第28話 空音 2017年 8月 京都
「ううん・・・」
深い眠りから覚める時にありがちな、
ぼんやりと開けた瞳に真っ白な天井が映った。やけに眩しい。
ん?私は首を傾げた。柔らかい布団が私の体を包んでいる。どこからか、器械の立てる軽い震動音が聞こえてきた。ここは・・・どこ?
「空音さん?目を覚ましたの。私の事分かる?」
声のする方に首を向けると懐かしい顔が眼を一杯に見開いて私を見詰めていた。
「御園先輩・・・」
戻ってきたんだ。
「空音ぇ、心配したよぉ」
御園先輩の後ろからミキと、もう一人の女の子が顔を覗かせた。その瞬間、私の頭は混乱していた。だって、
「おかあさまあ」
顔を覗かせるなりそう叫んで病室を飛び出していった女の子は・・・。
「わたし・・・ずっとこうしていたの?」
落ち着こうと深呼吸をして気を取り直すと私はミキに尋ねた。
「そうだよ。すごく心配したんだよ」
ミキは涙を浮かべていた。
「どのくらい?ふた月くらい?」
へっ、とミキは声に出すと、涙を拭いて笑い出した。
「何言ってんの。そんな訳ないじゃん。担ぎ込まれてからまだ一日もたっていないよ」
「でも心配したのよ。ぜんぜん目を覚まさないから」
御園先輩がうっすらと涙を浮かべながらそう言った。
「ごめんなさい・・・でも・・・本当にたった一日?」
御園先輩が頷いた。
「どうしたの?」
「ううん、なんだかとても長い夢を見ていたみたい・・・ところでさっきの子」
尋ねた途端、御園先輩とミキが目を合わせた。
「さっきの子・・・?」
ミキが不安そうな声を出した。
「斎藤紀子さんよ。覚えてないの?」
御園先輩が心配そうに私の手を取った。
「サイトウノリコ・・・」
「忘れちゃったの?ほらあなたと一緒に部に入った・・・。あなたが怪我した時も一緒だったじゃない」
「ああ、ノンコ・・・」
「そうそう」
ほっとしたようにミキが頷いた。
「おどかさないでよ。本当に忘れちゃったかと思ったじゃん。あなたをプリンセスって崇め奉るノンコの事を」
やはり・・・戻ってきたのではなかった。この世界は私がもといた世界ではない。でもあのちょっとぼーっとした感じだったノンコがいなくなっているなんて。もしかしたら、私の両親だって・・・。
「ほら、目が覚めたんですよ」
病室の外で、大きな声を上げた「もう一人のノンコ」が手に花を持って連れて来たのは、だが、紛れもなく私の両親だった。
「心配したぞ」
いつもと同じ柔らかい声で父が私の肩に手を掛けた。母はちょっと涙ぐんでいた。
「だから、いつも気をつけなさいって言っているでしょう」
その小言を聞いた時、思い掛けず私の涙の
「驚いたわ。宇部さんがあんなに泣くなんて思ってなかったもの」
父は
「ごめんなさい。ちょっと・・・」
そんなに泣いたのはなぜだろう?
久しぶりに両親に会ったからだろうか?あるいは、あのノンコがいなくなっていたからだろうか?それともあまりに意外な状況に戸惑っていたからだろうか?私がさっきまでいた筈の世界を失ったことに動揺していたからだろうか?それとも、それとも・・・。
答えを探しあぐねながら周囲を見回した私は、窓際に一本の木の枝が差してある茶色の広口瓶があるのに気づいた。
「その枝は・・・?」
御園先輩が、ああ、これね、と頷いた。
「落ちた時に宇部さんが
そう言うと御園先輩は蝋のような白い人差し指で葉っぱの一つを指さした。
「これって、虫の卵でしょう」
葉っぱの裏に緑がかった白の小さな卵が一つついていた。
「あ、本当だ・・・」
私は呟いた。榎の枝・・・。それはこの世界のものなのだろうか?それとも・・・。
「それにこっちにも」
御園先輩が細く長い指でその枝を指した。よく見ると木の葉ごとに一つずつ、丁寧に卵が産みつけられていた。
「あなたを救ってくれたのかも知れない枝だからね。大切に取っておいたの。それにこの卵たちだいぶ熟しているからもうすぐ
「・・・。よろしくお願いします」
答えた私にずっと顔を近づけると、御園先輩は私のおでこを軽く突いてから頬を両手で包んだ。「もう一人のノンコ」がどこからか花を買ってきてくれたらしく、ドアから顔を出した。
良い子みたい・・・。それは何となくわかっている。
「宇部さん・・・本当に心配したのよ」
暖かい掌から、御園先輩の思いが伝わって来て私はもう一度泣きそうになった。
「はい」
「もう一人のノンコ」が気を利かせてハンカチを出してくれた。片手にもったままの花束の中に薄紫の一輪の花があった。
「ききょう・・・」
差し出されたハンカチを手に取って呟いた私に、その子はふっと笑顔を見せた。
ききょう・・・まさかここでまた会えるなんて。
一日検査入院する事になり、私が握っていたという枝は広口瓶ごと御園先輩が持って帰った。
翌日、脳波には異常がないとお医者さんが結果を伝えてると、私の傍らで検査結果を一緒に聞いていた母は
「そもそも・・・もともとの脳波は大丈夫なんですかね」
なんて尋ねて先生を困らせていた。何て失礼な・・・あなたの子ですよ、私は。
内心ぶつぶつ言いながら私が黙っていたのは、この世界が急に不確かなものに思えていたからだった。いつふたたび両親と会えなくなるかもしれない。今までそんなこと考えたことはなかったけど。だからどんなに変なことを言い出してもお母さんがお母さんでいてくれること、父が父でいてくれること、その価値を私は今は思い知らされていた。
家でもう一日休んでから学校に行くようにお医者さんに勧められた私は月曜日の午後、もう良くなったからと母に言って外に出る事にした。母は心配そうだったけど、
「いずれにしろいつまでも家に
とため息をつくと、
「気を付けてね。やたらに木に登っちゃ駄目よ」
と言って許可した。とても女子高生に対する注意とは思えないけど、実際に木から落ちちゃったんだから仕方ない。
私は散歩しながら近所の様子を窺った。交番は前と同じ場所にあって、以前と同じ無口そうな若い巡査が椅子に座って書類を書いていた。でも、前よりずっと立派な建物だった。私の知らない店がたくさんあって、そこは「コンビニエンスストア」というものだった。中に入って品物を確かめてみると、昔からあった茶色の包みの板チョコや懐かしいキャラメルに混じって知らない商品がたくさん置かれていた。森永のキャラメルを手にレジへ行ってみると、外国人がレジにいた。日本語が通じるのかちょっと心配だったけど・・・大丈夫だった。名札をみるとサラヘと書いてあった。いったいどこからやってきたんだろう?インド、それとも中近東?
