ぼくは狩人

真希波 隆

ぼくは狩人


「お前の名前はなんていうの?」

 墓石の上で、胡坐をかいている学ランの少年が言った。

 少年が抱いているスーツを着た男の死体は、バラバラだ。

 少年はピザを食べていた。僕は訊いた。

「そのピザはどうやって頼んだの?」

「デリバリーをしたんだ」

「その男の人は?」

「ここでピザ食べていたら、怒られた。気に食わないからピストルで撃った」

 少年は、ピストルという言葉を慈しむようにして言った。

「どうして」と言って、言葉がつかえた。僕がかかえる問題にしては、ちょっと大きすぎる。

「ピザは美味しい?」

「どこにでもあるマルゲリータ・ピザだよ。お兄さん、ピザ食べたことないの?」

「ピザは好きだよ」

 僕は殺されてしまうとは考えなかった。少年は手元に拳銃を持っていなかったし、ちらつかせる素振りも見せなかった。それで僕は少し安心していた。

 このまま去ることもできたけれど、祖母や僕の一族の眠る墓で、なんだかたいへんな光景を見てしまうと、どうにかできないか、と思った。

「僕の名前は丹治。君の名前は?」

「ぼくは名前なんてない。狩人って、みんなは言う」

「学校でも?」

「ぼくが学校に行くと、学校は緊急事態かお休みになる」

「それにしては、君の物腰は知的だね」

「人殺しに知的って。お兄さん、変な人だね。ぼくのこと知らないの? ここらでは結構、有名だよ」

「へえ」

 そうして、僕と狩人は雑談をして、なんでもないことを適当に話しているうちに、夕焼けとそれに染まるちぎれた雲が目立ち始めた。「もう夜だ」

「お兄さんは、どこに住んでいるの?」

「今日からこの町に住むんだ。狩人くんのことも、これからちょっとずつ知っていくんだろうね」

 狩人は黙って、僕を見たり、もう冷たくなっているだろう死体に目を移したりした。死体の目はやっぱりどこも見ていない。彼にもここまでの人生があったのだろう。ちょっとした正義感が、時として自分を殺してしまうのだ。本当に何気ないことなのに、僕はそれを寂寞だと思ってしまう。

「ねえ」と少年は、ソプラノの声になって言った。変声期は、気にしない人にはなんでもないことだけど、そうではない人には苦悶の連続なのだろう。

「一緒に住んで」

 と弾んだ声で言われ、僕は自然と答えていた。

「いいよ」

 僕はきちんと死体を見ながら、微笑んでいた。                   



 銃声が聞こえてから、十五分後、インターフォンが鳴り、玄関に行って、ドアを開けると、白いワイシャツを血みどろにした少年が、僕にはにかんだ。

 狩人。

 その少年のワイシャツはボタンが引きちぎれていて、争った痕跡があった。

 ソフトに筋肉のついた少年の上半身がさらけだされている。どこか頼りない。

 僕は「おかえり」と言って、少年に室内に入るように、促した。

 室内でも屋外でも学校指定の制服しか身に着けない少年は、はだしでいることを好んだ。それは僕が室内では、基本的にトランクス一枚でいることとは、まるで意図が違う。

「風呂に入ろうと思って、沸かしたけど。ま、よかったらどうぞ」

 そう言うと少年は上ずった声をしながら、邪気のない表情を取り繕い、「一緒に入ろうよ」と言った。僕はどうでもいい気持になった。

 僕が朝に仕事を終え、仮眠を経て、昼頃に風呂に入ることを少年はよく知っていた。僕はトランクスを脱いで、洗濯機に放り込んだ。そろそろ洗濯をしないと。

「誰を殺したの?」

「お前によく似てたよ。年も同じくらいじゃないかな。お前と違って、スーツ着てたけど」と少年は、僕にシャワー・ヘッドを向けられながら、言った。

「でも、お前ってスーツ似合わなそう。今の仕事が向いているんじゃない?」

「僕にもスーツを着てみたい頃はあったけどな。なんかズルズル今があるよ」

 血でもつれた少年の髪。細くて柔らかい。手でほぐすようにして、血を洗い流す。

「それにしては子供っぽいよね、やっぱり」

 僕が? 子供っぽい。僕は少しほくそ笑む。

 少年が僕を見て、僕の後頭部を両掌でつかんで、少年のおでこに引き寄せる。

「なに?」と僕は言いながら、少年のおでこが自分のおでこにあたる。

「別に」と言いながら、少年は数秒間、目を閉じる。

 狭い風呂場は、湯気がもうもうと立ち込め、室温はかなり高かったと思う。しかし、それ以上に、僕と少年の間に、触れれば火傷してしまいそうな火花が散っていた。こういうことを、僕は運命とか奇跡とか、そういう呼称をするんじゃないかと思っている。

