第四章
第四章
少し前から愛花と葉月ちゃんがチェリッシュの手伝いをしてくれるようになった。
手伝いとは言うが、俺からすれば給料を払いたい程だ。
愛花は持ち前の真面目さと丁寧さでキッチンやドリンクを上手く作ってくれているし、葉月ちゃんはコミュニケーション能力を生かして接客をこなしてくれている。
元々、俺と晃は揃いも揃ってコミュニケーション能力が皆無だった。チェリッシュをオープンする前にキッチンの担当をお互いが希望して、少し喧嘩したこともあった程。
けれど、俺よりも晃の方が無愛想なのもあって、結局接客は俺がメインで担当することになった。
最初は自己嫌悪する程気持ちの悪い接客をしていたと自覚はあるし、付き合って少しした頃、愛花にも言われてしまったっけ。
愛花にとっては最悪な接客だったみたいだけれど、その愛想を上乗せし過ぎたような接客を気に入る女性客も結構居て、リピート率は高かったように思う。
今では初めて来たお客さんに「愛情込めて」なんて言葉は使わないし、割と素の自分プラス接客スマイルを貼り付けた感じで居られているとは思っているけれど、たまにカウンター内にいる愛花から冷たい視線を送られることもある。
けれど、それすらも可愛いヤキモチに思えてしまって、愛おしさすら感じていた。
愛花が葉月ちゃんと初めて店に来た時は、恋人になるなんて思いもしなかった。
彼女は高校生だし、店には俺と同世代の綺麗なお客さんもたくさん来る。嫌味になるかもしれないが、モテる自覚もある。
二十代半ばの俺からすれば、愛花は恋愛対象ですらなかった。
けれど、ほぼ毎日顔を合わせるようになり、会話をすることも増えてからは彼女のことが気になって仕方がなかった。
一見クールな雰囲気を持っていて感情を表に出さないように見えるけれど、ふとした時に零す笑顔がとても幼く、無垢だった。
それに、本当は人並み以上に自分の意思や感情が強い。言い換えれば頑固。けれど、それを胸の奥で塞いでるように思えた。
そんな一面を彼女の中で見つける度に、少しずつ惹かれていった。
付き合い始めてからは更に彼女への気持ちが日に日に増して強くなっていった。
自分が崩れないようにと無意識に張っていたであろう糸が、俺の前では緩んでいるように思えて。
だから──俺は確かめなくちゃいけない。
そしてもしも、想像通りなら……俺は愛花たちに謝りたい。
エプロンをプレゼントしたあの日から、一週間が経った。
その翌日も昨日も、いつもと変わらず二人が手伝いに来てくれていた。
けれど愛花は何かを感じ取っているようで、その笑顔には不安が垣間見えた。それでも俺はそんな彼女に気づかない振りをして、普段通りに接した。
確かめるタイミングはあの日しかない。
自分の中にある疑惑を晴らすのは、今では無かった。
俺が一方的にそう思っていても、彼女の不安は募る一方だったようで、それから一ヶ月が経ったある日、閉店後に話をしたいと彼女が言った。
二十時に店を閉めてキッチンの片付けを終えると、店内の掃除を終えた愛花が奥のテーブル席で静かに座っていた。
何とも言えないその空気に、胸がチクリと痛む。
「二人はもう帰ったんだね」
見ればわかる状況を問うでも無く一人吐き出すと、彼女は不安を帯びた瞳で
「私と二人きりになるのは嫌だった?」と問いかけた。
「なーに言ってんの。そんなことあるわけないよ」
「じゃあなんで……」
そこまで言うと愛花は声を震わせながらも唇を開き、振り絞るように声を出し、続けた。
「私、何か嫌われるようなことした……?」
俺はゆっくりと首を横に振った。
「じゃあ今、透也くんと距離を感じているのは私の勘違い……?」
その問いには首を縦にも横にも振れずにいた。
愛花を嫌いになった訳じゃない。寧ろ変わらず大好きだ。けれど、もしかすると晃と葉月ちゃんのような普通の恋人では居られないかもしれない。
頭の中で返事をするも言葉には出せず、俯いてしまった。
