くびをしめる
八白 嘘
くびをしめる
去年の夏、実家に帰省したときの話です。
私には、ヒナタという幼馴染がいます。
大学に進学するまでは互いの家を行き来する仲でしたが、私が県外に出てからは、すこしだけ疎遠になっていました。
せっかくの機会だし、帰省する旨を彼女に伝えると、
『実は、ちょっと相談あるんだけど……』
と、返信がありました。
詳細は会って話したいとのことだったので、日取りを決めてヒナタの家へ伺うことになりました。
ヒナタの家は旧家で、古いながらもけっこうなお屋敷です。
都会の狭いアパートメントに慣れた目には、ますますの威容に映りました。
「──……なにやってんの?」
門扉の前で呆けていると、後ろから声を掛けられました。
ヒナタでした。
アイスを買いに出ていたそうです。
「久し振り。ま、とりあえず入ってよ」
導かれるまま、広々とした空間を通り、懐かしさの漂うヒナタの部屋へと通されました。
私は首をかしげました。
家具が明らかに少ないのです。
生活感を帯びているものと言えば、枕元にあるノートパソコンと、中身がはみ出しているドラムバッグくらいのものでした。
「あー、私いま一人暮らししてるの」
ヒナタの通う大学は、実家から通える程度の距離にあります。
必ずしも必要ではないのですが、してみたかったからしているそうです。
アルバイトなどはしていないそうです。
羨ましい。
しかし、ヒナタはどうして実家にいるのでしょう。
頻繁に帰ってきているのでしょうか。
「うん、それが相談したいことでさ──」
麦茶の載ったお盆を置き、ヒナタは話し始めました。
ヒナタは、大学進学を機に、一人暮らしをしたいと以前から考えていました。
両親を説き伏せ、大学の近くに小綺麗な部屋を借り、家財一切を運び入れました。
家電製品の備え付けられている部屋だったのですが、それでも足りないものがありました。
それは、ベッドです。
和室で育った彼女にとって、ベッドは憧れの寝具でした。
布団で寝るのは絶対に嫌だし、だからと言ってギシギシ軋むような安物もお断り。
しかし、ヒナタに甘々なご両親も、そんなベッドを新品で買い与えるほど娘の言いなりではありませんでした。
やむを得ず、付近のリサイクルショップを探すことにしたそうです。
数店舗ほど巡っても、ヒナタのお眼鏡に適うベッドは見つかりませんでした。
仕方がないので、条件に合うベッドを入荷したら連絡をくれるようリサイクルショップに頼み、しばらくは寝袋で我慢することにしたそうです。
「……布団は絶対やだったの!」
こういうところが憎めないのです。
しばらくして、リサイクルショップから連絡がありました。
そこそこの価格でなかなか立派なベッドだったので、ヒナタは一も二もなく購入を決意しました。
セミダブルサイズで幾分か大きすぎることが不満ではありましたが、彼氏ができたらいろいろと捗るだろうと自分を納得させたそうです。
「それが六月だから、もう一ヶ月半くらい前からかな……」
二ヶ月も寝袋生活だったことに驚きましたが、なんとか顔に出さずに済ませました。
「あのベッドで寝ると、怖い夢見るんだ。男の人に首を絞められる夢」
最初は、記憶にも残らないような取るに足らない夢だったそうです。
しかし、一週間と経たないうちに、ヒナタは同じ夢を毎日のように繰り返し見ていることに気が付きました。
「体が動かないの。ただの金縛りじゃなくて、大の字でベッドに磔にされてるみたいな……」
日を追うごとに夢はリアリティを増していき、やがて現実を侵蝕し始めました。
首を絞めたとき、ちょうど両の親指に当たる位置に、あざが浮かび上がったのだそうです。
見せてほしいと言うと、
「いまはもう治ってるけど……」
顎を上げ、白い首筋を見せてくれました。
あざは見当たりませんでした。
「私も馬鹿じゃないから、なんかやばいなって思って……」
当然でしょう。
「でも、まーいっかと思ってしばらくそのまま寝てたんだけど、もっと怖いことがあって、それで家に戻ってきたの」
使ってたのかよ、と思いましたが、口にはしませんでした。
話の続きが気になったからです。
「……首を絞める男の、顔が見えたの。ずっと真っ黒で見えなかったんだけど、霧が晴れたみたいに見えたの。その表情が──」
ヒナタの奥歯が、かたかたと音を立てました。
どんな形相であれば、快活なヒナタを怯えさせることができるのでしょう。
ヒナタの手を取り、私は続きを促しました。
「──……笑ってたの。誕生日プレゼントの箱を開けるみたいな顔で、私の首を絞めてたの」
背筋を冷たいものが走りました。
どんな怒りの形相より、遥かに恐ろしいと感じました。
怒りには明快な理由があります。
それがどんなに見当違いでも、どんなに的外れでも、それなりの根拠を見出せるはずです。
ですが、笑いながら他人の首を絞める感性を、私は理解することができません。
それはきっと、ヒナタも同じだろうと思いました。
そんなベッドはさっさと処分したほうがいい。
私は、そう進言しました。
「うん、そのつもり。でもね、ひとつだけ、気になることがあって」
右手で側頭部を押さえながら、ヒナタが続けました。
「……あの男、幽霊じゃないみたいなの。それで、ちょっと、わかんなくなっちゃって」
幽霊、ではない?
