、一気にまくしたてた。
「よかったらこっちの天ぷら食べてみませんか。お揚げと交換しましょう。私、今日はお蕎麦の口だったんでこっち選んだんですけど、いっぺん蕎麦にお揚げをのせて食べてみたかったんです。でも二個作る勇気がなくて!」
呆気にとられて今度は口が開きっぱなしになり、我慢していた涙がこぼれそうになった。
「あなたは今までそんなことを考えていたんですか。悩む僕を目の前にして」
「箸にもお揚げにも口をつけていないなら私は食べられると思って。ああ、そうだ。お願いしないといけないんでしたね」
彼女は二回手を打ってから目をぎゅっと閉じた。
「どうか私の願いが叶えられ、犠牲となるこの天ぷらさんが、おいしく、おいしく食べられますように」
「もしかして、あなたがたぬきなのでは。僕を陥れようとしてる……」
「いいえ! ただの、通りすがりの、食いしん坊です!」
必死に拝む姿は一族の信者そっくりだ。その願いは『お揚げが食べたい』。けっこうしょぼい。
けれど、この願い、一族では僕しか叶えられないだろう。
食べられるようにはなりたいけれど、急がなくてもいいかもしれない。こんな願いがこれからもないとは限らない。その代わり、お揚げ以外の供物は僕が全部食べて力をつけるんだ。
「その願い、叶えてしんぜよう」
彼女の大きな目がぱっと輝いた。
「ただし、うどんはやらない。これでも空腹だから」
「十分ですよ。ささ、早く天ぷらをお納めください」
僕がおもむろに天ぷらを取ると、彼女はすぐ桃色のマイ箸でお揚げをそばに移した。スープに潜らせてから角を控えめに噛むとお揚げにしみた出汁をちゅーっと吸い、縮んだ角をかじる。彼女の目じりがとろんととけた。
思わず「おいしいですか」と尋ねると、彼女は口をもぐもぐさせながらうんうんと頷いた。
さて、僕は居場所を追われた哀れな天ぷらを成仏させてやらねばならない。
スープの水面に映る満月のような天ぷらを拾いあげると、海老の香ばしさにつられて抵抗なく口に運ぶことができた。出汁を吸っていても歯ごたえはサクサクだ。好みより味が濃かったので、残った天ぷらをまたスープに戻すと、塩味が溶けて丁度いい風味となり、スープにはコクが加わって、より体を温めてくれた。
「おいしいですか」
彼女がそばをすすりながら聞いてきた。
「おいしい。そっちのお揚げより、全然おいしい」
つい意地悪な言い方になってしまったけど、おいしかったのは本当だ。
「そうですかぁ」
彼女はそばをくわえたまま満面の笑みを浮かべた。
「よかったぁ……」
僕らは無言で競うように食べ続け、スープも残らず飲み干した。
最後に空っぽの器に箸を置き、同時に合掌して「ごちそうさま」と言った時にはもう閉店時間だった。僕らはごみを片付けてそそくさと外へ出た。
周りの学生は、それぞれの都合で三々五々と散っていく。
彼女は今まで図書館で勉強していて、これから自転車でバイトに行くのだという。
僕らは駐輪場のある正門に向かってゆっくり歩き出した。
星は瞬き、寒風が上気していた彼女のほほを冷まして、白い息を吐く
彼女は大学一年生で、古田先生の講義で僕を見かけたことがあるという。僕は講義に夢中で全く気付かなかった。そんな感じだったと彼女は笑った。背筋を伸ばして正面を見据えたまま微動だにせず聴講する姿はとても目立っていたと聞いた時は恥ずかしかった。
僕は同じ一年生だが、家がこの近くで、生まれてからずっとここに在籍しているようなものだと話した。
「知っていますか。B研究棟の裏の森に小さな
「ああ、あそこ。私は心霊スポットだって聞きました」
「よからぬ事を考えている者にとってはそうです。でも念のため、行くときは明るいうちがいいですよ」
今度残りの七不思議を教えてくださいねと彼女は手を振り、自転車に乗って去っていった。
僕は彼女の道行が安全であることを願って、一声、
コーン──
と鳴いた。
それから何日か経って、僕が巣穴で昼過ぎまで寝ていると、神主姿で社周りを掃除するのが日課の
「珍妙な供物が置いてあってな」
大じいちゃんが背負ってきたリュックサックから取り出したのは、透明な袋でラッピングされた「赤いまめきつねうどん」と「緑のまめたぬきそば」。それに手紙も入っている。
「読めるかい」
「だてに人間の学校に行ってないよ」
薄桃色の便せんにはきれいな字で『世界中のみんながごはんをおいしく食べられますように』と書かれてあった。
大じいちゃんはコッヘルとやかんも取り出してお湯を沸かし始めた。
「お前は油揚げが苦手だから、そばの方を食べるがよい」
「わかった。そばを食べるから油揚げと天ぷらを交換してよ」
大じいちゃんはじっと僕を見つめた。
「それでいいのか」
「いいの。食べてみたいんだ」
あの子が食べた味を。
あのおいしいって言って食べる顔を思い出すと、食べられそうな気がする。
それに、早く力をつけて、あの子の願いを叶えてあげたいもの。
赤い天ぷらと緑のお揚げ 汎田有冴 @yuusaishoku523
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