「勘違い、じゃないんだ……」
「もう少し待って欲しい……」
「何を?別れ話を待てってこと……?それなら今すぐ」
「違う!」
徐に顔を上げ、彼女の言葉を遮り否定した。
「違う、俺は……俺は愛花の事が大好きだよ」
頭を抱える。今この場で確認することは簡単だ。けれど、もし想像通りならばあの場所で無ければいけない。
「もう……いいよ」
黙ったままの俺に痺れを切らしたのか、彼女がバッグを持って立ち上がった。
俺はその手を掴む事もせず俯いたまま、彼女が早くこの場から立ち去ればいいとすら思ってしまっていた。
「しばらくここには来ない。連絡も……しない」
その言葉の後、鈴の音を鳴らした扉が素っ気なく閉まった。
一人になった安心感から顔を上げる。
毎日触れている木製の扉は、まるでガラスのように冷たく、ただそこにあった。
そして愛花と会わなくなって三週間が過ぎた。
その間、葉月ちゃんは変わらず店の手伝いに来てくれていたけれど、何かを言ってきたり聞いてくることは無かった。
長い長い一日を今日も終える。
晃と二人で店内の掃除や備品チェックを終え、帰る為に店内の照明を消そうとした時、晃が「ちょっと来い」と低い声で言った。
促されるままカウンターに並んで座る。
少しの沈黙の後、晃は口を開いた。
「愛花ちゃんと何があったんだよ」
低く、けれど責めるつもりは毛頭無いとでも言うように晃は優しく問うてきた。
「うん……いや、なんて言えばいいんだろうな」
言葉の続きを待っているように晃は黙って俺を見つめていたが、黙り込んでしまった姿に堪らず再度口を開いた。
「愛花ちゃんのこと、嫌いになったのか?」
「いや……そういう訳じゃ」
「じゃあ連絡してやれよ。かなり落ち込んでるみたいだぞ?」
それを聞いてまた、黙り込む。
少ししてから、俺は口を開いた。
「俺には、愛花に謝らなければいけない……ことがあるかもしれない……」
「なんだよ、その煮え切らない感じ」
カウンターの上にある卓上カレンダーに目を向けると、晃も釣られてそちらに視線を移した。
「来週、俺にとって一年の中で最も大切な日が来る」
そこまで言うと、晃は何かを思い出したように眉間にシワを寄せた。
「確か……透也、いつもこの時期に祝日だろうとなんだろうと関係無く店を閉めるっけ」
「あぁ。毎年七月二十五日は店を閉めてる。……高校生の時に死んだ俺の、親友の命日だ」
晃は一瞬気まずそうな表情をした後
「それと愛花ちゃんのことが何か関係あんのか?」と、恐る恐る聞いてきた。
「多分。だからそれを確認するまでは愛花には会えない。……それに、もしそれが本当だったとしたら、俺は……」
カウンターに両肘を付いて、頭を抱えた。
吐き出したため息が少し震える。
ただならぬ雰囲気を感じたのか、晃は俺の背中をポンと叩いた。
「わかった。俺からはもう何も聞かない。ただ、一人で抱え込むのはやめてくれ。最近のお前、顔色悪すぎて見てられないんだよ。……来週、その確認とやらが終わった後にどうしようもなくなったら、その時は俺に話せ」
それだけを言い残し、晃は店を出て行った。
一人きりになった店内は、何故か心を落ち着かせた。
ふと、いつも愛花が座るカウンター席に目を向ける。
オーバーなリアクションではないが、いつも静かに微笑んでいたり、視線が合えば頬を染める愛しい彼女が脳裏に浮かぶ。
もしも想像通りなら、俺はどうするのだろうか。
彼奴から逃げた俺を、彼女も、そして俺自身も許すことなんて出来るのだろうか。
「なぁ……新太……」
一人口に出したその名前は、自身を覆う淀んだ空気に溶けていった。
結局一睡も出来ずに七月二十五日の朝を迎えた。
毎年この日は誰にも会う事がないようにと、朝早くに新太の墓参りに行くことにしている。それは今日も例外では無い。
支度を済ませ、玄関を出る前に一つ息を吐き出して呼吸を整えてはみたものの、特にこれといった効果は何も感じられなかった。