「引き取ってもらおうと思って、ベッドを買ったリサイクルショップに行ったの。そしたら、男がいたの。私の首を絞める、夢の男が」
私は目をまるくしました。
それは、生きた人間として、ということでしょうか。
「うん。店員さんと話してたから、生きてると思う。常連みたいな感じ。それで私、気持ち悪くなっちゃって、お店に入らないで帰ったの。夢が現実に這い出してきたみたいで、部屋に一人でいるのも怖くなっちゃったから……」
だから、今は実家で寝泊まりしている、ということらしいのです。
「ほら、あんた怖い話とか好きじゃない。なんかわかんないかなって」
随分と薄い根拠で頼られたものです。
しかし、幼馴染の頼みですから、乏しい知識を総動員するくらいのことは、やぶさかではありません。
しばし思案を巡らせ、私はふたつの仮説を提示しました。
生き霊。
あるいは、ヒナタの部屋に実際に侵入されている。
現実にはどうかわかりませんが、これが怪談だとすれば、展開からしてこのどちらかに分類されるはずです。
「分類って……」
あいにく私に霊感はありませんし、虚実の入り混じった体験談しか知りません。
「生き霊って、なんか、すごい憎まれないとダメなんでしょ。私、あの人のこと、見たこともないけど……」
知らずに恨みを買っていることもあるでしょう。
「でも、それじゃベッド関係なくない?」
たしかにその通りです。
ベッドを買った相手を誰彼構わず憎むというのも、いまいちピンと来ません。
「本当に侵入してるっていうのも、たぶんないと思う。五階だし、窓閉めてるし、そんなに毎日不法侵入してたら、さすがに通報とかされるよ。侵入した形跡だって残ると思うし……」
ヒナタの言う通りでした。
現実的な仮説とは、とても言えません。
「頼りないなあ」
そう言って、ヒナタは苦笑しました。
オカルト好きなだけの普通の女子大生に過度な期待を寄せられても困ります。
「まあ、それはいいんだ。ほんとは、一緒に部屋に行ってもらいたかったの。業者に頼んでベッド運び出してもらうにしても、しばらく部屋で待たなきゃいけないから……」
ご両親はと尋ねると、
「パパもママも、信じてくれないんだもん。また私がわがまま言ったと思って呆れてるから、腹立つし。大学の友達に頼むのも考えたけど、新しい友達に変な弱みとか見せたくないし、でもあんたなら今更でしょ」
なるほど、ヒナタらしいと思いました。
アイスを食べたあと、私たちはヒナタの実家を後にしました。
ヒナタのアパートは、自家用車を使えば鍋物が冷めない程度の距離にありました。
駅前通りから一本入ったところにある、いかにも家賃の高そうな物件です。
五階にあるヒナタの部屋は、日当たりの良い角部屋でした。
「狭いけど、いい部屋でしょ」
私の部屋の倍はありますが、ヒナタが狭いと言うならそうなのでしょう。
「で、例のベッドがこれ」
ぼすん、とヒナタがベッドに腰を下ろしました。
軽々しく座って大丈夫なのかと、私はヒナタの身を案じました。
「寝なきゃ大丈夫だって。起きてるときになんか起こったことないもん」
一人じゃないから気が大きくなっているのでしょう。
ヒナタはそういう性格です。
それにしても、立派なベッドでした。
物語に出てくるような天蓋こそありませんが、樫の木でできた四つ足には細かな意匠が施されています。
たとえ中古だとしても、結構な値段がするように思えました。
「そうでもなかったよ?」
ヒナタの金銭感覚は信用できません。
「29,800円だから」
本当にそうでもありませんでした。
いえ、中古のベッドとしては高いのかもしれませんが、見た目ほどではありませんでした。
「いちお、安いのには理由があってさ」
ヒナタが掛け布団をめくりました。
「たぶん、元は海外製で、日本の住宅事情とは合わなかったんだろうね。ベッドの真ん中を切って、分割して運べるように後から改造されたみたい」