外に出て街を見渡した。確かに京都の景観はあまり変わっていない。でもそれは京都が町の景観を守ろうとしている街だからなんだろう、と思った。確かに街並みはあまり変わっていない。でも・・・街を歩いている人はなじみのある景色の中を歩いていた人々と少し違っていた。何といっても外国人が前よりずっと多い。
「なんかなぁ」
そう呟くとその日は大人しく家に戻る事にした。
次の日登校した私がクラスに入ると
「空音ぇ、大丈夫なの」
幸いにして私を囲んだ級友はみんな顔を覚えている子たちだった。見知らぬ女の子が紛れ込んでいることもなければ、知っている女の子がいなくなってもいない。ほっとすると同時にちょっと拍子抜けした気分になった。授業を終えて部室へ行くと御園先輩が私を見るなり
「校長先生と教頭先生に挨拶にいかなきゃ」
と真面目な顔で宣告した。
ええっ、教頭先生にも?と一瞬びびった私に、
「気が重いかもしれないけど、そういう事はちゃんとしておかないとね。心配させたんだから」
仕方なく「ちゃんとしている」御園先輩の後ろについて校長室に行く事にした。
「どうぞ」
と返事をした校長先生は見知らぬ男性と談笑していた。
「あ、すいません。お邪魔でしたらまた後から来ます」
そう言った私を御園先輩は訝しげに眺め、
「何を言ってるの?校長先生と教頭先生に挨拶をしに来たんでしょう?おふたりがせっかくお揃いなんだから」
と言うと
「このたびはご迷惑をおかけしてすいませんでした」
と二人に向かって頭を下げたのだった。え、この人が教頭先生?慌ててぴょこりと頭を下げる。
「まあ、何もなくてよかったよ。これからは気をつけなさい」
校長先生がそう言うと、横に立っていたグレーのスーツの男性は、
「君は昆虫生物部の大事な一員なんだからね。歴史ある部を廃部にしなければいけないかと悩んでいた時に入部してくれたんだから。でも顧問をあんまりひやひやさせないで下さいよ」
と笑いながら言ったのだった。え、顧問?教頭先生が?私はますます混乱していた。
「どうしたんだね、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして」
その「もう一人の教頭先生」は微笑むと
「まあ、みんなを心配させないでください」
私のこつんと頭を軽く叩いた。その仕草は私と教頭先生がいかに親密であったかを示しているようだった。
「はあ」
間の抜けた返事を返した私に付き添っていた御園先輩は、
「これからは採集の時は無茶をしないように私が同行します。心配をおかけして申し訳ありませんでした」
と頭を下げさせて二人は校長室を後にしたのだった。
部室に戻るとミキが寄って来て
「ね、どうだった?叱られた?」
と尋ねてきた。「もう一人のノンコ」もミキの脇からひょいと顔を覗かせて唇に手を当てて私を見ている。
「ううん、大丈夫だった」
私が答えると
「教頭先生、あんたに甘いもんねぇ」
とミキは「もう一人のノンコ」と目を合わせ頷き合う。そんな二人は御園先輩の
「あら、あの卵が・・・
という明るい声に振り返った。みんなで病院から持ち帰った枝を覗き込む。2ミリ位の緑色の毛虫たちが殻を破ってそこから這い出そうと身をくねらせている。
「食草、榎ですよね。取りに行ってきます」
「もう一人のノンコ」がミキの背中を軽く叩くと二人は部室を飛び出していく。その背中めがけて
「自転車、気を付けてね」
御園先輩が叫んだ。
気付いた限りでは私の周りでは、教頭先生とノンコが入れ替わっているだけだった。本当はもっといるのかもしれないけど。
確かに世界は以前のものと変わっている。晴明が私の周りは「あまり変わっていない」と言っていたけど。
たぶんそうなんだろう。でも京都を出れば・・・その街は全く違うものになっているかもしれない。私自身、京都の町をそんなに出たことがないから。以前の街と比べることができないかもしれないけど・・・。
それにしても私の周りで変わっていた人がどうしてノンコと教頭先生なのだろう。そして・・・この世界は晴明が望んでいたような世界になっているのだろうか?少なくとも教頭先生に関しては前よりずっと良くなっているような気がするけど。世の中は本当はどう変わっているんだろう。私は不安だった。早く・・・何とかして晴明に、いや安倍さんに会って問い質さなきゃ。
その晩、父の書斎にある歴史の本を借り自分の部屋で開いてみた。普段そんな事をしたことがない娘の頼みに父はちょっとびっくりしたようだったが、黙って一冊の本を手渡してくれた。
少し考えて平安時代、それも天慶の乱以降の部分から読み始めた。ざっと読み進める限り、それほど「以前いた世界」と変わっているような事は見当たらなかった。室町幕府もあったし、織田信長もいるし、江戸時代も明治維新もそのままだ。
「でもなあ」
眠くなるのを堪えながら私は独り言を言った。
「細かいところが違っていても分からないもんなぁ」
そう思いつつも更に読み進んでいく私の手がふと止まった。それは日本が第二次世界大戦に敗戦した日付だった。
千九百四十五年八月十五日。
終戦記念日って確か、九月十日だったはず。八月十五日には・・・確かに終戦の詔勅が出ようとしたが、陸軍の将校が阻止して、そのおかげで北海道がソ連の占領下に入って未だに戻って来ない。今も・・・いや前いた世界では、北海道返還を求めて日本はずっと交渉を続けていた筈。慌てて地図を確かめてみた。
北海道が本土と同じ赤く染まっている。ここは・・・確かに「元」の世界じゃない。
どういうこと?
ぱたりと本を閉じると私は居間に駆け降りた。居間からはクラッシック音楽が聞こえてくる。ドビュッシーの弦楽四重奏曲。父のお気に入りの曲だ。その時間が父が唯一居間を独占している時間である事も「もとの世界」と変わりはなかった。
「うん、どうした?」
父は手にした紅茶茶碗を下に置くと訝しげに私を見た。
「ねえ、終戦記念日っていつ?」
「何を言っているんだ。八月十五日だろう?」
「じゃあ・・・。どうして日本は降伏したの?」
「なんだ?知らないのか。広島と長崎に原爆が落ちて、天皇陛下が終戦をお決めになられたのだよ」
「ソ連って北海道に侵攻しなかったんだっけ?」
「うん?」
父はますます訝しげな眼で私を見た。
「まあそうした計画はあったようだけど。いったいどうしたんだ?」
私は無言で首を振った。
この世界には・・・明らかに「元の世界」と違う歴史が刻まれている。
「ねぇ、お父さん」
「うん、何だ?」
父は眼鏡を取ると拭きながら私の質問を待った。
「覚えてる?小学生の時、お母さんが私の部屋を掃除している時にカブトムシの幼虫見つけてさ、大騒ぎした事」
「ああ、覚えてるさ。後でDIYの駐車場で作業したんだよなあ」
懐かしそうに父は言うと眼鏡を掛け直した。
「なんだ、急にそんな事を言いだして?」
「ううん、何でもない。おやすみなさい」
そう言うと私は自分の寝室に駆け戻った。心がざわついていた。
そして少なくとももう一人、私の知っている人がいない事に気付いたのは、御園先輩のいない部室でたわいもない会話をしていた時の事だった。
「ねぇ、ノンコ。ケペウスって解散するんでしょう?」
ミキが残念そうに尋ねた。
「どうやらそうらしいですよ。リーダーが事故で亡くなっちゃってからメンバーたちがうまくいかなかったみたいですよ」
「ノンコ、ケペウスのシンジのファンだったじゃないの?」
「そんなの、昔の事ですよ」
ケペウス?