一年に一度通る道を、例年通り辿る。電車に揺られてる最中、頭の中は愛花のことでいっぱいだった。
疑惑を持ってからは十分な時間があっただろう。彼女のことを考える、十分な時間が。けれども、何一つ答えが見つかっていない。それでも進まない選択肢は無かった。
霊園に着くと鼓動は益々早さを増していった。
売店で線香を一つ購入し、無料で貸し出して貰える桶を手に持つ。砂利を踏みながら霊園内を見渡すが、自分以外の人気は感じられなかった。
目を閉じ深呼吸をして、新太の墓の前に立つ。
持参した雑巾を片手に水をかけながら綺麗に磨いていき、最後に線香を上げ、手を合わした。
新太に何かを話さなければいけないのに、何も言葉が思い浮かばない。
頭の中は迷いで埋め尽くされている。
どれ程の時間が経ったのだろう。いや、まだそれ程時間は経っていないかもしれない。
万が一を避けていつもは早々に立ち去るこの場所に、今日は長く留まっている。
背中が熱い。朝は幾分か過ごしやすかった気温も、段々と強さを増す太陽の光に熱気を上げられてきていた。
墓石の前にしゃがんだまま、暑さ、不安、逃げ出したい衝動からじっと耐える。
その時だった。遠くまで香る線香の匂いを掻き分けるように、砂利を踏む音が近づいてきたのは。
閉じていた目をゆっくりと目を開ける。その音が少し離れた先で止まった事で、俺は確信した。
こちらに向かうその歩みが止まったのは、俺の姿を見つけたからだろう。
愛花が、いる。
ゆっくりと立ち上がり、その音が止んだ方に視線を向けた。
そこには無料で貸し出してもらえる桶と、同じく購入したであろう線香を手に持ち、心底驚いた表情の彼女がいた。
「……愛花」
彼女は歪めた眉を向けたまま、桶を持つ手に力を込めた。
「なんで……なんで透也くんがお兄ちゃんのお墓の前に居るの……」
お兄ちゃん。愛花は新太のことを、俺の親友のことを、間違いなくそう呼んだ。
「えっ……私、話したっけ……お兄ちゃんのこと……」
俺が黙っているせいで、困惑する彼女はこの状況の自己処理を始めようとしているようだった。
「何も、聞いてないよ」
やっとの思いで言葉を吐き出すと、彼女の唇はあからさまに震えた。
「ごめん。正直、俺自身何から話せばいいのかわからない。わからないけど、俺は愛花と話をしなければいけない。……そして、愛花に謝らなければいけないことがある」
霊園から少し歩いた場所に、周りの景色を一望出来るスペースがある。
彼女をその場所へと連れて行き、ベンチに腰掛けるよう促してから二人で座った。
二人の間に流れる空気はどんよりとしているのに、目線の先に広がる景色は緑に溢れていて、空も快晴だ。
暫く沈黙したあと、俺は意を決して口を開いた。
「新太は、俺の親友だった」
一言そう伝えると、彼女はこちらを向いた。景色に目を向ける振りをして、その一歩手前を一点に見つめている俺からは、どんな表情をしているかはわからなかった。
「高校に入って少ししてから仲良くなり始めたんだ。最初は複数人で遊んでいたけど、いつからか二人で居ることが増えて行った。喧嘩なんて一度もしたことがなかったよ。夜中に家を抜け出してコンビニでアイス食べたりもしたっけ。……本当、ずっと一緒に居た気がする。俺の両親が割と忙しい人達で出張だったりで家を空けることも多かったから、新太がよく遊びに来てたんだ」
話し始めると意外にもスラスラと言葉が出てきて、自分でも驚いた。けれどそれは、新太との楽しかった思い出を話しているからだろう。愛花に、……いや、誰かに話したい新太とのエピソードなんてこんなもんじゃない。新太が好きな人に告白をして振られた時の笑える話、高校一年生の時の眉毛事件、まだまだある。でも今はそんな話をする時間じゃない。
ここからは、違う。
俺は汗ばむ指先にグッと力を込めて、また口を開いた。
