第三幕 五人目の役者
⑧ 「いらない」
「空のために」と何度となく唱えていた。
小さなころ、妹が彼女の演技を見て泣き出したように、彼女は孤独だった。耳が聞こえないから。音がないから。彼女が天才だから。突出したものを持ち合わせている人は得てして孤独になりがちだ。彼女はその一人だった。
──もう演技をしたくない。
だから、もっと彼女のことを深く知っていたら良かった。
舞台『青空のハコ』は僕が脚本を壊したこともあり、軌道修正させながら進められることになった。新島翔の演出の兼ね合いもあり、彼主導で進められる。が、細かい部分は役者の裁量にまかせられた。イベントごとはそのまま脚本通り行われるが、それぞれのシーンの台詞は書けないこともあり、役者がカミサマである白が生きている前提で会話をしなければならない。
幕間で椎名空と次の場面について、一言二言打合せする。
次は中盤の山場となる場面だった。
僕たちはここに思い入れがある。
と、いうのも稽古で椎名空が僕の演技に憤慨して、一度もやりきったことがなかったからだ。椎名空は合わせられるし、僕も一人前の役者だ。本番はしっかりやりきるだろう。だが、その場面だけは感情のノリが他とは違っていて、彼女にしては自分自身の感情があらわになる。また、僕のそもそもの演技が嘘っぽいので彼女からしたら納得のいかないものだった。
脚本がない舞台で、この場面をするのは気合がいる。
「さっきの演技、」椎名空が珍しく僕に柔らかい口調で言いつのった。「とても良かった。青がいた」
僕はそれだけで気持ちが舞い上がる。あの天才に褒められた。
「でも脚本を改竄したのは、思うところがあるけどね」
「あそこは、青がああしたかったから」
「うん、わかってる」
彼女の青白い肌がスポットライトを浴びて、悲し気に上目遣いをする。
「でも私はそういうのいらないんだ。
ねぇ、あなたの演技は誰のためにあるの?」
その一言で背筋が凍った。彼女に捧げようとしていた嘘偽りない演技に陰が差す。さきほどの演技がいらない? と震えあがる事実が浮かび上がってくる。機械義肢の装飾がされた手が震えている。灰色に光る。関節が曲がる。彼女は、僕に一瞥もくれない。
「どういう、」
意味?
と、言おうとしたところで緞帳が上がった。
場面は、青が白を殺さずに帰路につくところから。舞台上にある赤いタイルの道を練り歩く。右腕を動かすと、同時に左腕も動き出す。左足が軋めば体が傾き、転びそうになる様を演じて見せ、初めてのシステムへの抵抗で不安を隠せない青を見せる。一方で、青は内心ドキドキと高揚感を示していたはずだ。
またパッチワーク気味に経験をのせてしまう。
僕は今脚本ではない青として演じていて、ドキドキしていたから、その感情まるごと乗せていた。青ではなく自分を演じることによって、青の真実味を増していく。
目線をあげると、あの桜の匂いがした。
空の匂いだ。辿っていくと、黒いベールで黒い百合の女の子が舞台の中心に立っていた。スポットライトは彼女の真上に。この場面は彼女が美しく映える。演出はそのままに、イベントもそのままに。だが、役者の台詞と感情が総入れ替えされている。
そこにいる空は、脚本ではカミサマとの決別を決めていた。青の視点では語られないが、空が全て背負いこむことを決心し美しい強さを持ってカミサマを突っぱねる。気高い空を見て、「強さ」とはこういうものなのだと観客は悟るのだ。
しかし、そこに立つ椎名空演じる空は、強さよりも憎しみが大いに滲み出していた。
これが、この場面ができなかった本当の理由だ。
視界がぶれる。今の天真爛漫な彼女と、出会ったときの彼女が重なり、僕の中の記憶が熱を帯びて発散する。
「お・か・え・り」
彼女はここにいる。
確かに僕の視界に捉えられていた。
「空、迎えに来てくれたのか」
