第三章

 第三章


「で?」

「……ん?」

 葉月のキラキラと輝く瞳を見つめる。

 透也くんと付き合うことになった経緯と数日前のクリスマスの夜のことを詳しく聞かせて!と電話越しにはしゃいでいた葉月は、電話だけでは物足りなかったようで、突然家に押し掛けてきた。

 そして、自分なりに事細かく伝えたつもりだったが、それ以上のことを求められているようだ。

 その意図が分からずに首を傾げると、一瞬で葉月の眉間にシワが寄った。

「ん?じゃなくて!そのあとは?!」

 リビングの炬燵こたつを挟み、向かい合わせで座る葉月の大きな瞳が、更に大きくなった。

「そのあと……?」

「キスしたんでしょ?そのあと……ほら!一緒に過ごしたんでしょ?!もしかしてお泊まり?!」

 なんとなく葉月の聞きたいことを理解して、飲んでいた紙パックのジュースを机の上に置いた。

「何も無いよ。日付が変わる前に送ってもらっただけ」

 そう伝えると葉月の唇が尖った。

「なーんだ。つまんなーいっ!まぁでも初日に手出して来ないのは悪いことではないか……」

 スナック菓子を頬張りながら、葉月がブツブツと独り言を呟く。

「そう言えば、チェリッシュって今日も開いてるの?」

 葉月がスマートフォンの画面で日付を確認しながら言った。

 ディスプレイには十二月三十日と表示されている。年末年始の準備をするべく、誰もが少し忙くなる日だ。

「うん。今日まで開いていて、明日は晃くんと二人でお店の大掃除するらしいよ」

「ん、いいねっ!それ私達も参加しよう!」

 晃くんに会う良い口実を見つけた葉月は、「透也くんに連絡して!」と半ば強引に明日の約束を取り付けさせた。


 翌日、フルメイクに髪をフワフワと巻き、とてもじゃないけれど大掃除には向かないような格好で現れた葉月と二人でチェリッシュへと向かった。

「こんにちは~!」

 元気よくチェリッシュの扉を開けて入る葉月に続く。

 年末と言ってもお店がかなり忙しかったようで、二人の邪魔にならないようにと、透也くんとはクリスマスの日に会った以来会っていない。と言っても、一週間も経ってはいないのだけれど、ほぼ毎日お店に通っていた私からすれば〝久しぶり〟と挨拶を交わすには十分過ぎる程の期間が空いていた。