「……高二のある日、いつも通り学校が終わって、新太と二人でコンビニに寄ってアイスを買って……俺の家に行った。その時に……」
言葉が詰まり始めた。その度に閉じそうになる唇を強引にこじ開ける。
あの日の出来事は鮮明に覚えている。新太の顔色の悪さから、今にも消えそうな声まで全て。
何年振りだろう。俺は久しぶりに、あの日を思い出す。それも、無理やりに。
情景が脳裏に浮かんできた時、俺は一度、深呼吸をしてから話し始めた。
一週間振りに学校に来たあの日の新太は、誰が見てもいつもとは違う様子だった。
登校後、その顔を見て異変を感じた俺がすぐにどうしたのかと尋ねると、新太は「後で話すよ」と暗い表情で懸命に笑った。
「後で家に行く」
新太はそう言って、一限目が始まる前に帰って行った。
一日の授業が終わり、学校を出てコンビニエンスストアに寄った俺は二人分のアイスを買って、帰宅した。
それから少しして家に来た新太を迎え入れた。
気が気じゃなかったが、新太から話をしやすい雰囲気作りをと思い、ベッドに腰掛けて俯く新太を横目にいつもと同じようにベッドへと寝転んで、少年漫画を読んでいた。
すると、新太が小さく呟いた。
「透也。……俺、もうすぐ死ぬんだってさ」
ページを捲る手が自然に止まる。
大人しい性格ではないが、冗談を言うような奴でもない。ましてや面白くもない冗談なんて。
「……何言ってんの?」
思わず体を起こす。
クーラーを付けているにも関わらず、体中の汗が一気に溢れ出した。
「なんか、……なんかよくわからないんだけどさ、ちょっと前から体、おかしくて。先週病院に行ったら次々に検査が増えていって。……珍しい病気だって先生が言ってた。……初めて見たよ、医者が余命宣告してるところ」
震えた声はやがて新太の肩までも震わせる。その背中に怒りが湧いた。
「……なに?面白くないんだけど」
言いながらこちらを振り向かせようとその肩に手をかけるも、振り向かないという強い意思を持った新太は、それを肩で振り払う。
新太は手で自身の顔を覆った。
「嘘、……だったらいいのに」
咽び泣く新太を見るのは初めてだった。
戸惑いと、信じられないような話に頭の中は大混乱だった。
それでも、目の前に居る新太の姿にそれはつまらない冗談でもなんでも無く、これから起こる事実なのだと、胸を刺される感覚に陥った。目の前が真っ白になりそうで、座っているのに目眩がして、呼吸も上手く出来なくなっていく。
じわりと目頭が熱くなったと思ったのも束の間、それは静かに、それでいてもう一生止まらないのではと思う程、熱を持った涙が頬を伝った。
「なんだよそれ……。なん、……」
言葉も出てこない。けれど、この湧き上がる怒りのようなものを新太にぶつけるのは、違うと思った。
「それで、透也に……頼みがあるんだ」
新太が遠慮がちに言った。辛うじてその声に耳を傾ける。
「……俺のとこ、父親居ないじゃん。……でさ、母さんが病気のこと知ってからもう……もうダメで……。余命宣告された俺より早く死ぬんじゃねぇのってくらいどんどん憔悴していってて。妹もまだ小さいし、俺、自分のことより二人のことの方が心配で」
鼻をすする音が部屋に響く。
頬に流れた涙の跡が乾く間も無く、その上をまた流れていく。
「後のこと、任せていいかな……」
心臓がドクンと跳ねる。それじゃあまるで、新太が死んでしまうような言い方じゃないかと思った。
脳は無意識に新太の言葉を拒否していた。
「時々でいいんだ。数ヶ月に一度でもいい。母さんと妹の様子を見に行ってやって欲しいんだ。こんな事透也にしか頼めないんだよ……」
弱々しく見えていたのは病気のせいだけでは無かっただろう。
何にせよ、当時の俺はもうすぐ目の前にいる親友を失うという現実を受け入れることが出来ず、新太の願いに返事も出来ないまま、それから一ヶ月も経たずに新太は死んだ。
その日からずっと、頭の片隅には最初で最後だった親友からの願いが突っかかっていた。
