第29話 空音 2017年 8月 山科
夏休みも残すところあと三日だった。一抱えある大きなスイカを座席の横に乗せて私はバスに揺られていた。
京都駅からバスで三十分ちょっと、山科の近くにおじいちゃんの家はあった。前日電話をかけたら、蝶の発見の事でおじいちゃんはとても喜んでくれた。
「ごめんなさい、連絡が遅くなって。久しぶりにおじいちゃんの所へ行っても良い?話したいことがあるの」
そう尋ねるとバス停まで車で迎えに来てくれると言ってくれ、私はバスの時刻表をその場でネットで検索して九時二十五分発のバスに乗ると告げたのだった。ちなみに・・・、私はもうなんなくネットを使いこなせるようになっていた。これも何もかもノンちゃんの御蔭だった。
バスはほぼ定刻に停留所に着き、私はバスから降り立った。こんな時間でももう日差しが暑い。膝の高さ程に育った稲穂が風にそよそよと揺れている。ここに良く来ていたのは七・八年ほど前だけど・・・こんなに田舎だったっけ。記憶が曖昧なだけなのか、元の世界と違っているのか区別はつかなかった。
やがて田んぼの向こうから一台の小さな車がゆっくりとやって来るのが見えた。おじいちゃんと同じくらい古びた濃緑のオースティンミニ。最後に来ていた時も確かこの車に乗っていたけどその時でさえ十分古かったのに。
まだ使っているんだ。
フロントグラスの向こうに黒縁の眼鏡を掛けたおじいちゃんの丸い顔が見え、窓から私に向かって手を振っている。私も手をいっぱいに伸ばして手を振りかえした。
「えらくでかいスイカじゃな」
私が手に下げていたスイカを見て運転席のおじいちゃんは感心したように言った。
「二人で食べちゃおうね」
「腹を壊さんかのう」
おじいちゃんは首を傾げた。
「大丈夫だよ。おじいちゃん、まだ若いもの」
私が答えると、
「いや、お前の心配をしておる」
と言うと、はははとおじいちゃんは元気に笑った。後部座席の足許に入りきらなかったスイカを仕方なく、座席に乗せて
「スイカが落ちちゃうかもしれないから安全運転でお願いね」
と頼むと、
「窓を開けて走っておる。エアコンはついてないからな。スピードを出したら煩くてかなわん。こんな田舎道だと埃もすごいから大丈夫だ」
とおじいちゃんは答えた。おばあちゃんが亡くなってから五年、一人っきりになってもボケたりはしていないみたい。考えたらおばあちゃんのお葬式以来こっちに来ていなかったんだ。父はおじいちゃんに京都の家で一緒に暮らさないかと誘ったのだけど
「この家と蔵を守るが、わしの務めじゃわしがそっちに行ってどうする。やがてお前がこっちに来るんじゃ」
そう言い返された、と父が困ったように笑っていたのを覚えている。昨日、私が電話を終えた後、
「年取ったら僕もあっちに引っ込もうかな」
生まれ育った場所が懐かしくなったのか、父はそう言ったけど母との折り合いがついているのかは知らない。おじいちゃんは立派に一人で生きていけるみたいだけど、父は母がいなかったら一週間もしないうちに飢え死にしてしまうに違いない。残念ながら。
井戸水を
「で、何の用があるんじゃ」
と私に尋ねた。
「まだ、お父さんにもお母さんにも話していないんだけど」
おじいちゃんには私の身に起きたことを正直に全部話して、その上でその書物を見せてくれるように頼もうと考えていた。その上で見せてくれなければ仕方ない。私がどうかしちゃったんじゃないかとおじいちゃんは思うかもしれないけど、それも仕方ない。だから・・・私はゆっくりと丁寧に話し始めた。
「なるほどの。不思議な話だな」
話し終えるとおじいちゃんはぽつんとそう言って、暫く黙った。
「ところで・・・お前が前に住んでいたという所のわしは生きておったか」
「うん」
「そうか。それは
そう言うと立ち上がって、
「蔵へおいで」
と私を誘った。蔵の中はひんやりとしていて、どこか懐かしい匂いがした。それがあの「父上」の居間の匂いと同じだと気付くのにはそれほど時間がかからなかった。
