第二章

 第二章



 それから秋を越え、落ち葉を踊らせる冷たい風が頬を撫でるようになる頃には、葉月と二人でほぼ毎日と言っても過言ではない程、チェリッシュに通うようになっていた。

 チャラいお兄さんの名前は透也トウヤと言う。通い始めて間も無い頃、なんと呼ぶべきかと考えた結果、一度〝チャラ兄さん〟と呼んだことがあるが、大笑いされた。その時からチャラいお兄さんのことを透也くん、コウという名の塩対応お兄さんのことを晃くんと呼ぶことになった。

 正直、最初はあまり乗り気ではなかった。けれども学校が終わると当たり前のように腕を引く葉月に連れられ、気がつけば常連になっていた。

 それに、数週間もすれば透也くんの接客にも慣れてしまっていた。出会って数ヶ月経った今では気持ちの悪い接客が少しマシになった気がする。多分あれは、透也くんと晃くんが二人でカフェをオープンして間も無い頃で、常連客を獲得するための接客だったのではないかと今は思う。だとしたら一部の人にしかウケないだろうから、辞めて正解だ。……とは言いつつ、実際リピート率の高さは異常なのだけれど。

 そして、今ではチェリッシュが私にとってとても居心地の良い場所になっている。

 こうして葉月が家族で出かけていて来られない日にも、一人で訪れるようになるくらいには。

 最初は重いと感じていた木製の扉も、今では不思議と軽く感じる。

 自転車に乗って完全に冷えきってしまった両手を擦り合わせながら、体の体重をかけて体の半身で扉を開けた。

「愛花ちゃんおかえり~」

 透也くんに〝おかえり〟と言われるようになったのはいつ頃からだろう。この言葉を言われる機会がめっきり減ってしまった私からすると、言われて嫌な言葉では無いが、ただいまと返す関係でもないので基本は無視だ。

「いらっしゃい」と晃くんがこちらを一瞥した。

「こんにちは」

 一番最初にここに来た時は、次は奥のテーブル席に座ると決めたのだけれど、今ではL字カウンターの二つ席が並ぶ場所が私と葉月の特等席になっていた。

 偶然か、それとも他のお客さんが座らないようにしてくれているのか、その二つの席にはいつも本が積まれたり荷物が置かれたりしている。そして、私たちが来ると席を空けてくれるのだ。

 今日も例外なく、カウンターチェアの上に少し大きめの観葉植物が置かれていた。

「愛花ちゃん、それ奥に運んでくれる?」

「はーい」

 透也くんに言われて、身長の三分の一程の大きさのある観葉植物を、従業員のみが入ることの出来る奥のスペースへと置いた。

 この事務所のような場所には晃くんの私物であろう本がたくさん置いてある。普段本を読むことはあまりないが、私は狭い空間が割と好きな方で、お客さんが多くなってくると私と葉月はこの部屋で過ごすこともあったり。

 ふぅ、と一つ息を吐き出すと、後ろから「電気ストーブあるでしょ?」と透也くんが声を掛けてきた。

 透也くんが視線を向けた先には購入したばかりなのか、まだ箱から出されてもいない電気ストーブがあった。パッケージには白くて細長い、スタイリッシュな電気ストーブの写真がある。

「外寒かっただろうし、向こう持ってって使っていいよ。愛花ちゃん専用で」

「え、いいよ。店の中じゅうぶん暖かいし、他のお客さんもいるんだから私の隣にだけ置く訳にはいかないよ」

 そう言って部屋を出ようとすると、徐に左手を握られた。驚いて瞬きを数回しているうちに、更に右手までもが透也くんの大きな手に包み込まれた。

「ほら、めちゃくちゃ冷たいじゃん。……本当に愛花ちゃんの為に買ったんだよ」

 眉を八の字にして、唇を少し尖らせる透也くんは、子犬みたいな顔をしている。どうしてこんな表情をするのだろう。

「……今来たところだからだよ。温かいものでも飲めばカップですぐに暖かくなるし……」

 男性に手を握られたのは初めてだった。小学生低学年の頃に複数人の男の子を好きだと言っていた事を初恋と呼べたとしても、その時以来恋をしたことが無いのだから、当たり前といえば当たり前だ。

