図書館で神様と出会う

柊木祐

図書館で神様と出会う

「本を返しに行かないといけないんだよ」

リビングのテーブルの上に置かれた二冊の図書館の本に手を伸ばしながら、僕は妻に言った。

「週末は大掃除を手伝ってくれるって言ったじゃない!窓拭きと換気扇をお願いしたはずだけど」

妻の表情は一段と険しくなる。

ああ、やばい、そうだった、そんなこと言ってましたよね。

「分かった分かった、図書館は朝のうちに行って、帰ってきたらすぐやるよ」

「駅ビルに行くんだったらついでに、百均で窓拭きワイパーも買ってきてよ」

はい、はい、分かりましたよ。


 借りた時カウンターのお姉さんは僕に「図書館の予定はお持ちですか?」と尋ねてきた。

「はい?」

「年末年始の休館の予定です」

ああ、その予定か。確かに二週間先は年末の頃になる。

「はい、これが予定です。返却期限は1月5日になります」

そう言って二冊の本と、休館予定を書いた小さな紙きれを渡されたのだった。

休館になる分は返却期限が延長されるらしい。期限は年明けにずれていた。


 楽しみにしていた本だったが、それからしばらくは手を着けることができなかった。

仕事が慌ただしくなって時間が取れないせいもあったが、それ以上に気持ちの余裕がなくなっていた。

作業は山ほど積みっぱなしで、そのほとんどはやればすぐに終わる雑用なようなものばかりだったけど、その分量に気持ちが萎えていた。

周りの人が休みに入る前に、あれとこれは確認をしておかないと。

こっちの作業は一人でもできるから最悪後回し。

でもこっちは提出前にマネージャーの確認が必要だから、やっぱり休み前に片づけなきゃ。

頭の中で、やれば終わる、でも、やらなきゃ終わらない、そんな考えがぐるぐるするばかりで手が動かなかった。

そんな時は仕事が終わっても、本を開く気にはなれなかった。

ぼーっとテレビを眺めているか、スマホのニュース記事をポチポチするぐらい。

休み前の最終日、他の人達が夕方早い時間に仕事を終えていく中で、僕は真夜中12時過ぎまでかかって、ようやく、ひとまずこれで休みに入れるかな、と思えるところまで辿り着いた。


 翌日は仕事に出かける妻に朝、声を掛けられたけど、そのまま寝過ごして、昼近くになってからのろのろと起きだした。

昨夜の残りのおかずとタッパーのご飯を温めて、朝食兼昼食を済ませた後、ようやく本を開いて読みだした。


 今日一日で読み切ってしまわないと。

返却期限は年明けだったが、年末から年始にかけては実家に帰ることになっていた。

実家に帰れば、母の作った料理と、親戚が集まっての酒盛りが待っている。

正月のテレビ番組には全く興味がないが、箱根駅伝と高校サッカーと天皇杯決勝も待っている。

本を読んでいる時間は全くない、と言っていい。


 おまけに明日からの週末は大掃除に徹する、と妻に宣言されていた。

ひとまず窓拭きと換気扇の掃除と物置の整理が今年の僕のミッションだ。

今日しかない。

夕方になってようやく一冊目を読み終えた頃、妻が仕事から帰ってきた。


 本当に楽しみにしていた本だった。

図書館に予約を入れたのは随分前だ。

本の感想を投稿するサイトで、ある人の感想が目に留まった。

 ”過去からの年代記を縦糸に、その時代時代を生きた人々が見た光景を横糸に―"

 ”全ての物語が語り終えられたときに、縦糸と横糸が織りなすタペストリーは一つのファミリーの壮大なクロニクルを描き出す”

