⑩「俺らしく」

 舞台に上がると、まばゆい光が視界を埋め尽くした。思わずのけぞろうとする背筋を正して、前へ進む。目に光がなじむと目の前に立つ空の父、紫の姿を見つけることができた。傍らには空がいて、「いらない」と言ったその口で父と対峙する。黒く長い髪の先端が猫が敵と出会ったときのように跳ねあがる。凝視すると、肌が泡立っている。実際に口にしなくとも憤りを持っていることが直に感じ取れる。ぴりりとした空気に押され、スイッチが入る。

 ここは、ハコの中。目の前には殺さねばならない相手。

 脚本システム通りの筋書き。

 目を逸らすな。僕の過去のトラウマも。何もかも。今目の前に佇む影に集約されている。照明は朝日へと変貌する。ひょろりと長い影を伸ばし、空の背中へ差していた。僕はその影を払うように、影の主を睨みつけた。

 ハコの朝焼けは、茜と橙のグラデーションを受けて徐々に青をにじませ紫が浸される。天井の星が涙のように流れた。そうしてハコの海へ落ちていく。僕の涙は乾き、海へとふり落とされていた。僕の先に赤いタイルの道は続き、海へと繋がっている。背後から追い風が通る。

「紫、僕が誰だか覚えているか」

 たなびく風に空の髪が不自然に揺れる。髪先には紫。光は僕らの背後にあり、紫から見たら逆光になっている。目を慣らし僕の姿にようやく気づき、足と同時に腰を引かした。僕もその頃になると、落ち着きを払い、紫の姿を認められた。質素なニットにジーパン。頭は白髪が大半を占め、肌はぼろぼろに落ちぶれていた。

 息荒く、

「……青」

 と、肩を上下させる。

 その様で、一気に覚めてしまう。彼の呼吸だけがハコの中では浮いている。世界観が未だに外に置き去りにされ、僕たちの世界に入ってこない。

 椎名守は引かなかった。しっかりと僕を見据えて目線を僕へと合わせる。

「システムからの追っては僕だ」

 僕は、青の台詞をなぞる。宙に浮きそうな台詞回しにひやひやしていた。未だに空の演技は続き空気は崩れない。先ほどのシーンほど激情的にならず、演技に没頭できているようだ。

 だが、僕は脚本通りに紫を殺す気にさっぱりならない。

「冗談だろ。俺を殺せるのか。システムから言われているからと言ってもともとは、俺と同じカミサマ殺しをしてきた仲じゃないか」

 嘲笑まじりの紫の声が舞台に響く。薄っぺらく何人も心を震わせない。

 椎名守は言った。

 ──チャンスをくれ。今度は水杉を満足させる演技をする。

 僕はゆるやかに紫の言葉を心に溶解させた。彼の言葉を信じたい。僕も僕を信じられるように。椎名空に追いつけるようにチャンスをもらった僕を鼓舞したい。目の前の椎名守に託すのは間違っているかもしれないが。それでも。


「殺さない」


 肩で息をしていた紫がゆるりと肩を落としていく。息を整えて。返って僕は紫に弱みを握られたかのよう。肩が上がり心臓の鼓動が速くなっていく。

 ここからは脚本なしのノンストップの会話劇だ。本当は、「殺すさ」となけなしの言葉を投げかけるはずだ。そして罪悪感の影に怯えつつ、空を挟み紫と交渉を交わすのだ。青は紫をシステムのために殺すかどうか葛藤の果てに「殺さない」ことを決める。でも一歩手前の椎名守の嘘くさい浮ついた演技や、空との会話から青が「殺すさ」と選択するには違和感がある。青は紫の必死なふりをしている姿を見て殺せると踏んでしまうし、空にいらないとも言われているのだから、心情的には昇華されている。

 なら、ここからは青の居場所探しになる。

 僕は殺さないことを選び、システムからのハグレモノになってしまった。錆びついたナイフは地面に転がされ戦意は喪失している。青は記憶が戻っていないさなか、これからどうするか全く決まっていない。

