いい子わるい子邪悪な子、もしくは現代社会の産んだ悪魔の子
大和田 虎徹
夏
夏である。いやしくも社会の歯車と化した大人たち、彼らですらも、休暇に思いをはせる時期である夏。盆暮れ正月の盆、の少し手前、学生諸君が陽炎じみた夏休みを謳歌するこの季節。勤勉たる学徒二名が、こそこそと悪行を働こうと模索してる。
「いいのだろうか」
「いいじゃあないか、俺たちにだって悪いことくらいできる。親のいいなりなんかではない。断じてない」
「しかしこれはかなりの所業だ。到底許されることはないだろう」
「そうだろうそうだろう、こんなに菓子とジュースを買い込んで、深夜にこっそりいけない映画を視聴する、とてもとてもわるいことだ」
「僕らをよく知る人間ほど、衝撃を受けるに違いない」
そう、親という名の鬼の居ぬ間にミニパーティ付き家庭映画館を開館しようとしているのだ。えっちだったり、むごたらしかったり、反社会的だったり。彼らがぎりぎり見ることのできるそれらを深夜二時過ぎまでじっくり見てやろうと画策していたのだ。品行方正が服を着て歩いているなどと揶揄される二人がやることだとは、到底思うまいに。
この悪魔の囁きは佐野 清一郎がこぼした。乗ったのは白野 磨雄だった。清一郎の方は生徒会役員、磨雄の方は学級委員長、どちらも真面目一直線な生徒だ。しかも両者ともに親まで清廉潔白、随分な堅物である。
二人は幼なじみ、両方とも男なので甘酸っぱいラヴ・ストーリーにはならない。昨今は多様性が尊ばれ、男二人でもありえなくはないのだが、こいつらの場合根本的に恋愛感情がわかっていない可能性もある。一定の距離を取りながらつかず離れず、組み合わせがどうであれ実際の幼なじみなんてそんなものだ。しかし彼らは環境がよく似ていたためか、そしてそんなよく似た二人だからか口調までよく似ている。何なら声の調子までふざけたほど似ているため、本気で一人称以外では判別がつかないとまで言われている始末。ちなみに、清一郎が自身を俺と呼び、磨雄が己を僕と呼称する。
「どんな映画を借りてきたんだ」
「よくわからなかったから適当だ。例えば『ハリケーンシャーク』は説明文がアホなサメ映画だから借りてきた」
「サメ映画の半分が駄作で四割がバカで残りの一割が傑作だと言っていたな、あいつは」
「3の2の委員長か。鈴井だったか」
「そうそいつ。いまいち影は薄いんだが話す内容が軒並み頭に残る」
「そんな先輩に思いをはせて、いざ再生しよう。十中八九B級だろうが」
「言ってやるな」
そうして、二人はわるい子の道をひた走る。コーラはリットルで消費され、ポテトチップスは袋が単位。しかしサメ映画を三本も連続して視聴するのはさすがに苦しい。一本だけ、それなりに見れるものがあったが他の二本がまあとてつもない駄作もいいところ。金を返せと叫びたくなるシロモノだったのだ。
こいつはいけないと、別ジャンルの映画を取りだしてくる。ちょっとえっちな大人の恋愛を丹念に描写したらしい「地獄旅行」、凄惨な描写に心血を注いだという「チェインソウレディ」、グロ表現がてんこ盛りなことで悪名高い「悪意の華」の三本立て。さすがにどれか一つくらいは当たりがあるだろうと踏んで、いざディスクを吸い込ませていく。
「どうだった」
さすがに計六本の視聴は足肩腰にきたのか、随分ととろけたような姿勢になっている。しかし、普段なら理由も言わずに矯正させられるそれを、とがめるモノはここにはいない。
「おとなのれんあい、というものは不可解だということがわかった」
「そうだよなあ、不倫や浮気というものはどうにも理解の外にある事象のようだ」
「スリルを求めているのだろうか」
「それならば白い服でカレーうどんでも食べれば解決することだろうに」
「やったのか、あれを」
「やむを得ずだがやった。いつぞや半裸で徘徊していたことがあるだろう。そのときにシャツを一枚だめにした」
「あのときか」
「他二本はどうだ」
「チェインソウの方は、うえってなった」
「そうだよ、あれも理解するには早すぎたようだ」
「結局、両者ともに親に何もかも決められた代償として感受性が欠落しているみたいだ」
「どうしてだめなのか、どうしていいのかすら言ってくれないからな。せめて説明してほしいものだ」
「それでも、悪意に魅入られ咲かせる華は美しくも不気味で素晴らしい」
「ストーリーがわかりやすくていいよな」
「そして感染する華がなかなかにおぞましく、動かないながらもホラーの怪物役として際立っている」
「僕らにも咲くだろうか」
「咲くだろう。さて、何色の華を咲かせるのか」
「何者にも染まっていない、しかしすべての色の光を混ぜ合わせた白」
「そうだろうな。さて、頭からみしりと音を立てて植物が生えてくる前に寝るぞ」
「いや……悪い子なのだから夜更かしして寝坊だ」
「それもそうか。……楽しいな、お泊まりも自由自在だ」
とてもとても楽しそうな、表情の外の感情は歓喜の声色を孕んでいる。今の今までろくろく与えられなかった自由が、この手の中にあるというだけで。当然、他の人間にとってはさして重要でもないだろうそれは、しかして二人にとってはひどく求めていたモノで。
結果、朝起きたのは八時過ぎのことであり。
「っへへ」
