⑨「チャンスをください」

 心ここにあらず。目の前にいるのは空の父親である、僕が芸能界を追放させたといったも過言ではない、椎名守。蒸発し行方知れずとなっていたのに、なぜ板の上に登場しているのか、理解が及ばなかった。頭の中でかき乱される思考の渦に飲み込まれ、解き放たれる。そして離された先で僕は思考を放棄した。

 白紙になった思考は舞台セットを目で追う。舞台に照らされた青い光が照り終わる。波間が揺れる映像が透き通り、だんだん板間の壁が浮き彫りになってくる。白い壁に椎名守の輪郭が象られ、目の錯覚ではないことを克明に感じ取れる。現役時代よりも肌は荒れ果てて、瞳の中のきらめきも失っている。首が長く、首長竜よろしくのっそりと重々し気に首をもたげていた。首長竜の首が持ち上げられる。目の下には化粧で隠せていない隈が黒く塗りたくられていて、何十ものしわがよっている。初老。そもそも僕と空の年齢はさして変わらない。僕の両親もそろそろ還暦に近いのだから、椎名守だって年をとっていてもおかしくはない。芸能界にいたためか、自身の老いへの判別が衰えていたのだろう。彼は列記とした俳優なのだから。しかし、今現在の彼は、僕が会ったときよりも年齢に近しい見た目をしていた。

 僕と空は幕間に引っ込みつつも椎名守へ近づいていった。空の歩みは早く、僕の足取りは重く。

「水杉彰、か」

 思ったよりも軽く開かれた椎名守の口を見ていられなかった。

「久しぶりだな」

 それよりも、あんたは椎名空に言うことがあるだろう。

 僕は、知っていた。稽古中に当たる僕への空の敵視や、今の今まで進めた劇中での空の激情を。だからこそ、椎名守を僕がどう変えたのかなど手に取るように理解ができた。

 でも、あんたを前にしても、一向に僕はあの時僕がしたことに後悔が生まれない。むしろ、やはり椎名守は評価されすぎているとすら思えてくる。

「覚えてもらえていて光栄です」

 貼り付けた笑顔は崩さずに、舞台の外でも演技を続ける。これが稽古での、他の時も続けている僕の表裏一体の顔だった。空には申し訳ないが、今は舞台を続けるために、嘘を重ねていく。底にある感情を押し隠し。つもりつもって、吹き出しそうになるのを押さえながら。

「俺のことも覚えていてもらって嬉しいよ。てっきり忘れられてしまったのかと思っていた。あの時から結構な年月が経っているからな」

椎名守が消えて、椎名空が低迷してから一年。

「いえ、こちらこそ」あなたのような偉大な俳優に、と言おうとして口をすぼめてしまった。椎名守よりも軽口を叩けそうになかったのだ。

 それよりも、と椎名空が僕の服の裾をひっぱって後ろに引く。僕をのけぞらせて、父の前におどりでた。

「どこに行ってたの」

「すまなかった」

 椎名守はこざっぱりした返答を繰り返す。手でもごめん、と手話を交わす。瞬間はちきれんばかりに空は手を動かす。うすぼんやりとした幕間では、手話の方が空は見えやすい。ひらひらと紋白蝶が舞うかのように手の言葉が交わされる。何を言っているかわからないが、椎名守の表情が曇っていくのでおそらく責め立てられているのだろう。だが、舞台の時間は、否応なく進む。手早く再会は済ませなければならない。わだかまりが僕と空に生まれ始めるのに。次の場面までもう暇もない。刻一刻の間に

 と、そこで椎名守は、空の文句を突然押しのける。僕へ突き進む。椎名守は僕の瞳をまっすぐに見つめ、こういうことを頼むのはどうかしていると思うが、と念頭に置き。

 一息に。

「チャンスをください」

 椎名守が頭を下げた。空気がぴりつく。既視感が目の前に揺らぐ。それは在りし日の椎名守本人がした行為だった。

 あの大俳優が僕のような無名に近しい俳優に頭を下げている。

「水杉が、本当に求めているものはわかっているつもりだ。俺は、水杉の演技の前から逃げ出した。もう二度と逃げ出さない。だから、チャンスをくれ。今度は水杉を満足させる演技をする」

