虎月さんのうどん事情

秋良知佐

虎月さんのうどん事情 ~出汁の香りは春風に乗って~

 桜吹雪が舞い散る中、虎月葛葉は慣れない土地にいた。

 季節は春。

 凍えるような冬の大学受験を越え、葛葉は京都から東京へとやってきた。

 とはいえ、まだ肌寒さは収まらず、ロングトレンチコートの隙間を縫ってひんやりとした空気が浸透してくる。

 高校生の頃によく着ていたのはふわりとした清楚なフレアスカートだった。けれども、しっかりめのシャツとパンツでぴしりと決めてみたのは、自分なりの決意の表れのつもりだ。


『私は一人でもやっていく。おばあさまの言いなりになんかならへん!』


 葛葉は東京の大学に合格したものの、京都で老舗茶舗を経営する祖母に反対され、政略結婚をさせられそうになっていた。

 けれども、そんな人生が許せず、葛葉は東京への片道切符を手に家を飛び出した。

『たった一人でも生きていく』

 今までの自分、そして故郷との決別を形にするべく、動き出す。

 さっそく学生課へ向かい、入学や奨学金の手続きは出来た。


(……で、どうしよ)


 住むところも決めなければならないが、ホテルに一泊したら、もう手元には幾ばくも残らない。

 住み込みのアルバイトを探して雇ってもらいたいけれども……

 

 ぐぅ……


 お腹が寂しげに泣いた。

 考えてみれば、家を飛び出して以降、丸一日何も食べていない。


(とにかく、今は腹ごしらえせな)


 ふらりと購買部へと立ち寄り、店内をぐるりと歩いた。

 おにぎりを買う? パンを買う?

 まだ外は寒い。本当なら温かい汁ものも欲しい。

 コーヒーや温かいお茶を買う?

 いや、それでは二百円以上かかってしまう。

 今後のことを考えれば、贅沢は言えない。

 何周も何周も購買部の中を歩き回った。

 ふと、歩く中で、吸い寄せられるようにあるものが目に入った。


『赤いきつね』


 そう、言わずと知れた、カップうどんの代表格。

 夕焼け色に輝く昆布の風味がしっかりと効いたあま~いお出汁に、つるりとした平麵。色どりに添えられたピンクのかまぼこの薄切りと、小さくてころころとした卵も可愛らしい。そこにトッピングメインの油揚げときたら! 噛んだ瞬間に、たっぷりと含まれたお出汁が幸せを乗せて、油揚げの甘みと共にじゅわりとしみだしてくる最高の逸品だ。


(そうや。これって主食も取れて、温かい汁ものも取れる。せやのに、お値段百円。まさにベストチョイスやん!)


 グイと手を伸ばし、赤いきつねを手に取ろうとした瞬間。


「あ……」


 他方から伸びた手が、一つだけ残っていた赤いきつねをかっさらって行った。

 赤いきつねが去っていく。隣に鎮座する緑のたぬきを見る。

 葛葉はぶるると首を横に振った。

 駄目だ。もう舌はあの甘みと旨味がベストマッチしたお出汁に支配され、口の中はお出汁を渇望している。

 あれは他でもない。お揚げの入った赤いきつねでしか実現できない。緑のたぬきでは駄目なのだ!


「赤いきつねえええええ!」


 気分は真冬のブリザードの真っただ中。去っていくふさふさ尻尾の狐さんを追いかけるように、葛葉は思わず手を伸ばしていた。

 だが……

 がしりと赤いきつねを掴んだ我が手を見て、葛葉はふと我に返った。

 おそるおそる自分のものではない白く細い手指から順に顔を上にあげ、そこにあった顔に凍り付いた。

 眼鏡をかけた理知的な女性だ。その落ち着いた印象の美女が、わずかに口をぽかんと開けて、あらんかぎり目を見開いて葛葉を見つめていた。

 女性だけではない。気が付けば、店内の他の客や店員に至るまで、みんなが葛葉を見ているではないか。

 じわじわと脳天に血が昇ってくる。穴があったら入りたいとはこのことだ。


「う……あ……ご、ごめんなさいいいいい!」


 頭から湯気が出そうなほどに赤面した葛葉は、一目散に購買部から脱兎のごとく逃げ出した。



 キャンパスの片隅のベンチで、葛葉は頭を抱えて沈没していた。


(は、恥ずかしい。もう二度とあの購買部に行けない)


 これからの学生生活の命綱になろうともいう購買部に入学式前から行けなくなるとは、なんということだろう。

 いや、それ以上に由々しきことがある。


(……お腹すいたぁ)