 えっと……こういう時、葉月ならどうする?あぁダメだ、わからない。葉月なら、葉月なら……。

 あれこれ考えるうちに重さに耐えきれなくなったかのように頭が下がり、俯いてしまった。耳が熱い。好きじゃなくとも、嫌いではない人に慣れないことをされると、脳は勘違いをしてしまうのではないだろうか。だから今、心臓がこんなにもうるさくなっているんだと思う。

 それにしても、透也くんはまた気持ちの悪い接客を復活させたのだろうか。私と葉月はすっかり常連だというのに。例えばそうだとして、以前よりも嫌悪感を抱いていない自分がいるのは何故だろう。素直に、その温かな両手の温度を嬉しく思うのは何故なのだろうか。

 たった数秒が、数分にも思えるほど長かった。きっと一瞬と呼べる程の時間だったのに、私の両手は透也くんから温もりを分け与えられ、冷たさが軽減されている。

 透也くんの表情を伺う為に顔を上げると、透也くんの両手がパッと離れた。

「じゃあホットミルクティーでも作ろうか」

「あっ、……うん」

 なんてことは無かった。透也くんもいつも通り目尻を下げて目を細めながら笑っていたし、手を握られたのではなく、体温を確かめるために掴んだだけのことだったのかもしれない。ドキドキするような場面でも無かった……のかもしれない。

 店内に戻ってからはいつもの場所に座り、透也くんが用意してくれたホットミルクティーのカップでまだ冷たかった指先を温めた。首から耳にかけてはまだ熱い。

「あぁ、そういえば」といつの間にかカウンターを出て隣の席に座っていた透也くんがおもむろに声をかけてきたので、体が小さく跳ねた。

「クリスマスのご予定は?」

 首を傾げる仕草が透也くんの癖だと知ったのは通い始めてすぐのこと。今もその仕草で栗色のウェーブがかかった髪が少し揺れた。

 クリスマス。葉月が必ず家族と過ごすことになっていると毎年のように愚痴を零すっけ。

 私はというとこれといった予定は無い。母が入院してからというもの、誰かと過ごした記憶もない。……が、さすがにこれを言うのはよくわからないプライドが邪魔をしてしまう。

「まだ二週間先だね」

「二週間なんてあっという間だよ。……晃がさ、親孝行の為に旅行に行くらしいんだ。な?」と透也くんが話しかけるとカウンターの奥にいた晃くんが少し目を見開いたあと、静かに頷いた。

「だから、もし。もしね?もしも愛花ちゃんがお暇なら俺と一緒に過ごさないかな~って」

 驚きすぎて声も出なかった。なんだか変な組み合わせではないかとも思った。

 そういえば人は加点方式の方が好感が持てるんだっけ。透也くんの第一印象は私の中では最悪で、出来ることなら二度と会いたくないと思うほどの嫌悪感だったのは間違いない。それが過ごす時間が増えるにつれ、目尻を下げて笑う笑顔や落ち着いた声、気遣ってくれる優しさなどが私の中で何とも言葉に出来ないものになっている。それは透也くんにだけではなく、晃くんやチェリッシュそのものにも同じく抱いている感情でもあるのだけれど。

 ただ、少し前……そう、校庭の木々たちが赤やオレンジに染まり始めた頃、どこかで聞いた〝人の第一印象は三秒で決まる〟という話を葉月と二人でしていた時、葉月が言った。

『愛花が透也くんにもった第一印象の嫌悪感ってさ、〝私、この人を好きになる〟って愛花の中の直感みたいなものがガードしてた説、ない?』

『……直感?』

 理解出来ずそう問いかけると、スナック菓子を口へ放り込みながら葉月が大きく頷いた。

『言うなれば……運命、みたいな?』

『……んん。でも運命を感じていたとして、なんでその直感とやらが阻止しようとするのよ』

『それは私にもわかんないけど。ほら、遺伝子的に近い~とか、前世で何かあった~とか』

『ふふっ、葉月ってそういうの信じるタイプだっけ』

『運命なんて言葉も似たような類でしょ?まぁ現実的な言葉で言うと〝この人を好きになると傷つくかもしれない〟みたいな感じじゃないのかな。なんにせよ、今はもう嫌悪感なんてないんでしょ?』