 それに、付き合ってから初めて会うということもあり、胸の奥から心臓が強く叩かれるような鼓動を感じた。

 誰にも気づかれぬように葉月の後ろで意を決して足を踏み入れると、晃くんが入ってすぐ左にあるテーブル席付近の壁を、雑巾で拭いていた。

「久しぶりだね」

 私たちに気がつき、声をかけてくれる晃くんに、小さく会釈をする。

「晃くん!お久しぶりですっ」

 すぐさま晃くんの元へと駆け寄り満面の笑みを送る葉月を横目に店内を見渡すと、カウンターの中からこちらに視線を送る透也くんの姿を見つけた。

「おかえり」

 もう何度、この言葉を聞いたのだろう。

 低く、それでいて温かみのある声が耳に届く。

「こんにちは」

 カウンターテーブルの上にバッグを置き、自分でもわかる程にぎこちなく小さな挨拶を伝えると、透也くんが手招きをした。

 カウンターの中に入るのは初めてだ。掃除中ということもあり、カウンター内は引き出し等から出されたのであろう物が散乱していた。

「何飲む?」

「えっ、いいよ。掃除中でしょ?私もすぐ手伝うし」

「いいのいいの。まずは体を温めて。ね?」

 透也くんは私の片耳を優しくつまむ。瞬時に触れられた部分だけが熱を持っていく。

 私がこくりと頷くと、透也くんが目を細めてくしゃりと笑った。

「あーっ!イチャイチャしてるー!」

 唐突な声に肩がビクリと大きく跳ねた。

「いいなーいいなー。こーんなオシャレなカフェの店長が彼氏だなんて、愛花が羨ましい!」

 透也くんから差し出されたホットココアを受け取りながら、葉月が言った。

 カウンター内で隣に並びつつ、私もホットココアをすすった。

 葉月の言葉一つ一つに胸の奥がじわりと熱くなる。

嫌ではないが、くすぐったいような。

「葉月ちゃんは?好きな人いないの?」

 透也くんが話題を変えてくれたことに心底ホッとした。人の話を聞き出す上手さは、さすが接客業だなと尊敬する。

「え~?……いますよ~?えへへ」

 葉月はそう言いながら、後ろのテーブル席で初めてここに来た時と同じく、コーヒーを片手に文庫本を読んでいる晃くんの姿をチラ見した。きっと透也くんはもう葉月の好きな人が誰なのか気がついているはずだ。

「そっか。また今度にでも好きな人の話たくさん聞かせてよ」

「もちろん!」


 気がつけば時刻は十七時を過ぎていた。

 あれから透也くんと晃くんは主に事務所やキッチンを、私と葉月は店内を隅々まで磨きあげた。

 綺麗になった空間を見渡しては達成感を感じていた。

「みんなお疲れ様。愛花ちゃんと葉月ちゃんも手伝ってくれてありがとね」

「いえいえ~!いつもお世話になっているので!」

「ははっ、本当に助かったよ。ってことで、今から四人でご飯でも……と言いたいところなんだけど」

 そこで区切った透也くんの言葉に、私を含む全員が疑問を持つ。続く言葉を待っていると、突然、透也くんの左腕が私の頭をそっと包み込んだ。

「愛花ちゃんと二人で過ごしたいってわがまま言ってもいい?」

 二人の視線が一斉にこちらを向いてしまい、私の体は固まってしまった。

「きゃー!もう!もう!いいですよーっ!」

 葉月は両手で自身の顔を覆いながら叫んだ。

 晃くんは相変わらず表情を変えずに頷く。

「ありがとう。……あ、そうだ。葉月ちゃん、カラオケは好き?」

「え?あ、はい!大好きです」

「そうなんだ。実はね~、晃ってめちゃくちゃ歌上手いんだよ」

 透也くんの言葉を聞くと、無表情が多い晃くんの眉間にシワが寄る。

「えっ、そうなんですか?聞きたい~!」

「いやいや、上手くないって。透也、適当なこと言うなよ」

「なんで?めちゃくちゃ上手いじゃん。ってことで今日のお礼も兼ねて、葉月ちゃんとカラオケにでも行ってきなよ。暇でしょ?晃」

 見る見るうちに表情に花を咲かせた葉月が、期待を胸に晃くんの返事を待っている。

 ハードルを上げられたことに対して不満そうな表情を浮かべながらも、葉月のキラキラとした瞳に負けたのか、一つため息を吐いた晃くんが口を開いた。

「……行くか」

「やったー!ついでにカウントダウンもしましょっ!」

「バーカ。それまでには送り届ける」

「えー!やだ!つまんない!」

 心底嬉しそうに笑う葉月を見て、私まで嬉しくなった。

 どうか葉月の想いが届きますように。


 準備を終えた二人がチェリッシュを出てから透也くんと二人きりになってしまい、何を話してどんな表情をすればいいのかなどという、自問自答では到底答えが出ないような問いが頭の中を埋めつくしていた。