「あっなんてカロリーを、ならばこちらはメイプルシロップだ」
「えげつない、カロリーと背徳がえげつない」
ぼんやりとマヨチーズエッグトーストを作り上げ。カロリーを上乗せする。そこにメイプルシロップまで追加したのは磨雄の方で、背徳と幸福と快楽の味がする。まるで官能小説のようだが、ただのトーストである。しかしこうも美しいと、そんじょそこらの耽美がかすんでしまいそうでいけない。
さくさくと、しっとりと、決して口にできなかったそれを噛みしめる。甘美なそれを食みながら、作戦会議は開かれる。
「さて今日はどう悪事を働いてやろうか」
「そも、どのようなことが悪いことなのか。それすらもわからないのにいい子でいられないのは当然なのにな」
「犯罪しか思いつかないぞ」
「それは困る」
「そうだろうな、あとは何かあるか。……ううん」
「いざ考えるとわからないものだな」
「……昼間からゲームセンターにたむろしようか」
「いいな、しかし軍資金はどうしようか。両親は勝手に何もかも買い与えるから、僕らにはお小遣いという概念そのものが存在しない」
「……いいこと、いやわるいことを思いついた」
「カツアゲか?」
「そこまでではない。不要品を売却して路銀を錬成する」
「それは……天才的な発想だな」
「だろう?どちらの親も、趣味に合わないあれやそれを聞きもせずに勝手にあてがうのだから、そんなものは無限にある」
「迷惑な話だな」
「全くだ」
それなりに裕福な家庭、しかし心まで満たされているかと聞かれれば、必ずしも首を縦に振るわけではない。わるいこの二人も、そんなとんちんかんな愛情を押しつけられてすくすくねじ曲がったクチだ。
佐野家も、白野家も、この地域ではそれなりの小金持ちでかつ市議会員ゆえに発言力もそこそこにある「裕福な家庭」だ。佐野父と白野母が学生時代から親しく、両家の結婚も両者が仲人だと言えば、勘のいい人間か穿った見方をする人間不審者なら嫌な予感がびんびんに立っていることだとわかるだろう。
私が選んだ人なのだから、私の友人なのだから、私と友人でいられる人間なのだから。無自覚の傲慢は生まれてくる子供に過剰な期待をくくりつけた。もはや手枷足枷に等しいそれは、愛の力でどうにかなるものではなかった。どんなに愛されていようと、骨折するほどの期待とプレッシャーが手首足首そして首にはめられていては、たとえ聖人君子の体現であろうともやさぐれるだろう。現に二人の脚は複雑骨折腕は粉砕骨折首はすでにくくられていると表現したってかまわない。すでに満身創痍なのだ。どうでもいいことだが複雑骨折と聞いて思い浮かべる「内部でぐちゃぐちゃになった骨折」は、粉砕骨折という。複雑骨折は皮膚を貫通して骨が飛び出している骨折で、開放骨折とも呼ぶ。探さないとわかり得ないことのため、当然二人は知らない知識だ。医学の知識さえグロテスクと一笑する、あの親に育てられていれば。
「いらないものをかき集めて、売却は各自でいいだろう。十時にはゲームセンター前に集合でいいな」
「異議はないが、昼食はフードコート内で済ませるのだろうか」
「そうだ。わるいこなんだからな」
「最高じゃあないか」
「そうだな、それじゃあまた十時」
二人が売り飛ばしたモノ。趣味ではないと何度言ってもわかってくれない親を筆頭とした親戚連中が強引にも与えてきた服。つまらないことこの上ない、興味以前に書かれていることが支離滅裂でしかない、どうでもいい新書。そして嘘八丁新書以上に本棚を圧迫している無限とも思える学習書。そんなものでできていた。カエルもカタツムリも犬の尻尾も、汚らしいと引き離された。
彼らにとって、学習書というものは各教科一冊あれば十分なシロモノで、さらに言えばそんなにもたくさんの学習書を所有しているのは彼らくらい。教職員の本棚ですらもそんなに入らないだろうと苦言を呈するほどのそれは、彼らの精神を確実に歪めている。
本当にほしかった専門書を抱え、路銀を携えて、人生で一番と言っていいほど満ち足りたその脚で集まった。
「ほしかったモノが手に入ったのか」
「そうだな、古生物学の古い本を手に入れた。経済学をバカにするつもりはないが、なにもかも向いていないのにどうして押しつけてくるのか理解できない」
「俺も、海洋生物学方向に進みたいのにどうしてか政治学を強制する。本当の愚かさを学習するいい機会だと思って耐えていたが、理解は終ぞできなかった」
「そうだよなあ、言いなりの人形ならAIがあるのになあ」
「人身売買も候補にあるな」
「嗚呼なんて残酷な。親と子はこうも思い合っているのにな」
「うそつきめ、本当はかけらすらもそんな思いを抱いていないだろうに」
「お互い様だろう、今考えていることを当ててやろうか」
「ははは、昼はフードコートにしよう」
「案の定」
「ローリングロックロッジがいいだろう」
「近くにあるのなんてそれくらいだものな」
「本当だ」
わるいこはわるいこらしく、ファストフードを好きなようにむさぼる。彼らの両親にとってそのテの店は栄養に配慮していない、明確な悪なのだ。偏った思考とは最も純粋な邪悪、当然二人は知っている。子供がすでに理解していて、両親だけが盲目であり続けているのはなんとも皮肉なモノである。