『……あったらチェリッシュに行ってないよ』

『もう~素直じゃないなぁ。……なんなら恋愛対象として好きだったりして?』

 机の上に片肘をつき、上目遣いでニヤリと片方の口角を上げる葉月の頬を、両手で摘んだ。

 その時は自分のことながらも半信半疑だった。片思いは何度かしたことがあるものの、好きな人に恋人が出来たり友達と被るとすぐに諦められる程度のものしかしたことがないし。

 恋とか、片思いとか、よくわからない。ましてや相手が透也くんだなんて、……まさか。


 逸らしていた視線を透也くんに合わせる。

「……いいよ」

 言ってまた視線を逸らす。

 気恥しさから否定したくもなるが、自覚してしまった今、視線を合わせて話すなんて不可能に近い。


「で、やっと自覚したわけだ」

 紙パックにさしたストローからジュースを飲む葉月に「ごめんなさい」と小さく呟くと、葉月の大きな目が更に大きくなり、睫毛が数回揺れた。

「……ん?えっ、なんで愛花が謝るの?」と一際大きな声で言うもんだから、クラス中の視線が一気に私たちに集まった。その視線が解除されたあと、ゆっくりと口を開く。

「だって葉月、透也くんのこと好きだよね……?上から目線とかそういうのじゃなくて、でも、親友と好きな人が同じだなんて気持ちがいいものでもないと思うし……」

 何となく、葉月は透也くんに恋をしていると思っていた。元々葉月の好きなタイプだし。

 出会ってから常に恋をしていて、そしてそれを全て話してくれる葉月がここ数ヶ月私に何も話してこないこともまた、根拠の一つだった。それなのに、

「私が好きなのは最初から晃くんだよ……?」と怪訝な顔を向ける葉月の反応は予想していたものとはまるで違い、私と葉月の眉間にどんどんシワが寄っていく。

「……え!?でもだって、葉月は透也くんに会うためにチェリッシュに通い始めたんじゃ……」

 葉月が、はぁ~と大きなため息をつきながら自らの頭を抱え込む。私はというと想定外の反応に思考が追いつかずにいる。

「チェリッシュに通い始めたのは、こう……なんていうんだろ、イケメンを拝むというか。そう、推し!推しに会うって感覚かな」

「推し……」

「うん。だって透也くんも晃くんもかっこよさレベチじゃない?そんな二人がカフェを営んでいるんだよ?話せるんだよ?通うしかなくない?」

 葉月の熱烈な語りに圧倒される。今はもう見慣れてしまってはいるが、確かにあの二人の見た目は一般人でいるには勿体ないレベルだとは思う。晃くんは物静かでクール。だけれどお会計の時に少し、ほんの少しだけ口元を緩ませながら言う〝またお越しください〟の言葉に黄色い声を上げる人達も少なくはない。

 透也くんだってそうだった。最初に私たちにしていたあの謎の接客。以前、あれのせいで勘違いしてしまった人に店前で告白されているところに遭遇したことがある。ごめんなさいと振られた女性が透也くんに対して「思わせぶりなんて最低!」と大声で怒鳴っていたが、そうなるのも無理はないと思った。

「まぁ今は晃くんに片思いしてるけどね」

 またもや衝撃発言だ。視線を逸らし、紙パックを両手で持ちながらストローを咥える葉月。ズルズルとストローから音が鳴り、ジュースが残りわずかになったことが証明されても尚、照れ隠しなのだろうか、ストローを咥えて離さない。

「えっ、でも葉月が今まで好きになった人とタイプが違わない……?」

「そう。……だから戸惑ってるの。本当、かっこいいな~としか思ってなかったし、なんなら最初は愛花の言う通り透也くんに惹かれてた。でも、私がハルキと別れて落ち込んでた日ね、晃くんが言ってくれたの。『その席、今日からキミとお友達専用にしようか』って。もしかしたらほら、透也くんみたいに常連をゲットする為の言葉だったのかもしれないけど……あの時の私は恋をしない方が無理だった」

