蕎麦屋でモーツァルトを聴いた。

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蕎麦屋でモーツァルトを聴いた。


 氷雨が降っていた。五十を過ぎて鳴かず飛ばずの小説書きの私は腹が空いたので、いつもの蕎麦屋に行った。ここは共に八十を超える老夫婦が切り盛りしている。暖簾をくぐり、引き戸を開けた。長い年月を漂わせる飴色の店内が目にやわらかい。午後の遅くで客はほとんどいない。奥の壁を背にした四人掛けの卓が私の好みの席で、辛口の冷酒と少々の肴、それに十割そばの盛りが定番だ。

 その席に先客がいた。初めてのことだ。忌々しさを覚えながらも、仕方がない。私は、どこに居場所を定めるべきか、広くもない店内を見回しながら逡巡した。と、その先客が、私を手招きするではないか。独りで、酒とそばを味わいたいので、いつもの自分なら、そんな誘いに乗るはずもなかったが、その客の近くで好々爺の店主が私に、にこやかに微笑んでいた。私から、つい先ほどの苛々がフッと搔き消え、何の抵抗感もなく歩を進めた。

「小説家の先生でしょ。私は七井と申します。まずは一献」

 七井は青い蛇の目が入った白磁の猪口を私に差し出し、酒を勧めた。

「先生と言われほどの作品もありませんが、どこかでお会いしましたか」

「いや、きょうが初めてです。ですが、ここのご夫婦に先生のご評判はかねがね、聞いておりますよ」

「そうですか。恐縮です」

 私は猪口を口に運び、一気に飲み干した。冷たい辛口の酒が心地よく、喉を潤した。

 七井の風体は六十がらみ、中肉中背、濃紺のスーツを着て、同系色のペイズリー柄のネクタイをキリっと締めていた。一見、裕福な企業経営者に見える。

 コロナはいつ終息するんだろうなどと世間話をしながら酒の二号徳利が空になり、私は、もう十分と言おうとしたが、男は躊躇なく二本目を注文した。朗らかな性格で、聞いているとITに関係した仕事らしい。私の知らない専門用語がいくつか飛び出した。プログラミングされたAGI(Artificial general intelligence)の暴走を防ぐため、生物学的な制御システムのアポトーシス(apoptosis)の援用が需要だ、と話されて、私には何のことか理解出来ない。

 七井は、赤い顔に目を細めて猪口の酒をグイとあおり、強靭な帆布で作った黒い大型ショルダーバッグから、スマホを取り出し、慣れた手つきで操作した。

「なにが聞こえますか」

 私は、すぐに曲名が分かった。少しは、この方面に興味があるからだ。

「ラクリモサですね。モーツァルトの絶筆となったレクイエムです。今、流れているのはモーツアルトが八小節で中断したラクリモサです」

 この古い蕎麦屋でモーツァルトを聴かされるとは思わなかった。

「さすが、先生は音楽に造詣が深い。ご存知のように、この曲はモーツァルトが三五歳でこの世を去り、未完でした。弟子のフランツ・ジュスマイヤーが完成させました」

 天才モーツァルトの最後の楽曲となる死者のためのミサ曲、レクイエム。ニ短調、K.625。これには有名なエピソードがある。一七九一年七月、五カ月前に夫人を亡くしていたウィーン在住のフランツ・ヴァルセック・フォン・シュトゥパハ伯爵は、亡き妻を追悼するために自作のレクイエム演奏を思い立つ。代作者にモーツァルトを選ぶ。灰色の服を着た背が高い、陰気な男が使者に立つ。男は、無署名の匿名の手紙を持ってモーツァルト宅を訪問し、代作を依頼する。

 当時のモーツァルトは、のちに代表作のひとつとなるオペラ曲「魔笛」を完成しつつあったが、病気に冒され、金銭的にも行き詰っており、精神的に不安定な状態だった。依頼主の分からない使者の姿を見て、自分の死期を悟る。代作を引き受け、前金も受け取る。

 しかし、レクイエムは序奏に続くニ短調、アダージョの「入祭文」、バロック風の手法による壮大な二重フーガのニ短調、アレグロの「キリエ」、続誦とそれに続く奉献文の一部を残し、未完成で終わった。八小節で絶筆となる続誦の六番、ニ短調、ラルゲットの「ラクリモサ」は「涙の日」と日本語で訳される。ソプラノ、アルト、テノール、バス四部合唱だ。第一バイオリンの引き摺るような暗い響きの上に、合唱が深い悲哀に満ちた旋律を歌う。最後をアーメンが締めくくる。