そんな二人の祝福されし初ファストフードは、地域限定チェーン店のローリングロックロッヂ、略してRRRだ。生地と具材とソースを選んで自分だけのアメリカンブリトーが作れるちょっと変わったチェーン店。これだけのためにわざわざ遠路はるばるやってくる猛者という名の肥満体がいるほどだ。
「おっ真面目ちゃんズじゃねえか」
そして、そのような店にバイト君がいるのは、ある種当然である。夏休みという時期であれば、ことさらその確率は高いだろう。
されど眼前のチャラ男は見覚えがない。はてこんな軟派野郎は知人だったかと、二人はそいつの名札を見る。そうしてやっと気がついた。まったく、夏が君を変えるというのは本当のことらしい。
「石田か。髪を染めていたから気がつかなかった」
「中々いい色してるだろ、アッシュグレイなんだぜ。じゃなくて注文は?」
「俺たちの家庭環境は知っているだろう。来たことがないからやり方なんてわからんぞ」
「そりゃあそうか。まずトルティーヤ生地を選んで、そこから具とソースを好きに乗せていくんだ。おすすめはノーマル生地とサワークリームの組み合わせだな。この中に適当に野菜を入れれば大抵うまい」
「じゃあそうする。具はベーコンとオリーブとサニーレタスで」
「サルサソースは辛いんだったな、これにするぞ。ノーマル生地にサルサソースでチョリソーとラム肉で頼む」
「同時にしゃべるな俺は聖徳太子じゃないぞ。清一郎がサワークリームの方で磨雄のがサルサソースだったか」
「逆」
「おわっ嘘だろ」
「そう、嘘。僕の注文がサルサの方だ」
「何だよびっくりさせやがって」
「わるいこキャンペーン実施中なもので」
「いいこちゃんは存外疲れるんだ」
「そりゃあそうだろうよ。ずうっといいこちゃんでなんていられないだろうしな。そっちの方がよっぽど健全で好感持てるぜ。……よしできた、こぼすなよ。俺でもこぼすからな」
「金を投げつけてやる」
「その投げ方は完全に賽銭の投げ方なんだよ」
「飛ばすと面倒だろ、双方が」
「そもそも根本的にわるいこに向いてないんじゃないか?」
「自覚はある」
「おそらくは。そしてここにはもう二度と来れないと思うな」
「だろうなあ」
くるりと巻かれた具が、今にもこぼれてしまいそうなほどにパンパンに詰まったブリトーは、RRRの名物であり難点でもある。何せ通常メニューでさえ上手に完食できる人間は限られている。それだというのに裏メニューが「やり過ぎ」と「狂気的」があり、それぞれ完全にこぼれているものと添え物と化した中身という有様だ。
それらに食べ慣れていない、ちょっとしたお坊ちゃまな二人がうまく食せる道理はなく、案の定盛大にこぼした。スライスオリーブがこんちにはとばかりに生地から顔を出し、チョリソーとラム肉が皿の上で愛の逃避行としゃれ込んでいる。
それでも、そんなこと気にしていられないとばかりに頬をハムスターがごとく膨らませ、どうにかこうにかブリトーそのものは食い尽くされた。後は皿へと逃げた連中だけだというそのとき、
「おっと帰ってきやがった」
「噂を聞きつけてすっ飛んできたんだろう。あなたのためとか言う最悪の呪いを吐いてな」
ヒステリックな奇声とともに、双方の両親が乱入してきたのである。両家ともに、今の今まで蝶よ花よと育ててきた自慢の息子が、とてつもない非行に走っているのである。当然そんなことないのだが、歪んだ親にとっては大変ショッキングな場面にぶち当たってしまったのだ。
あなたのためというおぞましい呪いを吐き出して絶叫する。されど今の二人にはそよ風の吹くがごとき影響力でしかない。
「人形がほしいなら、ドールショップで探せばいいだろう」
「アクセサリーならどこにでも売っている、好きなモノを探せるはずだが?」
つまるところ「お前らのいいなりになんてならないよバーカ」と言うことを、上品かつ皮肉たっぷりに心臓へと突きつけた。これにはどちら様も大ショック、悲しみはこぼれて美しく花は枯れるでしょう。枯れた花は親心、されどその花は毒ととげでできていた。
しかしながら、今の二人にとっては両親なんぞワンランク上の他人にすぎないが故に、こうしてたやすく縁を切ったのだ。お前らのようなヘゲモニーに頼る気なんぞハナからありゃしない、男二人ならばどうにか学生でも生きていける薄汚い世の中になったのだから、こいつは我が子を「名に恥じぬ」とかいう洗脳を施してきた親どもが少々よろしくない。かくして、わるいこ二人の奇妙でセンチメンタルなエスケープジャーニーは幕を上げた。
まずは何をするにせよ。タネ金は必要なもので、それは家の頑固なヨゴレを売り飛ばしたくらいではとんと足らぬ。ならばと銀行から金を入手してきたら、二人合わせて十万と少し。これは親筆頭に親戚連中がバカスカ金を落とし、アプリコットジャムがごとく甘やかしたが故である。
足らぬ足らぬはお金が足らぬ、たといそう喚こうといきなり青く広がる空は金を降らせてくれやしない。ならばやることは唯一つ、身売りである。悲しくも血のつながった者を見限ったためか、はたまた理性が抜かれてホルマリン漬けにされてしまったか、とかく二人はどうでもよかった。自身が自由に使える金を足せれば気の狂った変態も、金のなる木でしかない街というバケモノのおぞましさよ!
