逃げ場が無いのは分かっている

木沢 真流

もうダメですよ

 アキラはブラインドを指ではじき、日の光であふれる外を睨んだ。端からみたら、スーツ姿でこのような仕草をすると昭和の刑事ドラマを彷彿させるかもしれない。しかしアキラの視線の先には犯人の車でも、ミステリードラマの鍵を握る重要な人物でもなんでも無い。何も無い。ただその何も無いものに頼らなければならないほど、今の彼は追い詰められていた。

 ブラインドから手を離すと、パチン、と音を立ててブラインドが元の形状に戻った。それがアキラには「私もあなたには手を貸しませんよ」と言われているようで癪に障った。

 そりゃそうだよな。

 アキラはひとりごちた。


 あと一時間でこの部屋に警察が来る。容疑は1億円の横領、もちろん矛先は自分だ。逃げ場はない。逃げる? なんで。自分は何もしていないのに。

 何もしていない——本当にそうか? 本当は全部知ってるんだろ、もう一人の自分が問いかける。アキラは身体中の内臓という内臓全部吐き出すつもりで、禁煙とされているこの部屋で、タバコに火をつけた。

 ぷはー。

 声にならない吐息が副流煙と共に部屋中に充満した。この健康に悪い煙たちが今の状況の全てを消し去ってくれればいいのに、まるで忍者がそうするように——そんなことを本気で考えていた。


 話の発端はたった一時間前にさかのぼる。

 部下の小林が目を充血させてアキラの元へ駆け寄って来た。


「田嶋課長、まずいことになりました」


 目をくりっとさせた坊ちゃん刈りの小林君はいつもへまばかりで、まずいことなんてしょっちゅうだった。しかし今まで目を充血させたことはなかったため、アキラは真剣に話を聞くことにした。アキラと小林は人目を避けられるこの部屋に場所を移動したのだった。


「端的に言います。あと一時間で警察がここに来ます、容疑は一億円の横領、私と課長は逮捕されます」

「なんだって?」


 アキラは、な、の字を発する前に思わずのどをひっかけそうになった。なんでバレた?


「課長が驚くのも当然です。寝耳に水ですよね、我々まんまとハメられたんですよ。あいつに」


 アキラは怪訝な顔つきで、眉をひそめた。


「あいつ? 誰のことだ」


 演技に気づいかれていないだろうか、心臓が内側からバクバクと音を立て始めたのを感じた。幸いその様子に不信を抱くことなく、小林は興奮した犬のように唾を飛ばして話し続けた。


「安田です、半年前に辞めた安田美代子。あいつが経理をしていたときに何年もかけてちょっとずつ収支をいじってたんです。でもどういうことかそれをやったのは私と課長ということになっているんです。もう容疑は固まっていて、あとは逮捕するだけだという情報を掴みました」


 安田、か。アキラは予想していた名前に一生懸命驚いた表情を作った。

 安田美代子、独身。アキラは妻子ある身でありながら、彼女と肉体関係を持っていた。ラブホテルからの帰り際に毎回彼女は札束をアキラに渡していた。安田の実家は家が新築に立て直され、レクサスが増えるようなことがあったが、本人は比較的慎ましやかに過ごしていたため、あたりから怪しまれることはなかった。

 しかしアキラにはその羽振りの良さから何かやっているだろうことは想像できたが黙認した。安田から渡される札束は、毎週の競馬に注ぎ込まれ、その結果が当たろうが当たるまいが、居場所のない家族の中で過ごすアキラの冷たい人生に一粒の温もりを与えていた。

 半年前に彼女が辞めると聞いて、これで全てが終わると思っていた。これ以上彼女が不法に金を入手することはないだろうし、それが明るみに出ることもないと思っていた。

 それがこのタイミングで、しかも小林くんだけならいい、自分に罪をなすりつけてくるとは。許せない——私だって好きで君と体を重ねていたわけではないんだぞ、と思わず拳に力が入った。


「課長、お気持ちわかります。許せませんよね、こんなこと。逃げましょう」

「逃げるってどこへ」

「わかりませんけど、このままいけば私たち有罪確定ですよ、つかまったら逃げられませんから、日本の警察は」


 確かに日本の刑事裁判の有罪率は99.9%と聞いたことはある。だが逃げて変わるのか? ●ーンさんじゃあるまいし。小林はすでに部屋から出ようとしていた。


「私は残る」


 小林は振り返った。


「まじっすか。課長、カッコいいっす。そんじゃ」


 そう言って小林は扉のノブに手をかけると、そのままどこかへ消えていった。

 お世辞でもいいから、私も残ります、くらい言えんのかね、彼は。そんなことを考えながらアキラはパイプ椅子に深く腰掛けた。そして無駄な足掻きと分かっていながら、美代子にLINEを送った。


——これから警察が来る、1億円の容疑で私と小林くんは逮捕されるらしい——


 これで何かが変わるはずもないのに……。遺書代わりに送ったそのメッセージは意外と早く既読はついたが、返事はなかった。そういうことか、とアキラは一つため息をついた。

 その直後、アキラのスマホが震えた。見たことのない番号だった。


「はい、田嶋です」


 予想通りだった。どこかの警察署の誰々という名を告げて、話が聞きたいというのことだった。私が忙しさを理由に断ると、こちらから向かいますとの返事だった。もう腹は決まってるくせに。