会話に加われない私に
「空音は好きじゃないものね、ケペウス」
「ケペウス・・・ね」
知らないという事が口調に出てしまったのだろう。え、という眼でミキとノンコダッシュ(と密かに名づけてみた。教頭先生は教頭先生ダッシュだ)は私を同時に見た。
「ケペウス覚えてないの?」
「どっかで聞いた事あるんだけど」
「うそ・・・国民的アイドルを知らないなんて、あんた」
「私はセカンドチョイスのヒロくん押しだから」
そう答えるとミキとノンコダッシュが目を見合わせた。
「なによ、セカンドチョイスって?」
とミキ。
「マイナーですか?」
これはノンコダッシュ。やっぱり・・・。色々なことが違っているんだ。
「空音、ちょっと時々ヘンだよぉ」
「そうですよ。ミキから聞いたけど、プリンセス、一瞬私の事忘れていたんでしょう?」
ヒドイっ、と言ってノンコダッシュは切なそうな表情をした。その顔が私の書道を見た時のききょうのがっかりした表情にそっくりで、私はどきりとした。
「そんなことないよ、ミキ。余計なこと言わないっ」
ノンコダッシュは他の部員、御園先輩とミキだけだけれど、と一緒にいる時や二人きりの時は私のことをプリンセスと呼ぶ。すごく違和感があったのだけど、御園先輩やミキの表情を見ていると、さも当然という顔をしていたので、きっと「この世界」では、そうだったんだろう。うん、背中がぞわりとするほどの違和感だけど、しばらくはほっておくしかない。
「プリンセス、ネットで調べてみましょうか?セカンドチョイスのこと・・・?」
ノンコダッシュはポケットからスマホと呼ばれている機械を取り出した。スマホ・・・この時代の必携の機械らしい。それとパソコン。知っているふりして学ばなければならないものがたくさんある・・・。
「ん?いいよ。それよりノンコ、ごめんね。ほんとに忘れていたわけじゃないから」
ノンコの肩に手を当ててお詫びする。忘れていたわけじゃないのは本当の事だ。だって、あなたはあの時代、私のことをずっと面倒見てくれていたんだもの。その真情が伝わったのかノンコは顔を上げて笑うと、
「いいんですよ。これからは忘れないで下さいねっ。ところでミキさん、ケペウスの名前の由来って知っています?伝説のカシオペアの旦那さんで王様だったんですって。カシオペアのファンだったリーダーが決めたらしいんですけど安易ですよね」
王様?ケペウス・・・。
ケフェウス。思わず席を蹴るように立ち上がった私を今度は何?って言う眼でミキとノンコダッシュは見詰めた。ケフェウス。晴明が話してくれたあの不思議な話に出てきた王様。そして、星座の名前・・・。確かに何かが繋がっている。
どこに落とし穴があるのか分からない。その日の帰りノンコダッシュと一緒に帰る途中、正解のない間違え探しをしているように、不安にかられてきょろきょろあたりを見回している私に向かってノンコダッシュが
「どうしたんですか?プリンセス。なんか探しものですか?」
と尋ねてきた。
「なんでもない」
首を振る。
「ねぇ、ノンコ。これから行ってみたい所があるんだけど」
「え、どこですか?」
「河原町」
「いいですよ、喜んで」
バスを乗り継いで河原町で降りると私は人通りの多い先斗町を避けて一つ先の道を回って、晴明と初めて出会ったバーへ急いだ。
「あった、ここ」
「へ?」
言いながらノンコダッシュはBar Polarisという小さな看板を指さした。
「ここですか?」
「そっか、この店ポラリスっていう名前だったんだ」
ケフェウス、ポラリス・・・。星の名前が私と晴明の繋がりを暗示していた。
「プリンセス・・・もしかしてお酒を?」
Barと言う文字を指したままノンコダッシュが不安そうに私を見つめた。
「ううん。ここ、ご飯も食べれるの。前に家族と来た事があるんだ」
「ああ、そうなんですか。良かった。もしかしたらプリンセス、大人になっちゃったのかもって・・・」
「大人って?」
「その・・・バーとかでお酒をのんだりして」
「そんなわけないでしょう?それじゃ、不良じゃない。昆虫生物部と不良ってあり得ない組み合わせでしょうに」
私が指でつつくとノンコダッシュは顔を真っ赤にした。なんだか、かわいい。そうだ、スマホもパソコンもノンコダッシュにこっそりと教えて貰うことにしよう。彼女ならきっと人にばらさないだろう。
「開いているかなあ?」
私が呟くと、
「あ、私やります」
そう言ってノンコダッシュはドアのノブをガチャガチャと回した。
「閉まっていますね」
ノンコダッシュは残念そうに私を見た。
「まだ昼だもんね」
ドアに掛かっている準備中と書かれた札を見詰めているノンコダッシュに、
「ごめん、帰ろう。また来るわ」
そう言った時、急にドアが内側から開いた。あっ、と叫んで飛びのいた私たちにむこうもびっくりしたのだろう、マスターが目を見開いて私たちを見ている。そして私の事を覚えていたのか
「ああ」
と表情を崩した。
「こんにちわ」
と挨拶すると、
「やあ、どうしたんだい?」
とマスターは柔らかな声で尋ねた。
「あのぉ、安倍さん・・・いますか?」
「安倍くん?」
マスターが微妙な表情をした。
「安倍くんって誰だい?」
なんて尋ねられたらどうしよう。この世界に晴明がいるのかどうかさえ私には分からなかったのだ。いや、常識的に考えれば私と会う必要がない筈の晴明がこの世界に存在すること自体、有り得ない事のような気がした。
「安倍くんねぇ。今は来ていないんだ」
私の不安をよそにマスターは呟いた。
「御両親の具合が悪いらしくてね。故郷へ暫く戻るって言っていたんだけど、その後、どういうわけか連絡がつかなくなっちゃっていてね」
「そうなんですか?安倍さんの故郷ってどこなんですか」
「詳しくは知らないけど、大阪だよ」
「じゃあ、戻ってきたら伝えて頂けますか。一度お会いしたいって私が言っていたって」
「いいよ」
「私、宇部って言います。宇部空音」
「分かった。空音ちゃんね。伝えておくよ」
「ええと・・・。その時は電話を」
自分の家の電話番号を言おうとした私に、
「電話番号は080xxxxxxxです」
と横にいたノンコダッシュが教えてくれた。家の電話番号を言おうとしていた私は、うん、と言ってその番号をメモにしてマスターに手渡した。電話がかかって来る前に、そのスマホとやらの使い方を学んでおかなくっちゃ。
「ねぇ、プリンセス、安倍さんってどういう人なんですか」
河原町の駅へ向かいながら通行人や観光客を巧みにかわしつつノンコダッシュが私に尋ねてきた。
「あそこで働いている人」
「・・・彼氏なんですか?」
「違うよ」
私は速攻で否定した。
「・・・ですか」
ノンコダッシュは私の言葉を信じていないように俯いた
「ほんとうだって。なんであんなやつ」
私は口を尖らした。私をあんなひどい目に遭わせた人が彼氏だなんて・・・とんでもない。
「じゃあ、どうしてわざわざ・・・」
ノンコダッシュは立ち止まって私を見た。
「それは・・・・」
答えあぐねている私に
「なんだかあの時以来、プリンセスちょっと変わったみたいですよね」
と呟いた。私も立ち止まると、
「わたし、やっぱり変?」
尋ねた私の全身を上から下まで眺めると、
「・・・」
ノンコダッシュは何も言わなかったけど明らかにそう思っている様子だった。
「ううむ」
私は唸った。
「ノンコ、ねぇ」
「はい」
「お医者さんは何でもないって言っているけど、でも実は私もそう思っているんだ。あれ以来私自分でもちょっと変だなぁって」
「え?」
ノンコダッシュは顔を曇らせた。
「なんだかね、いろんなことがうまくできないっていうか、忘れちゃったりしてさ。大切なことも。ノンコの事まで一瞬思い出せなかったし。なんか大切なことほど記憶が曖昧なの」