 それは奇しくも、僕が空に対して思っていることと同じで腹立たしくなる。僕に追いつくなんてすぐにできる。僕は他の人の演技を食っているだけで、本当にすごいのは僕ではなく演技を食った元の役者だ。何にも才能がない椎名守は僕に追いつけるが、僕は違う。椎名空にどう追いつけばいい。本当に才あるものにであったとき、どう立ち向かえばいい。

「やってみろよ」と僕は椎名守に言葉で小突いた。

 簡単に言ってくれるな、と椎名空へと愛おしさをはらんだ絶望感でいっぱいの瞳を差し向ける。椎名空は守しか見ていなかった。僕が放った口の動きも見ていない。今は彼女は父のことで頭に隙がない。

 ありがとう、と椎名守は顔を上げて安堵の息を吐いた。張りつめた緊張の糸はほどけ始める。僕の思考停止の脳内に感情の染みが滲む。脳内の白紙に青が浸されていく。さざなみの音が聞こえる。紛れ込むのは青が見た風景だ。そこにたたずむ彼女が離れない。拒絶されたことがフラッシュバックとなって過る。彼女の演技が舞台外にも引っ張ってきている。

 幕間が終わる前に、新島翔から次の指示を仰がなければならない。すぐに青の風景や感情を振りほどき、新島の前に立つ。新島は床に脚本を広げて、赤いペンで台詞に着色していた。細い脚を立膝にして、棒っきれの体をカクカクと折り曲げて脚本に没頭する。

「椎名守を登場させるなんて聞いてない」

 意地悪く新島に落とすが、当の本人は僕を見上げすらしない。

「言ったろ、このハコはアテレコだ。なら、役者だってそのままにする必要があるだろう」

「そのために行方が分からなかった椎名守を見つけて、わざわざ役者に、椎名空に内緒にし、打合せなしに登場させるのはやりすぎだ」

「私は舞台のためなら何でもするよ。

 君がよりよい作品にするために神である脚本を変えたように」

 だから、よりよくするために椎名空を救えとでもいうように、新島翔は脚本を広げる。次の場面の指示が繰り出される。椎名守に脚本の若干の変更があることを言葉身近に告げて、場面の整理をした。みな、舞台を成功させるために必死だった。


 舞台『青空のハコ』が開始される直前、僕は空と話す機会があった。

舞台は白い壁で彩られ、青いさざ波の照明が照りかえっていた。かすかに潮の匂いがするのは、新島翔が生の感覚を重視する演出家だからか。一つひとつの演出はこれでもかと凝らされている。臭覚、視覚はもとより、舞台に上がる板まで赤いタイルを設置したりして、五感に訴えるものにされている。

脚本の中のハコには市があった。この市に行くためには赤いタイルを辿る。道中、市場のテントが張られ、真上には傘が開いている。赤いタイルの道に傘のテントが続く。市場を辿るとき、観客席から舞台に上るように演出されるように。

椎名空はこういうところが新島翔の気に入っているところなんだ、とさりげなく僕に言った。彼のことを知らなかった僕の無知を責め立てる。彼女の女優としてのプライドは、稽古の中でも表面化していた。思ったよりも君は、君の立ち位置について厳しかった。無邪気に見えて、演技をするための余念を残さない。「なんでやってるんですか。あなたはどこにいるんですか」「呼吸が続いていません。この台詞の息継ぎはここです」「言葉に対してもですが、演技の動きもちぐはぐ」演技の指導をしているときの敬語が彼女の厳しさを助長していた。一時間後には舞台が開始される今も椎名空は妥協しない。

