第33話  エピローグ’ 空音 5’ 天慶5'年 春

「そなたは今も恋しいのか、そのもとの世界とやらが」

右馬の介様はそっと私の手に自分の手を重ねた。

「では・・・私の申したことを信じて頂けるのですね」

 私は小声で答えた。二年たって、私は初めて夫になった人に私のことを打ち明けたのだった。

「うむ、そなたの申す事であれば」

 右馬の介様は頷いた。

「恋しくないといえば嘘になります。実の母も父も残してきたのでございますゆえ。ですが・・・あなたさまをお慕いする心が・・・」

私は言い淀んだ。

「そうであろうの、よう分かる」

右馬の介様は優しく私の頬に手を当てた。

「そなたの言うことが本当であれば、世はたいそう変わるのであるな。ともかくも帝がおわし続けるというのはなによりのこと、重畳じゃ。その異国との戦いに負けても・・・じゃの。しかしお気の毒なことよ」

 右馬の介さまは溜息をついた。

「とはいえ、さようなことを申しても誰も信じぬじゃろう。唐、西域までのことは信じてくれるじゃろうが。ましてこの世の形が球で、西域の向こうに別の国があるなどとは・・・誰も信じまい」

「さようでございますね」

 私は右馬の介さまの膝に手を置いた。この御方以外にもはや私の頼る人はここにはいない。あの時・・・右馬の介様がとなりの邸から飛んで庭に墜ちた時、言葉と裏腹に私の心に何かの灯がともってしまったのだ。この御方を残して、元の世界に戻ることが果たして正しいのか、私は悩みぬいた。

 そして・・・悩み続けた挙句、私は晴明に戻らぬと言ってしまった。その時、晴明はひどく痛ましい顔をしたが頷いてくれたのだけど・・・。爾来じらい、晴明は一度として私に会いに来ようとしない。

「それで・・・ききょうは?」

「なんとか落ち着きました」

 ききょうが・・・右馬の介様の家の子である権の介という男に言い寄られて一緒になったのは良かったのですが、その男との児が産まれる前に男が別の女と逐電して、そのせいでききょうは児を流してしまったのだ。

「でももう児を産めぬ体になってしまったようです」

 私が言うと、

「にっくき権の介、どこかで見つけたらこの私が許さぬ」

 右馬の介様は矢を番える真似をした。古今東西、わが夫に勝る弓の達人はいない、と私は教えられている。だが、その男を殺すことは私の求めていることではなかった。

「もうご放念くださいませ、それより晴明さまがお会いしてくださらないというのが残念でございます」

 もし、ききょうの体を元に戻すことができるなら、と権の介様を通して晴明に願おうとしたのだが、右馬の介様がいくら頼んでも晴明は首を振らなかったそうだ。

「そのようなこと、一介の陰陽師にはできぬと申されてな、すまぬ」

 たぶん・・・晴明はもはやあの私の知っている時を超えてやってきた晴明と違う人なのだ、と私は思わざるを得なかった。

あれからもう二年が立つ。右馬の介様の胸に顔を埋めながら私はどうしてあの時帰る事を選ばなかったのか、ぼんやりと考えていた。もう一度機会があったら・・・、私はどうするだろう?そう思いつつ右馬の介様の体の温かさから離れることが出来ずに、うっすらと浮かんだ涙を拭くためにもう一度右馬の介様の胸に顔を押し当てた。

「おお、蝶姫が泣いておるぞ」

 右馬の介様が耳をそばだてるとそう言った。確かに奥の間から赤児の泣く声が聞こえてくる。

「今すぐに」

「なに、乳母めのとに任せておけばよいものを」

 右馬の介様はそういったが、私は居座いざりながら奥の間へと急いだ。すっかりこの時代の習慣が身についてしまった。それはどこか物悲しいような気がする。だが、赤児を抱き上げ、泣き止むのを見て私は自分の選択が間違え出なかった、と思った。いや・・・そう信じたかった。

 この児は・・・きっと私の何代も前の先祖になる児なのだろう。なんとしても立派に育て上げ、良いところに嫁がせてあげねば、そう思いつつ、私は胸元を開いて乳を含ませた。赤児は・・・蝶姫は両手を広げ、満足そうな顔をして私の乳を飲み続けている。その乳を吸う音だけが今の私の希望だった。

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虫愛(め)ずる JK(女子高生) 西尾 諒 @RNishio

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