 事務所に行っていた透也くんが戻って来たかと思えば、カウンターチェアに座っている私の隣にゆっくりと座った。

「緊張してる?」

 不意に顔を覗き込まれ、思わず視線を逸らした。緊張、しないわけが無い。

 一瞬目に入った透也くんは、どこか楽しそうに微笑んでいた気がする。

「……えっと……」

 言葉に出来ない緊張や動揺が瞼に表れて、瞬きが多くなってしまう。すると、透也くんが私の手を握ったかと思えば、それを自らの胸へと持っていった。

 突然のことに驚きながらも、ちょうど心臓の上に当てられた手に意識を向けてみると、私と同じくらいの早さで心臓が動いているのが伝わった。

 思わず透也くんの顔を見ると、どこか頬が赤らんでいるような気がした。

「同じ。……って、俺が緊張してるのはさすがにダサいか」

 くしゃりと笑う透也くんの表情に、それまで激しく動いていた心臓がキュッと鳴り、その後ようやく落ち着きを取り戻していった。

 男性のことを可愛いと思ったのは初めてだった。

 彼の言葉にゆっくりと首を横に振ると、透也くんは嬉しそうにまた笑った。


 二人して悩んだ結果、私たちも結局カラオケ店へとやって来た。

 大晦日ということもあって部屋はどこも満室だと思ったのだが、数分待っただけで無事に入れたのは、奇跡と言っても過言ではないだろう。

 紛れもなくこれが初デートだ。そう意識すると手が汗ばんでいく。

 ドリンクバーからジュースを注いだグラスを片手に、部屋へと入る。設置されているテレビからは、今流行りの曲のミュージックビデオが流れていた。

 二人で過ごすには十分過ぎる程の広さだ。けれど、こういう時はどこに座ればいいのだろう……。離れ過ぎても変だろうし、かと言って近くに座り過ぎても。

 悩んでいると先に座っていた透也くんが自身のすぐ隣の場所をポンポンと叩いた。

「おいで」

 そう促され、小さく頷いてから隣へと座った。


 太ももが触れている。それ程近くに居るんだ。

 ふと、呼吸の仕方を忘れそうになる。

 透也くんと一日中一緒に居たら、私の心臓は確実に持たないだろうなと、密かに思った。

 透也くんが歌うのを聞いた後に私も勇気を振り絞り、先程テレビから流れていた流行りの曲を歌った。

 好きな人と初めてのデート。そして上手くもない歌を歌う状況には緊張してばかりだったけれど、それでもこの時間を心から楽しんでいる自分に気が付き、安堵した。

 何度か交互に曲を歌っているうちに頼んでいた料理が数品届けられた。

 透也くんが歌うのを聞きながらフライドポテトにケチャップを付けて食べようとすると、曲の途中だというのに歌うことを止めた彼が小さく口を開け、こちらを向いた。

「あ」

 何を催促されているかなんて、さすがに私でもわかる。わかるけど……。

 戸惑いながらも、フライドポテトを透也くんの口の中へと入れた。

「ん、美味い」

 そう言いながらペロリと舌を出し唇を舐めるその仕草に、また心臓がキュッと鳴る。

 透也くんは順番、とでも言うかのように、同じくフライドポテトの先にケチャップを付け、今度は私の口の前に持ってきた。

 小さく唇を解放すると、すぐにそれが口の中へと入れられて、私は頬を染めながら咀嚼した。

「美味しい?」

「……うん、美味しい」

 透也くんに見つめられたまま、ごくんと飲み込む。室内には途中で歌われなくなった曲がそのままBGMと化している。だけれど、そんなところに意識を向けられる余裕は無い。

「……可愛い」

 ほら、またこうやって私は彼に思考を奪われていく。それが少し悔しくて、恥ずかしくて、でも……嬉しい。

 薄暗い室内で彼の瞳は宝石のように輝いていた。

 顔を近づけながらどちらからともなくそっと目を閉じると、唇が重なった。ゆっくりと離れたかと思えばまた間髪を入れずに重なって。

 上手く呼吸も出来ず、初めての深いキスに脳がとろけてしまいそうになったが、不思議と恐怖はなかった。

 けれど、緊張はずっとしている。

 彼の腕を無意識に掴む。


 あの日、初めて葉月とチェリッシュに行った日から、私の人生は少し色がついたように思う。

 大好きだった兄のことも、離れて暮らす母のことも、周りが思うほど私は可哀想でも不幸でもないのに、そう言われ続けていつしか自分でも私は可哀想なのだと心のどこかで思ってしまっていた。