僕たちは最後の調整として舞台の上に立ち、会話の掛け合いを手軽にこなす。演技に感情を込め過ぎずに。

一通りなされると、椎名空の顔色を窺った。彼女の顔色は変わらずに冷たくも丸く漆黒に縁どられた大きな瞳で僕を覗き込み返す。潤った彼女の表面の瞳に炎がうちに込められていることを知っていた。炎にいすくめられていた。彼女が、この時はまだ怖かった。

「あなたの演技を見たわ。父と一緒にしている演技なんだけど」

 僕の口元を見ようと必死に僕の顔に顔を近づけていた。

「父を布団の中に丸まらせる何かがあるとは知っていたけれど怖くて見ていなかった。けど、今まで見ていなくて後悔した。あの時の水杉彰の演技」

顔が近いからか、体が近いからか、彼女の桜の香りが鼻をかすむ。淡く甘い彼女の香りは変わらずに、僕の欲を引き立たせる。それ以上に純粋な瞳は演者としての真髄を突き立てられ、合わせて僕の脳内に微細な振動を起こさせる。

赤いタイルを一歩踏んで、かつん、と音をしなだらせた。僕は一歩下がっていた。

「素晴らしかった。息継ぎの位置、構図、カメラワークから見たあなたの絵、空気、震え立たせる迫真の、その演技」

 僕の脳内から漏れ出る微細な振動が体全体に伝わってくる。振動は震動となり、大きく波紋する。大きな楕円となった渦の中に体を陥らせていく。彼女の言葉一つ一つが信じられなくて、鼻の奥からつん、と痛みが突き刺していく。震えだす体は言うことを聞かずに、そのまま送り出す。また一歩後ろに下がってしまった。足元の赤のタイルが映えていた。

「パッチワーク、なのはわかる。どの演技も見たことがあるようなものばかり、でもコピーではない。それをつなぎ合わせたものはいない。なによりきれいなつながりを見せた演技。昔の映画で出てきた動き、あなたの同期の動き、一つ一つの粒を上手くつなぎ合わせている。あなたが裏で『パッチワーク』と噂される意味も理解できる。なにより耳の聞こえない私の耳にも入ってくるほどの演技手法だということも。そしてその言葉が揶揄であることも。パクリだと非難されることも。私には理解が及ぶ」

 椎名空は自身の言葉を編み出しつつ、青空のハコでの空の動きをさらう。赤いタイルの上を自然に歩き出す。視界に過るのは黒いベールを羽織り、黒いドレスを着た空の姿だった。

「そのスタンスで非難する人もいると思う。でも人それぞれのスタンスがある。演技にしてもそう。大事なのはものにするかどうか。

 あなたは、できる人」

 暗に、椎名守はできなかったと言っているかのような。父親だからか遠慮しているのか。

 突然椎名空の顎が震えだす。何かを言おうとして開閉する口を、赤い口紅をぬぐう勢いで手の甲で震えを払う。

「これは私の話。あなたの演技を見た後、父は仕事の一切を受けることをやめた。私の母は荒んだ父を支えたし、仕事なんて放り出して、ただ一人でみじめに布団にくるまり震える父を、それでも見捨てずに支えた。もともと体が強くないのに。母は、心労がたたって早くに亡くなってしまった。あの夜、密葬された母を抱えて電車に行き着いた。私は何にもなかった。もともと耳も聞こえず、努力をしなければ普通の人と同じように暮らせもしない。バイトをしようと、母がいなくなった後は意気込んでいた。でも、健常者とも違う。周囲は勉強や普通の大学生活を送っている中で私はこれまで全てを演技に費やしてきた。得たものはあった。でも実生活では、ほとんど使えない。耳が聞こえないことは大きなハンディでしかない。全部無駄だった。私は板の上でしか呼吸できない」

 二人で板の上に。青く涼やかな、青空のハコにふさわしい光が降り注いでいた。

「簡単に忘れられない。あなたがどれほど、素晴らしい演技をしていても。その上で、抱える感情も。そして、そして」落ちていく「そして」を彼女は目線を下にして床に放置された言葉の残骸を組み立てる。小さく弱いぼろっちくなって、つぎはぎなパッチワークの言葉だった。