「どうだった」
「楽しくはない」
「俺は女を相手にしたんだが、こっちも楽しくはないぞ。知っているか、世の中には光るコンドームがあるんだ」
「それを尻に挿入させられたんだぞ僕は。しかも甘ったるい香料付きのピンク色」
「うわあ」
「予言してやる、明日のお前の客は男で、しかも弩級の変態だ」
「やめてくれおぞましい、女性の変態でもきついんだ」
はたして予言は悲しくも当たってしまった。清一郎の今夜の恋人は痩せぎすな白髪交じりのいい男。妙に身なりのいいそいつはいやしくも三つ指ついてまで、なんともおとろしい言葉を吐き出した。
どうか私めの不躾な真性マゾヒスト菊座に、そこにありしものをなんなりと刺してくださいませ。何ならそこのシャワーヘッドでもかまいません。
そこにありしものとは、つややかでみずみずしい、新鮮なお野菜のことである。きゅうりやにんじんならばまだなんとなくだがわかる。理解できなくもないのだろう。しかしながらトマトとは、どうするつもりなのだろう。しかも、プチトマトならいざ知らず、そこにあるのは大玉トマト。桃太郎もびっくりなこんなもの尻に挿入したが最後、潰れて酸味が粘膜吸収されるだろうに。切って入れるつもりなのだろうか。しかしもっとわからないのがその隣。ジャガイモである。そしてさらに隣はカボチャ。こいつでどうしろっていうのか。心底恐ろしいは性癖ではなくここまで歪んだ社会だといいのだが。
やるせなさと同情と憐憫がない交ぜとなりこみ上げる、そんな清一郎はテレビのリモコンに手をかけた。それを分解せしめて中身を机にぶちまける。出てきたモノは単四電池、こいつを男の尻に思いっきり突っ込む。落とさないようにと念押しをして、そのまま放置すれば今日びはそれなりの平穏と同席ができる。隣であえいでいる疲れ果てた社会人マゾヒストに目をつぶれば。
「ひどい目に遭った」
「同じく」
「何だ人を呪えば穴二つか」
「違う、今日は女の客だ」
「よかったじゃあないか」
「ペドフィリア、男女問わないのは名称を知らないがとにかくそういう癖だ」
「もう一回言ってくれ」
「ペドフィリア。ちなみに幼児プレイも含まれるぞ」
「ばぶばぶされたのか?」
「いや、ばぶばぶした。僕がママになってしまった」
「なんで?いや人の癖に難癖つけるつもりはないが純粋になんで?」
「疲れているんだろうよ…どう見てもサービス残業の後らしい格好だった…」
あな恐ろしや現代日本。人の心は絶対零度がごとく凍てついてしまい、正しさだの正義だのという名前のついた洗脳を受けし悲しき現代人、そいつらは知らずのうちに醜く歪み崩れて融解していった。かつて異端であったパラフィリアと呼称された正しき闇は心にはびこり、それを守るためにその精神は崩壊し狂い尽くしていった。なんたる矛盾、なんたる皮肉!嗚呼笑えてしまうじゃあないか!
そのとろけた脳みそゆえの狂乱文明を日々甘受し、貞操からがら方々の体で流浪を装ってしまえる大金を懐に入れた狂気の二人。今というおぞましき歪みに乾杯、身売りを教えてくれた性別年齢その他一切合切不明な姐さんに一礼いたし、歩みを進めてゆく。焦げ付いた朝ぼらけは色あせながらも眼球によくしみて、自由を手にした背中には漆黒の両翼がはためいているのだろうに。
祝祭に何も出されない、というのはいささか無為で無味で無価値で暇である。ケーキでも購入して、今生で初めてのパーティーとしゃれ込もうと切り出したのはどちらであったか。きっとどちらでもかまいやしないのだろう、どうせ声質も思考回路も似通っているのだ。もしかして、どちらも同じ時をもってして同じことを口にしたとしても何らおかしくはない。
「それは何だ」
「確かマカロンだったと思う。こちらはブルーベリータルトだったか。いかんせん両方ともその手の物に詳しくないからな、正式名称がわからなくても仕方がない」
「こちらなんて長ったらしくてオーダーするのさえ一苦労だったんだが」
甘くとろける美しの宝石たちも、かつての彼らにとっては手出しのできない夢物語がごとき食物。それが今はどうだ、いつ何をどう食べようとだれも何も言いやしない。重圧を逆にへし折った身軽なその体は、すっかり狂気が染みついて頑固にこびりつき落ちやしない。
呪文に等しい未知をすくい上げ、口の端には白いカロリーをくっつけて。ついでに何をどうやったのか鼻のてっぺんに紫甘味をつける。いや本当にどうやったと鋭利な突っ込みは当然出た。されど世界は知らぬであふれていて、なおも忌々しき首輪の持ち主に対する反抗があふれて止まらない。
はてさて次はどこへ行こうか、両の口がやいやいと会議を行う。世界でただ二人っきりの作戦会議、その末にできた確実に破綻しているが魅力的な結論、何にも決めずに逃避行。嗚呼なんて素敵な愉悦。
静けさをまとうまろい月の下、夜行バスは走る。行き先なんぞろくろく決めぬ旅路とはいえ、勝手な行いは早急な破滅を招く。ここは醜悪に堕ちる前のマスメディアに習って、ダイスで行き先を決めてやろう。一は北、二は南。三は東で四が西。五と六は振り直し。さてそんなことを知っていたのは果たしてどちらだったか。それすらも今の彼らには関係ない。ただ確実に、出た目の四に従うまで。西へと向かうと指示された。移動手段は、節制と逃走のため夜行バスで決定した。
しかしバスを選んでいるさなかで、とある男性に声をかけられる。あからさまな金色に染めた髪のうさんくさい男は、名前は名乗ってくれなかった。それでは不便だろうと「狐」と呼ぶよう提案した。安直、だがそれでいい。あだ名なんぞそんなもの。
「で、その狐さんは俺らに用事でも?」
「ああうん、西に行くんだったら知り合いに贈り物をしたくてね。ナマモノだから輸送がお金かかってね、バイトを募ろうと思っていたんだ」
「…嫌な予感がする」
「まあまあ!これも一つの人助けだと思ってさ!」
「バイトなら、お金必要だね。いくらクール便が高いと言っても、僕らの給料でさらに高額出費が確定するだろう」
「…ははは、じゃあ車に乗せてやろう。西に行きたい君たちと、贈り物をしたいぼく。利害は一致しているだろう?」
「怪しい」
「いいだろ今はわるい子だぞ」
「まあそうだけど、犯罪だぞ」
「未成年淫行と売春しておいて何を今更」
「それもそうか」
「うわあ相当な悪い子だね。じゃあもっと悪い子になろうか!」
今回運んでもらうのは、麻薬だよ。「狐」の嫌に軽い声色がさらに弾むように密やかに響いた。麻薬、説明するまでもなく所有も売買も使用も犯罪のアブねえシロモノ。種類は不明だが、発覚したら当然逮捕されるだろう。尋常ならざる快楽の代償に、身体に絶大なほころびを生じさせる白い夢の切符。それははたして悪夢なのか、淫夢なのか、両方なのか。しかしわるい子はそんなもの気にしない。自身が使用するわけでなし、自分勝手はなければならない人間の生きる指針の一つでありながらも今の今まで封じ込められ、思考すらも奪われたようなものだ。当然、善悪も表面的な物しか理解していない。できていない、が正しいともいう。なぜならば、悲しいかなそんなこと今の今まで教わってないのだから!