 けれど、実際はただ少し……寂しい時に寂しいと伝えられない性格になってしまっただけ。

 でも、この人になら甘えられる気がする。寂しいと伝えれば透也くんはきっと、そっと抱きしめてくれるはずだから。


 唇が離れ、小さくも乱れた呼吸を気づかれぬように整えていると、彼にふわりと抱きしめられた。

「愛花ちゃん」

 決して静かではないこの空間だけれど、耳元で呼ばれた自分の名前は、一直線に脳内へと届けられた。

「大好き」

 好きな人に好きだと言われることはきっと、当たり前じゃない。だから私は、この出会いをずっとずっと大切にしていきたい。

「……私も。私も透也くんが大好き」

 自身の手をそっと彼の背中に回してみると、柔らかく包み込まれていた彼の腕に少し力が入った。たったそれだけのことが嬉しくて、満たされていく心に気がつき、少し泣きそうになった。

 恋をするとこんなにも幸せになれるだなんて、思ってもみなかった。

 日付が変わる前に自宅のマンションまで送ってもらい、誰もいないエントランスでまたキスをした。

 まだ一緒に居たい気持ちと、それを伝えるときっと困らせてしまうという葛藤の末、そのまま別れることにした。


 年が明け、気がつくと季節はあっという間に春を過ぎ、少し歩けばじわりと汗ばむ程暖かくなっていた。

 高校三年生になって数ヶ月が経つけれど、私と葉月は相も変わらずチェリッシュへと通っていた。

 大晦日の出来事がきっかけとなり、葉月と晃くんは先月から付き合い始めた。

 当時、葉月が泣きながら報告をしてくれたっけ。それからは毎日、葉月の惚気を聞いている気がする。

「でね、晃くんが面白いよって教えてくれた小説がもう全部面白くて!一冊読み終える度に長電話しちゃったりさ。それで毎朝寝不足だよ~」

 通学中、隣で大きな欠伸をしながらも、どこか幸せそうに語る葉月を微笑ましく眺める。

「好きな人の好きな物を好きになれるって、素敵なことだよね」

「うんうん。もちろん好きになれないこともあるよ、うん。それはもう仕方ない!だからってその人と合わないって訳でもないし」

 すると、同じ方向を向き並んで歩いていた葉月がくるりとこちらを向いた。

「ということで!もうわざわざ聞かなくてもいいとは思うんだけど!……本日の午後の予定は?」

 葉月は手をマイクのように見立ててこちらに向け、にやりと笑った。わざとらしい質問とその表情につられて、私の口角も上がる。

「もう……。どうせチェリッシュに行くんでしょ」

「正解!」

「ふふっ、正解って何よ」

「毎日会えるって幸せ~!」

 葉月の言葉に深く頷く。

 当たり前じゃない。世界には恋人に会いたくても会えない人がきっと、たくさんいる。

 だから会いたい人に会える私はとても幸せなんだと思うし、会える時に会っていたい。

 会いたいと願っても、もう二度と会うことの出来ない兄を思えば思うほどに。