 桜の花びらがひらひらと舞う中、葛葉はぐったりと天を仰いだ。

 すると、背後のベンチにすとんと誰かが腰かけた。

 とぽぽとポットからお茶を注ぐような音がする。

 時刻はすでに三時。優雅にティータイムと言ったところだろうか。

 ティータイム? いや、どこかで感じた、ふわりと優しく包み込むような甘くもまろやかな香りが漂ってくる。

 これはまさかの……

 葛葉がぐるりと背後を振り向いた瞬間、ずいと目の前に赤地に特徴的な白字でドドンと『赤いきつね』と書かれたカップが差し出された。


「食え」

「え……ええ⁉」


 湯気で眼鏡を曇らせた先程の美女が、真顔で割り箸を添えた赤いきつねを突き出している。


「何だ。別の何かで腹を満たしたのか?」

「い、いえ、そういうわけでは……」


 とたん、ぐきゅるるると、ひどい音が鳴った。


「……」「……」


 視線が合わさり、葛葉は観念した。

 そろりと手を差し出すと、手にほんのりとカップ越しの暖かみが伝わってきた。


「あ、あの。ありがとうございます。いただきます」

「うむ。遠慮なく食え」


 ベンチ越しに、ずるると麵をすする音が響く。

 つられるように、べりっと蓋を引っぺがすと、そこには大きなお揚げに白い平麵。たっぷり張られた夕焼け色の出汁が、湯気の向こうでたゆたっている。

 自然と箸は動いていた。

 ずずっ……

 一口。麺をすする。


「ん?」


 何とも言えない微妙な感覚が葛葉を襲った。

 ほんの少し、だしを口に含む。

 ほら、いつもの甘いお出汁が舌を、口内を満たしてくれるはず。


「んん?」


 ぱくりと油揚げに食らいつく。

 じゅわり……

 シミシミのお出汁が瞬間に口の中一杯に広がった。

 待ち構えていた瞬間。そのはずなのに、


「んんんん⁉」


 噛み締め、ごくりと飲み込む。

 葛葉はカップ麺を見つめて震えた。


「ちゃ……ちゃう。なんで。これ、うちの知ってる味と違う!」


 思わず、ベンチ越しに腰かける眼鏡美女を振り返った。

 昆布のうま味よりもかつおのどっしりとしたコクが勝つ。油揚げに含んだお出汁は甘みのそれよりも醤油の塩味がしみ出てくる。

 これはこれで、そういう味だと理解できる。そう言う味だと思えば美味しい。

 でも、そもそも思い描いていたものとの味のギャップに、脳が混乱した。

 例えるなら、塩味のラーメンだと思って食べたら、実はとんこつラーメンだったぐらいの混乱だ。

 眼鏡美女が振り向き、湯気で曇っていた眼鏡の曇りが徐々に晴れる。

 そこには、何とも言えない不思議そうな目がじっと葛葉を見つめていた。


「何だ。関西出身なのか。知らないのか? カップ麺でも関東と関西ではうどんの味は違うぞ」

「な、何やって⁉」

 

 雷が脳天を直撃するかの如き衝撃を受けた。

 馴染んだ味を、知らずに求めていた。

 慣れ親しんだものはすべて置いてきたはずだった。けれども、捨てきれていない自分がいた。

 退路を断ったつもりだったのに、まだ求めてしまう自分が情けなかった。

 それでいてなお、

『これがこれから自分が生きていく土地の味なんだ』

 そう思うと、なぜか、涙がこみ上げそうになった。しかし、


「いやいや、まさに地域によって味を変える。こんな心遣いが企業努力だと、私は常々感心していてな。そのうち伊勢うどんや讃岐うどんに合わせた風味でも出てくるのではないかと期待しているのだが、個人的には稲庭うどんも捨てがたくてな。出汁だけではなく麺の質感を変えるというのも一つの在り方ではないかと考察するのだが……って、ん? どうかしたのか?」


 朗々と語っていた女性にふと覗き込まれ、葛葉は慌ててこみ上げてくるものを飲み込んだ。


「な、なんでもありません」

「そうか。その割には目が潤んでいるが?」


 慌てて目頭に手をやると、女性はふっと顔をほころばせた。

 

「嘘だ」

「なっ」

「だが、何か抱え込んでいるものがあるのではないのかと思ってな」


 思わず、目を見開いた。

 けれども、女性の目があまりに真っすぐ葛葉を見てきて、葛葉はきゅっと唇をかみしめた。


「全部を振り切って出てきたはずなのに、知らずに故郷の味を求めるなんて、どこかに甘えが残っていたのかと、ちょっと自分が情けなくなってしまって」

「ふむ。慣れ親しんだものを求めることは甘えなのだろうか」

「え?」

「人とは幼き頃の思い出など記憶で形成されている。場所を変えたところで、消えるものではない。それに触れ、懐かしみながらも、活力を得て進む原動力となるものだ」

「原動力……」


 どうして、赤いきつねを食べたかったんだろう。

 ふと、そう思った。

 お稽古で疲れた時、家族がいなかった時、夜中まで勉強をしていた時。

 これを食べた時は、いつも自分にとってとてもつらい時だった。

 だけど、その隣には、必ずそっと自分を見守ってくれる幼なじみがいた。

 つらい時には一緒にうどんをすすった。優しさと、温かさに癒された。

 だから、踏ん張れた。

 そして、今も――


「さて、その原動力は果たして甘えなのだろうか」


 その問いに、葛葉はゆるゆると首を横に振った。

 この赤いきつねは明日への活力。明日を踏み出す原動力。

 隣にいる人はあの人じゃない。

 だけど――


「新しく出会ったもまた新しい記憶となって、次の活力へと変わっていく。今こうやって、美味いうどんをすすりながら、話をしていることもすべてな」


 言葉に導かれるように、一口麵をすすり、じっくり油揚げを味わいながら、出汁を飲む。

 味は違う。けれども、そこにあるのはいつか感じた、優しく、温かさ。

 時も場所も移り変わっていく。

 だけど、今こうして体験した新しい味も、きっと明日へ続く記憶になる。

 今は不安がいっぱいで、これからどうやって生きていくのかもわからない。

 けれども、この味と出会いもまた、その思いと共にきっと懐かしい味へと変化していくのだろう。

 そして、きっとまた、赤いきつねを食べる時が来る。その時も思うのだ。


『私はひとりじゃない。だから、頑張れ』

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