それを知ってか知らずか、「狐」は提案してきたのだろう。そのような胡乱極まる界隈の人間は、同類を嗅ぎ分けるのが妙にうまい。ハゲタカやハイエナが腐肉を嗅ぎつけるのと同じこと、世間という枷を疎んじる輩は独特の雰囲気をまとっているので、そいつの喉元に背徳の刃を突きつければいい。清一郎と磨雄は、そんな哀れな黒い子羊だった。
わるい「狐」と、わるい子二人。「贈り物」の詳細は知らなくても、ヤバいものなら聞かなければいい。ヒッチハイクしていたら拾われただの、あり得そうな嘘八丁を言葉巧みに並べ立てれば、自称善良な一般市民はコロリとだまされるだろう。ずぶずぶと、悪の沼は広がっていく。
「知っているかい、ハイエナの雌にはちんちんがついているんだ」
「へえ」
「偽物とか飾りではなく、生殖器として機能するちんちん?」
「そうそう、排尿もできるらしい。ま、でも雌だから射精ではなく出産になるらしいけどね」
「痛い痛い痛い」
「裂けるだろそれ」
「うん、実際ハイエナの出産成功率はかなり低いらしい」
「リスクとリターンがよくわからない、どうしてちんちんが両方についているんだ?激痛もあるだろうし」
「雄と雌の外見差をなくすために進化したんじゃないかな。ほら、ほとんどの哺乳類は雌の方が比較的小さいだろ。あれだと狙われやすいと思うからね」
「なるほど、細くてかわいい女子に絡む奴は多けれど、屈強な成人男性に絡む奴が少ないのと同じ理屈か」
「多分ね。ま、昆虫や魚なんかは雌の方が大きいこともよくあるよ。女王バチとか、女王アリとかね」
「嗚呼、そういえばそうか」
「チョウチンアンコウも雌に比べて極端に小さい雄がくっついて離れないからな。そのままイボとして一生を終えるらしい」
「究極のヒモ野郎じゃないか」
「でも、中世ヨーロッパでは巣の長が女性だということが受け入れられなかったらしくてね、女王ではなく人間で言うところの女店主、酒場のねえちゃんに近いのではないかとかが真剣に議論されていたらしい」
「嗚呼根深い男尊女卑。まあ男も男で子供に声かけるだけで不審者扱いだけどな、成人してからは特に多いらしい」
「それでも最初は戦場に女性を入れないことで少しでも出産数を底上げするためのものらしいけどねえ」
「難しいなあ」
「世の中そんなもんだよ」
「狐もこんなに頭いいのに麻薬の売人みたいなことしてるし」
「はは、雑学は大学に影響しないよ。それにいい大学いい高校に入っても絶対いい会社いい環境に入れる訳じゃないし」
「…わるい子になって初めていいなと思った」
「まあ、その年なら両親との不和だろうさ。でもね、いい私立大学に滑り込んでも社会は褒めてくれないよ。むしろ『有名大学に行っていたくせに』とか言われてサンドバッグにされて使えなくなったらはいこいつは無能だからぽい、だからねえ。世界なんてものは理不尽でしかないんだ」
「妙に生々しいな」
「過去については互いに聞かないのが長続きのこつだよ」
「そういうものか」
「そういうものだよ、大人なんてね」
絶妙に賢い、会話のうまい「狐」が運転する車は実に平凡で、おそらく車に詳しくない人間から見たら確実に他車種と混同されるであろう、ありふれすぎたよくある形。しかし麻薬売買にはその方が丁度いいらしく、いかにも誘拐密売いたしますというような形の大型車より発見されにくいようだ。まあ確かに調べるならまずいかにもな方から調べる。こうしていたちごっこは過激化して無意味に発展と廃棄を繰り返すのだろう。むなしさの象徴とは都市の発展とともに増えていくらしい。
音を立てて淡々と山道を下っていく平凡なる車は、やがて一つの山小屋の前で停まる。いかにも丁寧な暮らしをしていますといったこじゃれたロッジの前、入り口が開くまで待っていろと忠告されたので二人はおとなしく待っている。わるい世界では黙っていた方がいいことも多々あると、この数日間で嫌でも学んだが故の行動であって、決していい子などではない。
ややしばらくして開いた木材を横並べにした丸みを残す扉、そこから出てきたのは、人間だった。雌雄の区別がつかないが、少なくともヒゲと頭髪がえげつなく伸びきって、まるで妖怪変化か熊かエテ公かといった風体ではない。確かに長い髪の毛をしているが、つやのある黒髪はみどりのくろかみと呼ばれる忘れられた色彩を携えている。死んだような目だけが一つ気がかりだが、それ以外は無性別的な、月並みな人間なら神々しいなどと表現する面をしている。そう、死んだような目。薬物中毒者の、彼らが持つ特有の、虚ろに存在するだけの、生きながら死んでいる矛盾した目。だと思う色彩。二人は薬物中毒者に会うのは初めてなのでよくよくわかっていないが、身売りの際に似たような彩りを傍目に見たことがある。おそらく彼らも薬物中毒者なのだろう。
自称「狐」は紹介する。こいつは「狸」だと。あだ名にしては随分的外れだが、おそらく本人との対を意識したそれであろう。彼、便宜上の呼び名ではあるが、とにかくあまりにも耽美に退廃としたそれは狸と言うよりは森で遭遇する方のカラスだろう。都会で見てもただの鳥でしかないカラスも、森で見かけると途端に非日常的な、妙な色気が嗅ぎ取れる。それでいて生態は同じく腐肉喰らいなのだから、有り体に言えばめまいがするほどえっちである。そんな助平な人間なのだ、「狸」という者は。