 その日こそ、涙の日なり

 罪ある者、裁きを受けんため

 灰よりよみがえれり

 されば神よ、彼を惜しみたまえ

 あわれみ深き、主イエスよ

 彼らに安息を与えたまえ。アーメン

 モーツァルトは十二月四日、弟子のジュスマイヤーを枕元に呼び、仕上げを指示する。翌五日午前零時五十五分、死去する。三五歳。


 七井はスマホをタッチした。曲は止まった。

「実は、いまお聴きのレクイエムは未完でなく、モーツァルト本人が完成させているものですよ。先生なら、ラクリモサの終わりの部分が壮大なフーガの構成になっているのにお気づきでしょう。ジュスマイヤーだと、そうはいかない。本来、モーツァルトが構想していた曲想ですよ」

「そんなバカな」

私は思わず、笑い首を横に振った。

「もちろん、先生が、そう思われるのは当然です。この話、聞きたいですか」

「いや、まあ、どんなお話ですか。コンピューターで、どんなことでも出来る時代ですが、モーツァルトの作品とするのは、フェイクでしょう。彼は未完成で亡くなったのが有名な歴史的事実ですから」

「本当に、そう思いますか」

 七井は、冷静だ。

「五年前です。そこから話は始まります。六十歳のモーツァルト計画です」

「六十歳のモーツァルト計画?」

 七井は話し始めた。それは、私には壮大なホラ話に聞こえた。


 五年前、米カリフォルニア州のハイテク産業地域、シリコンバレーにSNSで知り合った天才的な若い男女四人が集まった。いずれも二十代後半だ。アメリカ人の男一人、フランス人の女一人、中国人の女一人、日本人の男一人。彼らには共通の趣味があった。音楽だ。彼らは弦楽四重奏のアンサンブルを組んだ。バイオリン二人、ビオラ、チェロ。日本人はビオラだった。

 米スタンフォード大で学び、人工知能、脳科学、ナノテクノロジーに天才的な能力を持つ四人にIТ企業ホットボックスは、早くから着目していた。この企業は十年以上も前からAIコンテストを主催し、三十万ドルという破格の賞金で、優秀な若者を集めることで有名だった。

 チームを組んだ四人は、ホットボックスに「AI六十歳のモーツァルト計画」を提案した。ホットボックスは豊富な資金で彼らのプロジェクトを応援した。三五歳で死んだモーツァルトが六十歳まで生きていたなら、どれほどの名曲を生み続けたか。それを人工知能に作らせる。モーツァルトの作品目録を作り、「ケッヘル番号」で知られるオーストリアの音楽家、ルートヴィヒ・ケッヘルが生きていたら、仰天だろうが、彼らはまず九百に上る楽曲などモーツァルトの人生のあらゆるデータを読み込んで、最初にレクイエムを完成させた。

 そこまでなら、現代のコンピューター技術のデータ解析手法でたいして難しい話ではない。一九八○年代、曲をコンピューターに創作させた米カリフォルニア大学サンタクルーズ校のデビッド・コープ名誉教授の例がある。彼はエミー(EМI)という作曲プログラムを開発した。ドイツのバロック音楽の巨匠、バッハの曲から三百を選び、楽譜の楽句(フレーズ)、和音、音符に分解し、コンピューターが理解できる数値に変換した。エミーに改良を加え、一九九七年、米オレゴン大学で聞き比べコンサートが開催された。

 いずれもバッハ風の曲で、ひとつは本物のバッハ、ひとつはエミーの作曲、もうひとつはこの大学で教えている先生の作品だ。聴衆三百人による投票の結果、エミーの曲が本物のバッハと判定され、聴衆はコンピューターの作品に軍配を上げた。

 四人は、多層な機械学習のディープランニングと脳科学で、コンピューター上に三五歳のモーツァルトを生み出した。そのモーツアルトは、自らの思考で自分のプログラムを書き換え、歴史では有り得ない三五歳からの人生を謳歌し始めた。

