床の間の姫君
仲津麻子
第1話床の間の姫君
帰宅したら、我が家の床の間に、
「だれ?」
玄関の鍵を開けて入って来たはずなのに、なぜ家の中に人がいるのか、それも重たそうな着物を、何枚も重ね着した人が。
「あなた、誰」
もう一度たずねると、顔を隠している
「かくのたまふは たそ」
微かな声で、呪文のような言葉が聞こえた。
えっと、たそ? 誰そ、かな。ちょっと混乱した。
「私は藤村和子。あなたは誰そ、名のらせたまへ」
適当な古語で言ってみた。
「藤、ふじのゆかりのものか、ふじはらのおとどは いずこにおじゃるのか」
藤原の
「藤原の大臣とは、
思いついた藤原氏の名前を言ってみた。
「道長の
十二単の姫は檜扇を少しずらして、そっと片目だけを覗かせた。
几帳台じゃなくて、そこは床の間なんですけどね。
姫の切れ長の目からは、今にもこぼれそうなほどに涙が浮いていた。なめらかな白い頬が微かに震えている。
長い髪は、何かの油を塗って櫛削っているのだろう、艶やかに流れて、床の間の板張りを覆うように広がっていた。
年の頃はわからない。小柄なので、見た目は十歳前後かと思えるが、平安時代の平均寿命は三十歳くらいだと聞く。もっと大人でもおかしくないかもしれない。
これが、本当の姫ならば、だが。
この姫は
蓬が意味が無いなんて、もってのほか。食べて美味しいし、薬効もいろいろ、役に立つ草だ。
それにしても、自分を卑下するなんて、お家で冷遇されているのだろうか、側室の子とか、兄弟の末子とか、物語にも立場の弱い子の話はありそうだ。それとも謙遜なのか。
でも、ま、私が関わる話じゃ無いか。
話の流れから想像するに、道長を大爺さまと呼ぶということは、姫の父上は、おそらく
と、いうことは、この姫は、あの紫式部が仕えた中宮、彰子の孫ということになる。
歴史には、蓬などという名前は残っていないが、女の名前が家系図に記されないことなど、当時はよくある事だったろう。
いやあ、真実か作り話かはわからないが、ここまで聞き出すのに三時間もかかってしまった。
役者さんにしても、本物の姫にしても、この人、ホントに天然さん。何を聞いても、何を言うにしても、ほんわり、ゆったり、要領を得なくてじれったい。
しかし、姫の素性がわかったとしても、どうしたら良いのかわからない。迷子として警察にとどけるか、それとも、病院だろうか。
困っていると、グーッと音が鳴った。
「あらら、お腹が鳴いてますね」
私がからかうように声をかけると、姫はせっかく檜扇から覗かせた顔を、また隠して、うなだれてしまった。
檜扇の透き間から見えている白い頬が、幾分赤く染まっていた。
「あな、はずかしや
イヤイヤというように首を振っている。可愛い。
「もう 夕刻になりますから、お腹も減るでしょう」
蓬姫を慰めるように言って、さて、この姫に食べさせるものがあるかどうか、キッチンの買い置きを思い浮かべた。
「蓬姫、立ち上がって歩けますか」
キッチンまで歩いてもらおうと、たずねると、姫はうなずいて立ち上がろうとした。
しかし、重たい正絹の着物を重ね着しているため、思うように動けない。
「手を、手をとって たも」
倒れそうになった姫が、手を伸ばしてきたので、あわてて支えた。
水仕事などしたことがないのだろう、細くて柔らかい指だ。
「すぐそこまでですから、ゆっくり歩いてください」
姫の手を引きながら、隣のキッチンまで導いた。
椅子を引いて食卓の前に座らせると、椅子に座るのは初めてだったのだろう、檜扇に隠れて表情は見えないが、狼狽えたように、落ち着きなくふらふら体を揺らしていた。
「赤いきつねと緑のたぬきと、どっちがいいかな」
私はガス台にやかんを乗せてお湯を沸かしながら言った。
「きつね、たぬき 食すのですか」
蓬姫は、驚いたようで、顔を隠していた檜扇を取り落とした。
ようやく、姫の顔をしっかり見ることができた。細面の可愛らしい幼顔で、先ほど少し泣いたからだろう、まぶたが腫れて赤くなっていた。
「女どうしですから、隠さなくてもよろしいのに」
あわてて着物の袖で隠そうとするのを止めて、姫の前に、緑茶を注いだ湯飲みを置いた。
「どうぞ、お茶です」
「ありがとう」
「赤いきつね、緑のたぬきは商品名で、んー わかるかな」
「しょーひん?」
「赤いきつねは
蓬姫は、しばらく首をかしげて考えていたが、やがて、決断したというように大きくうなずいて答えた。
「蕎麦を」
蕎麦が好きなのだろうか、口元には、微かに笑みが浮かんでいた。
「承知しました」
戸棚から緑のたぬきを取り出して、熱湯を注ぎ、姫の前に置いた。
「これが、蕎麦? 蕎麦の粉に湯を入れて練ったものだと思うていたが」
姫は戸惑って、上目遣いに私を見上げた。
「それは、
「ほう」
「そして、これはお湯を注ぐだけで食べられます」
「なんと」
姫は不思議そうに、どんぶりの上に乗っている緑色の蓋を眺めていた。
「三分たちました。どうぞ、召し上がれ。熱いので気をつけて」
蓋を開けて、箸を添えてやる。
蓬姫はどんぶりを引き寄せて、恐る恐る蕎麦を口に運んだ。
食べ慣れないせいか、うまくすすれなくて苦労していたが、すぐに馴れたようだった。
「なんと 美味な」
蓬姫はうれしそうに、汁を口に含んだ。
かき揚げを口に入れると、パアッと花が咲いたような笑みを見せた。
よほどお腹が空いていたのだろう、姫は夢中になって蕎麦をすすり、幸せそうに最後の汁を飲んでしまうと、箸をおいた。
「ありがとう 美味でした」
「お口に合って良かったです」
蓬姫は、ぬるくなってしまったお茶を飲んで、ふうと息を吐いた。
その直後、突然、姫はビクッと身を固くして、何かを確かめるように天を仰いだ。
「どうしましたか」
私が聞くと、姫はあわてたようすで、かたわらに置いてあった檜扇を開いて、顔を隠した。
「陰陽師が、呼んで……」
そういう間もなく、蓬姫の体は、足下から、もやもやした白い煙のようなものに包まれた。
私があっけにとられて見ていると、やがて姫の体全体が白く覆われた。煙は、徐々に透けて行き、やがて、気がつくと、蓬姫の姿は消えて無くなっていた。
「珍らかな蕎麦であったこと」
姫のつぶやくような声が、私の脳裡に響いてきた。
夢か? 夢だったのだろうか。
茫然としながら、ついさっきまで、蓬姫がすわっていた食卓に目をやった。
当然のことながら、そこには、十二単の姫の姿はない。
ただ、空になった白いどんぶりと、緑色の蓋だけが置かれていた。
(終)
床の間の姫君 仲津麻子 @kukiha
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