「中毒者を売人にでもしたか」
「やだなあ人聞きの悪い、彼らはただのバイトだよ」
「ならば酒とたばこでもてなさないとな。こんな田舎では宅配便もたまにしか来なくてなあ、期間限定のものがいくつか生き残っているだ。そいつをあけてやあおっるうるる」
「あだめだこれバッド入った。現地は取ったから金と酒とたばこちょろまかして逃げよう。こうなったら最後暴力に走って止まらないぞ」
「うわあ」
「おえええええっ」
「げっ吐きやがった。ええいゲロがかかったまま殴りかかるな!」
逃げろ逃げろと「狐」ははやし立てる。ごくごくありふれた車に乗っていろと、そう言われたのでそこで待つ。売春と淫行は経験があれど、今の今まで縛り付けられいい子を強制させられていた一般男子高校生に、殴る蹴るどつくの乱痴気騒ぎができるわけがない。ふざけにふざけた体力育成という名の公開処刑が、悪くはない成績とはいえ本物の修羅場には通用しない。小屋の中からどえらい音と絶叫と破壊の気配。こんな中に飛び込めるのは、よほどの手練れかただの阿呆か、もしくはその両方か。二人は明らかにどちらでもないので、静観を貫いていた。
やがて、一等大きな鈍い音が聞こえてきたかと思うと、「狐」が生きて帰ってきた。
「はあいてえ」
「うわっひどい流血」
「安心しろ返り血だ」
「全部?」
「半分くらい」
「手当てくらいしなさい」
「わかったよ母ちゃん」
「誰が母親か」
「かーちゃん酒とたばこ」
「そこのでけえ子供に言って」
「持ってきたぞ」
がさごそと、妙にこじゃれたトートバッグにむき身で突っ込まれた酒とたばことコンビニエンスなつまみが顔を出す。ナッツ類ならまだわかる、肉魚も書いているのでなんとなくわかる、しかし二人がわからないのは平たい何かと丸い何か。「狐」曰く、米やら小麦やらを成形して味をつけた物らしい。
「酒とたばこはもっとわからない」
「セーフハウスに着くまでに説明できないから、着いてからな」
再び平凡の象徴によく似た車は走り出し、山道を爆速で駆けていく。どうしてこんなに急いでいるのかと「狐」に問うと、どうもバッドトリップに陥った薬物中毒者でバカみたいに足の速い奴がいたらしく、安全運転で時速四十キロで走行していたら崖を滑り降りて追いかけられたことがあるらしい。結局足首がおかしな方向へねじ切れて崖下に落下したため放置したらしいが、それは足が速いとか言う次元ではない気がしないでもない。だがパルクールでもやっていたのだろうと、それぞれで結論付けた。人間リミッターが外れた状態では創作物よりとんでもないことができてしまうのだ。陸上自衛隊の某部隊とか。
薬物乱用の恐ろしさを別の方向性から知ってしまったわるい子二人は、しばし沈黙を保っていたがやがて目的の「セーフハウス」に疑問の声を投げかける。どう見たって、それは家などではなく、建築物でもない、ただの洞穴だからだ。
「待ってくれ、これは家ではないだろうが」
「もしかしてそこまで堕ちた人間…」
「誤解だよ。廃坑をリノベーションして家に改造した自家製セーフハウスだ。これなら疑いも減るし、そもそもこんな山奥に人なんて来ないし、裏口もあるから練炭自殺に偽造できるし、いいことずくめだろう?」
「そうでもない気がする」
「ううん手厳しい。ま、中に入って酒とたばこのお勉強でもしようか」
「覚えられる気がしないんだが」
「覚えなくても大丈夫だと思うよ」
こじゃれた、裏側の人間には不釣り合いなほどに気合いの入ったトートバックの中から宴会用のブツを取りだして、廃坑内に残されていたオンボロの机に並べ始める。
「まずお酒から教えてあげよう」
「お願いしまあす」
「これは日本酒、この辺りのいわゆる地酒だね。あいつケチりやがったな、普段は一升瓶で手を打っているのに。これはいよいよ値上げかなあ」
「これならまだ見たことがあるな」
「こっちはビール。国外の物でそこそこマニア向けだけど、味自体は完全に初心者向けだと思うね」
「ここら辺から全然わからない」
「だろうね。こっちなんか激レアウイスキーとそもそも一般流通してないラムとヴォトカだもの。さてはこっちで釣り合い取ろうとしているな、日本酒は原則一升瓶の契約だったのにさあ」
「大人の契約?」
「そうだね。次はたばこ、とは言ってもこっちは全部有名な奴だから知っていそうだけどね」
「名前だけはな」
「そりゃあそうか。ま、一発キメればわかるよ。だめだったらもらうし」
「あれやりたい、シガーキス」
「やめとけあんなのむせるだけだ」
そうして、二人にとっては人生で初めての宴会が幕を上げる。空腹で飲酒すると早くにアルコールが回るので、まずはおつまみから。ナッツ類とジャーキーを始めに開封し、口に含む。どちらも噛めば噛むほどに旨みが口内を疾走し、塩分が疲労を回復せんとその体に染み渡る。そこにレアものだというウイスキーをロックで流し込めば、たちまち大人の悦楽と酒精の焼け付く液体が喉を通過する。