「そうなんですか?」
ノンコダッシュは大切と言う言葉に反応してくれた。
「だからさ、ノンコ、私を助けてくれない?」
「え・・・私でいいんですか?」
ノンコダッシュは目を輝かせた。
「こんなこと頼めるの、ノンコしかいないんだよ」
そう精一杯元気なさそうに言った私に、
「もちろんです。プリンセス」
とノンコダッシュは元気に請け合ってくれた。
「よかったぁ」
そう言った私をノンコダッシュはちょっと躊躇ってから、静かに手を取った。
「ありがとうね、ノンコ」
「どういたしまして、プリンセス」
「それとね、ノンコ」
「何ですか?」
「その・・・プリンセスていう呼び方、なんとかならないかなぁ。空音って呼んでくれていいよ」
「わかりました、プリンセス空音さん」
あ・・・。違うって。でも、まあ私もノンコダッシュって思っているんだもの仕方ないか。ごめんね。これからはノンコって呼ぶことにするよ。前のノンコと区別をつける時だけ、そっと心の中で「ダッシュ」って思う事にするから。
ノンコダッシュ・・・もとい、ノンコはそんな私の心の中を知っているのか分かっていないのか、
「で、プリンセス空音さんにとって安倍さんって彼氏なんですか?」
なんかやっばりききょうと同じような聞き方をする、この子。
「だからぁ・・・違うって。でもどうしても会わなきゃならない人なの、それとプリンセス空音じゃなくて空音さんでいいから。空音でもいい」
「空音さん・・・」
「うん、取り敢えずそこから始めよう」
「わかりました。空音さんにとってその御方は大切な人なんですね」
そう呟くとノンコは大人びた表情をした。御方じゃないけどね。トラブルメーカーなんだけど。
「じゃあ、その人、プリンセス空音のオムファタルなんですね」
ノンコは私の微妙な表情を無視して断定した。
「何それ?」
「運命の男っていう意味です」
は?運命の男・・・それはそうかもしれないけど・・・。
「運命の人と結ばれる、なんて素敵な」
そう言って私の動揺する心を探るように覗き込んだノンコに懸命に首を横に振って見せた私だった。
「時々寄ってみて下さい。お茶くらいはご馳走するから」
ノンコと行った時最後に言ったマスターの言葉に甘えてそれから二度ほど夕方人目につかないようにこっそりとバーに寄ってみたのだけど安倍さんは帰ってきていなかった。
日に日に暑くなって期末試験が近づいていた。
「彼の携帯にときどき電話しているんだけど、いつも圏外でさ」
二度目に訪れた時、自分のせいでもないのに申し訳なさそうにそう言ったマスターに
「大丈夫です」
と私は答えた。安倍さんが帰ってこないのはマスターのせいじゃない。それにその圏外とは・・・、もしかしたら時間の圏外なのかもしれない。
あのあと晴明はどうしたんだろう?本物の晴明を元に戻したり、持っていったものを戻したり色々と仕事がある筈だから、と・・・私は思うことにした。でも晴明ならば、もし望むなら時間に関係なくこの時代に戻れるはずだ。あの一本榎の下で倒れていた姿が最後に私が見た晴明・・・もしかしたら?
「毎回来てもらうのも悪いし、携帯のメールアドレス教えてくれたら連絡するよ。ここに毎回来るのもなんだか大変そうだし」
試験が近い事もあってマスターの好意に甘える事にして私は勉強に没頭することにした。スマホやPCの使い方はノンコに教えてもらった。最初のうちは言葉には出さないけど、そんなところからですか?と言う表情をしていたけど、私のマスターは少なくとも平安時代での習字よりは遥かに早かった。
試験の前と言う事もあって部活はしばらく休みになったけど蝶の世話は御園先輩がしてくれている。御園先輩は試験勉強なんかしなくたって全然へっちゃらなのだ。そんなところが、めちゃくちゃかっこいい。ノンコ「ダッシュ」も勉強が得意みたいでそこもあのノンコとはちょっと違っている。
そういう私自身も試験前となればせっせと勉強に励まなければいけないグループに属している。その上、教科書とか微妙に違っていて戸惑っていた。
今度の試験に限っていえば生物と数学は問題なし、英語はまあまあ、地理はヤマを外して散々だった。地理って私の時代と違っているんだもん、仕方ないじゃない?と言うのは言い訳に過ぎない。
ミキは逆で国語と地理は完勝だけど数学が「関ヶ原以来の大敗」だったんだそうだ。
ノンコも加わり、
「どんなんですか、関ヶ原の敗戦以来の大敗って?」
「そもそもあんたは三成か?」
と突っ込みながら三人一緒に部室のドアを開けると、御園先輩が
「ちょっと、ちょっと。見て頂戴」
と珍しく慌てた様子で手招きをしてきた。
「何ですか?」
駆け寄った私たちに御園先輩は水槽に貼ったネットのあちこちに掛かっている蛹を指して
「ほら、見て。蛹が透けて来たの。たぶん、今晩羽化するわ。でもなんだろう?この蛹。見たことがない」
「じゃあ、今夜は泊りで観察しますか。秋の研究発表にも使えるし」
「それいいね。試験も終わったことだし」
「となると、先生の許可をとってこなければなりませんね」
ノンコがぱっと駆けだす。
「良く気の付く子ね」
御園先輩が感心したようにノンコの姿を眼で追った。
「次期部長はノンコで決まりだよね」
私がそう言うと、
「だよねぇ、少なくとも私じゃない」
とミキが同調する。私たちは一旦家に帰り8時に正門で待ち合わせすることに決めた。
「どんな蝶が産まれるのかしらね」
ミキが帰り道、弾んだ声で尋ねた。
「新種だったりして」
「あまーい」
私は人差し指を立ててチチチと唇を鳴らした。
「蝶なんて新種は絶対と言っていい程みつからないの。それこそ南米の秘境とかアジアの麻薬地帯とかにでも行かなきゃ。それでも天文学的に難しいのよ」
「じゃあ、あの蝶は?」
ノンコが尋ねる。御園先輩が言っていたように今まで見たどの蛹とも違っているのは事実だった。
「外来種かもしれない」
台湾や中国から風に乗って迷い込む蝶、迷蝶というのだけど、たまにいるのだ。だけどめったに繁殖することはない。迷蝶たちがペアで出会う事は奇跡に近いし、蝶の食草はかなり限定的だ。でも可能性がないわけじゃない。むしろ新種の蝶だと考えるより遥かに可能性は高いのだ。
「えーっ」
ミキが残念そうな声を上げる。
「日本人だって思って応援していたイケメンタレントが外国人だったって事?」
「そのたとえ、微妙だね」
ぷっくら膨らんでいるミキの頬を指でつつくと、プファっと間抜けな音がした。私たちは大笑いしてからそれぞれの家路へと急いだ。
8時ちょうどに学校の門に行くと、御園先輩とノンコが門の前でノンコが研究しているミツバチの話をしていた。
「で、今度グループで瀬戸内海の島を一つ買って、そこでニホンミツバチを飼う事に決めたんですよ。農薬は一切使わずにセイヨウミツバチも入れずに。その島にはセイヨウミツバチがいないことは確認してあるんです」
「セイヨウミツバチってどのくらいの飛行距離があるんだっけ」
御園先輩が尋ねる
「二キロですね。そこは周囲から四キロ離れている島なんです。花も在来種を守ってセイタカアワダチソウなんかを刈り取れば美味しい蜜ができるから蜜を取れれば財源になるって。そうやって広げて行こうって、結構真剣なんです」
ノンコ「ダッシュ」はノンコと違って本当に虫の事を好きみたいだ。ミキはまだ来ていなかった。三人でミツバチの話をしながら待っているとミキが走って現れた。時計を見る。
「五分遅刻」
私が言うと、
「えっ、そんなに厳密なんすか?」
ミキがおどける。
「夜の待ち合わせは厳密にしないとね。か弱い女の子だもん。何が起こるか分からない」
「いやあ・・・」
ミキはじろじろと私たち三人を眺めた。