便利にはなったものの、耐久性が落ちて、ブランド品としての価値も失われたということでしょう。
「じゃないと、さすがに買えないもんね。五階だし」
ふと、疑問が湧きました。
このマットレスはどうしたのでしょう。
「マットレス?」
家具店で新品を買ったのでしょうか。
「違うよ、一緒についてきたやつ。汚れてなかったし、スプリングも好みの固さだったし」
あくまで仮説だけど──と前置きして、私は続けました。
原因は、もしかすると、マットレスにあるのではないでしょうか。
「なんで?」
寝るときにヒナタに直接触れているから、としか答えられませんでした。
そもそもが思いつきです。
もしかすると、ベッド本体が悪いのかもしれません。
「はあ……」
ピンと来ていないヒナタに、私は言いました。
もしどちらかが原因とわかれば、捨てるのは片方で済むのです。
「あ、なるほど!」
カツカツの経済状況で暮らしている私ならではの発想です。
どうだと胸を張っていると、ヒナタが思いも寄らぬことを言いました。
「じゃあ、今日は泊まってってよ」
一瞬、言葉の意味がわかりませんでした。
「ベッドとマットレスに分かれて寝れば、一晩でわかるじゃん。それに、二人だったら何かあっても安心だし」
言われてみれば妥当です。
私は、思いつくままに喋ってしまったことを後悔しました。
「おゆはん、うなぎでも食べに行く? 美味しいとこ知ってるの」
奢りであることを確認し、私はヒナタの部屋に泊まることを快諾しました。
上うな重に舌鼓を打ったあと、公平なジャンケンにより、私はマットレスで寝ることとなりました。
二人でヒイコラとマットレスを下ろし、二人分の寝床を確保しました。
ヒナタは、ベッドの上で、相変わらずの寝袋です。
「……もう慣れたよ」
そう言って、ヒナタは自嘲気味に笑いました。
「マットレスのせいだといいな……」
私は、ベッドのせいだと嬉しいです。
とにかく、うなされていたら互いに起こし合うことを約束し、部屋の明かりを消しました。
意識がすうと闇に落ち、間延びした時間が途切れ始めたころでした。
ぎざぎざとした石が喉に詰まっているような感覚に、私は目を覚ましました。
月明かりが眩しいと感じました。
私に覆い被さっている男の顔が見えました。
男は笑っていました。
嗜虐的な笑みではなく、初めて赤ん坊を抱いた父親のような、純粋な喜びに満ちた笑顔でした。
腹の底から恐怖し、私は身をよじりました。
縛られた四肢が縄目に擦れました。
下敷きにされた髪の毛が、私の背中をくすぐりました。
私は裸でした。
男の親指が、私の気道を潰しました。
え、え、え、え、え、え、え、という断続的な息が、私の口から漏れました。
「どうしたの?」
男が口を開きました。
意味もわからず、私は首を横に振りました。
「どうしたの?」
眼球が裏返るのを感じました。
「どうしたの?」
「どうしたの?」
「どうしたの?」
甘い香りが鼻をつきました。
「どうしたの?」
「どうしたの?」
「どうしたの?」
「どうしたの?」
「どうしたの?」
「──……したの、大丈夫!?」
はッ、と私は目を覚ましました。
ヒナタの顔が見えました。
私は肩を揺すられていました。
「起きた? ほんと大丈夫?」
大丈夫と答え、私は首に手を当てました。
首筋は、熱を持っているように感じられました。
「……あざ、できてる。あのときチョキを出して正解だった……」
真っ先に言うべきことかと思いましたが、ヒナタですから仕方ありません。
それより、私には気になることがありました。
立ち上がり、自分の身なりを確認しました。
パジャマ代わりにヒナタから借りた、高校時代の芋ジャーです。
ベランダに通じる窓は、しっかりとカーテンが閉じられていました。
「……どしたの?」
不思議そうにしているヒナタに、私は尋ねました。
うなぎを食べているとき、私の髪型について、ヒナタがなんと言ったかを。