 少しして、少年は僕を上目遣いで見て、からかうように笑った。僕と少年は、裸で、シャワーを浴びながら、丁寧にぎゅっと音がしそうなくらいに抱き合った。

 床に水が跳ねる音だけが鮮明で、この世界の秘密すべてを隠してくれているみたいだった。

 たとえ、それが、どんなに虚像に過ぎないとはいえ。

 少年の頭髪を大きなバスタオルで拭く。少年は嫌がる演技をする。笑いを押し殺しているのがわかる。

 僕はソファに裸で座る。少年は裸のまま、キッチンに行って、グレープフルーツ・ジュースをコップに注いで、二杯飲み、そのコップにもう一杯注いで、僕に渡した。僕たちにはこれといって、遠慮だとかそういうものがなかった。

 僕はそれを半分飲み、残りは少年に渡した。少年はそれを一息に飲んで、げっぷをした。

 テーブルに置きっぱなしになっていたウォークマンを、スピーカーにつないで、音楽を聴きながら、踊ったり、指揮のまねごとを始めた。時折、僕のほうを見て、少年は反応をうかがう。

 僕は少年が無造作に履いたズボンと背中の曲線の間に突っ込んでいる拳銃を知っている。僕は拳銃にはあまり詳しくないけれど、それが人殺しの道具になりうることは想像の範囲内だし、少年と接していくうちに、少年が快楽殺人狂の一種だと判断するに至った。

 少年の手によって、命が失われていく。

 しかし、僕はそのことについてのすべてを、ソーシャルな枠組みでは共有しようとは思わなかった。少年の裸体は、いずれミケランジェロのダヴィデ像のようになるだろう。そして、きっと、その時、僕はもう、この地球上にはいないのだ。



 僕には寝たきりになって覚醒しない双子の兄がいて、その兄の身体的構造にはいくつかの欠陥があり、三十五の歳にいくつかの臓器が手に入らなければ、兄は死ぬことになっている。

 兄が寝たきりとなった経緯を僕はよく知らない。兄は笑顔のよく似合う子供で、明るく朗らかで活発だったと、親族一同、口をそろえて言う。

 僕がアニメーションを見ているとき、兄は外を走り回っていたという。母と父は、僕がテレビを見ていると、兄と一緒に外で遊んだ。

 母と父は、僕を一人でテレビを見られる環境に置いた。僕にとっても、それが幸せなことだった、と父は幾度となく、祖母に言い聞かせていたことを僕は知っている。

 事故が起きたのは、僕が、つまり兄も、七歳になろうかという四月のある日のことだ。

 新築の家に引っ越した翌朝のことだ。僕はそのことをとてもよく覚えている。何度も大人に説明を求められたからだ。

 興奮で早起きした兄は、僕を起こし、「探検をしよう」と言った。僕はうとうとして、眠ってしまった。そして兄は、階段のいちばん下で意識不明で倒れているところを発見された。

 一連の医療に関する処置は、子供の僕には説明されなかったが、事情を聞いた母は蒼白になって、早急に手を打った。僕のドナー・カードを作ったのだ。僕は特に何とも思わなかったし、何とも思わない。

 僕よりも兄の命に重きを置く母の気持ちが痛いほどに分かったし、当然のことだと思った。父は黙し、仕事に没頭し、とても稼いだ。その大半が医療費に注ぎ込まれた。僕は兄に、いくつかの臓器を譲り、死ぬ。二十五になった今でも、その流れは変わらない。



 僕は本を読むことを好んだ。

 人が死ぬということは、自分が死ぬということでもある。ハムスターや猫やウサギ、亀やトカゲやメダカ、犬、サル、羊、当然のことのように死んでいくように、自分だって死ぬ。そう、当然のことのように。認識とは、実は、決して主観的なことばかりじゃない。だから、僕は本を読むことを好む。

 学校に通っていたころ、クラスメイトに「お前は読書をしすぎていて、バカみたいだから、人間のことわかっていないし、全部ゼンブ嫌っているだろ」と言われた。

 その通りだとも思った。

 しかし、僕はあまりにもそのクラスメイトと価値観が違っていたために、何も言い返せなかった。

 今でも、きっと僕は、真に受けて、それでおしまいだと思う。本はどういう体裁であれ、人が何かを伝える手段・情報だと思っていた。形にどんな意味があるだろう?  