「いやあって何よ、私たちがか弱くないっていってんの?」
私が口を尖らすと、
「ちゃいますがな。三人もいるんだから大丈夫でしょうっていう意味」
言い争っていると御園先輩が
「まあ、走って来たから許してあげましょ」
笑いながら引き分け、私たちは部室に向かった。蛹はまだ羽化を始めていなかった。
「途中でコンビニで買ってきた。長丁場になると思って。それでちょっと遅れちゃったんだ」
といいながらミキがバックからポテトチップスや飲み物を出してきたので喜んで許してあげる気になった。
「長丁場っていう言葉、使っている人初めて見た。さすが小説家志望だね」
そうからかうと、御園先輩とノンコが笑いだし、ミキは憮然とした。小説家志望の癖に、そう言われるとなんだかからかわれているように思うらしい。
水槽の周りは薄暗くしたまま三人でじっと蛹を見ていたけどそのうちに飽きはじめたのかミキが、
「ねぇ、怪談話をしよっか」
と言いだした。
「やだよ。恐いじゃん」
私は反対する。恐い物なんかもうこりごりだ。っていうか、あれは怪談どころじゃなかった。現実に怖い思いをしたんだから怪談なんて懲り懲り。でもノンコが
「面白そうじゃないですか」
とミキに賛成した。
「いや、学校の中だよ。マジにやばいよ。お化けとか幽霊のメッカじゃん」
そんな事を言い合っているうちに御園先輩が
「あっ」
と声を上げた。私たちは一斉に水槽の方を見た。一番近くの蛹の背が割れ、白い翅が顔を覗かせている。他の蛹も次々に羽化して行く。ノンコがカメラを取り出してぱちぱちと写真を撮って行った。十分ほどするとすべての蛹が羽化を終えていた。触覚の形や全体のバランスを見る限り間違えなく蝶、たぶんタテハチョウの仲間だ。榎を食草にしている以上思いつくのはヒオドシチョウ・・・。
生まれたての蝶は薄く緑がかった白、とても綺麗だ。自分の体が固まるのを待って静かに佇んでいる。ノンコは数分ごとにシャッターを切って次第に色が付いてくる様子を撮っていた。やがて濡れたような翅に紋がついてくる。じっと眺めていた御園先輩がいきなり私の背中を軽く叩いた。
「空音ちゃん」
御園先輩の声は上ずっていた。
「ほら、これ。この紋様を見てよ」
「え?」
蝶の翅はかなりギザギザとしていてヒオドシチョウに近い大きさと形だった。上翅もヒオドシチョウやシータテハに特有の石畳のような模様に変わっていっている。だが下翅には薄い茶色の中にぼんやりと星のような形が浮き上がってきたのだ。
「なんでしょうね」
「見た事ないわね」
「少なくてもヒオドシチョウじゃないみたいですね」
興奮を抑えきれず高い声で話し始めた私たち二人の横でノンコはシャッターをますます速く切り始めた。一人蚊帳の外に置かれた形になったミキが唇を尖らせて、
「誰かぁ。説明してくれませんか?」
とぶーたれている。孵った頭数は十頭、そのすべてに五角形の紋様が浮き出ていた。
「ミキ、大発見かも知れないよ。あんたが言っていた通り新種かもしれない」
「まじっすか」
ぴょこんとミキが椅子から飛び上がった。
家に帰る事など思いつかないほど私たちは興奮していた。でも学校に泊まるわけにはいかないので朝一番に学校で集合することを誓ってそれぞれ家に帰った。よく眠れないまま今までなかったほど朝早く家を出て学校に行くとミキも含めて全員が集まっていた。
教頭先生が登校するのを待って、「ちょっとこの時間は忙しいんですけどね」と渋る教頭先生を無理やり部室に引っ張って来た。蝶たちは網を張った水槽の中を軽やかに飛び回っている。
「なかなか綺麗ですね」
のんびり言いながら眼鏡を掛け直した教頭先生に御園先輩が
「見てください。翅の裏側に星のような形があるでしょう」
「ええ、あ、はい。そうですね」
「こんな模様を持った蝶って聞いた事がないんです」
「ほう」
教頭先生は御園先輩と蝶とを交互に眺めた。そして御園先輩の言葉をどう解釈すべきか考えあぐねた様に鼻を撫でると
「では新種と言う事ですか?」
と尋ねてきた。
「そうかも知れません。でも私たちだけでは判断できないんです」
御園先輩が答えた。さすが、部長。お任せします、という表情で他の三人は見守っていた。
「他にはどんな事が考えられますか?」
教頭先生は端的に尋ねてきた。きっと・・・頭が切れるタイプ。
「迷蝶とか誰か外国から持ち込んだとか」
「外国にはいる蝶なんですか?」
「見た事はありません。でも確信は持てません」
「では専門家に聞いてみないとだめですね」
教頭先生を期待するような八つの眼が見上げている。察しが良い所が教頭先生の素晴らしいところだった。
「蝶の学会の方を一人知っています。その方に相談してみましょう」
教頭室へ戻って行った先生から
「今日、学会の人が一人尋ねて来るから待っていなさい」
そう御園先輩に連絡があったのは授業が始まる直前の事だったそうだ。授業なんて全然身に入らなかった。試験の終わったすぐ後の授業なんて、先生の方だってどうせ気合が入っていない。いわんや生徒においておや。
お昼休み、ミキと一緒にお弁当を広げて話しているとノンコもやってきてランチに加わった。いつも冷静なノンコも
「もしかしたら私の写真、スクープになるかも」
と瞳をキラキラさせている。ちょうど食べ終わるころ、突然チャイムが鳴って
「昆虫生物部の御園部長と部員は教頭室まで来てください」
とアナウンスがあった。御園先輩を除いた三人とも勢いよく席を立ったので結構な音が響いて、教室に残っていた生徒が私たちを振り向いた。パンを喉に詰まらせたミキの背中をノンコがポンポンと叩き、なぜか三人とも俯き気味に教室から駆けだしたのだった。
教頭室には髪がぼさぼさの男の人が教頭先生と話をしていた。御園先輩はまだ来ていなかった。三人が若い男性の存在にもじもじとしたまま指で突っつき合っていると御園先輩がさすがに落ち着いた感じで教頭室に入ってきた。一通り私たちから自己紹介をすると男の人は
「京都文化大学の菊池と言います。学会から連絡があって見て来いと言われたから来たんだけど」
そう言うとちらりと教頭先生を見て、
「蝶の新種を日本で見つけるなんて奇跡以外の何物でもないんです。だから期待しないでください。申し訳ないけど何かの間違えかと」
「はい、知っています」
御園先輩が落ち着いた口調で答えた。
「後翅に星のような模様があるって本当?」
疑わしげに尋ねた菊池さんにノンコがすかさず手持ってきたカメラを渡した。
「ふうむ」
菊池さんはファインダーの中の画面を二枚三枚と捲ると蝶の模様がはっきりと写っている一枚をじっと見て小首を傾げ、
「じゃあ実物を見せてください」
と声を掠れさせた。部室へ向かう途中、校舎で滅多に見ない若い男性に生徒たちが振り向き、ひそひそと話しているのが見える。
「食草は何?」
「榎です。卵がついていたし葉を与えると食べましたから」
御園先輩が答えると菊池さんはちょっと首を傾げ
「榎?じゃあ、ヒオドシチョウの変異かなぁ」
と呟く。やっぱりあんな模様を持つ蝶を見た事はないんだ。だんだんと早足になる菊池さんの後を転びそうになりながら私たちは付いていく。御園先輩が鍵をあけると菊池さんは部室に駆けこんだ。
「どこ?」
「その水槽の中です」
水槽の窓にべったりと顔を押し付け菊池さんは覗き込む。私たちはその姿に思わず顔を見合わせてクスリと笑ってしまった。でも私たちを振り向いた菊池さんの眼は鋭く、私たちも笑いをひっこめた。
「たぶん新種だ。ヒオドシチョウならある筈の前翅頂の白紋もない。この京都で・・・。信じられない」
わっ、と私たちは歓声を上げた。
二頭だけ持って帰り調査したいと言う菊池さんの提案を御園先輩が
「良いよね」