けれど、俺は現実から逃げたんだ。
妹の名前を聞いた事も無く、それを理由にして心の中で言い訳をして、新太が俺にしか頼めないとまで言った願いを無下にした。
高校を卒業する時に当時担任だった先生にこの霊園の事を聞き、それからは毎年欠かさず手を合わせに来ていた。
新太、ごめん。お前の願いを無視してしまった俺を恨んでくれ、と。
「だから……愛花の名字を聞いた時、新太の妹かもしれないと思って、途端に怖くなった」
彼女はただ静かに、俯きながらも俺の言葉に耳を傾けていた。
先程まで晴れていた空が、少し曇り始めている。
「愛花」
無理やり体を彼女の方へと向けた。
顔を上げた彼女の真っ赤な目からは大粒の涙が流れていて、声を漏らさぬようにと唇をキュッと強く結ぶ酷く乱れた表情に胸が痛んだ。
そして、
「新太の……新太の頼みを聞いてやれなくて、逃げて、……ごめん……っ」
嗚咽混じりに吐き出した謝罪は、彼女に届いたのだろうか。不安になりながらも顔を上げることが出来ずにいると、彼女の震える手が俺の腕を掴んだ。
「透也くん……お兄ちゃんのことを覚えていてくれて、ありがとう……っ」
予想外の言葉に驚いたが、愛花はぐちゃぐちゃになった顔で更に続けた。
「毎年、お墓参りに来てくれて……っ、ありがとう、本当に、本当にありがとう」
「なんで……」
俺は新太から逃げたのに。
愛花からも逃げたというのに。
「そして、ごめんなさい……。お兄ちゃんの言葉でずっと苦しめてしまって、ごめんなさい……」
「……違う」
苦しんでなんかいない。逃げて、忘れた振りをして生きて来たのだから。
それなのに、愛花はまるで、俺の全てを許すかのように、ふるふると首を振る。
「透也くんは何も悪くないよ……。それに、当時は私達、会ったことが無かったでしょ?その時透也くんと出会っていても、きっと私は心を開かなかったと思う。……お兄ちゃんが死んで、凄く辛かったから……」
愛花は、俺の罪悪感を消そうとしてくれているんだ。それがひしひしと伝わってきて、更に涙が溢れた。
彼女の温かな手が、俺の手に重なった。
「私は今、透也くんと出会えて……好きになれて良かったと思ってる。でも、運命だっただなんて思ったりしないよ。私と透也くんが出会ったのはただの偶然で、私達は普通の恋人同士。だから、言わせて。……私は透也くんが好き。心から想ってる」
重ねられた手からようやく視線を上げると、涙の跡が頬に張り付きながらも、真剣に、真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の姿があった。
今だけは、彼女から逃げては行けない。俺は逸らしたくなる視線に鍵を掛けた。
彼女は頬に張り付く跡の上に、最後に一筋の涙を重ねて言った。
「でも……お別れしよう」
彼女の手がゆっくりと離れていく。
先程まで晴れていた青空は、分厚い雲に覆われていた。
「お兄ちゃんが何を言っていたとしても、透也くんの人生は透也くんのモノだから。ずっとお兄ちゃんを想っていてくれたことも、私がちゃんと受け取ったから……だから大丈夫。もう大丈夫だよ」
愛花は辛そうに、けれども柔らかな笑みを浮かべた。精一杯、これが限界だと見て取れる程にぎこちなく。
彼女がふと視線を外し、徐に立ち上がった。
雨の匂いが鼻をかすめたが、彼女から目を離す事も引き止める事も出来なかった。
「……ありがとう、透也くん」
砂利を踏む音が段々と遠のいていく。
彼女は、俺が思うよりもずっと、強かった。そんな彼女に俺が何をしてあげられるというのだろうか。
ぽつぽつと降り始めた雨と、こぼれ落ちる涙の両方が、視線の先にある地面の色を変えていく。
俺の隣に、愛花はもう居ない。
夏めく花々を愛し 川上 音把 @otoha_kawakami
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