第31話 2021年 夏 京都/神戸

 人懐こそうに微笑みを浮かべると、グレーのマスク越しに私に向かって、

「久しぶりだね」

 あっけらかんとそう言った目の前の人を見て、私は急に目尻が熱くなるのを感じた。

 なんだ、これ・・・?この感情は?

「今までどこに・・・」

 そう言った途端、私の感情は抑えきれなくなった。

「ばかぁ」

 そう言うと、私はその人の胸を拳でなんども叩いた。

「なんで今まで一人っきりにしていたのよ」

 きっと、私は謎を御園先輩やおじいちゃんに話しても抱えきれていなかったに違いない。

 たぶん・・・。それ以上でもそれ以下でもない・・・はず。


 だが、私のそんな様子を見てグラスを拭く手をやめたマスターは静かに外に出ていくと、「営業中」と書いた札を手に持って戻ってきた。

「今日は貸し切りにすることにするよ。積もる話もあるだろうからね。僕はこれで失礼。外には閉店と札を出して置いたから、悪いけど、安部君、戸締りをしてから帰ってくれるかな?鍵は前と同じ場所にあるから」

 マスターの言葉に、

「分かりました」

 と晴明は・・・いや、安倍さんは答えた。

「すいません、取り乱しちゃって」

 マスターに頭を下げた私の言葉に、

「いいんだよ。ずっと待っていたんだもんね」

 そう言うと鞄を取り上げて、マスターは扉を開けて、最後に私に軽くウィンクをした。

 ん?もしかして・・・マスターは何か勘違いをしているのかな、そう思った瞬間、かっと頬が赤くなった。

「・・・か、勘違いされちゃったじゃない」

 私の抗議に、

「え?」

 安倍さんは後ろを振り向いたが、ドアはもう閉まっていた。

「何を?」

「何をって・・・。私が、そのぅ」

 言葉がうまく出てこなかった。

「とにかく、私・・・ずっと待っていたんだから、分かっているでしょ。でも待っていたってのは説明を聞きたいからなんだよね」

「ああ・・・色々とありましてね」

 安倍さんは言葉遣いを安倍さんの昔のままにしようか、それとも晴明のように話そうか迷った末、晴明のような言葉遣いにすると決めたらしく、丁寧な言葉遣いで答えた。私の目に浮かんでいる怒りにそう決めたのかもしれない。だが、そんなことでおさまるわけのない、いやその言葉遣いのせいで更に火が付いた私が詰めるのに気付いた安倍さんは、

「何ですか?」

 と後退りした。

「色々とあったって・・・なんでもっと早く帰ってこなかったのよ?なんで私を一人ぼっちにしたのよ」

 私はさらに詰め寄った。安倍さんはさらに後退りカウンターに背を押し付けると、

「ちょっと、近すぎないですか?なんだっけ、そのソーシャルディスタンスっていうのが今の時代には求められている筈では?」

 と、無駄な抵抗をした。

「そんなことはどうでもいい、どうして今なの。どうして今まで戻って来なかったの?好きな時間にいつでも戻って来られるんじゃないの」

 私の言葉に、安倍さんは首を振った。

「さすがにそう言うわけにはいかないんです。時を跨ぐときにはイベントが必要でね」

「イベント?」

「うん、まあその話は置いておいて・・・」

「ちゃんとみんな話して」

 私はかみついた。

「あんまり怖い目で見ないでください」

 安倍さんは諦めたようにそう言うと、

「分かりました。といってもどこから切り出したらいいものか」

 顎に手を当てると、

「互いに近況を話す、そういう事から始めましょう」

 と応じた。近況と言っても・・・彼の話はちっとも最近の話ではないのだけど。

「じゃあ、まず私からね」

 私は尋ねた。

「姫様と右馬の介さまはどうなったの?」

 彼女と彼が私の先祖様だという事を私は確信していた。彼らがどうなったのか、私には知る権利がある。そしてそれはきっと謎の中心にあるに違いない。

「それこそ昔話のエンディング通りです。お姫様と王子様は結ばれて、幸せに仲良く暮らしました」

 安倍さんはあっさりと言った。

「それはまあ良かったわね。・・・じゃあ」

 と私は首を傾げた。

「もし、私があんなことにならなかったら?」

「元の世界に帰らなかったら、ということですね?」

 安倍さんはにこりと笑った。この世界は一つしなく、時は戻ることができない、という前提で私は話すことがもうできない。お話には様々な結論がある、のだ。私は右馬の介さまと結ばれたのだろうか?