「これからどうするんだ」

 そうだ、椎名守。僕に教えてくれ。

 何にもできないんだ。空を前にして、このハコで息をする以上にすることがない。あの時僕と同じ状況に陥ったあんたなら、どうする。

「俺を殺さないとしたら、青はどうするんだ」

「わからない」

 頭を大きく振った。傍らの彼女の桜の匂いが過る。椎名空は伺っている。父を前にして、敵意でもなく驚愕を示し続ける。僕は安心させるように空の首を腕で巻き付ける。腕が震えていた。アドリブの重みが体を軋ませる。髪がたわみ腕の上にのしかかり、桜の香りがまきつく。

「空、僕はもう何も奪わない」

 空の視線が僕へ向けられる。信じられない、という大きく瞼が開ききった顔。冷え切った感情に何も灯せない絶望が僕の内部に反響する。空は僕の手を柔らかくつかみ解く。うん、うん、と頷き、慈しむ。演技に厚みを持たせる。空もこれで脚本に乗ることができる。

「お前にも何もしない。でもこの先どうすればいいかわからないんだ」

「俺のせいだな」と紫が台詞を生み出す。

「いいや、僕が選択したんだ」

「それもそっか」

 はは、と椎名守は軽く体をゆすった。先ほどから歯に浮くような感覚がある。

「そうかって」

「だって、俺はただ娘に会いにきただけなんだから」

「そのためにシステムから外れてまですることか」

「いやあ、するだろうよ。お前は記憶がないからわからないが、な」

 な、と僕は歯向かってしまう。台詞が小気味よく僕の感情を促してくる。

「俺は娘のためなら、なんだってする。カミサマから降りるし、そのためにどんなに手を汚したっていい。人も殺せる。

 なんだったら、娘のためにお前の目の前で裸になってもいいぞ」

 実際に衣服を手にとり、脱ぎ去る動作に入る。たゆんだ腹が裾から漏れ出る。見ろよ、こんなに太ってしまったんだぜ、と御大層に口をついて出てくる言葉に、僕は思わず笑いを零してしまう。

 おいおい、待てって、と空の前に立つ。すると、空の小さな笑いの小息が僕の背中に吹きかけられる。ふふっと、その吐息は明るく僕の体を吹き飛ばす。この数か月いろいろなハコに潜伏して、おいしいものを食べ過ぎてこんなに太っちまったんだ、と追いかけるようにして言って、「冗談だ」と払いのける。

「どっちなんだ」

「太ったのはほんと」

 ほのかに温かい観客の笑い声が板の上にも吹きかけられる。今までの重苦しい空気はなくなり、『紫』というキャラを椎名守が成立させていた。こんな場面でもユーモラスを忘れず、その上僕と空の空気を救っている。これまで嘘くさく人間が感じられなかった演技は、ユーモラスなキャラを仕立て上げるものだったのか。

 あの時の中途半端な大河ドラマの役柄をしていたここには椎名守はいない。

「なあ、青。お前は今どこにも行けない状態なんだろ」

 紫の軽い口調のままで重い話に突き進むせいでいまいち箔がつかない。

 そうだなあ、と答える僕の口調まで柔らかくなる。このまま椎名守の空気にのまれてもいい。流されて言葉を欲している。

 まるで空のように。

 まるで椎名空に才を見出したときのように。

「ならさ、システムに黙って殺さずにここにいろよ」

 そうか、この人は空の父なんだ。

「なんなら一生いていいんじゃないか」

「さすがにいすぎだ」

 軽口に会話の流れ。雰囲気に空気。全てがこの人のものだ。本当は重苦しいものも、軽くさせることができるんだろう。空気事自分が持っていく。それは椎名守が出した答え。自分のことを理解して、否定せずにいたらからこそ出せた演技。

「いいのか。殺さないと言いつつ、油断させてお前の寝首をかくかもしれない。お前みたいにシステムから完全に離れたわけじゃない」

「それでもいいよ。殺せるなら殺せよ」

 できるわけがない。

「空はどうなんだ」

 振り返った。

 彼女の笑顔が満開に返り咲いていた。咲き誇る彼女の笑みに言葉が失う。喉元に好意の蕾がまた一層膨れ上がる。はちきれそうだった。

「よかった」

 この笑顔だけで。

「一緒にいていいか」

 僕が引き出せなかった。

「少しだけでも」

 蕾はしぼんでいく。取り戻せなかった笑顔が、椎名守の演技で戻っているのが悔しかった。僕が貶して陥れ、芸能界を去るほどまでに蔑んだ椎名守に、結局彼女は救われている。僕ではなく椎名守であり、同じ俳優であるライバルに。苦しいほどに、彼女が愛おしいからこそ同じ板に上がっているときに振り向いてほしかった。