これは読まねば、と思った。

それなのに、こんな形で読み飛ばすことになるとは。

こんな形でこの本を「消費」することを、本に対しても、自分自身に対しても、申し訳なく思った。

眺めのよい風景の中を時速120km/hの猛スピードでドライブしているようなものだ。

目を向ければそこに実に味わい深い風景が広がっているのを分かっていながらも、よそ見をしている余裕はない。


 夕飯を食べながら、明日の予定は?と妻に聞かれて、図書館に行ってくる、と答えた。

その後のやり取りが冒頭の会話だ。


 夕食を食べ終えてから、二冊目に取り掛かった。

物語は過去と現在を行き来しながら、ページが進むにつれて緊迫感が増していく。

いつの間にか、早く読み終えないといけないことも忘れて、物語の世界に没頭していった。

ページの残りがあとわずか、という時になって、ふと目を上げて時計を見た。

12時を過ぎている。

妻は風呂から出た後ソファで取り溜めたドラマを観ているうちに眠ってしまったらしい。

画面は録画番組一覧に戻っていて、隅にテレビショッピングの画面が小さく映っていた。



 翌朝師走も押し詰まった土曜日、二冊の本をリュックに放り込んで図書館に向かった。

新しい図書館は駅南口のロータリーに面した商業ビルの六階にある。

デパートの駐輪場に自転車を停めてエレベーターで六階まで上がる。

エレベーターの外側に面した壁はガラス張りになっていて、外の様子がよく見える。

年の暮れの週末、駅とコンコースは多くの人が行き交い、ロータリーの立ち木にはイルミネーションが飾り付けられていた。


 カウンターで返却の手続きを済ませ、その場を去ろうとすると、カウンターのおばさんに

「この本は所定の棚にお戻し下さい」

と今返したばかりの本を渡された。

ここの図書館に蔵書している本で、次の予約がない場合は、返した人が元の棚に戻すことなっている。

僕はそのことをうっかり忘れていた。


 棚はジャンルごと、著者名ごとに並んでいる。

低い棚を順番に眺めながら、この本の「所定の場所」を探していく。

その時、一人の老婦人が本を抱えて本棚に顔を寄せて見つめていることに気が付いた。

じっくりと本を選んでいるのだろうか?それにしても顔が近い。

本を見ている、というよりか、匂いを嗅いでいる、というような距離だ。

僕の本を戻す「所定の場所」はすぐその婦人の近くの棚のはずだ。

あんまりじっとしていて待たせていると思わせてはいけない。

そっとその場を立ち去ろうとしたその時、老婦人が声をかけてきた。

「すみませんが、本を戻すのを手伝っていただけないかしら?目が悪くってどこに戻せばいいかよく見えないんですよ」

「ええ、お安い御用です」

そう僕は言って、彼女が抱えていた三冊の本を受け取って、本の背を見て驚いた。


 一冊はヤングアダルト向けのファンタジー小説、もう一冊はたしかどろどろの恋愛小説(読んだことはないが著者名から想像はついた)。

最後の一冊は近未来の警察を描いて最近話題になったばかりのSFミステリだ。


 なんだ、何者なんだ、このおばさんは?

本のチョイスが実に玄人好みだ。これはかなりの遣い手とみた。

娯楽小説のチョイスに素人も玄人もないだろうが、言わんとすることは伝わるだろうか。

一見物腰柔らかな上品な老婦人だが、その印象と選んでいる本が妙に、というか、かなり、ミスマッチを起こしている。

読書のプロ、もしかしたら、本当にその種の業種の人なんじゃなかろうか。


 渡された本三冊をそれぞれの棚に戻した後で、彼女に声をかけた。

「済みましたよ」

「どうもお手数をおかけしました。ありがとうございました」

僕は自分の本を棚に戻した後で、図書館を後にした。


 エスカレーターを下りて二つ下の階の百均に寄る。

百均に窓拭きワイパーなんて売ってたっけかなあ、そう思いながら店に行くと、売り場の一角は掃除道具コーナーになっていた。

なるほど、大掃除の時期だからか、そういうことね。

難なく目当てのものを買うと、今度はエレベーターで降りるために待った。

下りのエレベーターが来て扉が開くと、そこにさっきの老婦人が乗っていた。

僕は軽く会釈しながらエレベーターに乗り込む。

扉が閉まると、その老婦人が僕に話しかけてきた。


「先ほどはありがとうございました」

「いえいえ」

「目が悪いのに読書なんて可笑しいでしょ。本当に最近は見えづらくなってしまって、好きな本も根を詰めて読むと疲れちゃって、読めないんですよ」

「だから、一冊全部を読むなんてもう無理。だから、適当に開いたところを2,3ページだけ読んで、あとは想像するんですよ。この人達はどういう物語の中で、どういう恋愛や冒険をしているのかしら、ってね」


 なんてこった、読書のプロ、どころじゃなかった!読まずに想像して物語を楽しむ。不読の読だ。

もはや本を読む必要なんてない、ありとあらゆる物語はこの人の頭の中に湧き出てきている。


 彼女は、読書の神様、だ。


 僕は何とも言いようのない感情に震えながら、かろうじてこう言った。

「い、いつでも、見かけたら、声を掛けてください。お手伝いしますので」

「あら、お優しいのね、ありがとう。でも、この次まであなたのこと覚えていられるかしら?」

少女のようにくすっと笑いながらそう言って、彼女はエレベーターを降りていった。

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