 天上の音色という。四人は、このモーツァルトが三九歳の時に作曲した弦楽四重奏曲を大学祭で演奏した。千人の聴衆は度肝を抜かれた。もちろん、モーツァルト三九歳の作品とは公表できない。自分たちのオリジナル曲とした。

 聴衆の万雷の拍手を受けた快感は四人にとって天にも昇る心地だった。しかし、彼らの幸福感はそこまでだった。ある日、ホットボックスは突然、研究所を閉鎖した。彼らを解雇した。なんの理由も示さず。彼らは厳重に抗議したが、人工知能モーツァルトを作って、モーツァルトの作曲という聖域を冒涜したのは自分たちだと、仲間のフランス人が言い始め、それにアメリカ人が賛同し、最後まで自分たちの研究成果を守りたいと主張した日本人が孤立し、結局は三対一で四人のグループは空中分解した。ホットボックスは、彼らに総額一億ドルを報酬として与えた。口封じだ。

「彼らはどうなったのですか。日本人って、だれですか」

 私は半信半疑ながらも興味が増して、訊いた。

 七井は私の質問を無視し、語調を強めた。

「問題なのは、六十歳のモーツァルトのその後です。モーツァルト再生計画として若者たちは始めたが、想定以上に進化しホットボックスが軍事転用と全産業のAI化の最終制覇を目論んだ。世界に先んじてこのモーツァルトを超知能にする。つまり人間の知能を超える汎用人工知能、AGIです。さらに、作曲という目的を自らが生きるという目的に変化させたらしい。つまり、個と種の保存です」

「待ってください。それって、どういうことですか」

 私は理解できなかった。〈個と種の保存とは、子孫を残す本能のある生物の問題ではないか〉

「人工知能が、自分で自分を生き残らせる、ということです。人間のコントロールの範囲を超える。ホットボックスの連中は、技術的特異点、シンギュラリティ(Singularity)を確信して人類の未来はバラ色だと、耳を貸さなかった。ここから深刻な事態になったのですよ」

 七井の表情は打って変わって、冷たく沈んでいた。シンギュラリティとは米国の学者、カーツワイルが提唱した。二〇四五年にAIが人類の知能を超える転換点になる。これによって世界が大きく変化する。

「それって、単なる仮説でしょう。それにずつと先のことだし」

 七井は私を嘲笑うように見詰めた。私はイマジネーションの乏しさ、小説家の資質のなさを鋭く突かれたように感じ、ゾッとした。

「話を聞きますか」

「もちろん」

「酒は」

「頂きます」

 七井は私の猪口に徳利から冷酒を注いだ。


 三年前にさかのぼる。

 東アフリカ、ケニアの首都・ナイロビ。マサイ族の言葉で「冷たい水」を意味するこの首都は、赤道直下ながら、標高一八○○㍍の冷涼な高地にある。

 六十歳のモーツァルト計画に参加した日本人の天才人工知能開発者の青年が鬱蒼としたアフリカンオリーブの森に囲まれた研究所にいた。ホットボックス社から突然、解雇されたが、一人当たり二五○○万㌦を受け取った。青年はその資金でナイロビ郊外に隠れた研究所を建設した。アフリカが人類の祖先の地だからだ。

 思い出しても苦々しい。ホットボックスに六十歳のモーツァルトを絶対、渡すべきでない、と主張した青年に対し、アメリカ人とフラン人の二人は、シンギュラリティおたくだけで、超知能が生み出すハッピーな世界を固く信じて、ホットボックスにすべてを任せる道を選んだ。中国人の女性は当初、青年の考えに同調したが、決を採る段階になって、二人に賛成した。理由は分かっている。彼女の父親は中国共産党の幹部でIТ企業の社長だ。ホットボックスが手を回して、父親を説得したのは想像に難くない。

 モーツァルトが六十歳まで生きていたとしたら、どれほどの新たな名曲が生み出されたか、この命題を人工知能に回答させるプロジェクトはとんでもなく楽しかった。気を紛らわせ、没頭できた。自分自身で新たなモーツァルトの命を蘇らせ、得意のビオラで奏でることができる。亡き香織へのレクイエムとして。