青は自分を待っていてくれることが嬉しくて、すぐに彼女に駆け寄った。黒いレースの手袋に黒い喪服姿。まるで僕と椎名空が出会ったときのように、神秘的な姿をしていてまた高揚感が募る。あの時、運命だと思った。そして今も運命だと思っている。
だから、その時と同じように彼女が愛おしく思った。
僕は、彼女の憎しみごと愛せる、と固く心の中に落とし込んでいた。
「ありがとう」
そうだ、空。
僕はこの場面のために、脚本を壊した。僕の嘘ではない演技をするために。この感情をのせる。飛鳥が言っていたことを体現する。今は嘘はつかずにいられる。彼女に対し申し訳なさを感じる気持ちもあるが、それも込みで。
「白に会ってきたよ。今日のコンサートはすごかったなあ。白はピアノも上手いカミサマなんだな」
空は頭を傾げる。そのベールの下は見えない。ベールだけをゆっくり持ち上げてやると、彼女の大きな瞳は不愛想に細くなっていた。不服そうに唇を突き出して、何を思ってか、僕のことを卑しそな目で見つめる。
「白がハコのみんなにしているように、僕も君に何かしたい」
例えば演技で、空を支えるような。
空が僕に期待したようなことを。
ここに至るまで長かった。
最初は、ブラウン管の中の彼女を見て、恋焦がれた。
演技にのめりこんだ。僕は才能がなかったから、君に追いつくためにいろんな人の演技を見て取り込んだ。ぶつぶつと口にして、発声方法を真似て、それでも天才たちには追いつけなかった。壁を感じて妥協して、でも踏ん張った。
劇場の椎名空も、ドラマの椎名空も、映画の椎名空も、どの椎名空も追いかけて、彼女と同じ事務所の俳優になろうとしたけれど、無理だった。彼女の事務所に近い事務所に入所して、いつか彼女と演技する日を待ちわびた。
憧れだけだった。
今は、彼女への好意でいっぱいだ。
ここで告白してもいいくらいに。
舞台『青空のハコ』の中では、彼女のために躍進した。
彼女の期待に応えるために。
「お父さんの代わりにはならないけれど、できるかぎり傍にいるよ」
「い・ら・な・い」
僕の言葉がはたき落とされる。
「いらない」
今度ははっきりとした口調で彼女の言葉は紡がれた。あまりにはっきりとした憎しみのせいで、僕は呆然としてしまう。その言葉は、深く重く、痛く僕に突き刺さる。
「なんで?」
僕は彼女の耳を触れようとする。
彼女は耳のハンディがあるせいで、苦労もしていた。孤独感を強くさせていたのは、このハンディがあったからだろう。
なら、僕は、
「君の耳になるよ?」
「いらない」
空はさらに言い続ける。
「青からの、いいえ誰のものでもいらない」
彼女は頭を大きく振った。
「空が、」
なぜそのような憎しみの演技を乗せ続けるのだろうか。
なぜ彼女の演技は濁ってしまっているのだろうか。
「空が足を失ったら僕が足になる」
「いらない」
僕のせいなのは重々承知しているのに、その言葉の矛先が僕へ向いていない気がした。
僕は彼女の方へ手を伸ばすが、彼女は僕の手を振りほどく。力強く払い落とされた手は、痛みと共に僕を地面へ追いやられる。君に何かしてあげなきゃと、使命感が駆り立てられる。足を踏ん張って立とうとするが、上手くいかない。足がいうことを聞かずに、感情だけが先行してしまう。
「君のためなら、僕はなんだってする。君の耳になる。君が足を失ったのなら、僕が足になる」
「いらない」
「君がつらければそのつらさも肩代わりする」
「いらない」
「君が苦しいのなら、記憶すらも全て消してあげる」
「いらない」
「僕はカミサマなんだから」
「いらない‼」
金切り声が舞台全体に響く。空らしくないヒステリックさに、驚きを隠せない。
僕の演技がほどけ目の前の彼女の言葉を待ってしまう。
「わたしのもんだ‼」
彼女の瞳は水面を波立たせて、ぷっくりとのっかり、頬へ滑り落ちる。唇は震えていた。頬は紅潮し、何度も頭を振っていた。
──あなたの演技は誰のためのもの?