 そう話す葉月は、どこか悲しげに見えた。

 常に全力で恋をしている葉月だからこそ、傍から見れば慣れていると思われてしまうような別れでも、傷ついていることを私は知っている。だから、葉月は晃くんに恋をしたんだ。

「私、今まで付き合った人全員が相手から告白してくれたから……正直片思いをしたことがなくて、どうしたら好きになって貰えるのかわからない」

 頬杖をつきながら窓の外を眺める葉月につられて、私も同じく視線を向けた。校庭では生徒たちが寒そうにしながらバレーボールの授業をしていた。

 こういう時はどんな言葉をかけてあげればいいのだろうか。親友が恋に悩んでいる時に、アドバイスの一つも出来ない自分の恋愛偏差値を恨んだのは初めてだ。

 窓は閉まっているものの、校庭から微かに聞こえてくる生徒たちの掛け声に耳を傾けていると、葉月が勢いよくこちらを向いた。

「でもまぁ、クリスマス誘われるなんて愛花はかなり脈アリだよ!頑張って」

「……頑張ってって言われても」

「頑張るのー!脈アリだからってうかうかしてるとすぐ誰かに取られちゃうよ?!」

 その気迫に押され、小さく頷くことしか出来ずにいた。


 クリスマス当日。十七時少し前に自宅を出た。息を吐くと瞬く間にそれは白く変わる。寒空を見上げると薄らと三日月が見えた。

 手ぶらでいいと透也くんからメッセージが届いていたけれど、そういう訳にもいかず、チェリッシュに向かう前に近くの大きなショッピングモールに立ち寄り、小さなケーキを二つ購入した。これでもしケーキが用意されていたとしても、次の日に透也くんや晃くんが食べられるだろうし、無駄になることは無い。

 無難に選んだショートケーキとチョコケーキを箱に詰めて貰っている間、ふと隣のスペースにある花屋が目に入った。

 お店の最前列にはツリー風にアレンジされたクリスマスにピッタリな赤いガーベラや、バラの可愛らしいフラワーギフトが並べられてある。

 透也くんはよく観葉植物を買う。カウンターに飾れる小さなものから扉の横に置く大きなものまで、それはもう、いろんな種類のものを。

 けれども、だからといって男性へのクリスマスプレゼントに花を贈っても良いものなのだろうか。いや、この疑問はきっと固定概念だ。透也くんが喜んでくれるかどうかだ。

 ケーキの箱を受け取り、吸い寄せられるように花屋の前で足が止まる。

「いらっしゃいませ」と店員のお姉さんが優しげに微笑む。

「これ、ください」


 十八時を過ぎただろうか。ショッピングモールを出ると辺りはすっかり日が落ちていた。だけれど、イルミネーションとどこからとも無く流れてくるクリスマスソングで、辺りは華やかさに溢れている。

 手を繋いで寄り添い歩く恋人や玩具を買ってもらいはしゃぐ子供を横目に自転車に乗り、冷たい空気を割っていく。

 チェリッシュの前でゆっくりとブレーキをかける。特に急いでいた訳でもないのに早さを増す鼓動は、何度深呼吸をしても落ち着く気配がまるでない。

 余計なことに気がついて、更に頬まで熱くなってしまったのは自業自得だ。

 冷えきっている両手で両頬を挟み応急処置を取ってみるものの、一向に冷めることが無かったので諦めて扉の前に立った。

 扉には〝本日貸切〟というプレートが引っ掛けられている。もう一度息を吐いてから恐る恐る扉を開け、驚愕した。

 店内の様子がいつもと違っている。たくさんの観葉植物にデコレーションされたLEDの光が薄暗くされた店内で輝いて、まるで星空のような印象だ。

「わっ……」

 思わず息を飲む。入ってすぐ隣にある大きな観葉植物の前に屈み、イルミネーションライトを間近で見つめる。小さな粒のライトが観葉植物に巻き付けられていてとても可愛い。

 立ち上がり、もう一度店内を見渡す。赤、黄色、オレンジと暖色で統一されていて、本当に綺麗だ。

 透也くんの姿を探していると、カウンターの奥の調理場から透也くんが出てきた。

「おかえり」

 何故かいつもより優しさが増して聞こえたその言葉に、心臓がキュッと鳴る。思わず視線を逸らし、小さく会釈してからいつもは葉月が座るカウンターチェアの上に荷物を置いた。