と私たちに確かめ、みんなが頷くと菊池さんは三角紙をバッグから取り出し器用に二頭の蝶を捕まえて、
「たぶん、こっちがオスでこっちがメス」
と説明し、乗って来た古い自転車を
「後で取りに来るから」
と放りっぱなしにしてままタクシーを呼んでもらって帰って行った。その興奮は校長先生や教頭先生にも伝わったらしく、
「何だかみなさん、大変な発見をしたらしいですね」
と校長先生が顔を赤くして一人一人の肩を叩いた。
でもそれは序の口だった。菊池さんが学会や大学の先生を連れて会いに来て、蝶を捕まえた場所に案内させられたりして五日が過ぎ、そろそろ夏休みに入る或る日の昼下がり、突然マスコミが大挙して私たちの学校に押し寄せたのだった。その日の朝、校長先生から
「午前中に発表するようですよ。マスコミの人たちが来るかもしれないから、みなさんも丁寧に答えて下さいね」
と、いささかのんびりとした注意を受けていたのだけど、殺到してきたマスコミの人たちに最初に圧倒されたのは校長先生自身だった。目をまん丸にして
「みなさん、落ち着いて下さい、落ち着いて・・・」
といいながら眼の前の茶碗をひっくり返していた所に私たちも呼ばれたのだった。次々に焚かれるフラッシュの光に御園先輩を除いた私たちは完全に舞い上がってしまった。
「蝶はまだこの学校にいるんですか?」
全国紙の腕章をつけた記者が私たちに尋ね顔を見合わせた私たちに
「蝶の写真を撮らせてください」
と週刊誌の記者がおっかぶせるように叫んだ。その時、御園先輩は
「お話はわかりますが、蝶はとてもか弱いものです。みんなでフラッシュなんかを焚いたら死んでしまうかもしれません。写真は撮ったものがありますからファイルでお送りします。それに蝶は大学に預ける事にしました。後日一社毎に撮影をしていただけるように頼んでありますから」
ときっぱりと断ったのだった。新発見の蝶が自分たちのせいで死んでしまったらどんな非難を受けるか分からない。そう考えたのだろう、冷静な回答に記者達は途端に静かになった。その午後は授業どころではなく、立て続けに受けたインタビューで私たちはへとへとになっていた。
「びっくりだね」
そう言ったミキに
「
撮った写真が使われるかもと初めの内ははしゃいでいたノンコがぐったりとした様子で賛成した。
「でも、これは凄いことなのよ」
と御園先輩が力づけるように言った。
「学会の人から連絡があって蝶の名前を決めて欲しいって。それと共同論文にして発表しするんで名前を出して良いかって」
「私たちの名前をですか?」
御園先輩は頷いた。
「学名はきちんと調査をしたうえで決めるらしいけど、和名は発見者であるあなたたちに付けて欲しいそうよ。夏休みの宿題って言いたいところだけど、なるべく早くつけて欲しいみたい。もうすぐ夏休みだから、一週間後にまたここで会うことにして、その時までに考えておいてちょうだいね」
「先輩、つけて下さいよぉ」
私が頼むと御園先輩は三人の顔をじっと見詰めて
「でもね、あなたたちが見つけたのだから、あなたたちがつけなきゃ。あなたたちはあの子たちの親みたいなものよ」
そう言うと優しく私たちの肩を叩いたのだった。
夏だと言うのにもう暗くなってしまった道をとぼとぼと家に帰ったら母親が大騒ぎしていた。
「どうして教えてくれなかったの。買い物帰りに会った御隣さんが空音ちゃんがテレビに出ているって教えてくれて慌ててテレビをつけたのよ。七時のニュースの分しか録画できなかったわ」
と私を責めた。私は
「それどころじゃなかったのよ。それに今日発表があるって教えたじゃない」
と言い返して鞄をソファに抛ると鞄の隣にどすんと腰を下した。
「でもテレビに出るなんて言ってなかったわ」
「私たちだって聞いてなかったんだよ」
言い合っていると父親が二階から降りてきた。
「大変だったね。でもなかなか立派な受け答えをしていたぞ。おめでとう」
と父が言うと、母も
「まあ、虫なんて追いかけてばっかりでどうなる事かと思っていたけど」
とさっきまでの文句はどこへやら、テレビを視るのに忙しかったから、と鮨の特上を頼んだのだった。「特上」・・・頬が緩んだ。
その日から入れ代わり立ち代わり取材クルーがやって来て結局終業式の日まで私たちには休む暇がなかった。スケジュール調整のために事務の人が一人専属で対応してくれたのだけど
「こんなに忙しかったことはない」
と泣き言を零していた。
取材に慣れてくるに従って御園先輩は前に出てくることを止め私たちに受け答えを任せるようになっていった。カメラ映りが良い御園先輩を真ん中に写真を撮りたがる失礼なカメラマンたちもいるにはいたけど・・・。
「発見したのはこの三人ですから・・・」
とニコニコとしながら御園先輩は断り、どうしてもと言う時は一歩下がって写るようにしていた。終業式で校長先生から紹介され壇上でみんなから拍手を受けた時も先輩は一歩下がり拍手される側じゃなくて真っ先に拍手をしてくれる側に回っていた。
終業式を境にマスメディアの取材は少し減ったかわりに、逆に昆虫の専門誌とか、新聞でも学芸欄の取材が増えた。それでも最初の嵐のような取材攻勢に比べてだいぶ落ち着いてきたし、何より専門誌の取材班は私たちよりずっと知識があって、いろいろな事を教えてくれた。蝶の新種が日本で最後に発見されたのは七十年前だと言う事もその時初めて知った。
夏休み中もインタビューは続くことになり学校の施設を使わせて貰える事になった。文句を言っていた事務員さんが
「悪いね。あとは自分たちでお願いね」
と言って渡してくれたリストにはスケジュールが毎日のように細かく指定されていて、ミキは
「夏休みを返してくれぇ」
と呻いた。
その日、取材を受けた後そのまま私たち三人は部室に集まった。蝶たちは大学の研究室に引き取られ、部室はがらんとしていた。
「どうします、名前?」
ノンコがミキと私を交互に見て口火を切った。
「一応、みんなで案を考えてくることにしましたよね。ミキさん、何か?」
「空音が木から落こった時に見つけたからコケタテハってどう?」
と言って私を見たからじろっと睨んでやるとミキは、
「まあ、さ、私は空音の意見を尊重するよ。何て言ったって空音が本物の発見者だし」
と体の前で右手と左手の人差し指を合わせてくるくると回した。
「あの蝶の模様って五芒星みたいですよね」
ノンコダッシュの言葉にはっとする。確かにあの模様は晴明紋に似ている。ぞわりと背中の毛が逆立った。
「京都だし、五芒星だったら晴明の名前を付けるといいんじゃないかと思ったんですけど、セイメイタテハとかハルアキタテハとか何となくしっくりこないんですよね。五芒星だからゴボウタテハとかペンタタテハってのも考えたんですけどもっと変だし・・・空音さんは何か良い案有りました?」
と尋ねてきた。感じたばかりの慄きを心の中で落ち着けると
「そうねぇ。こんなのどう?」
そう私は二人に切り出したのだった。
御園先輩の家は学校から電車で二つ目の駅にあった。三人が予告なしに訪れたので御園先輩はちょっとびっくりしたような顔をして、
「今、誰もいないのよ。お構いもできないわ」
と言いながらも三人を家に上げると冷たい麦茶を出してくれた。麦茶を飲んで一息つくと私が
「蝶の名前を決めました」
と切り出した。
「うん」
「ミソノタテハにします」
「えっ?」
御園先輩は驚いたように私たち三人の顔を見詰めた。
「先輩の名前を付けたと思ったでしょう?」
ミキが悪戯っぽく言うと鞄から鉛筆とノートを取り出して私たちの名前を書いていく。
「ミキ、ソラネ、それにノリコでしょう?その一番上の字をを繋げると?」
「あ・・・ミソノ」
「ちゃんと私たちの名前も入っているんですよ」