その言葉が今胸にすとんと落ちた。
──私の演技は私のもの。
だとしたら、僕のこの気持ちは彼女にとっていらないものなのだろう。彼女は孤独だからこそ、自分のために孤独感をまぎらわせようとして演技で遊んでいた。でも今はどうだろうか。今の彼女の演技は自分のためだろうか。濁っているのは、どうしてだろうか。
彼女がそれを気づかないはずはない。
それは彼女が彼女のために演技をせず、僕の憎しみで演技をしているから。
『この耳のハンディは、わたしのもの。
あなたのものじゃない。
わたしのもの。
あなたにわたさない。
勝手に人を評して、勝手にわたしのものを奪わないで。
わたしの苦しさも、つらさも、記憶も、全部わたしのもの。
全部全部、わたしのものなんだ。
それをあなたはいらないものだと言う。
そんなわけない』
「いらない」と何度も空は言った。
苦しさも、悲しさも、全部わたしのもの。
「誰にもうばわせない」
空はなおも静かに僕に告げる。
「誰も私のものを奪わせない。私の大事なもの! これ全部が、私。私を奪わせない」
それならば、僕のこの好意は邪魔なものに違いない。
新島翔を恨んでしまう。脚本から僕へ期待していると言っていたのに。彼女にとって何がほしいのか見失ってしまった。
そもそも、僕は舞台裏の椎名空自体を知っていたのか。彼女が、何がほしいのか、どの点で僕を賞賛していたのか。ようやく先ほどの舞台裏で彼女の「いらない」ものを教えてくれたのに。彼女のことをずっとブラウン管の中の人だと思っていたのではないか。
何一つ、彼女のことについて僕は知らない。
舞台裏で彼女に声をかけたか。
あの日、あの夜出会わなければ、ずっと彼女に触れなかったのではないか。
僕は、本当に彼女のことが好きなのか。
運命的な出会いに酔っていただけではないのか。
それが彼女のものであるから。感情も記憶も忘れないのは、それは彼女がそれを引きずると決めていたから。この決意を僕は肯定したか。彼女は彼女自身のものを全て背負い込んで生きている。それは役者の矜持だ。
耳のハンディすらも、彼女はこうして演技に取り入れている。発音、発声、息遣い、舞台の掌握に長けているのも、耳が聞こえないおかげもあるかもしれない。
僕はその耳の良さを、考えたか。
「カミサマ、あ・り・が・と・う。もう、わたし、だい、じょう、ぶ」
嫌だ。
わがままかもしれない。
それでも、彼女のためでありたい。
これが僕の演技を続ける意味なのだから。
「これから先、君は耳の聞こえないまま、生きていくことになる。それはとても不便なことだろ。こうして僕が話していることすら、分からないんだ。それなら、僕が君の耳の代わりになる。僕が君を助ける。僕に君に何かをさせてくれ」
「なに、も、いらない」
「僕を使ってくれ」
──私はいらない。
痛烈に記憶と空の言葉が目の前を行き交う。
──もう演技をしたくない。
そうか、僕は彼女がそういう理由すら聞いていなかった。
彼女が低迷した本当の理由は、なんなのだろうか。
本当に父親が荒れて、母親が亡くなったことが原因だろうか。
一つ掘ればいくつも彼女の疑問が出てくる。彼女がこの場面に納得しない理由は、僕が彼女のことを現実でも劇内でも理解を示していないからだ。
憧れすぎていた。
濁っていたのは、どっちだ。
「なにもいらない。私の好きなところ。私のもの。つらいことも。全部生きていることを感じられる、私にとって嬉しくてたまらないもの」
どっと押しよせる記憶に何も言わずに荒波にもまれ出した。僕は、彼女に何をしていたのだろうか。彼女のために何ができていたのだろうか。何もできていなかったのではないか。