 そして今にいたる。

 ああ、捕まえるなら早くしてくれ、この待っている時間がかったるい。

 どこか遠くから、サイレンの音が聞こえて来た。

 もうおでましか、意外と早かったな。アキラは目を閉じて、きたる衝撃に備えた。しかし、その音はやがてそのまま小さくなった。どうやら救急車だったようだ。


——そりゃそうか、わざわざサイレン鳴らすはずないしな、どうかしてるな——


 はっ、はっ、はっ、と大きな声で笑ってみると、アキラの腹の中にのしかかっていた、重い岩のようなものが消え失せた。

 その勢いでアキラは決意した。

 今までの全てを曝け出して謝ろう、安田がやっていたことは知っていました、私の監督としての不行き届きにつきます、反省しています、と。

 それであれば、警察もまさか命までは取るまい。誠意によっては執行猶予、うまくいけば無罪も勝ち取れるかもしれない。そうだ、知らなかったんだから。

 そう思うと気が楽になり、それからしばらく晴れやかな気持ちで過ごすことになった。


 どれほど時間が経っただろうか、突然トントン、扉を叩く音がなった。


「はい」

「失礼するよ」


 その声にアキラは飛び上がりそうになった。声の主が入ってくるや否や、アキラの背筋はぴんとなった。

 入って来たのは社長だった。入社して10数年、未だに遠くからしか見つめたことのない、神秘的な存在が今目の前にいる。そしてその後ろからは予想通り警察官が数人。

 アキラは膝まずき、額を床にすりつけた。


「申し訳、ありませんでしたっ!」


 もう踏み潰して欲しい、なんならぐちゃぐちゃにしてほしい、そんな思いでアキラは謝罪した。

 土下座をするアキラの頭上からはゆったりとした声が響いた。


「君、困るよ」

「はい、深く反省しております、このような不名誉な事実が起きたのもすべて……」


 おいおい、社長の神崎がそのセリフを制した。


「ここは禁煙だろ? 火事にでもなったらどうするんだ」

  

 へ? とまるで穴のあいた浮き輪がぺちゃんとなるような声が漏れた。


「ああ、たばこのことでしたか」

「ああ、じゃないよ君。いつも吸ってるのか?」


 まあいい、といいながら神崎は警察官を部屋に入れた。


「田嶋くん、とても言いづらいが……小林くんの事は聞いているかね」


 アキラは立ち上がり、背筋をピンとさせた。


「はい、この度は本当に残念に思っていますそれも全て私……」

「ああ、残念だ。今救急車で運ぼうとしたが、どうやら即死だったようだ」


 アキラが口をぽかんとさせた。


「そく、し?」

「その顔を見ると知らなかったようだね。先程交通事故に遭ったんだ。どうやらどこかに急いでいたみたいで。赤信号の交差点を突っ切ろうとして、横から来た大型トラックに完全に潰されたようだ」


 後ろから警察官が一歩前に出た。


「この会社での横領の内部告発がありました。捜査しているうちに小林さんの容疑が固まったため、田嶋さん、あなたにも話を伺おうとしてまいりました。しかし、これでは被疑者からの聴取は難しそうですね」


 アキラは膝ががくっ、となり崩れ落ちそうになるのを必死で支えた。それから左右に視線を一往復させてから、顔をきりっとさせた。


「そーなんですか、大変ご迷惑をおかけしました。捜査には全力で協力いたします、なんでもお答えしますのでおっしゃってください」


 アキラは腰を90度曲げた。警察官は、よろしくお願いします、と答えた。

 それからいくつか質問に答え、警察官は帰っていった。社長は気付けばもういなくなっていた。


 ふう、助かった。アキラの表情は明るかった。


——小林くんには申し訳ないが、逃げた罰だ。全部罪を背負ってもらおう——


 だがアキラは知っていた。この事故が偶然ではないことに。


——美代子、君は恐ろしい人だ——


 以前美代子はアキラに語っていた。私、車の整備の知識もあるの。やろうと思えばブレーキを効かなくさせることも可能よ。遠隔から操作する事だってできるの、と。


——美代子は用心深い人間だ、私のLINEを見て、きっと小林くんのブレーキにした細工を発動させたんだろう。まあおかげで私の罪は免れそうだ、それに私と小林くんに罪をなすりつけたのかと思ったら、罪は小林くんだけだった。美代子、よくやってくれた——


 アキラはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 

 その晩、会社を出たアキラは車に乗り込んだ。そしてエンジンをかけるためにブレーキを踏み込んだ。


——あれ? なんかいつもより硬い気がするけど、気のせいか——


 急死に一生を得たアキラは、空にも舞い上がる思いで、家路を辿るべく、夜の闇に向かってアクセルを踏み込んだ。

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逃げ場が無いのは分かっている 木沢 真流 @k1sh

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