「ええ」

「うーんと・・・お姫様と王子様は結ばれたんです・・・それで良かったですか?」

 安倍さんは済まなそうに答えた。

「じゃあ、何にも変わらないじゃない」

 私は呆れた。

「いえ、そんなことはないんです」

 安倍さんは目を瞬かせた。

「その時は、あなたの・・・というか姫様の母親が猛反対して、二人は駆け落ち同然で結ばれた・・・つまり幸せとは言い難い状況になったのですよ」

「・・・」

「分かりますか?その意味」

「・・・なのに・・・私は同じように生まれた?」

「そう、そこなんです」

 安倍さんは軽く手を叩いた。

「つまり、あなた・・・というかあなたの家系はその事実に影響されないで続いた。それって不思議じゃありませんか?」

「そうね」

 私は考えた。どういう事なんだろう?私自身が過去に戻って違う行動をしたのに、私自身は同じように産まれた?

 安倍さんはちょっと勿体をつけたように私を見ながら説明を始めた。

「二人の間に生まれた子供は蝶姫と言う名をつけられ、だいぶ違う境遇にいたのですが、なぜか十五の時に同じ人と結ばれ家系を紡ぐことになりました。それで一種の修正が完了した。結果としてあなたは歴史的必然として存在する人間だったのです」

「・・・」

 意味が良く分からなかった。

「そうした歴史を修正する一族と言うのが世界に幾つか存在するのですが、その中でもっとも修正する力が強いのがあなたの家系なのです。そしてその者たちのみが時空を跨ぐことができる」

「良くわからない・・・」

 私は音を上げた。

「修正力と言うのはどの時点でもとの軌道に戻るか、ということですね。十五年で戻るというのはとても速い。女性が子供を産めるのはせいぜい四十までですから、四十年で修正しても家系は元通りには修正しきれない」

「じゃあ・・・あなたたちはそんなに・・・なんて言うか・・歴史の実験を行ったの?」

「ええ」

 安倍さんは平然と答えた。

「成功した事例も失敗したものもあります」

「じゃあもし・・・あの時私が戻らなかったら」

「失敗でした。というより結果としてその世界はそこから先には進めなかったんですね。つまり碁でいうごうに入った、ということになります」

「劫?」

「未来永劫の劫ですね、いつまでも無限ループで存在する、ということになります」

「失敗したらその世界はみんなその無限ループに入るってこと?」

「いや、劫に入ってしまうものだけではなく、終了してしまうものがある・・・というかほとんどが後者ですね」

「・・・」

 私は黙った。つまり破滅するってこと?それを見ながら安倍さんは恐る恐るといったように言葉を続けた。

「分岐が激しくなる時代、というのがあります。この200年は分岐が激しい。とりわけ、最近は分岐が限りなく大きくなっています。おそらくは人間が背負えないほどの技術を抱え込んでしまったせいで、崩壊する確率が増大しているのです。もしかしたら、その分岐の全てが・・・先がないものなのかもしれません」

 全てが・・・?でも・・・だってあなたはその先の未来から来たんじゃないの?

「我々の時代も決して安全な状態ではありません」

 私の疑問に満ちた目に安倍さんは答えた。

「世界の構成はわれわれの時代でさえ未だに謎に満ちています。この時代、今と言っていいのでしょうが、その科学が決してすべての事象を解明したわけではなく、一定の前提のもとで結論をつけているように。この時代の僅か千年に満たない過去に地球が球体だと誰も思わなかった。でもやがてそれが真実だと判明した。そして、この時代においても時空と言うものをやはり一定の条件のもとで解析しているのです。つまり地球が平面だと考えていた人たちとその点では何も変わらない。不思議なことに、この、つまり我々が存在する今の時代ではタイムマシンでちょっと先の未来に行くことはできても、過去に行けることはない、と考えられている。ですが、それは世界全体の構造がまだ理解されていないからなんです」