「寒かったでしょ」

 カウンターを出てきた透也くんが私の首に巻かれているマフラーを丁寧に外す。こんなことをされるのは初めてだ。至近距離にいる透也くんからは珍しく香水の匂いがした。

「もう、全部が冷たいよ」

 私がそう言うと透也くんはおもむろに手を握り、そしてすぐに離したかと思えばマフラーが外されあらわになった首元、両耳と順番に体温を確かめるように触れていく。温かな手の温もりが気持ちいい。

「本当だ。冷たい」

 言いながら、目尻を細めクシャッと笑う透也くんを見つめる。私はいつからこの人の前でこんなにもドキドキするようになってしまったのだろう。今ではその言動全てに意識が奪われてしまう。

「あの、これ」

 我に返り、ケーキの箱を透也くんへ渡した。

「わっ、ケーキ?ありがとう~。俺も小さなケーキ買ってたからそれは明日一緒に食べよう。今日は愛花ちゃんが買ってきてくれたこれね」

 思わぬ約束が出来てしまった。年内はもう会うことがないかと思っていたので、それだけで頬が緩んでしまう。

 手を引かれるがままにいつものカウンター席を離れて四人用のテーブルに移動すると、美味しそうな料理がたくさん並べられていて、自ずと口角が上がる。

「美味しそう……!」

「でしょ。気合い入れて作ったんだ。あ、そのチキンは買ったけどね」

 奥の冷蔵庫からシャンパンと瓶ジュースを持ってきた透也くんが言った。

 私達が座る場所の頭上にあるライトと、LEDだけが灯る薄暗い店内。透也くんが差し出すグラスに自分のグラスを恐る恐る当てると、ガラスが重なる音が鳴った。

 サラダにスープ、グラタンやチキン。色とりどりに並ぶ料理はどれも美味しくて、私がそれを伝えるといつにも増して柔らかな笑みを零す透也くんを見て、また更に私まで嬉しくなって。

 クリスマスという、いつもはただの日常に過ぎない日が、今年は既にとても特別だ。

「幸せ……」

 思わずそう呟いた自分の口元を慌てて押さえる。羞恥心で頬が染まるのがわかった。透也くんは驚いた表情で手を止め、こちらをじっと見つめている。

「あっ、いや、……なんでもない」

 言った瞬間、透也くんがおもむろに立ち上がり、テーブル越しに私の右手を掴んだ。驚いて顔を上げると、見たことの無い表情の彼がいて、──気がつくと唇が重なっていた。

 ゆっくり、ゆっくりと唇が離され、開いたままだった瞼をパチパチとさせる。

 やはり、初めて見る表情の透也くんが至近距離にいた。

 大きく鳴る心臓の音が透也くんにも聞こえてしまいそうで、今すぐ逃げ出したい気持ちと、掴まれている右手を離さないで欲しいと願う気持ちが混ざり合う。ただ、熱を持つお互いの視線を合わせることしか出来ない。寧ろ、このまま時が止まればいいとすら思えた。

「……好き」

 彼の口から小さく漏れた言葉が、私の全身を纏う。小さく口を開いてみたものの、それに反応する言葉が喉の奥でつっかえているように出てこない。

 言わなきゃ。私も好きだと伝えなきゃ。なのに、どうして声が出ないのだろう。

『愛花の中の直感みたいなものがガードしてた説、ない?』

 ふと、葉月の言葉が頭によぎる。そんなことない。第一印象は嫌悪感だらけだったけれど、今は違う。私は透也くんのことが好きで、透也くんも好きだと言ってくれて。

 ゴクリと唾を飲み込む。どうにかして気持ちを伝えようと、掴まれたままの右手で彼の服を掴んだ。

 彼を引き寄せ、少し震える唇を近づけると、再び体温が重なった。


 ほのかにお酒の味がする、そんなキスだった。

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