「これ、新作のパフェなんだけど」

 そう言って晃くんが私と葉月の前に出したのは、チョコミントのアイスがメインの女性でも食べ切りやすい大きさのパフェだった。

 一番上にはチョコプレートやチョコクッキー、そして可愛らしいミントの葉が添えられていて、清涼感があり夏にぴったりだと思った。

 しかし、チョコミントは好みが分かれる代表的な食べ物の一つだ。

 私と葉月は夏になると毎年チョコミントのアイスを求めてコンビニエンスストアをハシゴする程好きだ。けれど、晃くんの後ろでは眉間にシワを寄せる透也くんの姿があった。

「透也くん、これ、嫌いなの?」

「俺は……うーん。食べられないことは無いけど、食べたいとは思わない……かな」

 他にもお客さんが居る手前か、小さな声で答える透也くんがとても可愛らしい。

「俺もチョコミント好きなんだけど、葉月も好きだって言ってたから、メニューにどうかと思って」

 にこりと静かに微笑みながら言う晃くんに、葉月は「好き……」と熱視線を送っていた。


「ごちそうさまでした」

 食後でも容易に食べ切れるサイズだったパフェは、工夫のお陰もあり、最後まで飽きる事無く完食出来た。

「凄く美味しかった。もうすぐ暑くなってくるだろうし、夏にもぴったりだね」

「うんうん!下の方にあったチョコソースも味変って感じで美味しかった~!これ、メニュー決定!」

 私たちがそう言うと、晃くんが緩りと頷く。

「よかった。じゃあ、来月からメニューに追加しようか」

 晃くんに同意を求められた透也くんは「……はいはい、お好きにどうぞ」と渋々納得していたようだった。


 夕方になり、賑わっていた店内はいつの間にか閑散としていて、気がつけば私たちの他に二人組の女子高生が居るだけだった。

 それを私はカウンターの中から眺めている。

 最近は私と葉月がお店を手伝うことも増えてきた。と言うのも、透也くんと付き合い始めた頃から、二人が私と葉月から料金を受け取ってくれなくなったのだ。

 さすがにそれはと遠慮をしたが、「いいから」の一点張りの透也くんを崩す事は出来なかった。

 けれど、大晦日に大掃除の手伝いをした事がきっかけとなり、お店が忙しい時はオーダーを取ったり洗い物をしたりと手伝わせて貰えるようになったのだ。

 今では賄いという体で新作メニューの試食から考案まで参加させて貰っている。

 カウンター席から眺める彼も大好きだけれど、時折並んで作業をする時間も凄く好き。

 二人に色々と教えて貰い、エスプレッソマシンを扱えるようになった今では、手伝い自体を心から楽しく感じている。

 テーブル席に居た女子高生二人組のお会計を葉月が対応し、その間に晃くんが手際よくテーブルを片付けている。透也くんはメモとペンを手にキッチンから出てきた。きっと食材の期限や在庫確認をしていたのだろう。

