宗像が息を呑む。

「君たちに体の関係があることは知っていたが……。そこまでだったとは……」

 西田が立ち上がり、再び葵の元へ向かう。その目に一筋の涙がこぼれる。

「歳だって一〇歳以上違いますしね……。みんな、僕が葵さんに言いなりの奴隷にされてるみたいに思ってましたよね……。世間知らずの坊やが中年女の性欲に弄ばれてるって……。原さんでさえ、そう言ってましたから」

「違ったんだな……」

「葵さんが、絶対に隠し通そうね、って言ったんです。僕らが信頼し合っていることが先生にバレたら、どんな風に悪用されるか分からないからって……」

「私がそんなことまですると……?」

 西田は葵の死体の傍に座りこみ、その前髪を優しい手つきで整える。

「実際、僕らみんなを縛り付けてきたじゃないですか。卑劣な方法だってためらわなかったじゃないですか。たとえ逃げ出そうと抵抗したって、葵さんが脅されたら僕は逆らえません。先生は僕を失えない。でも、葵さんがいなくなったところで何の損失もないでしょう? 僕を手元に置くためなら、葵さんにどんな酷いことでもできるってことです。葵さんを押さえられたら、僕は何も抵抗できません。今まで以上に先生たちから逃れることができなくなってしまう……」

 宗像が言う。

「君たちはいつから愛し合っていたんだ?」

「そもそもは、原さんが僕を部屋から引っ張り出すために葵さんを連れてきたんです。葵さん自身が引きこもりを脱した経緯を聞かせて、何とか最初の一歩を踏み出させようとしたんです。ドア越しに2人っきりになると、葵さんは自分をさらけ出してくれました。ドアを開けられない自分をどんなに責めてきたか……自分の弱さに打ち勝てないことで、何度吐いたか……一言一言が、僕の心に突き刺さりました」

「そんな昔から……か?」

「それが愛と呼べるかどうかは分かりません。初めて紹介された時から、ずっと年上の人だって分かってましたから。でもドアを開いた時、感じました。僕はこの人と死ぬまで一緒に暮らしていくだろうなって……そうしたいんだなって……」

「それでも原は、君たちの本当の関係を知らなかったのか?」

「だって、僕ら自身が明確に分かっていたわけじゃありませんから。葵さんは、原さんなら信用しても大丈夫だよって、力づけてくれましたけど。彼女もまた、原出版のアルバイトから社会に出る訓練を始めて、原さんに紹介してもらった小劇団で舞台に立つまでに成長できたんです。会社や小劇団の仲間も、葵さんの成長をじっと見守ってくれたそうです。みんなに迷惑もかけたし、何年も時間がかかったって言ってました。だからテレビ業界にも居場所を作れたんだ、って……。それでも自分がそうやって部屋から這い出せたんだから、僕にもきっとできるって……。一応試してはみましたが、僕にはアルバイトや小劇団は壁が厚すぎました。でも小説好きだって知られていましたから、原さんは先生に引き合わせることを思いついたんです。それが功を奏したわけですが、結果的にはこんな悲惨な結果を招いてしまいました……。塞翁が馬、ってやつですよ……。ほんと、諺とかってすごいですよね……何年ももがき続けた軌跡までたった4文字でバッサリ料理しちゃうんですから……」

「結婚はいつから考え始めたんだ?」

「はっきり意識したのは、2人とも先生の元から逃げられないって気づいてからです。そこから目をそらしたくて、お互いの体を求め合ったんです。でも僕らは根っこが同じですから、いろんなことが分かってしまう。分かられてしまうことが恐怖でも不快でもなく、とても安心できたんです。心が響き合うっていうか……とにかく、言葉を交わす必要さえなかった。葵さんだって元は引きこもりですからね」

「私は元気のいい野心家としての彼女しか知らないがね」

「そういう体裁を必死に繕っていたんです。精神医学でいう遁走に近いことを意図的にやっているんだろう、って自己分析していました。自覚があった分、心の中はいつも不安ではち切れそうだったんです。常に自分に無理を強いていたんです。絶え間ないストレスに押し潰されていたんです。ストレスって、免疫力を弱めるって言いますから……脳腫瘍だって、たぶんそれで急激に悪化したんだと思います。それでも……一緒にいるときだけは互いに自分自身でいられました。虚勢を張らなくても普通に空気を吸っていられるっていう安心感があった。自分は自分でいいんだっていう……穏やかさがあったんです。体を触れ合うことで、心もつなげることができたんです。葵さんは僕を男にしてくれました。心まで男として育ててくれたんです。葵さんをずっと大切にしていきたい……何があろうと守り通したい……そう願ったんです。だから、結婚してくださいってお願いしました。今はまだ先生が造った檻から逃げられないけど……いつかは必ずって……」

