八白 嘘

 卵の消費期限を御存知だろうか。

 一般に七日~十日ほどとされているが、あくまでこれは生食の場合であり、加熱調理を前提とするならば優に一ヶ月は持つという。

 保存環境が最適であれば、二、三ヶ月くらいは行けるのだとか。


 私は一人暮らしで、週末のみ自炊をしている。

 忙しいが残業代の出るホワイトとブラックの狭間の職に就いており、繁忙期以外は土日祝日を保障されている代わり平日は忙しく、慌てて終電に駆け込むことも珍しくはないからだ。

 買い出しは二週間に一度、日曜の午後と決めており、冷蔵庫の中身を検めながら必要なものを書き出して近所のスーパーへと赴く。

 このサイクルを、もう何年も続けている。


 おかしいなあ、と思い始めたのは、去年の九月頃だったと思う。

 このところ卵を買っていないような気がしたのだ。

 冷蔵庫を開くと、備え付けのケースの中に、卵が数個ほど残っていた。

 そのうちの一個を取り出し、スープにして食べた記憶がある。


 次に違和感を覚えたのは、それから一ヶ月ほど後のことだ。

 冷蔵庫を開くと、卵が六個あった。

 たしかに六個だった。

 六個しかないものを幾度も数え直したのだから、間違いない。


 だって、おかしいじゃないか。

 私は十個入り一パックの卵しか買わない。

 週に二個くらいは使っているはずなのに、このところ卵を購入した覚えがないのである。


「……増えてる?」


 いや、まさか。

 卵に異常がないことを確認し、ボウルに割った。

 張りのある新鮮な黄身だった。

 気のせいだろう。

 卵を二個使い、スクランブルエッグにして食べた。


 翌週、卵は五個になっていた。


 おかしい。

 絶対におかしい──気がする。

 事ここに至っても、確信は持てずにいた。

 先週、卵は六個あった。

 今日、卵は五個残っている。

 先週、スクランブルエッグを作ったはずだ。

 卵一個のスクランブルエッグは物足りないから、やはり、二個使ったことに間違いはないのだ。


 私は、不法に侵入した何者かが、卵を補充しているのではないかと考えた。


「……なんじゃそら」


 新手のストーカーだとしても、さすがに意味がわからない。

 電話で友人に相談すると、やはり同じ反応が返ってきた。


「疲れてるんじゃない?」


「そうかな……」


 そうかもしれない。


 その週、卵は使わなかった。


 それからしばらく、卵は五個のままだった。

 冷蔵庫を開けるたびに気に掛けていたので、数が変わっていないことは確かである。

 やはり、気のせいだったようだ。

 一応、卵の様子を前後左右から確認し、ボウルに割った。

 目に優しい色の、新鮮そうな黄身だった。

 土曜日に二個、目玉焼きをカレーライスに乗せて。

 日曜日に二個、ゆで卵にして食べた。


 それが、私の調理した最後の卵となった。


 それから一ヶ月ほど、忙しい日々が続いた。

 休日出勤が重なり、終電を逃してタクシーで帰る日もあった。

 繁忙期と繁忙期のあいだ、束の間の休日を利用して友人とショッピングに出掛けたとき、財布がパンパンに膨れ上がっていることに気が付いた。

 原因はレシートだった。

 私は、レシートを捨てない主義だ。

 主義と言うよりは、その場で捨てるのは店員に悪い気がして、いったん財布に仕舞い込んでしまうだけだが。


「ずぼらな主婦じゃないんだから」


 友人に呆れた目を向けられながら、私は苦笑するしかなかった。


 帰宅し、レシートを片付けることにした。

 ただ捨てるのは忍びないが、家計簿をつけているわけでもない。


「あ、そうだ」


 近所のスーパーのレシートは、一年分くらい残っていそうだった。

 最後に卵を買ったのがいつか、調べてみよう。


 新しいものから順に、記載内容を調べていく。

 十一月のレシートに「タマゴ」の文字はなかった。

 十月のレシートにもなかった。

 九月のレシートにもなかった。


 このから、あたりじわりと背筋が冷えていくのを感じた。


 八月のレシートにもなかった。

 七月のレシートにもなかった。

 六月のレシートにもなかった。


 五月のレシートに、あった。


 タマゴM 10コイリ \138


 週に二個、卵を食べるとする。

 半年を二十六週間とする。

 半年間で、卵は五十二個消費される計算となる。


 残りの四十二個、私は何を食べていた?


 得体の知れない恐怖に突き動かされ、冷蔵庫の扉に手を掛けた。

 開けるべきだろうか。

 開けなければならない。

 そうしなければ、もうこの部屋にいられない気がした。


 私の手に従い、冷蔵庫の扉が開いていく。


「──…………」


 冷蔵庫の中は、いつも通りだった。

 何ひとつとして変化はなかった。

 何も起こっていないように、見えた。


 ケースの最奥に、ひとつだけ卵が残っていた。

 手を伸ばし、優しく掴む。


「……普通の、卵、だよね」


 少なくとも、そう見えた。


 考えすぎなのではないだろうか。

 日和見的な思考が脳裏をよぎる。

 レシートの打ち間違いではないだろうか。

 実家から送られてきたことを忘れているのではないだろうか。

 コンビニ弁当を買うとき、一緒に卵を購入したことはなかったか。

 あるいは、単純に私の記憶違いに過ぎず、ここ半年ほど卵料理を作っていないだけかもしれない。


 そこまで考えて、別の意味で背筋が凍った。


 半年──正確には、七ヶ月前の卵の可能性がある。


 ごくり。

 喉を鳴らす。

 このまま生ゴミとして捨てていいものか。

 七ヶ月前の卵。

 中身がどうなっているのか、気にはならないだろうか。


 気になる。

 見たら後悔するに決まっているが、気になる。

 人間の胎児だって、それくらいあれば母親のおなかを蹴るだろう。


 どうにも私は好奇心が抑えられない性質である。

 冷蔵庫に入れてあったのだから、それほどひどいことにはならない──と、思うけど。

 すこし考えて、古いほうのボウルを取り出した。

 最悪、そのまま密封して捨ててしまえばいい。


 卵を右手に持ち、構える。

 シンクの角に卵を打ちつけながら、私は思い返していた。


 これは、七ヶ月前の卵かもしれない。

 しかし、一ヶ月前に食べた卵はどうだったろう。

 新鮮ではなかったか。

 新鮮だったはずだ。

 あれは本当に、一ヶ月前の出来事だったのだろうか。

 証明するものは、今やこの卵しかない。


 ひび割れた部分に親指を入れ、左右に割り開く。


 中身がでろりと流れ出した。


 予想に反し、それは美しいレモンイエローだった。


「──…………」


 かしゃ。


 卵の殻が、床に落ちた。


 黄身は、ひとつではなかった。


 双子でもなかった。


 ぼとん。


 最後の黄身が、ボウルに落ちる。


 ──いくらのような無数の黄身が、ボウルの底でぬらぬらと光っていた。




 それから先のことは、よく覚えていない。

 排水口に流してしまったのだと思う。

 ボウルは、すぐに捨てた。


 私が卵を調理することは、もう二度とないだろう。

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