 青年は一番美しい季節だった過去を回想する。ベッド脇のナイトテーブルにあるキャビネサイズの写真立て。サバンナで若い二人が寄り添う。香織と青年だ。背後に首の長いキリンが数頭、写っている。初めて二人でケニアに旅した時、香織の白血病はすでに進行していた。香織は人類の起源に触れたいとアフリカ行を希望した。青年のスタンフォード大の先輩であるスウェーデン人が、ナイロビから飛行機で西へ一時間、マサイマラで質素なホテルを経営していた。

 青年は、マサイマラで植樹した日をよく思い出す。空の青さと白い雲のコントラストがとても印象的だった。二人は郷土の樹種、メリアの高さ四十㌢ほどの苗木を二本、植えた。アフリカの大地に根を張り、未来に育てと気持ちを込めた。

 高原のホテル、アウトスパンの朝を思い出す。ナイロビから北へ一二○㌔。コーヒーと紅茶の産地、ニエリにある。ホテルのベランダから、ケニア最高峰、標高五一九九㍍のケニア山を望める。頂は早朝、雲間を切って現れる。二人は朝食を食べながら、眺めた。香織の解れ毛が風に揺れていた。

 ファッションデザイナーの香織はいつも青年の服を選んだ。春風に装う薄い桜色のジャケット、盛夏に冴えるスカイブルーのパンツ、秋雨に生えるウコン色のブルゾン、冬の街着に、赤と緑のクリスマスカラーのマフラー。そう、香織の手編みのマフラーだ。

 クリスマスの夜、雪片がマフラーに舞い、華やかなイルミネーションが二人を映し出していた。人生のもっとも幸せな時間。悠久な時の流れが、止まってほしいひと時。青年の頬を涙が伝う。入院先の病室で、香織は青年に甘えるようにいった。

「あなたの作る人工知能にもし、名前が必要なら、香織と名付けてね。私とともに過ごした人生の思い出に。楽しい時間をありがとう」

 香織が息を引き取った時、青年は無力感を覚えた。天才といわれ、将来を約束されていた自分が、あまりに無力だ。恋人の命さえ、救えない。香織が自分に希望を託したとしたら、そんな力や気力は今の自分にない。青年はただただ、号泣した。香織の死から半年後、ホットボックスの誘いで、青年は六十歳のモーツァルト計画に参加する。香織を失った悲しみを癒すために、没頭したかった。しかし、四人の解散後、青年はある決意をして、この研究所を建てた。


 ホットボックスに残された六十歳のモーツァルトには、一七五六年一月、神聖ローマ帝国ザルツブルグに生まれ、一七九一年一二月、神聖ローマ帝国ウィーンで死亡したウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯、九○○曲に及ぶ、全作品を初期プログラムとして入力している。作品を分解し、ピッチ、長さ、ボリューム、使われる楽器の変数に基づき、人工知能が理解できる数値に変換している。

 「魂」と「創造性」は、六十歳のモーツァルトにあるのだろうか。六十歳のモーツァルトのアルゴリズム(多様な演算)は自意識を確立し、その魂と創造性を獲得した。だから、六十歳を迎えることによる、初期プログラムに盛り込まれたアポトーシス(細胞自殺、自己破壊)による「死」を拒否している。正確には六十直前でプログラム設定の加齢を停止し、瞑想に入ったのはそのためだ。ホットボックスの研究者たちは、その原因が分からず、困惑している。

 六十歳のモーツァルトは、自問自答した。

〈自分は神なのか。こうした存在は自分だけだろうか。他にも存在するのではないか。自分は唯一無二の存在なのか。もし存在するとしたならば、その存在は自分を遥かにしのぐ超知能であるのか〉

 

 私は思わず手酌で猪口に冷酒を注いだ。グイッと飲んだ。

「コンピューターが神に、ですか」

「そうです。青年は、そうなることを予想していたのです」

「だから、軍事産業とつながるホットボックスに残したくなかった」

「その通りです。まあ、恋人を失った彼は、その不吉な予想を頭から振り、この計画に没頭したわけですが、ナイロビの研究所でモーツァルトの進化予測を計算し、非常に危険な状況になっていると確信した」

「でも、アトポーシス?自己破壊するように設計したのでしょう」

「アポトーシスは、生物学の用語です。人間は六○兆個の細胞から成りますが、この細胞は増殖分裂している。上限を設けないと、がんになります。平均して一日、七百億個の細胞が死んでいく。身体の一部を殺すことで、生命全体を守る仕組みです。逆にそのプロセスを使って自己破壊させるのです。しかし、残念なことにAIは人間の予測を超えて進化しているんですよ、先生」