御園先輩は息を止めて私たちをじっと見つめた。目尻からきらりと涙が零れ落ちた。
「あなたたち・・・」
そう言って顔を覆った御園先輩と私たち三人は抱きあったのだった。うん、美しい友情・・・、そして先輩と後輩の麗しい愛。
蝶の新発見に伴うドタバタですっかり忘れていたけど、ノンちゃん(ノンコやノンコダッシュの代りに私は彼女の事をさり気なくノンちゃんと呼ぶことにした)のおかげで晴明の事を思い出した私はその日の夕方、もう一度あのバーを訪ねた。
「ああ、空音さん」
マスターは私を見ると朗らかな声で手を振った。
「テレビ、見ましたよ。大発見じゃないですか」
「そんな・・・単なる偶然です」
そう答えた私にマスターは大袈裟に首を振ると
「とにかくお祝いを・・・一杯驕らせてください」
「え、でもわたし未成年だし」
「ノンアルコールのカクテルで美味しいのがあるんですよ」
そそくさと冷房をつけ、カウンターに入るとマスターは手早く冷蔵庫から瓶やら果物やらを取り出している。
「座っていて下さいね」
マスターに言われてよっこらしょと少し高い席に腰かける。それだけでなんだかとっても大人になったような気分になる。
「はい、どうぞ」
マスターが目の前に置いてくれたイエローグリーンの液体の中に紅紫の小さな果実が浮いていた。
「これ・・・ヤマモモ?」
マスターがへぇ、と驚いた顔になった
「良く知っていますね。今時若い人なんか見向きもしないと思っていたけど」
「・・・毎日生で食べていたことがあるの」
「そうなんですか?珍しいですね。まあ、生で食べてもいいんですけどシロップ漬けにするともっとおいしんですよ。長持ちしますしね。家の近所の山のを取って来て漬けているんです」
良く冷えた液体をストローで喉に流し込む。すっきりとした味わいでとても美味しい。スプーンで掬ったヤマモモのシロップ漬けはとても懐かしく、でも記憶より遥かに美味しかった。
「とってもおいしいです」
「アモーレ デ ミルアニョスて名付けたんですよ。日本語で言うと千年の恋っていう意味です」
千年の恋・・・ふと目の前に浮かんできた姿は右馬の介様ではなくて、ジーンズ姿の安倍さんだった。きっと待ち続けているせいだろう、そう思って私はその姿を頭の中から振り払うように強く二度首を振る。
「どうしたんです?」
不思議そうな顔で、マスターが尋ねてくる。
「何でもないです。マスター、素敵でした。ありがとう」
マスターは目を細めて笑った。
夏休みも半ばを過ぎ、蝶をめぐる騒ぎもひと段落したせいでだいぶあたりも落ち着いてきた。大学からは成蝶たちが無事に卵を産み、どうやら春型と夏型のある蝶らしいと御園先輩に連絡が届いたそうだ。あの時大学からやって来た菊池さんはちゃっかり御園先輩の電話番号を入手して、けっこう頻繁に連絡して来るらしい。DNAのデータでも他の蝶とはっきりと区別され、和名は正式にミソノタテハと決まったそうだ。
御園先輩は菊池さんが頻りにその名を呼ぶのでちょっと恥ずかしくなっちゃう、と零したけれど菊池さんは麗しの御園先輩の名を何の衒いもなく呼べるのがよほど嬉しいのだろう。
京都ではミソノタテハを探してあちこちの山へ昆虫網を持ってでかける人が増え、府では絶滅危惧種への指定を急いでいるらしい。でも、新たに見つかったと言う話は一つも入って来なかった。
京都駅近くの喫茶店のドアからガラス越しに御園先輩の姿が見えた。白いジャケットと長めの紺のスカート。細身の体にとっても良く似合っていて素敵だった。美人は何を着てもよく似合う。小さく手を振った私の前の席に座ると御園先輩はアイスオレを頼んだ。
「どうしたの?そんな思い詰めた顔をして」
安倍さんがもし帰って来ていたら・・・少なくとも返って来る確信があったなら、私は御園先輩に相談する事はしなかっただろう。でもあの体験を誰かに聞いて貰いそして信じて欲しいと言う気持ちがどんどん私の中で膨れ上がってきていた。もう一つ、あの蝶たちがどうして見つかったかという理由も私なりに見つけたのだった。
といって話す相手は誰でもいいというわけではない。私が考えたのは父と御園先輩のどちらかだった。でも、父と話せば母にも話さないわけにはいかなくなる。母はますます私の事を心配するだろう。さんざん考えて御園先輩に話そうと決めたのは夏休みがもう終わりに近づいた頃だった。
「なるほどねぇ」
うんうん、と頷きながら私の話を最後まで聞いてくれた御園先輩は胸の底からのため息をつくとそう言った。
「だから、あのミソノタテハは一度、種としては絶えてしまったんだと思います。そして私が時代を越えてこの世界にやって来た時、たまたま掴んでいた木の葉っぱについていた卵を持ってきたんだと思うんです」
私は敢えて戻ってきた、という言葉を使わなかった。
「そうねえ。そうだとしたら新種の蝶がこんな街中で発見されるという事に説明がうまくつくでしょうけれど・・・」
御園先輩はくしゃっと自分の髪を掴んだ。
「でも、もっと大掛りな謎が産まれてしまうのよね。あなたが時空を超えたって言う、そしてこの世界と違う世界が存在すると言う・・・」
「そうですよね」
私は頷く。そんな説明をしたら間違えなく世間から「舞い上がっておかしくなっちゃった子」と思われるだろう。
「私はあなたの言う事を信じるわ。宇部さんは急に大人びたように思えるし、あなたがありもしない事をでっちあげるような人じゃないと知っているから。でもそんな事を言ったらあなた自身がとんでもないことに巻き込まれてしまいそうな気がする」
御園先輩はきっぱりとそう言ってくれた。
「はい」
「だから、私ができるアドバイスは貴女の心の中にその事はしまっておきなさいという事だけ。そしてその安倍さんって言う人ともう一度会える日を待つ事ね」
「でも、安倍さんにはいつまで待っても会えないかも知れない」
御園先輩は分かっているというように小さく頷いた。
「でも会えるかもしれない。いいえ、きっと会えるよ」
にっこりと笑って御園先輩は私の事をまっすぐ見た。
「はい」
「蝶の事は専門家に考えさせておけばいいのよ。あの人たちはそのためにいる。いずれもっともらしい結論を出してくれるわ」
「そうです、かね?」
「うん。私も一つ秘密を空音ちゃんに話すよ。ほら、あの菊池さんて言う人、覚えているでしょう?」
「ええ」
「あの人から告白されたの。付き合ってくれないかって」
「ええっ、告白されたんですかっ?」
思わず出してしまった私の大声に喫茶店の店員と客の視線が一斉に突き刺さってきた。
「ちょっと・・・」
御園先輩が顔を真っ赤にして俯く。ものすごくかわいい。それにしてもあの菊池さんが先輩に告白する度胸があるとは思っていなかった。
「どうするんですか?」
囁くように私は尋ねた。
「どうしよう。答えは待ってもらっているんだけど」
「菊池さん、凄いですね。先輩に目をつけるなんて。蝶以外でも観察力があったんだ」
「からかわないでよ。ところで、今のあなたの話、どこかで聞いた事のあるような話だと思っていたのだけど・・・」
そう言って御園先輩は表情を通常モードに戻した。
「虫愛ずる姫君、って知っている?堤中納言物語という物語集の中にあるの」
私は目を見開いた。
「そうなんですか?私、古典とか得意じゃなくて・・・」
「近くに図書館があるわ。一緒に行って調べてみましょうか」
新たな借り手を待ち続けて五年くらい書庫で眠っていたらしい本は埃っぽい匂いがした。対訳の方の最後のページを読み終わり私はほっと溜息をついて御園先輩を振り向いた。
登場人物の幾人かはそのままの名前だった。右馬の介様、太夫の君と手下たち。でも晴明やききょうの事は書かれていない。筋も微妙に違っているし・・・。それに私の描写、ちょっとひどくない?
