第32話 エピローグ 右馬の介の談 5 天慶5年 春
女の顔をちらりと見遣ると私は、ふむ、と頷いた。女の胸には赤児が眠っている。普段は乳母があやしつけるのだが、姫は事あるごとに児を抱いて私とともに庭を眺める。もう一度、ちらりと見遣ると目が合った。恥ずかし気に俯くと、
「何でございますか」
姫は擽ったそうな声で、私を責めた。
「うむ、なんとのうな・・・」
「さように見られては、はずかしゅうございます」
「そうか?」
「そうでございますとも」
もう一方の手で女は扇で顔を隠した。その手を取り、扇を傾げると、
「蝶はよう育っておる。まるまるとの。これも姫のおかげじゃ」
私が褒めると、
「ありがとうございます」
扇越しに姫は頬を染めた。
「名は・・・慣れたか」
「ええ・・・蝶、変わった名だと人は申しますが、父は気に入っておられました。母は・・・あのようなお方ですから」
「じゃの」
私は頷いた。姫の邸で起きた
「でも名は別として、児はかわいがってくれます」
姫はおっとりとした口調で続けた。
「そうか、それはありがたいことだ」
「わたくし・・・本当に蝶を好んでおりましたのでしょうか」
少し眉を顰め、姫は私の顔を覗き込んだ。
「うむ・・・」
私は頷いた。
「父もそう申しておりました。ひと時は大変な騒動であったとか」
ははは、と笑うと私は児の腹を撫でた。
「大変な騒動であったの」
「でも・・・わたくし、何も覚えておりませぬ」
「そうじゃの、あの時の姫は今の姫と同じようで同じでない気がする」
「でも・・・その時、殿は私を見初めてくださったのでしょう」
姫はなんとなく不満げにそう口にした
「それはそうだが・・・」
遠い目をした私に姫は少し拗ねたような口調で
「今でも思い出しているのでございますね、その御方の事を」
と言った。
「その方と言うな。その方とはそなたの事だ。恋しいのはそなただけじゃ」
そう言ってわたしは児を抱いたままの姫を引き寄せた。
「まことにあの折の事は覚えておらぬのか」
「さあ、ただ・・・」
「ただ?」
「夢でございましょう。あの折、ずっと白い部屋で寝ている夢を見ておりました。白い服を着て、口に布をつけた男の方たちが私に向かって何度も呼びかけて・・・。ですがそれは私の名ではございませぬ。確か空音とか・・・」
「そうか」
「他にも女の方々がおられました。その方々は眉も剃らず鉄漿もつけずに不思議な装束を着ておられました」
「異国のことのようであるな」
「まことに」
姫は中空を見上げた。
「夢読みの方にも申し上げられぬ、不思議なことでございました」
不思議と言えば、「あやつ」、あの安倍晴明という陰陽師の事も不思議だった。あの事があった後の晴明は確かに私とのことも姫とのことも覚えてはいるようで、姿かたちも間違えなく晴明その人だったが、どこかが違っていた。どこが違っているかと言われれば、そう、あの闊達で人を小馬鹿にしたような素振りがあの日以来全くなくなったのである。今思えば、晴明のそんなところが私は好きだったのだろう。
そんなこともあり次第に疎遠になってしまったが、ひょっとして晴明にも妻と同じような事が起きていたのかもしれぬ。とはいえ、今となっては知る由もない。
「お聞かせくださいますか、あの折のお話を」
姫は・・・私が姫の屋敷へと忍び入った話がことのほか好きで、私は凧を使って姫の邸へと降り立った時の話をまた姫に聞かせた。
「天狗のように飛んだんじゃ、そなたが恋しゅうての」
そう私が話すと、姫は唇を隠し、ほほほ、と笑った。
だが、そのあとで起こった奇怪な話・・・。あの妖怪どもと争った話、姫が榎の木へと登って行った話・・・。そして私は見ていなかったのだが、姫が空へと消えた話を姫に一度もしたことはない。失意のまま家路を辿った私であったが、なろうことか、姫は邸に戻っており、今度はその折の記憶ばかりかそれまでにあった私との経緯の記憶を一切失っていた。まことの怪異であったが、姫に対する私の想いは変わらず、その想いを姫の二親が認めてくれたおかげで今の私たちがある。
「そういえば、ききょうという者がいつもそばにおられましたが、あの者は?」
と尋ねると、姫は少し悲し気な顔になった。
ききょうとは、最初姫に忍ぶ手助けをしてくれまたあの奇怪な光景をともに見た者の名である。
「ききょう・・・あの娘は里に戻りました」
「さようでしたか」
「なにか?」
「いえ、私のところにいた小者で権の介という者が、そのききょうに横恋慕しておりまして」
一年ほど前に、姫と初めて結ばれた頃の話である。その頃、権の介は頻りにききょうとの取り持ちを私にせっついてきたのだが、こちらはそれどころではなく、姫との仲が納まってからとおいおいと、と取り合わなかった。いつしか権の介から左様な催促がなくなり、暫くすると別の女と割りない仲となっていた。なんという無節操なと、その頃は呆れたが、今となってはその方がよかったのだろう。その女と子をなしたのち、あの男は別の女、それも私の母に仕えておった女に手を出したので、暇を与えたのだ。もしもききょうという女がさような目に遭ったら、私と姫との間にも
「今は、里の男と結ばれて、もうすぐややも産まれるそうにございますよ。この児と同じ姫であればよいのに」
姫はいかにもいとおしいという風にわが児を抱いたまま、呟いたのであった。
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