「え? もうすこし伸ばしたほうが可愛いって、言ったと思うけど……」
そう。
私は、肩に届かないくらいのショートヘアです。
高校時代からずっとそうなのです。
私は確信しました。
夢の中の私は、私ではありません。
「あんたじゃないって、じゃあ、誰?」
わかりません。
しかし、このマットレスを、もうすこし調べるべきだと思いました。
シーツを剥がし、壁に立て掛け、目を皿のようにしてマットレスを注意深く観察しました。
「裏側も、綺麗なもんだと思うけど……」
マットレスに表裏はありません。
運び入れるときに気が付かなかったのなら、何もないのでしょう。
では、側面はどうでしょうか。
「──あ、ここ!」
ヒナタが声を上げました。
マットレスの上部、私が頭を置いていた場所のすぐ後ろに、目立たないほつれがありました。
ミシンではなく、人間の手で荒く縫われた跡でした。
「誰か、ここを切って、あとから縫ったってこと……?」
そうなります。
「な、なんで……?」
それは、中身を見ればわかるでしょう。
ヒナタに借りたハサミを使い、私は糸を切っていきました。
縫い目を開くと、ホコリが舞いました。
「……何か、ある?」
スプリングの一部が見えましたが、暗くてよくわかりません。
しかし、手を突っ込む気にもなれません。
逡巡していると、
「これじゃダメ?」
ヒナタが孫の手を渡してくれました。
孫の手を縫い目に差し入れ、中身を掻き出します。
それは、私の想像に極めて近いものでした。
「──……ッ」
驚きのあまり、ヒナタの呼吸が一瞬だけ止まりました。
それは、髪でした。
ぼそぼそと艶を失った髪の毛の束でした。
──ごくり。
私は喉を鳴らしました。
髪の毛が出てきたからではありません。
もしかしたら。
その程度には予想できていた事態です。
しかし、私は、長い黒髪の束が出てくるものだと、漠然と思っていたのです。
いえ、黒髪でなくたっていい。
金髪でも、茶髪でも、いっそ骨や歯であったとしても、なんだってよかったのです。
まさか、
黒い髪も、
白い髪も、
赤い髪も、
茶髪も、
金髪も、
長い髪も、
短い髪も、
ありとあらゆる髪の毛がごちゃ混ぜになって出てくるとは、思ってもみなかったのです。
「あの……、どういう、こと……?」
ヒナタが、混乱した様子で問いました。
わかっていることが、ひとつだけあります。
私とヒナタの首を絞めていたのは、男の幽霊ではありません。
「……じゃあ、何?」
あれは、記憶です。
あの男に殺された無数の女性たちの、死の間際の記憶なのです。
「──…………」
ヒナタが膝から崩れ落ちました。
「じゃあ、リサイクルショップにいた男は──」
犯人、なのでしょう。
私の呟きを最後に、部屋は沈黙に満たされました。
私たちは身を寄せ合い、夜明けまで一睡もせずに過ごしました。
マットレスをすぐに処分すること、件のリサイクルショップには二度と近付かないことを厳命し、私はヒナタの部屋を後にしました。
警察の介入を避けたのは、犯人がすぐ近くにいる以上、事を荒立てるべきではないと考えたからです。
殺人の事実も、犯人の顔も、私たちしか知らないのですから。
殺された女性たちは、私たちに何を伝えたかったのでしょう。
自分たちを殺した男に裁きを受けさせたかったのでしょうか。
それとも、苦しくて、つらくて、やるせなくて、その記憶と感情とがマットレスに焼き付いただけだったのでしょうか。
私たちは、彼女たちに、何もしませんでした。
後悔はありません。
私は、自分の身が可愛い人間です。
そして、見も知らぬ死者より、ヒナタのほうが大切だと思っています。
犯人の顔を知っているのですから、ヒナタは誰より安全なはずです。
ヒナタが余計な正義感に振り回されないことを、切に祈っています。
くびをしめる 八白 嘘 @neargarden
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