「脳腫瘍のことはいつ知らされたんだ……?」

「3、4ヶ月前でしょうかね……長くても、あと一年の命だって……。葵さんは宣告を受けてすぐ、僕に教えてくれました。残念だけど、間に合わないみたいだね、って……」

「間に合わない? 何に?」

「あなたから自由になれる時に。僕たちは、どうすれば先生から解放されるかをずっと考えていたんです。でも、行く手は全て塞がれていた。引きこもりだった僕には普通の仕事でお金を稼ぐなんて芸当はできないでしょう。葵さんだって、先生を裏切れば映像業界では働けない。アイザワの影響力は絶大ですからね。そこそこ暮らして行くには、水商売か風俗にでも堕ちるしかない。葵さんだって必死にコミュ障と戦ってきたんですから、それが自分を狂わせるだろうことも分かっていました。原さんを頼ろうにも、原出版自体が崖っぷちに追いやられてそんな余裕はない。僕らの変化に気づいた亜佐子さんは親身になって応援してくれましたが、彼女自身があなたから逃げる気がない。僕らを手放せば、先生の作家生命に終止符を打つことにもなる。そんなこと、亜佐子さんにはできませんよね……。絶体絶命です。だから僕は、一緒に死なせてくださいってお願いしました……。だけど葵さんは、そんなこと許してくれません……そういう人なんです……。あなたが自分の言葉で書いた作品を待ってる読者はきっといる……あたしは手伝えなくなっちゃったけど……だからあたしの分まで書かないとダメ……って。芯はキツイんですよね、葵さんって……」

「じゃあ、今度の計画の出発点はそこなのか……?」

「きっかけはそうだとも言えますね。みんなが、先生と鈴木専務の企みに限界まで追い込まれていた。みんな、もう死んでもいいと諦めていた……死んで楽になりたいって……。でも一方で、命を捨てても先生たちに抗いたい……そういう憤りはあったんです。そして気づいた。1人1人じゃ爪さえ立てられないけれど、3人が死ぬことで先生たちの心臓に杭を打ち込むことができるかもしれない……。それこそが僕たちの希望で、唯一の、そして最大の抵抗だったんです……。その証人として、僕をこの世の中に歩き出させようとしていたんです」

「ひどい話だな……」

「まるで他人事ですね。まあ、先生にとっては宗像霞の名声を守ることの方がはるかに重要でしょうからね」

 だが、宗像は悲しげな表情を浮かべる。

「私だって人間だ。今までやってきたことが全て楽しかったわけでは決してない。鈴木と手を組むためにやむを得なかったことがほとんどなんだ。宗像ブランドを堅持することだって、鈴木が強く要求してきたことだ」

「だから、当然ゴーストライターを手放すつもりはない。そのためなら、原さんや葵さんを犠牲にしても仕方ないと思っていた――ということですよね?」

「だから好き好んでやっていたわけではない」

「色々と手を汚したもほとんどアイザワの配下ですしね。あなたは鈴木専務と将来の展望を楽しく語り合っていればよかったんでしょう?」

「全ては水泡に帰したようだがな……」

「先生は、殺人犯の汚名を着ることになります。っていうか、実際に亜佐子さんを手にかけたんでしょう? 正真正銘の人殺しですよね」

「それ以上は言わなくていい。だが、分からないことがある」

「なんでしょう?」

「なぜ第一幕から、私を悪人として書かなかった? 私たちを断罪することが目的なら、そうするのが普通じゃないか? 鈴木を男として描く必要もなかった」

「だって、お芝居ですよ? お芝居として本当に面白くなければ、世界に拡散する力が半減します。エンタメのパワーを一番知っているのは先生ご自身じゃないですか。しかも、ミステリーだ。倒叙物を狙うならともかく、黒幕が最初からバレてるなんて恥ずかしくて読者や観客に前に出せません。先生は書くことを止めてしまいましたが、僕はそうはいかない。これから作家生活を始めなければならないんですから」

 宗像は長い溜息をもらしてから、真剣に言った。

「この窮状から脱する道はないのか?」

「僕には思いつけませんね」

「本当か? 何か取引の条件を用意しているんじゃないのか? できることなら、なんでも聞くが?」

 西田が目を上げて真剣に言う。

「ひとつだけ、あります」

「なんだ?」

「今、ここで死んでください」

「まさか……それじゃあ、救われることにならない……」

「今さら、救われようなんて欲を出さないでくださいよ。みんな命まで失ったんです。あなたも一番大事なものを失ってください。これまで他人から奪ったもので欲望を満たしていた分、たくさんのものを捨ててください。もう、アイザワ書房も鈴木専務もあなたに関わっている余裕はないでしょう。だから、先生も1人で立ち向かうしかありませんよ」

