終章
朔
駅を降りて小さな商店街を抜ける。
通い慣れた道だが、今日は特別に、寒い。商店街を抜けると、丹精された庭先の葉に、汚れをしらない白い結晶が残る。今朝降った雪が、まだうっすら積もっていた。
コンビニで買ったコーヒーで暖を取りながら、ゆきは山道に向かった。
事の真相を聞いた
「新月生まれは不老長寿、
もがき、叫び続ける人狼達に
一見、犬に見えるものの、人狼達は人の大きさに近い。
社会に潜むには猫より分が悪かった。ならばいっそ、「人をこえた存在に」という思いは切実だったのだろう。
運命を悟った人狼達は一人、また一人と散り散りに消えていく。
ただ一人、真鍋だけは小野を担ぎ上げ、深々と頭を下げると、山の奥へと消えていった。
翌日、山の中腹から二頭の狼の亡骸が見つかり、人猫達はねんごろに弔ってやったという。
もう人狼に襲われることもないため、真、銀次、平太は京都に帰っていった。そのかわり、ゆきが京都に通うようになっていた。
高野幸子亡き後、里の結界を張り続けるには、ゆきの力が欠かせなかった。
猫に
そのやり方を書き残したのは、花蓮だった。
〝里の術士〟として高野幸子に利用され続けた。だが、里に残る仲間のために、花蓮の術は今も、生き続けていた。
保健室の主は、藤助ではなくなった。
猫でいる時間が長くなり始めていた藤助は、事件後、里に戻った。
元々、藤助の両親も猫化が早かった。「オレも三十までもつかな」とは、つねづね言っていたが、やはり早かったようである。
ゆきは保健室に行かなくなった。
今朝、平太から電話があり、ゆきはすぐに新幹線に飛び乗った。藤助がゆきを呼んでいる、との知らせだった。
――ゆきは三年生になった。
「よぉ」
地蔵のある
「ねぇ、この前より背が高くなってない?」
育ち盛りや! と言うと、平太は背を向け歩き出した。
今年から高校に通い出した平太は今、一人暮らしをしている。
里では中学を卒業すると一人前と見なされる。二年前、高校生のくせに手取り足取り訓練を受けていた自分を見て、さぞ歯がゆく見えただろう、と、ゆきは、気まずさとほほえましさを口の端に現した。
「ずいぶん、猫化が進んでるねん」
ザク、ザク、と積もった雪を踏みしめながら、平太はぽつりとつぶやいた。
人の姿でいるときは体に負担がかかるらしく、横になっていることが多い、と――。頷くゆきの白い頬をなでる風が、いつもより冷たく感じられた。
屋敷前につくと、賑やかな声が響いていた。いつも通りの賑やかさに顔がほころぶ。若手の中では結婚し、子どもが生まれたところもあった。
「あ! ゆき、おかえり~」
銀次が細い目を和らげ、いつものヘラヘラ顔で迎えてくれた。
「お、帰ってたんか」
真がニヤリと笑いながらやってくる。かたわらには一人の男の子がまとわりついていた。
「真! 稽古つけて!」
真さんやろ! と鼻をつまむものの、顔は穏やかである。
男の子はあの時、かみついてきた子狼である。親を失った男の子は、真が身元引受人となり、里で暮らしていた。
「なんだかんだいうて、真は世話好きやなぁ」
銀次がヘラヘラ笑う。
銀次の笑顔も元通りになった。花蓮が死んだ後、花蓮の墓の前に立ち尽くす銀次を何度も見かけたと、後で真から聞いた。
「藤助さんは?」
ちょっと遊んでき、と男の子を子ども達の群れに入れると、真はついてくるように言った。四人は雪を踏みしめながら、奥の座敷へと向かった。
「藤助さん」
座敷では横になりながら、藤助が相変わらずグラスを傾けていた。
「お前、また! ホンマ、体壊すで!」
