【2】
今現在は、僕、母さん、父さんの三人家族だけれど、僕が中学二年の時までは、もう一人いた。
正確には、もう一匹。
白と黒のはちわれ猫、名前はノエル。僕が四歳くらいの頃に、父さんがどこかからか拾ってきた。
ノエルという名前は、父さんが好きなどこかの国のロックバンドのメンバーからそのまま拝借したらしい。
家族で飼うんだからあなたの趣味全開の名前にしないで、と母さんからは文句を言われ、あの時は二人で随分揉めたんだと後から聞かされた。
僕が物心ついてから一番初めの記憶は、小さな身体をさらに縮こまらせるようにしてうずくまる猫を間に、真剣な顔でああでもないこうでもないと言い合う両親の姿だ。あれがまさに、ノエルを拾ってきて間もない頃だったんだろう。
だから僕とノエルは、一緒に成長していったようなものだった。
最初に一匹じゃなくて一人という言い方をしたのは、僕にとってノエルは、単なる飼い猫にとどまらない存在だったからだ。
一人っ子であり鍵っ子でもあった僕の子どもの頃の遊び相手は、いつだってノエルだった。僕にとってはきょうだい同然だった。
だから一人っ子で、たとえ両親の帰りが遅くても、全く寂しくなかった。僕の隣にはいつもノエルがいた。気まぐれな性格ではあったけれど、ノエルはよく僕に懐いてくれた。
そして、かけがえのない家族であると同時に、ノエルは僕の一番の親友でもあった。
飼っている猫を自分の友達だと言い張るのは、おかしいことなのかもしれない。けれど、僕はやっぱり友達が欲しかった。
最低限のコミュニケーションを取ることはできても、何気ないことでクラスメイトと笑い合ったり、親しくなったりすることがどうしても人より苦手だった僕。友達の作り方が、一向に分からなかった。
友達は作るものじゃない、とよく聞くけれど、不器用な僕はその言葉が好きじゃなかった。皆が当たり前にできることが自分にはできない、その現実を突きつけられているような気がしたからだ。
そんな調子で学校で上手くいかなくて、少し落ち込みながら家に帰ってくると、玄関の扉を開けた先で待っているノエルが、「にゃあ」と一声鳴いて僕の足元にすり寄ってくる。
のんびりしたその鳴き声と、僕の顔をまっすぐに見上げるノエルの顔。
なに
そんな風に言われている気がして、それまで凝り固まっていた肩からするすると力が抜けていくのが分かる。
僕はノエルの身体をひょいと持ち上げて、「ただいま」と呟きながら靴を脱いだ。
言葉が返ってこないことはもちろん分かっているけれど、それでも僕は、ノエルによく語りかけた。
今日は給食が美味しかっただとか、漢字の小テストで満点を取れただとか、その日起こった些細な出来事を話したり、逆に、人にはなかなか言いにくいことを弱音や愚痴のようにぽろっとこぼしたりもした。本当に、色々な話をした。
それに対してノエルは、僕の膝の上で丸まっていたり、前足を揃えて床の上に寝そべっていたり、その姿勢でしっぽをゆらゆらと上下に動かしたり、大きなあくびをしたり、急に部屋の中をぐるりと一周したり、話を聞くスタイルはその時々によってばらばらだった。
もしかしたら、僕の話なんてろくに聞いていなかったのかもしれない。でも、それでも良かった。
僕もノエルも、ありのままの状態で同じ空間にいた。
ノエルはリビングや両親の部屋にいることもあったけれど、基本的に僕の部屋で過ごすのを好んだ。
それがまた、たまらなく嬉しかった。
家の中だけじゃなくて、ノエルを連れてよく外にも出た。
公園のやわらかい砂場と、
すべり台とシーソーの間に生えている猫じゃらしの大群に自分からじゃれていったノエル。
僕がブランコに乗ると、ブランコを囲っている柵の傍らに座り、顔を大きく前後に揺らしていたノエル。ブランコの動きにつられているその様子が、本当に可笑しかった。
近所の庭先で飼われている大きなアヒルをフェンス越しに覗く度に、びくりと身体を震わせていたノエル。