 言っていることは半分もわからないけど、つまり無数の世界が存在するってこと?信じられない。

「よく分からない」

 そう言ってみた。安倍さんは首をひねると

「じゃあ、アナロジーとして・・・、あなたはスマホやパソコンでゲームをしたことがあるでしょう?」

「うん、この世界に来てからだけど・・・」

 以前はゲームと言えばアーケードでしかやったことがない。私がそう答えると、

「前にも言った通り、ゲームというのは失敗して終わり、という事があるでしょう?失敗した世界と言うのはそういうものなのです」

「でもゲームと実際の世界は違うじゃない」

「意外とそうでもないのですよ。あなたたちはこの世界が無数の要素で成り立っている。だからゲームほど単純じゃない、と考えている。でも太古の昔から存在し、無数の様子から成り立っているというのは『あなたたち』の考えであって、それより上位の存在がありうるという事を無視している。上位の者たちにとっては物事の精度も時間も人間よりはるかに進んでいる、と考えたらどうです?」

「そんな存在があるの?」

「ありうる、と言ったはずです。それが何なのかはまだ解明できていない」

「・・・でも信じられない」

「この構造は昔から存在したのですが、人間が生まれてから加速し、かつ複雑になってきたのです。さっきも言った通り、とりわけ近代においては」

「・・・」

 私は押し黙った。それって私たちはゲームの駒に過ぎないっていっている?

「この世界においては人間だけが自律的にこの世界を救うことも滅ぼすこともできるゲームのプレーヤーなのですよ。ですが、それ以外にもプレーヤーがいる。その上位のプレーヤー、それは人間にとっては神のような存在なのでしょうが、その律に人間は縛られている、と考えればすべてが落ち着く、我々はそう考えています」

 私は安倍さんを見詰めた。普通なら誰がそんなことを信じるものか?でも、私は実際にそれを経験してしまった。

「そしてあなたは、以前にも言った通り、ゲームを「元に戻すことができる」機能なんです。そして僕はその手助けをする使命があるのです。僕自身もあなたと同じような家系に生まれたのでね」

 厳かに宣言した安倍さんを私は混乱した目で眺めるしかなかった。


「でも・・・」

私は混乱したまま呟いた。

「はい?」

「私は私のした経験を話してしまったの。それって?」

「あなたのおじいさんと高校の先輩にですね?それはたぶん大丈夫です」

 安倍さんはいやに確信ありげに答えた。たぶん、今の先に何があるのか知っているに違いない。

「ルールが分からない」

 私はうなだれた。

「超複雑系のゲームみたいなものですから」

 安倍さんは笑った。その超複雑系という「ちょう」の音で思い起こしたのか、

「ちょう・・・蝶といえば、あなたもバタフライエフェクトという言葉を聞いたことがあるでしょう?」

 バタフライエフェクト・・・確かにどこかで聞いたことがある。

「何だっけ?」

 私は眉を寄せた。

「蝶が羽ばたきすると砂漠で竜巻が起きる、そんな現象があるかもしれないという話です」

「ああ・・・聞いたことがあるわ」

「もちろん、本当にそんなことが確率的に起きていたら砂漠は竜巻だらけになってしまう。逆に砂漠で竜巻が起きても蝶に羽ばたき一つ起こさない、そういう事の方がはるかに多い。超複雑系では、どちらも蓋然性としてはあるのですが、後者の方が圧倒的にその蓋然性が高いのです。それが収斂、convergenceという系なのです。ですが稀に逆の事が起きる、そのdivergence系の中にあなたはいるのです」

 コンバージェンス?ダイバージェンス?

「難しいことは分からないけど・・・私が羽ばたいたら砂漠で竜巻がおきかねないってこと?」

「力学系の話ならそうですけど・・・。羽ばたいてみます?」

 安倍さんは冗談めかしてそう言った。

「やめとく」

 私は答えた。蝶の羽ばたきで竜巻が起こるなら、下手に動いたら火山が爆発でもしそうな気がした。

「大丈夫ですよ。あなたは別に力学の機能をお持ちのわけではないのですから。さて、力学系では初期の小さな力がとんでもないカオスを発生させる可能性があるという話なんですけど、歴史ではその可能性が遥かに高いのです。というか歴史を動かすイベントは常に初動系といってもいい。ですが歴史においては、それは歴史に『もし』はないという理屈で検討の俎上そじょうにも乗りません。けれど、実際に変更の可能性がある場合、力学系より遥かに変動要因は多い。さっき、あなたがあなたの経験を人に話したことが大きな問題にならないといったのは、その人たちが収斂の系に存在するからです」

「ふうん」

幾ら話を聞いても現実的ではなかった。


「で・・・?」

私は良く理解できないまま気になっていたことを質問した。

「で?」

安倍さんは首を傾げた。

「悪魔はどうしたの?」

「悪魔・・・。彼らはそのあらゆる可能性を否定し、消し去る者たちです。つまり我々の存在を消し去る存在。ゲームエンドを演出する者たち。我々が戦った悪魔は見た通り消滅しました。だがそれは、あの時点でのみ・・・つまりどの世界にも世界を滅ぼそうとする力は働いているのです」

「・・・なんだかなぁ」

 私は呟いた。そうとしか言いようがなかった。

「そんな面倒なゲームってある?この地球は何十億年も前から存在しているわけだし。平安時代から千年以上も経っているわけだし」

「ゲームにたとえるのがご不満のようですね?」

「だって、そんな・・・手間がかかり過ぎでしょ?」

「でも、よく考えてごらんなさい。人間が作ったゲームだってどんどんリアルになっていくでしょ。僕らにとっては千年は長いし、何十億年なんて想像もつかない。でもそれは僕らが僕らの尺度で話しているからなんです。虫は一年しか生きない。その上人間は彼らにとって生殺与奪の存在だ。彼らの尺度では人間は神のような存在なのかもしれない。我々の上位の存在にとっては我々をリアルな存在にする何らかの意味が存在するのかもしれないじゃないですか」

「・・・リアルって何よ?」

「それはなかなか良い質問です」

 安倍さんはそう答えると、腕を組んだ。

「リアルとは・・・その主体の置かれている状況によって違うものなのです。すなわちあなたの周りにいる人々にとってはこの世界こそがリアル。ですが、あなたにとっては複数の世界がリアル」

「でも・・・あなたが言ったように私たちが・・・その上位のプレーヤーとやらに操られている存在だとしたら・・・私たちの存在の意味はいったい何なの?リアルって結局作られたものじゃない」

「確かにそういう考え方もあります」

 安倍さんは答えた。

「でも我々は結論付けました。そのリアル・・・つまり現実の中でプレーヤーである人は最善を尽くさなければならない。我々は我々のリアルを守っていかなければならない。それはこの時代にも共通すべき考えだと思っています」

「そんな・・・」

 私は絶句したが安倍さんは飄々とした表情で言葉を紡いだ。

「リアル、すなわち現実を直視してください。一般的な人々の間でもリアルはそれぞれ違うものですが、あなたのリアルは少なくともこの時代ではいわばメタリアルなのです。メタリアルであなたは最善を尽くす事、それがあなたの使命なのです」

「そんなことを言われたって・・・。私は普通に家族と一緒に暮らしたいの」

 私は途方に暮れた声を上げた。だが

「あなたと同じように考えている人がこの世の中には何億、何十億といるのですよ。その人たちの幸せはあなたの手にかかっているのかもしれない」

 安倍さんは手を広げた。ちょっとわざとらしい。

「そうかもしれないけど、私には関係ないっていうか、そんなことは私が背負うべきことじゃないと思う」

 私は反論した。

「世の中には良い思いをして偉そうにしている人だってたくさんいるわけでしょ?そう言う人たちが背負えばいいのよ」

「おっしゃっていることは分かりますが・・・。所詮彼らにはそうした能力がないのです」

「だからって・・・」

 そう言った時、スマホから着信音が鳴り響いた。バッグから取り出してみると母からの電話だった。

「空音、あなたどこに いるの?」

 母の声が耳の近くで鳴り響いた。

「あ、ちょっと・・・何、用事?」

「斎藤さんがね。倒れたって、美代さんから電話があったのよ。病院に担ぎ込まれたって」

「え?」

この世界で・・・ノンちゃんのお母さんである美代さんと私の母は、娘たちを通して知り合い、友人関係になっていた。

「どうして・・・?」

「詳しいことは分からない。でも全然意識が戻らないんだって」

「どこの病院?」

「市民病院だそうよ。昔の事を思い出して・・・。あなたも木から落ちたことがあるじゃない。あの時の事を思うと、美代さんどれだけ心配しているか」

「今からそこへ行く」

「そう?・・・着いたら連絡して。私も明日用事を済ませてから行くから」

 電話を切ると、安倍さんが心配そうな眼で私を見ていた。まるで今までの妙な話が嘘だったように私たちは「今」の現実に引き戻されていた。

「私、神戸に行かなくっちゃ」

「送っていきましょう。車が停めてある」

「そうなの?じゃあ、お願い」

 安倍さんは頷くと、カウンターの向こう側をごそごそと探した。

「ありましたよ」

 得意げに鍵を引っ張り出してドアに錠をすると、その鍵を店の看板の後ろに隠したのだった。


 どうやって免許を取ったんだろう?

 私は安倍さんの運転する車の中で揺られながらふとそう思った。彼はどのような形でこの世の中に潜り込んだのだろうか。いや、今はそんなことはどうでもいい。ノンちゃん・・・。勉強の無理が祟ったんだろうか?

 高槻ジャンクションで名神高速道路から新名神に分岐するあたり、ヘッドライトの先に小高い丘を見ながら、私はノンちゃんが無事でいることだけを願った。

 安倍さんも黙ったまま運転を続けた。夜の道はトラックこそ多かったけど、さほど混んではいなくて、私たちは一時間ほどすると神戸のインターを降り、十分ほどで病院に到着した。

 病院の中に入ると人気の少ないノンちゃんのお母さんが背中を丸めてぽつんと一人座っていた。

「お母さん・・・」

 駆け寄ると、背中が振り向いた。手にはハンカチが握られていた。

「空音ちゃん・・・。わざわざ来てくれたの」

「もちろんです。具合どうですか?」

「全然意識が戻らないの。お医者さんも不思議がっている」

 そういうとノンちゃんのお母さんは手にしたハンカチで溢れそうになった涙を拭いた。

「いったい・・・どうして?」

「分からないの。あの子、こっちで一人暮らししているでしょ。大家さんが見つけてくれたの。マンションのエントランスで倒れていたんだって。このご時世でしょ?コロナを疑ったんだけど、熱は全然ないし検査も陰性だったんだって。だから原因が全然分からないの」

 そんな会話をしている最中に、駐車場に車を停めた安倍さんがロビーに入って来るのが見えた。手を振ると安倍さんはまっすぐ私たちの方へ向かって来た。

「こちらは?」

 ノンちゃんのお母さんが私に尋ねた。

「安倍さんです。ノンちゃんとも知り合いで・・・車で送ってきてもらったんです」

 私は言葉を濁した。ノンちゃんは安倍さんと言う人がいることは知っているけど、実際はまだ会ったことがない。

「そうですか、それはわざわざ遠くから」

 ノンちゃんのお母さんは安倍さんに深々とお辞儀をした。

「いかがですか、ご容体は」

 安倍さんがいかにも好青年のふりをして尋ねた。

「さっきも話していたんですけど、意識が戻らなくて」

「お会いできますか?」

 私は安倍さんを見た。まだ会ったことのないノンちゃんなのに・・・どうして?でも安倍さんの表情は真剣だった。

「会っていただけたら・・・。ちょっと看護師さんに聞いてみますわ」

 そう言うとノンちゃんのお母さんは立ち上がって、受付の方へ向かっていった。少し不安げな足取りで去っていったその後姿を見送ると、

「なんで?」

 と私は安倍さんに尋ねた。ノンちゃんに会ったこともない癖に、と思う心に何か少し苦い味がした。もしかして・・・これって嫉妬?いや、そんな筈は・・・。

「これが僕が再びこの世界に戻ってきた理由かもしれない」

 私の戸惑いを余所に安倍さんはそう呟いた。

「どういうこと?」

 私の声は尖がったままだった。

「もしかして・・・ノンちゃんと?」

 自分の時の事を想いだし、私は安倍さんに迫った。二人で時代を遡る気なのかしら?その時、背後から、

「大丈夫だそうです。ちょっとの時間なら」

 ノンちゃんのお母さんの声がして、私は表情を和らげて振り向いた。

「ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ。エレベーターに乗って5階です。512号室ですから。ナースセンターには伝えてあるという事ですので、そこでサインをしてくださいとのことです。私は主人をここで待っていますので」

 ノンちゃんのお父さんは東京に出張中で、今新幹線で戻って来る最中だとのことだった。

「じゃあ、また」

「ええ」

 そう言ってもう一度深々とお辞儀をしたノンちゃんのお母さんに、私たちも丁寧にお辞儀を返した。


「どういうことなの?」

 エレベーターで二人きりになるなり、私は安倍さんに問い質した。

「どういうこと、とは?」

「なんでノンちゃんに会いたいのかって聞いているの」

「ですから・・・」

 と安倍さんが言った途端にエレベーターが停まり、3階から中年のナースが二人乗って来た。もし声が外に漏れていたら痴話喧嘩にしか聞こえなかったに違いない。私は顔を赤らめた。すぐにドアが閉まり、エレベーターは静かなまま私たちを5階に運んでいった。乗り込んできたナースたちは謹厳そうな表情を崩さずにそのまま上の階へと行き、私たちは薄暗い廊下の向こうにあるナースセンターへと向かった。

 サインをする時私はフルネームで書いたのに安倍さんは安倍、としか書かなかった。こんなに何度もあっているのに私は安倍さんの下の名前をしらないのだ。名前を知るチャンスだと思っていたのに・・・。まさか本当に晴明っていう名前なのかしら?

 私たちは512号室へと入った。部屋の中は消毒液の匂いがして、電気はついたままだった。二人用の部屋だったが片方のベッドは空いていて、もう片方のベッドには薄い白のカーテンがかかっていた。その中でノンちゃんは一人で静かに寝息を立てていた。左の腕には輸液菅が刺さっていて、それがなんだかひどく痛々しかった。

「やっぱり・・・」

 安倍さんはそういうと手にしていた小さなバッグを床に下ろし、ベッドにかかっていた布団を無言で少しはぐと、彼女の右手を触った。

「ちょっと何を・・・」

 言いかけた私に向かって唇の上に左の人差し指を立て、静かにするように命じた。そして暫くその手から何かを探るように瞑想した。

 どのくらいの時間が経ったのか私にはよくわからない。やがて、安倍さんは彼女の手から指を離すと、

「さあ、行かなければなりません」

 と私に向かって言った。

「行かなければ?」

「ええ」

「どこに?」

「彼女の魂があるところへと」

「つまり・・・私と同じ?」

 安倍さんは静かに首を振った。

「あなたと違って彼女は変数なのです」

「変数?」

「そう、彼女はあなたが一番最初にいた世界にはいなかった、そうでしょう?」

「・・・ええ」

「ききょうさんにそっくりな人、彼女はあなたによって変えられた人生を持つ人の末裔・・・」

「じゃあ、ききょうの?」

「そうです」

「どこにいるの?」

 私はせっかちに尋ねた。

「意外と近い世界です。今から九十年ほど前の世界」

「そこで彼女は私と同じような経験をしている?」

「いえ、その世界で彼女は記憶を失って存在しています。あなたと違って彼女には自律的に戻る手段はない」

「どうすれば・・・」

「だから行かなければ・・・。なるべく早く」

「行くって?」

 尋ねた私に安倍さんは人差し指を向けた。

「私が?」

「そうです」

「そんな・・・。だいたいどうやって行くの」

「私と一緒に」

「え、だって私を連れていけないって・・・前には言っていたじゃない」

 戸惑っている私に、

「彼女が導いてくれるのです。あなたも一緒に行ける」

「でも・・・」

 私は家族のことを思った。また木から落ちなきゃならないのかしら。それに戻って来られるとは限らない。この間は、もうあと少しで死ぬような目に遭ったんだし。

「どうします?」

「どうしますって・・・」

 私は思わず部屋の窓に目を向けた。ここから落ちたら多分・・・死ぬ。私の目の動きを見て安倍さんは微かに笑った。

「落ちなくても大丈夫です、今度は」

「そうなの・・・」

「ええ、でも・・・」

 安倍さんは躊躇った。

「いずれにしてもここでは無理です。時間が少しかかる」

「そう・・・」

 その時ドアが開く音がして、私たちは同時に振り向いた。ノンちゃんのお母さんと、見知らぬおじさんが入ってきた。

「斎藤紀子の父です」

 見知らぬおじさんが名乗り、私たちは頭を下げた。


 失礼にならないほどしてから私たちは暇を乞い、病院を後にした。

「どうします?」

「どうしますって・・・」

 あまりに早い事態の進展についていけそうになかった。

「ノンちゃんはどうなるの?」

「このまま放っておけば、彼女はずっと同じ状態のままです」

「・・・」

「なるべく早く決めた方がいい。向こう側でも時間がどんどん経っていく」

「ずるい」

 私は精一杯恨めしそうに安倍さんを見た。

「なぜ・・・です?」

「抜き差しならない事態に私を追い込んでいる」

「それは・・・」

「そのうえ、あなたは自分の都合のいい時にしか、私のそばに来ない」

「それは・・・だから」

 言い訳しようとする安倍さんを制して、

「でも、仕方ない」

 私は言った。ノンちゃんを見捨てるわけにはいかない。

「戻ってこれるよね」

「それは・・・今度は間違いなく」

「でもノンちゃんが戻ってこれるかどうかは分からない」

 安倍さんは頷いた。

「なら、なるべく早く」

「この近くがいいです。とにかく他の人に邪魔されず二人きりになれるところなら」

「そうなの?」

「おそらく、時間はこっちの方では一時間ほど・・・」

「じゃあ、さっさと車を出して」

「大丈夫です。この近くに僕らが行くべき場所がある。それは分かっています」


 僅か三分のドライブで、その建物が見つかった。

「ここ・・・?」

「ええ、どうでしょう?」

どうでしょうって・・・ラブホテルじゃない。

「うぅ・・・」

 私は歯ぎしりした。これって新手のスケコマシじゃない?

「ほかにしますか?」

 安倍さんは心配げに時計を見た。

「じゃ、ここでいい。何もしないでね、変なことは」

 安倍さんは頷いたが、でも、と言った。

「手はつなぐ必要があります」

「手・・・?」

「ええ。一緒に旅立つ必要があるから」

「・・・」

「それ以上はだめよ」

「もちろんです。それどころじゃない」

 安倍さんはそう答えた。それどころじゃない・・・。なんだか微妙に腹が立った。


 へー、ラブホテルってこうなっているんだ。駐車場から上がった狭いロビーで自販機のようなものがあり、そこにお金を入れると鍵が出てくる仕組み。なるべく人と顔を合わせたくないもんね。

 安倍さんはちょっと考えてから、一番高い部屋の、でもショートというボタンを押した。

「二時間もあれば、大丈夫でしょう」

 うーん、二時間・・・なんだかエッチな想像をして私は俯いた。やっぱり狭いエレベーターに乗って3階の部屋に向かう。廊下に面した部屋の鍵は閉められていて・・・その中では・・・。

 鍵を開けると私たちは急いで部屋に滑り込むように入った。

「あ・・・」

 部屋にはプールのようなお風呂があって、その奥には大きなベッドが備わっていた。いったい何のためのプール?

「さあ、早く」

「あ、うん」

 小さなテーブルの上にバッグを置こうとしたら、そこには小さなビニールの包みが五個ほど置いてあった。思わず手に取ると、その中にあるゴムのような感触が伝わってきて、私は思わず取り落とした。これって・・・あの時に使うもの?

「じゃあ、ベッドに横たわってください」

 聞きようによっては怪しい指示に私はおそるおそるカバーのままのベッドに腰を下ろした。

「じゃあ、手をつなぎましょう」

「あ」

 安倍さんの思ったより細い白い指と私の指が絡まった。

「向こうの世界では、あなたはあの女性の一つ違いのお姉さん、ということになります。そして僕はあなたの婚約者となるようです」

「え・・・」

 私は狼狽えた。でも安倍さんは淡々と続けた。

「1925年、僕は海軍の士官、あなたは女学院の生徒、今のところわかっているのはそれだけです。準備はいいですか?」

「あ・・・はい」

 私は思わず、答えた。その時、あ、しまった、と思った。母に電話をするのを忘れていた。だがその瞬間、あたりの景色は消えて白い空間の中に私たちは引き込まれていったのだった。


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