真にグラスを取り上げられ、藤助は少しむくれている。平太はゆきに悪態をつきながらどっかり座り込み、銀次はヘラヘラ笑いながら縁側に腰掛ける。――ここに花蓮がいれば、いつも通りなんだけどな、と思うゆきの目頭が熱くなっていた。
「外に出ようか」
真の手を借りながら藤助はきしむ体を起こした。
藤助の後をゆきが続く。少し離れるようにして、真達が続いていた。
表の庭と違い、奥座敷の庭はこぢんまりとしている。その代わり、四季を通じて、絶えず花が見られるようにしつらえてある。今は雪と共にたわむれる山茶花が、白い景色に色を添えていた。
ゆきは藤助の姿をじっと見つめた。
黒い長袖のTシャツに黒いズボン。足元は裸足にぞうり。歩くだけで袖や、すそが、ぺらぺらとひらめいている。
庭に出る前、「寒くないの?」と言おうとしたとき、銀次が腕をつかんで首を振った。猫化が進んでいる藤助はもう、体の感覚が人のそれとは違ってきているという。
「駅前とは違って、真っ白だねぇ」
「比叡山の
と、藤助が山を見上げた。
「変わらないな、山は」
口元に穏やかな笑みを浮かべている。ゆきも同じように山を見上げた。
今は葉に雪をたたえ、静かに息を潜めている山。初めて訪れたときは、取り囲むようにしてこちらを見下し、心根を試されたものだ。
葉の色が幾度も変わるようにさまざまな思いがわき上がっても、山は、全てをただ包み、何事もないように端座している。いつも。
歩きながら藤助がつぶやいた。
「最近、思ったことがあるんだ」
何? とゆきが問い返す。その顔をまぶしそうに見つめながら、藤助は言葉を継いだ。
「大人達がさ、なんで新月生まれを大事にするのかな、って。昔は腑に落ちなかったこともあったんだ」
足を止め、藤助は木々の間からこぼれる曇りのない空を見上げた。
「今なら分かる。ゆきはオレたちの、墓標なんだ」
思いがけない言葉に、ゆきはきょとんと目を丸くした。
「一応、一族の墓はある。だけど、実際その下で眠るのは半数くらいだ」
――猫化して理性をなくせば、どこにいくかはわからない。
「オレたちが本当にいた、ということを覚えていてくれるのは、新月生まれだけだ」
藤助が振り返った。柔らかい春の日差しのようなまなざしが、ゆきを包む。
「……嫌か?」
ゆきはほほえみながら首を振った。
その時、藤助の肩に雪が降り積もるように見えた。
「藤助さん、雪」
ゆきは藤助の肩を払うが、その雪は落ちなかった。
「――ああ。そうなのか」
光をまとった雪が藤助の体に降り積もる。あたりを見回すが、雪はない。振り返り「ねぇ」と言いかけた口が、息をのんだ。
真は顔を背けていた。
銀次は下を向き、肩をふるわせている。
平太だけはしっかり藤助を見ていた。
落ちる涙をぬぐいもせず、ただまっすぐ、藤助を見つめていた。
「変化の時は青白い炎のようだろ? 猫化のときは、光の雪をまとうんだ」
光を帯びてゆく藤助に、ゆきはしがみついた。――心が、声にならない。
「泣くなよ。死ぬわけじゃないんだから」
「でもっ……!」
「しばらく、庭にいるかもしれねぇだろ」
藤助の大きな手が、いつものようにポンポンと頭をなでる。
「ちゃんと授業、でろよ」
頷くと、ゆきは昔の呼び名を口にした。
「……藤兄ぃ」
そう呼ばれ、藤助はまぶしそうに目を細めた。
「何年ぶりだろう、そう呼ばれたのは」
藤助が、光に包まれていく。
「会えてよかったよ。――ほなな。」
カッ、と閃光を放つと、光の
――藤助の足取りは、その日以来、全くわからなくなってしまった。
猫になる mi-ka @mi_ka
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