駅前のアーケード商店街の中を抱っこして歩く時、立ち並ぶ様々な店の景色に目を丸くしていたノエル。
魚屋の前を通り過ぎる際は、必ずと言っていいほど大きく喉を鳴らしたノエル。
次から次へと蘇る、ノエルとの記憶。一度思い出し始めると、それらはどんどん鮮やかさを増していった。
一緒に過ごした時間、一緒に見た景色はどれも未だに鮮明で、色褪せてなんかいなかった。
なのに僕は、あの平べったい箱が出てくるまで、ノエルのことをすっかり忘れていた。
「…ごめん」
悲しさとやりきれなさのあまり、思わず声が出た。今はもうどこにもいないと分かっているけれど、ノエルに対して謝らずにはいられなかった。
そして僕は、小さな箱の蓋をそっと開けた。
そこにはやっぱり、ノエルの首輪が入っていた。僕が買ってプレゼントした、深い赤色の首輪。
僕のベッドの上の片隅で、眠ったままぴくりとも動かなくなったノエルの首から、震える手でその赤い首輪を外してあげたのを今でもはっきりと覚えている。手の震えは、その後もしばらく止んでくれなかった。
僕が中学二年の時、ノエルは亡くなった。
拾い猫だから正確な年齢は分からなかったけれど、推定十一歳くらい、動物病院の先生によると老衰とのことだった。
ノエルの命がもう長くはないことは、亡くなる数ヶ月前から話はされていたから覚悟はしていたつもりだった。
けれど、たかだか十数年しか生きてない僕の覚悟なんて、圧倒的に足りていなくて、とても脆いものだった。ノエルがいなくなったことによる喪失感は、想像以上だった。
両親の前では我慢していたけれど、しばらくの間、夜ベッドに入る度に静かに泣いた。
目につく所にあるのが辛くて、ノエルの首輪はお菓子か何かの空き箱の中に入れて、勉強机の一番下の引き出しの、一番奥にしまい込んだ。
そうして時間は一ヶ月、二ヶ月と過ぎていき、季節も巡っていった。
受験、中学卒業、そして高校入学と、僕を取り巻く環境は段階的に大きく変わった。それを理由にはしたくなかったけれど、どうしてもノエルのことを考える日が自ずと減っていった。
決して忘れたわけじゃない。けれど、僕は自分のことで精一杯だった。もはや自分のことすらもままならない状態だった。今では無言で周囲に甘えて、現実から逃げ出しているのと同じだ。
今の僕をもしノエルが見ていたら、ノエルはどんな風に思うのだろうか。
学校なんてもうどうだっていい。このまま辞めたって構わない。楽になりたい。いっそのこと死んでしまえたら。そんな風に何度も思った。
箱の中の首輪を、手のひらに乗せる。
今、とてつもなくノエルに会いたかった。
どうしようもなく苦しくて、淋しくて、この先に希望なんて何も持てなくて、孤独で。
けれど、すっかり冷えて固くなってしまったその気持ちは、ノエルの頭を一撫でするだけで、ほんの少しでも溶かされるのではないかと思った。
ノエルを腕の中に抱いた時の、ほんのりとした温かさを思い出す。
記憶の中では、今でも体温が灯っていた。変わることなく、血が通っていた。
「…死にたいなんて、思っちゃ駄目だよね」
また、独り言が漏れる。程なくして誰もいなくなる部屋に、呟いたその言葉が浮遊する。
死ぬことは、何よりも重たく、悲しい。
ぽっかりとした大きな穴が、一つ空くのと同じだ。
それは僕が一番分かっているはずだった。なのに、それを自ら選び取ろうとする気持ちが、少しでも僕の中にはあった。
僕は、ノエルの首輪をポケットに入れた。
見えない所でずっと眠らせててごめん。またしばらく、僕と一緒にいてくれない?
「尚樹―、そろそろ行けるか?」
ドアを二度ノックする音と、父さんの声が聞こえた。
「うん、今行く」と僕は返事をし、段ボール箱を抱えて立ち上がった。
前を向いて歩いて行く気力を、完全に取り戻したわけじゃない。だからこそ、右ポケットのほのかな重みを、御守り代わりにしようと思った。
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