「あーいけるなこれ」
「よく平気でいられるなお前…」
「んー、清一郎のが強いのか」
「合わない可能性は?」
「十分あり得るけどな。じゃあ磨雄はいかくんと日本酒いってみる?」
「うん。…あ、こっちはいける」
「おうおうどっちにしろ金食い虫な趣味になりえるよお」
「やだあ」
「ま、ハジメテのお酒はおいしかったらしいが、たばこのほうはどうかな?ライターはここで、こうやってつける」
「こうか」
「惜しい」
頑張って不慣れなたばこと対戦して、ようやく先端に火がともる。そこから深く吸い、たばこの吸い方に近づけようと躍起になる。
案外むせなかったのは幸運だが、両者ともに苦い顔をしている。合わなかったのだ。思えばどちらの両親も酒は付き合いで呑んではいたが、たばこは親の敵と言わんばかりに嫌悪し、執拗なまでに喫煙者を罵倒していた。二人と「狐」にとってはどちらも同じ嗜好品なのだから、似たような物ではなかろうかと思いたくなることだ。いやはや、憎悪と愛情はヒトをこうもおぞましく狂わせる。
「ううん、だめだこれは。合わない」
「顔を見たらよおくわかる」
「そんなにすごい顔をしていたのか」
「うん。写真でも撮ろうか?」
「いらない。それよりもスマホ自体いらない」
「おっとそこからか」
「どこからあれが追いかけてくるかわからないし、そもそもバッテリーが底をつきている物をいつまでも持っていても仕方がないだろう」
「そうだね、こっちで処分しておこうか?」
「いいのか」
「いいよお。あとは町中まで送るだけだから、いくらでも呑んで」
「ビールおいしくない…」
「おっとそれどころじゃあないのが一人居るね」
「ラムあっま!!!」
「もう一人もそれどころじゃないね、ベッドはあっちだから寝ても大丈夫だよ」
「ぎぼぢわるい…」
「吐くならここ」
「おはよう、初めての二日酔いはいかがかな」
「してない」
「同じく」
「おや次の日に引っ張らないタイプ。いいね、いろいろと楽だよ」
暗いセーフハウスでは定かではないものの、おそらく朝焼けが空を舐め尽くす時である。「狐」の私物であろう目覚まし時計が、けたたましく叫び散らかす。二日酔いのふの時も知らない様子の二人に、「狐」は昨日と変わらないうさんくさい笑顔で問いかける。
「車を出そう。次の行き先はどこかな」
「ないな」
「目的のない旅だ」
「なら近場の街でお別れだ。あそこなら京都近辺の長距離バスがいくつか出ている」
「至れり尽くせりだな」
「そりゃあ二度と会えないかもしれないんだもの!」
けらけらと、さも愉快そうに笑う「狐」とも、これで会わなくなるだろう。本来巡り会うはずのない関係性は、今生の別れとも受け取れる。それでもなお、「狐」は愉悦を孕んでよく笑う。まるで、そうするしかないかのように。
どこにでもありそうな車が、どこにでもあったら困る連中を乗せて駆け抜ける。
はずだった。
「気がついたらここにいた」
「おそらくは捨てられたのだろうさ」
眠気にあらがうことをやめた頃合いを見計らって、「狐」の野郎は二人を捨て置いて逃げていった。まあ「狐」の立場では家出少年どもをわざわざ街まで送り返すメリットなんぞありはしない。とはいえこんな山の中に二人っきりは流石に困る。
はずだった。
「おやあんたらも街が嫌いなのかね」
案外近くにあった人里。半分自給自足で成り立つこの名前が付けられなかった村は、時折人を乗せた奴が下ろされていくのだとか。「狐」は、無慈悲にもバケモノじみた自然という名の荒波に二人を放棄したわけではなかった。ちゃんと、アンダーグラウンドならではのわかりずらい気遣いであった。
そして村も、村人も、どこの馬の骨ともわからない胡乱な若人を、なんとも心優しいことに空き家をあてがってくれた。これはこれはと素直に感謝する若人らは、老人たちにとってみれば何よりもありがたい宝なのだ。
「山奥の忘れられた村って、もっと排他的で因習に縛られたものだと勝手に思っていた」
「地元の方がよっぽど冷たくてかなわない」
「そうねえ、ここはこんなにも深く険しいからねえ。わしのばあさんの頃から『よその人とも交流しよう』ってことになったんだったかねえ」
「世知辛い」
「まあ、街に嫌な思い出があるんじゃったらここは楽園みたいなところだと思うね」
「嗚呼住み着いてしまう」
「やっだうれしいこと言ってくれるじゃないか色男たち!」
「いっ、たあっ!トメばあさん力加減してくださいよお!」
名を持たぬ村は夏の香りが色濃く、けものたちや虫の数々にも活気がある。法の下年中行えるわな猟と、急斜面の中気合いと知識でどうにかやってのけてしまった畑作と、ついでにそこそこ豊かな山からの採取で食っていた。
いっそ気味が悪くなってしまいそうな平和が充満した村は、人口の半分ほどが老人だった。残る半分は若者が多数で、子供は少ないが生き生きとしていた。理想的とは言えないものの、山深き忘却の押し寄せる村と言う割には人がいた。子供も、若者も、そして友人呼べるまで親しい者も。