この場面になって、彼女の本当のキャラを知らないことに気づくなんて思ってもみなくて、絶望してしまう。
舞台上では空として存在しているが、椎名空自体は知らなかったのだ。
彼女の演じている役柄が好きだったのかもしれない。体が嘲笑しているかのように踊る。体が震えて止まらない。両手を抱き寄せて、震えを止めようとする。でも僕の脳内の記憶の波も、体も収まらない。
気づいてしまったからこそ止まらない。
生きていると感じているものを奪うことになる、僕のこれまでの言動は薄情だった。彼女のことを何も考えていない侮辱することと一緒だった。
「ごめん。知らなかった。僕は空みたいに背負ってこなかったんだよ。苦しみも悲しみもつらさも、全部いらないものだと捨ててきた。だから、君のことを知ろうとしなかった」
僕の体は卑しさにまみれていた。あんなに好意を寄せていたのに、彼女の本当を見ていなかったのだ。
「全部背負い込まず、僕の意思だけ介入させてしまって。君のことなど一つも考えていなかった」
震える体を制止する。どうしても言うことを聞かない。記憶の扉は開けっぱなしで、僕は記憶と言葉の渦に巻き込まれていた。どこに僕がいるのかふわふわと漂っている。
「僕は空のことも傷つけてしまった。僕の勝手な判断で。空にしてあげたいばっかりで。君のことなど眼中になく、聞くことすら怠惰にやめていた。僕は空っぽな人間だったから、空っぽの僕の分も何かを得て欲しいと。それすら、拒絶してしまうのなら。
僕は、どうしたらいいんだ」
「あなたを
私は一人で歩むから」
空が僕を突き放した。
数瞬、桜の匂いがふらっと僕の鼻先に掠れて消えた。
あの夜の日、僕は空と出会った。運命がまじりあい、ようやくブラウン管の中に来たというのに、僕が遠ざけてしまっていた。
憧れという感情が邪魔をしてしまっていたのだ。
桜の匂いを捉えようと手を伸ばす。
僕は反省する。もう一度、この劇の中からでいい。彼女に告白するまで、彼女をもっと知れるくらいの深い愛情を持ち、演じていきたい。
彼女に見えないように後ろに振り返り、口を動かした。観客に見えないように。
「僕が告白するまで、待っていてくれないか。もっと君を知りたいから。君の低迷も、君の絶望も、全部知るから」
そうして、
「空が大好きだ」
しっかりと僕の意思を再び確認する。
それでも、好きなんだろう。
愛していることに変わりはないのだろう。
まだ彼女のためになにかできると思っているから。
場面のスポットライトが閉じていく。暗がりに目が浸されて、幕間にいる影が動いていた。そのシルエットは、僕が見たことあるシルエットで、熱せられた演技熱が一気に覚めてしまう。
青ではなく、僕に警鐘が鳴らされる。
スポットライトは赤い照明に変化する。ハコの背景である白に明け方のような雰囲気が漂う。もの悲しさが僕の中に閉じ込められる。言い知れない不安が増幅し、瞼を閉じたくなる。
「どうして、ここにいる」
僕は慌てて声を荒らげてしまう。
「空、ただいま」
紫役が登場し、スポットライトが点く。
眼鏡に長細い顔。酒と煙草でぼろぼろになった肌で、貧相で不健康そうな白い肌の男。芸能界からも、家族の前からも姿を消した──
──椎名守、その人。
ぱっと、明かりが消滅した時、椎名守は「待たせて申し訳ない」と新島に言い寄った。
空は目を暗闇に慣れないらしく、その場で僕の反応に不思議がり、視線を辿った。
そうして大きな声で言った。
「お父さん」
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