「お客さん帰ったんだね」

「うん、今」

 透也くんは壁に掛けられている時計に目をやる。

「今からの時間は少し落ち着くから、みんなで休憩しようか」


 ミルクティーと紅茶を二つずつカップへと注ぎ、カウンター席に並んで座る晃くんと葉月に、そしてカウンター内で私の隣に立つ透也くんにも手渡す。

「ありがとう、愛花」

 最近、透也くんは私のことを呼び捨てにすることが増えた。未だに名前を呼ばれる度に心臓がドクンと鳴るけれど、距離が縮まったように思えて嬉しい。

 首を傾げて言う透也くんに、私も真似をして笑みを返した。

「そう言えば透也。あれ、届いた?」

「あぁ!そうだった。持ってくるよ」

 二人の会話に私は疑問を持つ。

「あれってなぁに?」

 それは葉月も同じだったようで、すかさず隣に座る晃くんに問うていた。

「ん?内緒。見るまでのお楽しみ」

「えー!何?!何?!」

 自分に関する物なのかと葉月の期待が上がり始めた時、事務所からダンボールを抱えた透也くんが戻ってきた。

「愛花もこっちにおいで」

 カウンターテーブルの上にそれを置き、手招きする透也くんに誘われてカウンター内を出る。

 ダンボールを開くと何やらガサガサと音がした。

 葉月と二人でそれを覗き込むと、袋に包まれた服のようなものが見えた。

「なーにっなーにっ!」

 急かす葉月を一瞥して、透也くんがそれを袋を開けて取り出し、パッと広げた。

「えっ!えっ!!」

「これはね、二人のだよ」

 そう言う透也くんの手には、ココア色とでも言うのだろうか。柔らかく、そして暖かみのある茶色のエプロンがあった。

「うそ、本当に?」

「本当。お客さんから見てもちゃんとチェリッシュの店員だってわかるようにって言うのと、あとは……俺たちの自己満?エプロン似合うだろうなって」

 くしゃりと少し照れながら笑う透也くんと、「俺はそんなこと言ってないからな」と同じく少し照れた様子の晃くん。

「えー!嬉しいっ!晃くん、透也くんありがとー!」

 言って葉月は晃くんに抱きつく。

 私はと言うと、驚きと嬉しさのあまり固まってしまっていて、小さな声で「ありがとう」と言うので精一杯だった。

「ねー、これめっちゃ可愛い!愛花、付けよ!」

「うんっ」

 彼女だから特別、というのもきっと間違いでは無いのだろう。けれど、スタッフとしても認められたような気になり、言葉にできない程の喜びが湧き上がってくる。

 エプロンを首から通し、少し太い紐を腰の上あたりで結ぶ。まじまじと私たちを見つめる二人の視線が恥ずかしくて、意味もなく、可愛い花柄の刺繍が施されたポケットに両手を入れてみた。

「どうっ?どうっ?!」

 裾を持ち、くるりと回って見せる葉月。

「可愛いよ」

「うん。愛花も似合ってる。可愛い」

 目を細めて言う透也くんに、照れ笑いをする。

「ねぇ、愛花似合ってる!」

「ふふ、ありがとう。葉月もめちゃくちゃ可愛い!」

 えへへと二人で笑いあっていると、葉月が何かに気がついたようで、途端に私の胸元を見つめた。

「あっ!ねぇこれ、名前入ってる!」

「おっ、気がついた?」

 言われて自分の胸元を見るとローマ字で〝Manaka〟と、葉月の胸元には同じくローマ字で〝Hazuki〟とどちらも白の刺繍が入っていた。

「わっ……!」

 思わずらしくない程の弾んだ声を出してしまった。けれど、本当に嬉しい。

 私の、私専用のエプロンなんだ。

「わぁ、本当に可愛い!もう最高だよ~!」

「うん、本当に。二人とも素敵なプレゼントをありがとう」

 透也くんと晃くんに小さくお辞儀をしながら言うと、二人はニコリと微笑んだ。

「書いて貰ったのが下の名前で本当に良かったよ~!」

 葉月の言葉に、私を含む三人が疑問を投げかける表情を向けた。

「あっ、いやさぁ?大抵こういうのって名字が書かれてるじゃん?私だったら〝前川〟とか。ありきたりな名字だし可愛さ半減するもん!……あ、でもその点、愛花の〝笹原〟って名字は綺麗だからいいよね~」

「ふふっ。綺麗かどうかはわからないけど、うん、名前を入れてくれて嬉しい」

「そもそも葉月の名字が前川って、今知ったよ」

「……確かに!言われてみれば言ったこと無かったかも!ねぇねぇ、晃くんの名字は?」

「ん?俺は──」

 二人の会話を聞きながら、晃くんの隣に座る透也くんの姿に目をやると、視線を落とす彼の眉間にシワが寄っている気がした。

「……透也くん?」

 私が声を掛けると透也くんはハッとした表情を浮かべた。

「あっ、いや……なんでもない」

 数分前とは明らかに違うその表情に、途端に不安が襲う。

 私、何か言っちゃいけないことでも言ったかな……。

 この数分間に起きた会話を脳内でリピート再生してみたけれど、これといって浮かぶ心当たりは無かった。

 不安を抱きながらも透也くんを見つめていると、「買い出しリスト、もう一回確認してくる」と彼が途端に席を立ち、事務所へと入っていった。

「晃くんの名字かっこいいじゃん!」

「そう?よくある名字だよ」

 葉月と晃くんが名字の話で盛り上がっている中、押し寄せる靄を胸に、彼が入っていった事務所の扉を見つめた。

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