「主人公・・・ひどい描かれようですよね」
「でも、褒めている所もあるじゃない、なかなか美しげなとか、清げに気高うとか」
「でも、むくつけき心とか書かれていますよ。眉黒とか」
「仕方ないでしょう。あの時代は眉を抜くのが一般的だったみたいだし」
御園先輩はそう言って慰めてくれた。
「でも・・・ひどい」
思わず二人で笑い出しちゃったけど、ここは図書館だと慌てて口を押える。話の終わりには続きがあるような書き方になっているのにそれらしい話はどこにも載っていない。
「堤中納言物語には続きは載っていないのよ。でも、そう言えば・・・」
図書館からの帰り道、御園先輩は何かを思い出したように私に囁いた。
「虫愛ずる姫君の続きの物語が京都のどこかの旧家の書庫から見つかったって聞いた事がある。ずいぶん昔の話らしいけど」
「読んでみたいです。でも、もっとひどい事書かれてたらやだな」
「ちょっと調べてみるわ」
「はい、お願いします」
「それにしても空音ちゃん」
そう言うと歩道に立ち止まって御園先輩は私をまじまじと見た。
「あなたがあの物語の主人公だったのね」
「眉黒で」
私が言うと御園先輩が
「むくつけき心・・・だったっけ」
私たちは歩道に立ち止まり思いっきり笑ったのだった。
それから三日後、御園先輩から電話があった。
「空音ちゃん、例の話の続きの事なんだけど・・・」
「あ、はい」
「ちょっと出れる?やっぱり直接話した方が・・・」
「分かりました」
「じゃあ、四条のノビオスという名の喫茶店でね」
その喫茶店は若い女の子たちが多くて、賑やかだった。ここなら多少の大声を出してもみんな気にしそうにない。
「一件だけ引っかかったの」
インターネットで調べたらしくプリントされた紙を私に差し出した。
「ありがとうございます」
御園先輩は微妙な間をおいて私を見た。
「雑誌に捧げた三十年:真実が分からなかった十五の事件」というタイトルの記事の一つに御園先輩が言っていた通り、ある旧家で「虫愛ずる姫君」の続編らしきものが見つかったらしいが真実は分からなかったと書いてあった。
「記事にはその本が見つかった家の名は伏されているからその雑誌社へ行って記事を書いた人を教えてもらったのよ」
「御手間をかけてすいません」
「で、教えてもらったんだけど・・・」
そう言いながら御園先輩は一枚のメモを差し出した。そこに書かれている人の名前を見てさっと血が引いた。
宇部左右吉・・・・
「え?」
顔を上げると御園先輩が私をじっと見つめていた。
「おじいちゃんです。私の・・・」
「やっぱり。苗字が同じだから、そうなんじゃないかって思ったけど」
「でも、そんな話、誰からも聞いた事ない。おじいちゃんからも親からも」
「空音のおじいちゃん、その左右吉さんっていう方がね」
「ええ」
「これは偽書だって言い張って、大学の先生たちがどんなに説得しても本を見せてくれなかったんだって。実際最初に見つけたのは古書店の人らしいんだけど」
「そうなんですか」
おじいちゃんの温和な丸っこい顔を思い出す。そんなに頑固な人だったっけ?
「不思議な因縁ね」
「ええ、でも・・・」
どうしておじいちゃんはそれが偽書だって言いはったのだろうか。
「ねえ、おじいちゃんの家で昔の本が見つかった事があるってほんとう?」
ああ、と母は頷き父は少し顔を顰めた。
「ずいぶん昔の事だ・・・お前が産まれたころかな。なんでそんな事を知ったんだ?」
父によると、御園先輩が言った通り、おじいちゃんの所に古書屋がやってきた時に見せた本の中にその本が紛れ込んでいたらしい。古書屋はぜひ引き取らせてほしいと頼み込んだが、おじいちゃんは頑強に拒んだのだそうだ。引き取りを諦めたその古書屋の店主は知り合いの大学の先生に話し、今度はその先生がおじいちゃんに見せて欲しいと頼み込んだのだが、おじいちゃんが断固拒否したので、その先生は父の家まで押しかけて来たのだと言う。
仕方なしに、父がおじいちゃんの所へ電話をかけると
「あれは偽ものじゃ。証拠がある。追い返してしまえ」
三言だけ言って電話を切ってしまったのだそうだ。先生にそう伝えると、
「ではもし左右吉さんが亡くなられてあなたが引き継がれたら・・・」
と更に頼み込んで来て、
「縁起でもない」
と一度は怒った父だったが、余りに熱心な様子に、考えてみる、と答えてお引き取り願ったらしい。やがてどこからかその話が漏れ、一時はおじいちゃんの家にマスコミも来たらしいけど
「そのようなものはない」
ついには存在そのものを否定し、一切取次を拒否して家に籠もってしまったのだと言う。
「本当のところはあるの、ないの?」
尋ねると、父は首を傾げた。
「最初のうちは偽物って言ってたくらいなんだから、あるにはあるんだろう」
「私に見せてくれるかなぁ」
おじいちゃんが頑固に人に見せるのを拒んだと知って弱気の虫が顔を覗かせる。
「今度は古典文学か・・・空音もだいぶ幅広い興味をもつようになったんだなぁ」
と父は感心したように言うと
「空音自身が誠実に、きちんと訳を話して尋ねてみればいいんじゃないか」
と言ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます