第30話 2021年 夏 京都
それから四年の月日が流れ、また京都に夏がやってきた。洛女を卒業した私は、御園先輩の彼氏にちゃっかり納まった菊池さんに勧められ、猛勉強の末何とか菊池さんと同じ大学の理学部に入り蝶の研究を続けている。
Covit 19という名の伝染病の流行のせいで授業はオンラインだけど、動物や虫の世話はそうもいかない。特例で大学に行く事はずっと出来てはいるものの、閑散とした構内に人影はまばらで大学に入ったという実感はなんだか薄い。
合格した時、母は奇跡だと言ったが父は黙って子供の時のように頭を撫でてくれた。大学の研究室ではミソノタテハの研究を続けていてかなりの数が自然に帰され自力で繁殖しつつある。
御園先輩は東京の大学に入り、将来は環境省に勤めるんだと頑張っている。菊池さんとは遠距離とはいえ、ちゃんと続いているみたいだ。
バーのマスターはバーとは別に新しく小さなレストランを開き、私はそこでバイトをさせてもらっているけど週に一回が限界だ。理系は厳しい。バーを閉めた訳ではなく、平日の夜三時間だけ開けている。お酒が提供できないバーなんて閉めた方がいいのに、と人は言うけど、
「だってさ、安倍君が戻って来るかもしれないじゃない。閉めたら可哀想じゃないか」
伝染病のせいでお酒もろくに出せないのに、通って来るお客さんもいるらしい。
「ありがたいよねぇ」
マスターはそう言うけど、マスターの方がよほど有難い人だと思う。
という訳で、安倍さんに会う事はまだできていない。二十歳になった私は月に一回このバーを訪れる。お酒を飲むわけじゃなくて、マスターの作るノンアルコールのカクテルを飲むだけなんだけど。それでもカウンターで一人グラスを口許に持って行くとすっかり大人になったような気分になる。お酒が出せないならこのカクテルを看板商品にしたら、と言う私の提案にマスターは乗っかって、実際結構それを目当てに来るお客さんもいるそうだ。だから、と言うわけじゃないだろうけど、私に対してマスターはカクテルの分のお金はいらないっていつも奢ってくれる。だから私はいつも二杯注文して、一杯分のお金を払い、片方を安倍さんの分、と言ってマスターと乾杯する。どっちがどっちに奢っているのかは不明のままである。
ミキは東京の大学の文学部、斎藤さんは神戸の大学の薬学部に進学した。夢を追っているミキと現実的な斎藤さん。それぞれ、らしいよね、と思う。ミキは蝶を発見した時の事をドキュメンタリーにするため執筆中、斎藤さんはミツバチの島でボランティアを続けているらしい。初めの内は何となく違和感があった斎藤さんとも今は昔からの友達のように仲良くなった。流石にもう私をプリンセスとは呼ばなくなったけど、そうなればなったでちょっと寂しい。人間なんて勝手なものなのです。
二人がスケジュールを合わせて揃って京都に帰って来る時はどんなに忙しくても一緒に会っている。というより二人は私が暇な時を見計らって来てくれるんだ。薬学部なんて忙しいだろうに。
虫愛ずる姫君の続編はまだ公開していない。公開することが正しいのか晴明の意見を聞いて見たかった。
夏が終わり、鹿ケ谷の華厳寺で行われる虫供養に行った次の月曜日、私はひと月半ぶりにバーへ顔を出した。
「やあ、そろそろやって来るころかと思っていましたよ」
マスターはアルバイトしているレストランでは私を従業員の一人としてしか扱わないけど、このバーではきちんとお客さんとして扱ってくれる。
「で、いつもので良いです?」
マスターは必ず聞いてくる。
「ええ」
いつもの、というのはマスターが最初に私に奢ってくれたあの「千年の恋」と言うカクテルの事で、
「安倍さんの分もね、お願い」
私の答えもずっと同じ・・・。
晴明に会ったら・・・私はこの四年間ずっと考えていた。
あの日、おじいちゃんの家で「虫愛ずる姫君」の続編を読んだ夜、私は不思議な夢を見た。
ノンコが・・・斎藤さんの方じゃなくて以前いた世界のノンコが洛女の昆虫生物部の部室の前で一人で泣いている。
「ノンコ、どうしたの?御園先輩やミキはどうしたの」
尋ねてもノンコはいやいやをするように首を振って泣きじゃくるだけだった。学校の建物の半分は崩れていて体育館があった辺りは跡形も残っていない。他には人の姿はなかった。泣き続けていたノンコがふと何かに気付いたように顔を上げ、震える指で私の後ろを指さす。
真っ青な空を背景にまるで切り絵のような奇妙な黒い影が立っている。その影は頭に奇妙な形の角を二本生やしていて、無表情な眼で私たちを見下ろしている。
「何・・・」
ノンコの悲鳴にじっと耳を傾け、やがて満足そうな笑みを浮かべるとその影がのろのろと手を上げた。そして、ノンコの悲鳴を掻き消すような激しい衝撃が・・・・
そこで目が覚めた。冷や汗が全身を覆っていた。
私がいたあの世界には・・・いったいどんな未来が待ち受けていたのだろう?ノンコはどうしているのだろう。そして私と入れ替わった御姫様はいったいどうなったのだろう?
そんな事を考えながらカクテルを飲んでいたら、アルコール抜きなのに酔ったような気分になってきた。誰かが吸っていったのか、バーの中に微かに漂っている葉巻の香りのせいかもしれない。マスターはお酒を提供できなくなった時点で免許を喫茶店に切り替え、煙草も葉巻もOKの店に変えたのだ。
「だって、煙草を吸えない人が可哀そうじゃない」
マスターは誰にでも優しい・・・。
その葉巻の残り香を嗅ぎながら、私は考えていた。あの世界をもう一度訪れる事は出来ないものなのか・・・そしてあの世界の破滅を避ける事は出来ないのだろうか。
珍しく他に誰も客はいなかった。私がプレゼントしたモルフォ蝶の標本が綺麗に枠に飾られ壁にきらきらと輝いている。
その時、ぎーっという音を立ててドアが開いた。その客に店とマスターを任せて帰ろう、そう思って勘定を頼もうとした時ドアの向こうの人影にマスターがびっくりしたように眼を見開いた。
「おや、ずいぶんと久しぶりだね。いったい今までどうしていたんだい。君をずっと待っていた人がちょうど今来ているよ」
そう言いながらマスターが私を見て微笑んだ。
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