「風花さーん、ヤマブドウでーす」
「はーいどうもー」
「滝谷ァ!お前まあた俺んちの目の前に虫タッパー置きやがったな!やめろって言った次の日に!」
「あら、中々うまくできたのよ。チヨさんにも褒められちゃって」
「人ん家のド真ん前に置いてく奴がどこにいるんだよ!」
「あ、また喰らったんですか勇馬さん」
「僕らがもらいましょうか?」
「勝手に決めるなよ」
「だめか、なら空さんか愛斗さんに押しつけ…渡そう」
「やめてくれませんかね」
「あ、空さん。虫いります?」
「いらない」
「では僕がもらいますね」
「よっしゃ愛斗さんありがとう」
「その代わりに、解体の手伝い作業がありますよ。早く慣れないと」
「うげえ…」
限られた人間関係と空間の中、自然と親しく慣れた村の先住若人。滝谷 風花という女性は、外国の血が混ざっているとかなんとかでいろいろあってここにいるのだとか。島田 勇馬は毛先を少しだけ染めた大柄な男性。見るからに一般ピープルではない彼は、見た目通りというかなんというか、喧嘩に飽きてここまで来たらしい。緑野 空という、細身で神経質でいかにも科学者ですといった風体の、何かしらやらかした様子の男。そして、愛斗としか名乗ろうとしない圧倒的に訳ありな素性のつかめない男。他にもまだもう少し若い連中はいるのだか、馬の合った者同士で軽口の応報ができるまでになった。
皆、ここまで深い仲になったものなど一人もいない友情初心者たちであった。しかし皆が皆そうであるように、仲間意識からかはたまた運命なんてくさい台詞からか、親友と呼べるほどに成長した。不幸を嘆き、死んだように生きながらえてしまう都会人ではなくなった。
若い奴らには仕事が多い。女性である風花氏も、足腰膝にガタが来始めた老人たちにかわって山の幸をいただいたり、民家の修繕方法を習ったり、わなにかかったけものを解体したり。中々に充足を覚える日々であった。
それもひび割れ脅かされる日だってある。
「…来たみたいだねえ。この村、ひいては村民をよく思っていない輩が」
「そんなのいるんですか」
「いるんだよ。ここには外から逃げてきたのも多いからねえ。あんたらだってそうかもしれんだろう」
「否定できない」
「だとしたら心当たりしか存在しない」
「ほれ、来たよ」
そして垣間見た望まれぬ客人は、案の定二人の両親だった。どういうツテでここまで来たのかは定かではないが、正常ではないと定義される人間はなにしでかすかわからないものなのだ。
二人が両親を見る目は、もはや人に向けられるべきそれではなかった。世のため人のためキミのため、そう吐瀉された理想によく似た世迷い言は、もう誰にも聞こえやしない。清一郎は斧で、磨雄は小さな鎌で。普段は生活のよき相棒として底に存在する刃物。それを、人に向けて使う。そこに、一切の迷いは見られない。教わりもしなかった倫理観がどうして身についていると思っていたのだろうか、最期まで人によく似たごうつくばりは、理解することはなかった。
ただの肉とはらわたと化したそれに、はなむけとして押しつける感情なぞ存在しない。名無しの村では当然のことで、外からすれば明らかなる狂気。スナッフフィルムとして流通するらしい、解体ショーが幕を開ける。
分解に心は不要なので、誰も彼もが無言で刃を振る。大の大人四人分のブロック肉と、同じく大人四人分のホルモンとなるまで正気の殺戮は続く。年齢なんて関係なく、当の肉らはありきたりな「行方不明」になる。
母だった鍋、父だった干し肉。長たるタカさんの家に集い、鍋をつつき肉を喰らう。理性的であるが故に異常な、地図にない村。入るもの拒まず出るもの逃がさず敵対するもの許さず。そこには、外とは違う常識があるだけだった。
そうして夏は逃げるように去って行った。今年も秋になる。山々が赤く、紅く染まる秋、それはもうそこまでにじり寄っている。日本国で何人行方不明者が出ようとも、一握りのもの以外忘れられるように、知らぬ間に当然とよく似た秋が来る。
「続いてのニュースです。先日○○山に入山し以降連絡の取れなくなった佐野夫妻と白野夫妻についてですが、今も情報がなく――」
「あの二人の家ってさー、子供にわりと虐待じみたことしてたんだってー」
「あーなんか聞いたことあるー」
「なにするにも親の許可必要だって愚痴ってたよー」
「うわあ毒親じゃん。天罰だよきっと」
「大丈夫かあの二人。犯罪やらかしたり、もしかして…いや、やめておこう。二人はもう居ない。夏の日のフードコートで、家出していたあいつらを見た。それだけだ。俺はなにも知らない。それでいい…いいんだ…。二人に、とっては…」
Fin
『おかけになった電子機器は、現在使用者の電波状況が悪化しており狂気の音信不通となっております』
「なんだこのサイト…」
…?
いい子わるい子邪悪な子、もしくは現代社会の産んだ悪魔の子 大和田 虎徹 @dokusixyokiti
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