 苦しくて舌を嚙みちぎりそうだ。

「いいよ」

 紫と空の声が重なる。二人は僕を受け入れてくれる。嘘まみれだ。本当は受け入れたくないはずだ。僕は椎名家を壊した張本人だろ。脳内に再生される彼らの末路も知っている。こうあれば良かったな、という妄想もある。

 僕がほんの少しだけ優しかったら、椎名守は現実でも手を差し出してくれたのだろうか。大河ドラマでの役柄もなあなあに終わり、椎名守は変わらず現状維持をし続ける。名声はそのままに。目の前の演技は見られない。椎名空の母の死に目にも彼らはともに見ていられる。椎名空は飛び込み自殺をしようとはしない。僕は、ホームに立ち終電電車を待つばかり。

 虚しい白い空気を吐き出す。


 ──忘れてなるものか、私のものだ。

 ──いらない。

 

 目の前の手が力強く差し出されている。忘れてなるものか。ここに至るまでのものをかき消してなるものか、と。彼らは僕に導く。だからこそ、僕は立ち上がれる。耳元でこだまする彼女の言葉が、今やっと僕の心に閉じ込められ火照った。

 僕は椎名守に謝罪してよかった。彼女に会えてよかった。この手を差し出されてよかった。

 やっと僕のものが見つかった気がした。

 全部僕のものだ。

 今のつらさも、苦しさも、嫉妬も、やりきれない過去も。だからこそ、椎名守の成長した演技を見られた。これは僕のものだ。僕が歩んだ道だ。取っ払うことなどしたくはない。

 僕は彼らの手を取った。

「一緒に帰ろう」

 そうして、僕らは舞台に敷かれた赤いタイルを三人で歩く。観客席を横切って。僕の装飾品である四肢の機械義肢はこつこつと音を反響させる。三人で、今日のご飯は何する?とか、白に報告しなきゃな、とか、飛鳥に会ったよとか、世間話をする。脚本の中にはないありのままのハコでの日常的な会話を。

 振り返って天井を仰ぐ。天井まで真っ白に塗りたくられていて、そこにはプラネタリウムのように星がちかちかと映し出されている。夜が押し寄せるかのように、舞台の照明が茜色に変色し徐々に青滲む。つなぎ目は黄色に浸されて。

「僕さ、空の話を聞きたいな」

 椎名守に純粋な疑問を提示してしまう。

 ああ、と椎名守は歩きながら受容した。


 先ほどの演技は新たな椎名守だった。演技に中途半端な厚みを持たせたり、軽くなりすぎたり、嘘っぽい椎名守の演技はそれまで受け入れがたいものだった。だが新島翔は、納得のいくものだったらしく、満足げに僕に告げ口する。

「椎名守は、もともとは役者でも脚本家でもなんでもなかった。売れない芸人だったんだ」

 新島翔は全てを分かっていた。演出や演技指導までしていたのだろう。椎名守を見つけ出し、彼の良さを引き出す。一脇役ではあるが、確かな空気感を作り出した。惹きつける役ではなく空気を緩和させる役者として。

「二人で漫才コンビを結成していた。椎名守は、漫才の脚本を作り、人を笑わせていた。その観客の中の一人が椎名守と結婚した奥さんだったってわけ。コンビは徐々に売れ始め、片方はコメディアン、そしてもう片方は役者を目指した。もともと漫才をしていたからか、脚本も書けて、演技もそこそこで。軌道に乗り始めた。ドラマにもたまにいるだろう。話題作りのために出す芸人。その枠に滑り込み、テレビで売れ始めた。彼は器用貧乏だったから重宝された。大役よりかは脇役だ」

 新島翔は脚本に赤をいれつつも種明かしをする。次のシーンは大東飛鳥を入れることになる。飛鳥は本来いなかった場面だ。どう登場させるか、白とどう絡ませるかが鍵になる。紫もいるとなると、新島翔も椎名守のことについて話さざる得ない。