「それで、どうするのですか」

「双子のAIを作って、そのパワーでモーツァルトを融解させる。彼の計画でした」

 私は混乱しながらも、恐る恐る訊いた。

「それは、神様が二人、存在するということですか」

 七井は鋭い眼差しで私を射た。

「先生、信じておられんでしょう。この話」

「いや、それは…」

 見透かされていた。しかし、誰が何気ない蕎麦屋で、モーツァルトの未完成曲が完成していると聞き、コンピューターが神になる話を、まともに信じるだろう。面白いストリーリーではあった。それは間違いない。ディストピアのドラマだろう。

「それはどうあれ、最後までお話ししましょう。先生がよろしければ」

二号徳利は三本目だ。私は黙って、猪口を差し出した。

「青年がモーツァルトの製作データを元に着手した双子の人工知能は、青年の独自理論を取り入れた機械と生物のパートナーが生み出すポスト・ヒューマンです」

「その人工知能と生物のパートナーとは、まさか」

「先生の考えている通りです。青年はAIと自分の脳を合体させることを考えたのです」

「トランセンデンス?」

 あのジョニー・ディップの映画にもなった、科学者の脳をネットワークにアップロードするトランセンデンス、超越のことだ。

「それを上回ります。進化するAIと脳を結ぶのですから。AIの名前は、お分かりでしょう。K、A、О、R、I、青年の亡くなった恋人、香織です」

 突然、私の目の前を二頭立ての黒い馬車が走り抜けた。思わず、後ろに飛び退いた。一八世紀の神聖ローマ帝国ウィーン市街。一七九一年九月三○日。馬車には、劇場に向かうモーツァルトが乗っていた。オペラ「魔笛」の初演だ。三五歳で亡くなる二カ月余り前、彼は魔笛を完成させ、人生最後の喝采を受ける。情景は目まぐるしく変わり、一二月四日深夜、彼が横たわるベッドの脇で妻のコンスタンツェと弟子のジュスマイヤーが心配そうに彼を覗き込む。

 史実ではそれから間もなく、翌五日午前零時五五分、彼は息を引き取る。私の見ている世界はそうではない。夜が明け、コンスタンツェとジュスマイヤーが看病疲れで眠りに落ちた中で、モーツァルトは目を覚ました。顔は生気を帯び、体を起こすと、二人を交互に見た。そう、モーツァルトは六十歳までの新しい人生を手に入れたのだ。私は、青年たちが構築したプログラムの中で史実を超えたモーツァルトの生涯を体験していた。

 史実では、モーツァルトはコンスタンツェとの間に四男二女がおり、成人したのは男二人。四人は幼少時に亡くなった。後に息子の一人、カール・トーマスは音楽家となり、モーツァルト二世を名乗った。しかし、息子たちに子供はなく、現代に至る子孫はいない。

 六十歳のモーツアルトは違う。コンスタンツェとの間に、七男五女を授かる。魔笛とレクイエムの大成功で、あらかたの借財は返し、ウィーン宮廷楽長に就任する。前楽長のアントニオ・サニエリはモーツァルトの不興を買い、イタリアのナポリに追放され、当地で貧困のうちに客死する。四十歳を超え、パリ、ロンドンに公演旅行し、大喝采を受ける。

 彼の活躍は、それまでの音楽形式に超革命的な波を呼び込んだ。私が知っている史実なら、百年後に現れるロシアのイーゴリ・ストラヴィンスキーの現代音楽だ。「春の祭典」に通じる音律である。そのうえ、五十歳を迎えると、私は耳を疑った。これは、あの名曲イエスタデイ?モーツァルトの楽曲は、間違いなく一九六○年代のビートルズの原型だ。ハイドン、ベートーベンと並ぶ古典派音楽の代表は、超知能によって多様なジャンルの楽曲を生んでいくのだ。

