【3】
「はーい、静かに。突然ですが、今日からこの一年四組のメンバーが一人増えます」
今日から僕の新しい担任となる先生が、ぱんぱんと二度手を叩く。
目の前に座っている四十人近い生徒が、揃いも揃って僕を見ていた。状況的に当たり前と言えば当たり前なのかもしれないけれど、僕はどうしようもなく居たたまれない気持ちになった。
やっぱり、教室という場所は苦手だ。
「じゃあ安藤くん、簡単に自己紹介して」
自己紹介、これも本当に苦手だ。僕は今にも口から吐き出してしまいそうな緊張感をぐっと飲み込んで、「安藤尚樹です。東京から来ました。よろしくお願いします」と何とか平静を装って言った。
言った後で、東京から来ましたは余計だっただろうかと急に不安になった。どこから来たのかと聞かれた段階で答えれば良かったんじゃないだろうか。わざわざ自分から言うなんて、
そんなことをうじうじと考えている間に、「はい、ありがとう。皆仲良くしてあげてね。そしたら、あそこの窓際の空いてる席に座ってくれる?それから先生、安藤くんに渡すはずだった教科書類、職員室に置いてきちゃった。すぐ戻ってくるから皆ちょっと待ってて」と担任は口早に言い、あっという間に教室から出て行ってしまった。
唐突な心細さに襲われた僕は、身を小さくするようにして机の間を縫い、指定された席についた。
大人の監視の目がない以上、すぐにあちこちから小さな話し声が生まれるのが教室だ。全く馴染みのない土地でも、そこは共通しているようだった。
そしてちらちらと、僕に視線が向けられているのが分かる。小さくした身体は小さいままで、なかなか力が抜けてくれない。
果たしてこの教室で、いつか僕は力を抜いて、楽に呼吸をすることができるようになるのだろうか。前の学校での記憶は、まだまだ色濃く残っている。
僕はほんの少し下唇を噛んで、右ポケットをそっと触った。布越しに伝わる、固い感触。
ノエルとは色々な場所に行ったけれど、学校に連れてきたのは初めてだな。そんなことをふと思った。
「ねえ」
隣の席に座る女子が、ふいに話しかけてきた。
長い髪を頭の後ろで一つに結わえていて、それは背中の真ん中あたりまで届きそうだった。
ぱっちりとした二重の目はとても大きく、ただ見られているだけでも思わず
一目見ただけで、きっと気が強いタイプに違いないと思った。
「やっぱり、クソ田舎だと思ってる?」
「…え」
「東京から来ました、は確実にマウント取ってるでしょ」
僕の危惧が的中してしまった。やっぱり、言うんじゃなかった。転校早々、激しい後悔が全身を駆け巡る。
挑発的な目を僕に向けているその女子を、「セイ、しょっぱなから喧嘩吹っ掛けるのやめろって」と、僕の一つ前の席に座っている男子が後ろを振り返りながらたしなめた。
そして僕をちらりと見て「わりぃな」と一言呟きながら、片手を顔の前に立てて謝るような仕草を見せた。
「ああ、いや」と相変わらず曖昧な返事しか出来ない自分が、つくづく情けない。
「私平和主義者なんだけど。喧嘩なんて嫌い」
「だったら日頃からもうちょっと態度を改めろ」
「学級委員長に対して偉そうなそっちの態度はどうなの?」
「偉そうなのはどっちだよ。たかが委員長ごときで権力振りかざそうとすんな」
「あんたこそさっきからずっと喧嘩腰じゃん。このせっまいクソ田舎で戦争なんて見苦しいと思わない?クソ田舎はクソ田舎らしく、のんびりとした平和を維持してればいいの。後藤くんもそう思うでしょ?」
二人の目まぐるしいやり取りを呆然と見守っていた僕は、ワンテンポ遅れて「…えっと、安藤です」とどうにか言葉を返した。
「学級委員長が名前間違えてどうすんだよ」
「うるさい、朝はまだ脳が覚醒してないの。とりあえずあんたはちょっと黙ってて」
その男子は呆れたように肩を
そして一方の女子のほう、もといこのクラスの学級委員長も、「じゃあ安藤くん、改めて」と姿勢を正して僕に向き直った。
「学級委員長の
と言われても、いきなりそんな馴れ馴れしい呼び方をするのは僕にとってあまりにもハードルが高すぎる。
けれど、最初は少し戸惑ったものの、三井さんの分け隔てない強気さは逆に楽なのかもしれないとも思った。良い意味で、全く人に気を遣っていない雰囲気だった。
だから僕も、思い切って、思ったことをそのまま口にした。
何だか、こんな風に人とコミュニケーションを取ろうとするのは本当に久しぶりのことで、自分が自分じゃないみたいでそわそわした。
「…変わった名前だね、セイって」
すると三井さんは「あー…まあ、そうね。漢字だと…聖地の『聖』ね」とそれまでとは一転して、微妙に歯切れが悪くなった。
そこで再び例の男子がこちらを振り返ってきて、「安藤くん、よくぞ指摘してくれた。セイ、お前、相手が転校生なのをいいことに下の名前を教えずにいようとしたろ。いくら自分の名前が好きじゃないっつっても、ふりがな付きの名簿とか見れば一発でバレるからな。隠し通すのはさすがに無理がある」と妙ににやにやした顔で言った。これがいわゆるしたり顔というやつなのだろうか。
三井さんは頭を両手で抱えながら、斜め前のその男子を思いっきり睨みつけていた。
けれどそれは一瞬のことで、諦めたように息を吐き、やけくそ気味の口調で、言った。
「三井聖」
慣れ親しんだ音が、耳の中をするりと通り抜けた。
愛しさ、懐かしさが自然と溢れ出す。
けれどついこの間のように、悲しさに包まれることはなかった。目の前にいる女の子が、確かに生きているからだろうか。
生きている、それは当たり前のことのようで、実は何よりも尊い。
しぶしぶと言った感じで名乗った割りに、三井さんは親切にもその名前の由来まで教えてくれた。
「私、十二月二十五日生まれなの。フランス語でクリスマスのことを『ノエル』って言うんだって。でも完全に当て字っていうか、いわゆるキラキラネームじゃない?だから嫌なの。どこに行っても『何て読むんですか?』って聞かれるし、その度に名乗るのが本当に恥ずかしくって。大体このクソ田舎でノエルっていうのもどうかと思う。物凄くちぐはぐしてると思わない?だから、普通に音読みした読み方が、私のあだ名なの。小学生の時からずっとセイって呼ばれてる」
一息に喋る三井さんの話を、僕は静かに聞いた。そしてまた、思ったことをそのまま言った。
「…良い名前だと思うよ」
それは僕の、心からの言葉だった。僕はもう一度、右ポケットを撫でた。
これは、ノエルからの贈り物なのかもしれない。
実際にはただの偶然なのかもしれないけれど、僕はつい、そんな風に思ってしまった。
それに、よくよく見ると三井さんの目は猫の目の形と似ていて、後ろで結んだ長い髪はしっぽのように見えなくもなかった。というのは、さすがに強引だろうか。
ねえノエル、君はどう思う?
【完】
Noel 川上毬音 @mari_n_e_
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