「だから、何をしろと……?」

 西田は立ち上がって、ゆっくりと宗像の前に進む。

「それは、宗像先生自身がお決めになることです。先生はこのまま逃げたって構いません。今ここで僕を殺せば、可能かもしれませんよ。ほら、そこに火かき棒だってあるし。僕はひ弱ですから、ろくな抵抗もできないでしょう。たぶん、まだしばらくは警察も来ないでしょうしね」

「私にそうしろとそそのかしているのか?」

「どうでしょうね? でも、逃げれば確実に殺人犯として追われます。捕まれば死刑でしょう。お金はあるでしょうから、それこそ韓国にでも渡って整形して新しい身分は買えるかもしれませんね」

「それも君の……君たちの計画なのか? 私をまだどこかに追い込もうというのか……?」

「違います。僕たちの計画は、すべて完了しました。先生はもう、自由に振舞ってもらって構いません」

「それなら、なぜ……?」

「さあ……自分でもなんでこんなことを言っているのか、よく分かりません。僕の、先生に対する復讐なのかもしれませんね」

「それのどこが……?」

「だって、仮に身分を変えて生き延びたとしても、あなたはもう作家には戻れません。自分の力じゃ書けないんですから。お金があって高級クラブでちやほやされたところで、営業用の笑顔であしらわれる金離れがいい客にしかなれません。一時代を作った作家としての敬意を払われることは永遠にないでしょう。誰もあなたが何者かを知らない。知ろうともしない。知ったところで、誰も信じない。妄想に酔った哀れな老人として慰められるだけだ。あなたは何者でもない、ただの年寄りとして朽ちていくんです。この先、何年も何年もかけて……」

 宗像が不意に叫ぶ。

「そんな姿を想像させるな!」

 西田は軽く肩をすくめた。

「だけど、今のまま作家でいられる方法はありますよ」

「なんだ……? どうすればいい……?」

「簡単です。全てを明らかにして裁かれればいいだけです。殺したのは亜佐子さん1人ですから、死刑にはならないでしょう。みんなの策略に操られて誘導されたことも証明できるでしょうから、情状酌量が認められちゃうかもしれませんね。だからといって、決して許されることはない。社会的には、特に。むろんテレビからはお呼びはかからないし、文章を発表する機会も失うでしょう。まあ、書けたとして、の話ですけどね。あなたはこれから死ぬまで、腐りきった悪党だと忌み嫌われながら生き続けるんです」

「やめてくれ……」

「それでも、かつては優秀な作家でもあった悪党として認識される。天才だからこその狂気、常識の枠を意に介さない奇行として、納得したり擁護したりする評論家も現れるかもしれない。でも、笑われ、罵られ、恐れられ、軽蔑されたとしても、宗像霞の名前は作家として人々の記憶に刻み込まれる。文学史にさえ、その名が残るかもしれない。あなたは死ぬまで――どんな形で死を迎えようとも、宗像霞でいられるんです」

「ひどい選択肢だな……」

「それでも、選ぶ余地はあります。死んでいったみんなとは、全然違います。さあ、先生はどちらを選びますか? 最終章――第四幕の最後の一行を――渾身の一行を、ここで書き上げてください。先生へのはなむけに、それをデビュー作のエンディングにしますから。今だけは、宗像霞が僕のゴーストライターです」

 宗像は初めて一筋の涙を流した。

「ようやく分かったよ……。君は……そんなに残酷な男だったんだな……」

 西田はしばらく沈黙してから、ささやくように言った。

「とんでもない……。残酷なのは、ここで死んでいったみんなの方ですよ。みんな、本当に残酷です……。命を捨ててまで、僕に『自分を超えてみせろ』って強いるんですから。3人の死は、僕が挫けたら無駄になってしまいます。そんな卑劣なこと、許されるはずがないじゃないですか。どれだけ血塗れになろうと、僕は彼らの望みを実現させるしかないんです……。僕はここで、自分の手で、今までの自分を殺さなくちゃならないんです……そして、生まれ変わらなければいけないんです……。本当に残酷なんだから……みんな……」

 そして西田もまた、涙を堪えるかのように天井を見上げた。


                           ――了

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殺人戯曲《デス・プレイ》 岡 辰郎 @cathands

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