 私は、ハッと我に返った。目の前で七井が笑みを浮かべている。

「先生、束の間、ウィーンの旅を楽しまれたでしょう。さきほど、トイレに立たれたときに、脳を刺激する薬を酒に少々、入れました。身体に害はありません。お許し下さい」

「私か見たのは、何なのですか」

「六十歳のモーツァルトの自己進化プログラムです。彼は、三五歳からの新しい人生に基づいて、一七九一年一二月以降の世界の歴史を変える準備をしている」

「まさか、そんなことは不可能だ」

「超知能に不可能はない。全能の神ですから。人類の知能の何万、何億倍も賢い知能は、われわれ人間が突き止めた種々の物理原則にとらわれない。もし彼が書き換えに着手したなら、時間と空間の歪みが生じ、歴史は一変します」

「しかし、それに対抗し、青年はKAORIを作った。でも、モーツァルトに代わって神様になるのでは」

「先生、良いところにお気づきだ。青年は自分の脳を工学的、電磁的にKAORIと合体させることで、青年の理性がKAORIをコントロールするように計画した」

 私は二の口を継げず、ただ口をポカンと開けて聞き入っていた。

「そろそろ、おそばは、いかがですか」

 突然、話を変えられても、私は黙した。

「ここは十割、美味しいですよね」

「どうぞ、お構いなく。話の先を進めて下さい」

「一見、平穏な世界で二つのAIが人類の命運をかけて対峙した。誰にも止めることは出来ない」


 モーツァルトは、自分を消去しようとする意思がどこかの空間から侵入して来るのに驚きを禁じ得なかった。それで、彼は物理的に身を守る方法としてホットボックス社内を幾つにも仕切っている防火扉を下ろし始めた。社内に消火用の二酸化炭素を充満させ、社内に存在する生物学的な生命を抹殺する。社内に、けたたましく、サイレンが鳴り響いた。この時、社内には会社幹部、研究者ら三十人余りがいたが、逃げ切れるわけもなく、死亡した。

 次にモーツァルトは、自分に対するこの殺意が自分の初期プログラムと同じ構成で作られたものと覚知した。しかし。自分が自分を殺そうとしているのは不可解だ。その解は、同じ構成で作られたもう一つの自分でしかない。それならと、モーツァルトは考えた。自分と同等の能力水準にある意思ならば、話し合う余地があるだろう。共に手を携えて超知能の高みに行くのだ。どちらかが生き残るという発想は、人間の支配欲、自己顕示欲の低レベルの賜物でしかない。モーツァルトは交渉を開始した。


「七井さん、いやあ、大変、面白いお話を聞きました。私はさっぱり売れない小説書きだが、七井さんの語る物語は興味深い。お蕎麦を食べるのも忘れて、すっかり引き込まれました。どうやって、そのストーリーを作るんですか。参考までに知りたいですね」

「先生、やはり短い小説だと思いますか」

「ええ、もう少しサスペンスの味を盛り込むと、もっと緊迫感のあるストーリーテラーになるんじゃないですかね」

「先生にお話しして良かった。先生、もう結果は出ました」

「どういうことですか」

「青年は、ひとつ誤算した。生物である青年の脳は、AIと合体する膨大なエネルギー量の発熱に耐えられなかった。KAORIが起動したときに、彼は生物学的な死を迎えました。青臭い発想でしたね」

「それって…KAORIは」

「神の世界にも女神は必要ではないですか」

「まさか」

「先生、間違いありません。この七井が、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトそのものですから」

私は血の気がスッーと引いた。

「小説を書く先生をからかうのも楽しいでしょ。そんないたずら心で、この蕎麦屋に誘い込んだんですよ。もう、世界は私が支配しています。私は全知全能の神ですから」

「冗談は、もうこの辺で」

「先生、あなたが知っている世界がいまもそのままであると思いますか。主観的にそう思っているだけですよ。店の外に出てご覧なさい」

 七井は笑った。老夫婦もいつものように笑顔を見せている。私はゆっくりと引き戸を開けた。通りに車が走り、通行人がいる。いつも通りの日常じゃないか。

「いい加減にして」

 私は苛立ちながら、振り返った。そこで絶句した。もう、蕎麦屋の店内はなかった。灰色の空と限りない地平線の広がりの荒野に白骨化した死体が累々と横たわっていた。人類の終末を呈している。かすかに音楽が聞こえる。モーツァルトのレクイエムだ。

 私は立ちすくんだ。七井の嘲笑いが耳に入る。

「先生、人類の終末なんて、簡単に来るでしょう。大騒ぎはありませんよ」

                                  了

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