「ちょうど整理をしようと考えていた所だった」
色の褪せた
「ほれ、これじゃ」
とおじいちゃんは私に差し出した。
「ずいぶん古そうね。本物じゃないの?」
と尋ねてもおじいちゃんは黙ったまま小さく首を振った。最初の頁を
「表記を起こしたものがあるぞ。一応訳も付けてある」
と古い大学ノートを手渡してくれた。
「え、じゃあ全部読んだの?」
「もちろんじゃ」
ちょっと得意げに鼻をうごめかすと、
「これが偽書だと考えたのにはわけがある」
と呟いた。
「どうして?」
尋ねた私におじいちゃんは
「どれ、貸してみ」
というと原書の最後の頁を捲り、
「これじゃ」
と指で絵を指した。
「本に書かれておる姫が最後に抛ったと言う飾りじゃよ」
「龍だ・・・」
私が放ったものとそっくりの龍がそこに描かれていた。なんだか懐かしい。こうして絵が残っていると言う事は・・・きっとききょうは右馬の介様に渡してくれたんだろう。
「だが、それこそわしがこれを偽書と言った理由じゃ」
「なぜ?」
「その飾りもほれ、ここに」
そう言うと脇に置いてあった茶巾から黒く錆びたものを掌に転がした。。
「これじゃよ。この細工は平安や鎌倉の物ではない。銀細工だがその時代にしては細工が細かすぎる。何より、この細工の内側に、ほれ」
そう言って私の目の前に差し出す。
「小さくアルファベットが彫ってある。S・Aとな。アルファベットはその時代にはまだ伝わっておらん。早くとも桃山の頃だ。書と一緒に伝わっている以上、書もそれ以降、おそらく江戸に幕府があった頃のものだろう」
私はポーチを手に取るとそこから一対だった虎の飾りを取りだそうとした。指が微かに震えて取り出すのに時間がかかる。おじいちゃんは不思議そうな顔で私の仕草を見ていた。
「おじいちゃん、ほらこれを見て」
「うん?」
おじいちゃんは私の差し出した物を手に取ると、丹念ににそれを調べた。
「こっちは随分と新しいが、どうやら同じ手の物らしいの」
おじいちゃんは不思議そうに言った。内側に彫ってあるS・Aの字を確認したおじいちゃんにどちらも安倍さんから貰ったことを話すと
「さても不思議な事じゃな。では、これはもう一つの世界からの到来物か」
しみじみとした口調になると
「ならば飾りはお前の持ち物じゃな。本と一緒に持っていくがいい」
そう言っておじいちゃんは私に本とノート、そして龍の飾りを手渡してくれたのだった。
「だが・・・それを公表すればどんな騒ぎが起こるか分かっているな」
おじいちゃんの言葉に私は頷いた。
その本の書き始めはこうだった。
「さて、かの虫愛ずる姫、ねびまさり給いて御裳着させ給うべう歳になりても肯わぬを親ども憂しとおぼすこと限りなし。陰陽の安倍晴明と申すを頼みて祈祷などせさせ給わんとすれど姫の申すに・・・」(さて、その虫が好きだという姫は、成長して成人の徴となる裳着を着るべき歳になっても着ようとしないので両親は大変困ったことだと嘆いた。陰陽師の安倍晴明と言う人に頼んで祈祷を受けさせようとしたが、その姫が言うには・・・)
私はおじいちゃんの訳した文を一生懸命読みこんだ。そのうちに暗くなったので、その日はおじいちゃんの家に泊まる事にして家に電話を掛けた。
「そう、お邪魔にならないようにするのよ」
母はのんびりとした口調で注意しただけでさっさと電話を切ってしまった。
半分に切ったスイカを二人でぺろりと平らげ、おじいちゃんの作った夕食を食べ終えると私は一人で部屋に籠っておじいちゃんの起こした平文を最後まで読んだ。
そこには私が後にした世界の出来事が綴られていた。あの後二条の御姫様と右馬の介様がどうなったのかという事も。そしてききょうもやがて結婚することになったということも・・・。
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