 なぜ今の今まで忘れていたのだろうか。

 彼女の呼吸と等しく弱弱しい言葉を聞き取れなかった。

「チャンスをください」と僕が言われ、椎名守にかけてあげられなかった言葉の正解を彼女は示していたのだ。

「あなたに、祈るのをやめられないのはどうしてなんだろう」

 くるっと回って、彼女は今の言葉をかき消すように。

「簡単に忘れられると思わないで。

 だから、今日一緒に演技をしたことも一生忘れないでね」

 僕に祈られることは、僕に期待しているということだ。彼女のことがとんと、僕はわからない。なんにも知らないんだ。彼女が苦労してきたことも。彼女が父親同様に芸能界から去ろうとしてきたいた間のことも。忘れられないように留めることに必死だった。

 でも、彼女も同様に必死だったのだろう。

 今なら言える気がした。

 舞台が始まる前の、静けさのさなか涼みわたる潮風にのせて、遠くから観客の声が流れてくる。彼女は化粧をしているのに、泣きそうな瞳から、拭い去ってしまった口紅やらで崩れかかっている。今からまた化粧直ししてくる、と振り返る。彼女のみすぼらしくなった不健康な背中にかけてやる言葉を。

 彼女は新島翔や大東飛鳥や、そして僕のように、いやそれ以上に舞台が好きでたまらない。呼吸と称するように。僕はできない。

 その姿に改めて惚れてしまう。

 憧れの椎名空。

 僕が目指すところに彼女はいる。でも、目指すのではなくて、今は隣にいたくて仕方ない。 これは、僕のわがままだろうか。わがままも突き通せば、祈りになるだろうか。彼女が祈りと称したように。僕も祈って良いだろうか。

 そこに行きます。だからどうか待っていてください。


 できあがった即興の脚本を頭にいれる。次は青と紫の掛け合い、つまりは僕と椎名守の掛け合いシーンだ。拒否された青が紫と交渉をする。青は紫を受け入れるか、システムの言うとおりに殺すかを決断しなければならない。本来の脚本なら新島翔演じる白を殺しているから、紫も殺さねばならないのではないか、と葛藤しつつ交渉をする。台詞は変わらない。僕の台詞は少々変わる程度で大筋は問題ない。演出もそのままだ。だから、あるのは僕の演技への期待と、紫と息を合わせられるかにかかっている。

 僕は椎名守をちらりと見た。椎名守の横顔は真剣そのもので、あの日の横顔を思い出す。大河物のドラマで有名なテレビ局での収録だった。椎名守も、椎名空同様に演者で、僕らは同じように一つの作品を完成させたい。

 僕は椎名守を呼んで、

「あの時はすみません」

 頭を下げた。否応なしに下げて、彼からの言葉を待たずに、自身の身勝手さからあのような演技をし椎名さんの演技をつぶしてしまった。あれは激情にかられた僕の失態です。と、続けざまに言った。

「僕はあの時から成長したあなたの演技を楽しみにしています」

 ぽかん、と椎名守の口を開けてしまう。さきほどと言っていることが違っているのだ当たり前だ。でもそのあまりにも滑稽な有様に笑いを含ませてしまう。

 僕なりの祈りを、捧げて次の場面へ。

 僕の決意はとどまらない。次の場面は僕と椎名空、椎名守の再会からなので、近くには空がいる。彼女に見えるように今度は大きく頭を下げる。つむじが見えるくらい下げて上げて、椎名空の目線に合わせる。ベールをゆっくりとはいだ。

「もう一度、お願いします」

 彼女は、待ってましたとばかりに瞳の奥の炎をくゆらせた。まるで僕の凝固した決意を溶かさぬように激情を緩めていく。解けた僕と彼女の関係に一時休戦し、舞台へ向かう。

ようやく彼女のほしいものがなんとなくわかった気がした。

「舞台は中盤戦。ここからが本当の本番でしょ」

 と、透き通った空の声が響く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る