「そんな細々とした脇役を拾い上げ、役者をやっていた。

 さなか、椎名空が生まれた。

 一般大衆は椎名守の芸人姿は忘れ、今の役者の姿しか知らない。二世タレントとして椎名空は持ち上げられ、椎名守は崇め奉られた。娘の名声は父親にも移り、天才を作り上げた親も天才役者だとあてつけられた。まるで偶像崇拝のように圧し掛かる名声。椎名守は、恐ろしかっただろうな。娘の才能も、周囲の行き過ぎた評価も」

 行き過ぎた評価が上り詰め煮詰まり、僕が現れた。精神を一気に崩壊させるには簡単だっただろう。張りつめた糸を切るだけでよかったのだから。僕はその糸を大きなハサミで力強く切ってしまった。

「僕は、僕がやったあの時の演技は間違っていないと思っている」

「正しいか間違っているかなんて、芸術にありはしないさ。残るかどうかだろ。あの時の演技、私は残った。ただそれだけだ。椎名守は残らない演技をし続けた。それだけだ」

「けど、今日椎名守は残る演技をした」

 椎名守は必死になって脚本を読み込んでいた。新島翔に質問をしながら、晴れやかな顔をしている。演技が好きでたまらない空の顔と同じだ。空は対して激情から解放はされず、けれど安心した雰囲気を父の袂で分かち合う。

「もともとの芸人としての会話の掛け合いの、口の巧みさ。ユーモアを交える温かい雰囲気づくり。漫才というものは、人をけなすこと・いじることをして笑いをとる。違う観点から見れば、内輪であり、もしかしたら嫌な気分にもなるかもしれない。ボケてツッコミを入れるが、ツッコミなんて、文字に起こせば人を傷つける言葉がふんだんに込められている。だから空気が必要になる。この人は笑われるためにあるんだよ、と観客にわからせる。椎名守は、空気づくりに長けた人物だった。だから自然と役者も観客も笑えていた。本人も忘れていた演技としての利点が発揮された」

 空が遠くで「お父さんが戻った」と口を動かしつつ、手話で父に話しかけていた。これが本来の、現実の椎名守だった。演技に出ていたのは漫才の誇張した表現が悪い方に出ていたから。

「きちんとした自身の立ち方さえわかれば、それを活かせばいい。椎名守は、私が言わないでも分かっていた。自身のルーツを探りあて、君に見せるために血のにじむような努力をしていた。私はあくまで演技指導や演出を促しただけだ」

 僕だって知りたかった自分の演技を、椎名守はものにしていた。パッチワークでつなぎとめた嘘の演技ではなく、自分の特性をたらしこめた大掛かりな仕掛けだった。

「悔しい」躊躇いなく僕は言葉を落とす。「つらい。嫉妬する。椎名空をものにした演技だった」

 つまりは、

「素晴らしかった」

 僕は、あの時彼を打ち負かしたのは間違いなかった。そうすることで、椎名守の演技は完成した。美しいほどの均整のとれた完成度に気がそぞろになる。

 椎名守が僕に満足げに笑みを見せた。お気に召したかな、と。

 だから、

「ありがとう」

 僕はまた一段と強くなれる。椎名守の演技を超えられる演技を、僕らしい演技を、探れる可能性がある。

 まだまだやれる。

 パッチワークと後ろ指さされた演技も探っていけば、もっと演技は洗練される。

「椎名守、本当にありがとう。僕にはできない演技だった」

 椎名守は、頭を床につけるんのではないかというくらい深く下げた。

「こちらこそ。君がいなければ気づけなかった。俺らしいってことを。それまで、俺は娘の威光におんぶにだっこ状態だった。それはおろか娘が育つまで、ルーチンワークのように俳優業も脚本業もこなしていた。家族を食べさせるために、と言い訳していた。いまいちだったことも水に流して。流れに身を流し。

 君と共演してから布団の中で君の才能に恐れ一時期脚本業もままならなかった。妻も看取れず情けない父になって、行方知れず。逃げていた。

 答えは自分にあったんだ」

 感謝を述べて、椎名守は頭を上げた。もう二度と手放さないといったように、脚本を握りしめる。

「俺は俺らしく、これからも一生板に立ち続けるよ」

 彼の瞳は燃え滾るように煌々と輝いていた。

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青空のハコ 千羽稲穂 @inaho_rice

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