 限界は時として、残酷だ。限界は、僕と狩人を自称する少年の隔たりになりうる。限界が兄を植物状態にして、限界が数や文字に僕らを拘泥させていく。

 もっと言えば、限界を作るから、戦争が起きる。少なくとも、僕は毎日、そう考えている。三十五になったとき、兄は僕を代償に復活する。それは祝福すべきことなのに、その時、僕はそこにいない。

 考えることの範囲は広くも狭くもできる。考えることができるだなんて、思っていない。なんてことのない毎日に御託を並べるつもりはない。

 少年は、僕の書棚から児童文学や近代文学、英米文学を無造作に手に取り、パラパラとめくる。それでいい。くだらない御託が、毎日を色あせたものに変えていく。

 ある日、少年の狩りを見る機会があった。

 少年は大学生くらいの太った男。少年は相手のぶよぶよした腰を蹴り、安っぽい金髪を右手でつかんで、ソプラノの声で高笑いしながら、男を仰向けにすると、そのまま男の胸元にのしかかって、ベルトと背中の曲線に突っ込まれていた黒い拳銃を抜き、男の口に無理やりそれを突っ込むと、何度も何度も、動かなくなっても、発砲を続けた。

「ほうら、言ったろ? あんたの頭蓋骨だって白い」

 口の端をゆがませた少年は立ち上がって、初めて僕に気づき、「よう、どうした?」と言った。さわやかに。部活でランニングをしてきた快活な学生みたいに。

 少年から狩人の表情がほどけていく。僕に近づき、少年は、僕にキスをした。唇を当てるだけの、たいしたことのないやつ。

 少年は僕の鼓動を確かめるみたいに、僕の胸に耳を当て、僕の背中に手をまわしていた。



「ぼくは泣き虫なんだ。なんでもないことで泣く。例えば、って訊いてよ」

「例えば?」

「飼っていたメダカを、水槽の掃除中に間違って水道に流した時、誕生日プレゼントで買ってもらったショート・ケーキのホールを、なんだか少し小さいな、って思った時だな」

「それって、どっちも同じくらいに泣くわけ?」

「そうだよ。ぼくにとっては、メダカもショートケーキも同じくらいのあふれかえっちゃうような悲劇なんだ。大事なのは、僕の持ちうるエネルギーの問題」

「エネルギー?」

「そう。つまりさ、ぼくの余剰エネルギーがぼくに殺意を持たせ、ヒトを殺害させる。くだらないヒトであればあるだけぼくは満たされ、よくできたヒトであればあるだけ、ぼくは健やかになる。というか、なれる。不思議だよね。人間が人間足りうる正義なんてその程度のもの。今の時世、世界、いや、日本中の人がポルノ・スターになる可能性を秘めている。でも、問題はその方法は、内緒ってこと。それなのに、お前から見たぼくは、言ってしまえば、ニュースで露骨に人相悪く取り上げられそうな、殺人狂でしかない。ぼくにだってスタイルがあるのにだよ?」

「学校指定の制服を血まみれにするとか?」

「そうそう」

「はだしだとか、頼りない体つきしているとか、無造作ヘアーだとか?」

「無造作ヘアーじゃなくて、実際に無造作なんだ!」

「怒った? それにしては狩人君はよく自分の髪をいじる」

「年頃だからだよ。良い言い訳だろ。本当にうるさいなあ」

「無造作ヘアー」

「それは違う」

「ところで君の両親は政治家だった」

「その通り。二人とも僕が殺した。あんまり良い人間ではなかったから、僕の身の回りの人は、僕を祝福し、守ってくれた」

「それは、それは」

「いわゆる重畳ってやつさ」

「そうかい」

 そう言ってから、僕は蜜柑の皮をむいて、ひとつ食べた。「ぼくにも」と少年が言うから、少年に渡そうとすると、受け取って返してきた、

 少年は僕の口をこじ開けて、僕が咀嚼していた蜜柑をえぐるように舌でもっていった。僕はちょうど、『グーニーズ』をテレビで流していたところで、男の子の口から真珠が一玉ずつ取り出されているシーンをどう受け止めるべきか、真剣に考えているところだった。

「なまぬるい」と少年は、ソファでくつろぐ姿勢になって言った。

「僕の体温だ」

「悪くない」

 そう言って、少年はたまらなくなったみたいに笑った。「ぼくはもっとお前のことが知りたい」「知りたい?」

「うん。どうしたらお前の考えていることがわかるかな? どうしたらお前になれるかな? どうしたらお前はぼくになれるのかな? こういうのって、ぼくの中では。超感覚だ」

 少年は息を吐いた。僕は少年をちらりと見た。

「僕は君のことを僕が考えている以上に知りたくはないな。いわゆるエチケットってやつ」「どんなにぎこちないキスでもいいってこと? それとも流れるように舌が絡まりあうキスかな?」

「何の話」と僕は少し呆れる。

「人の話」

「いや、ちがうね」

「なに?」

「さあ? 僕は興味ないし、どうでもいい」

 椅子から立ち上がって、書庫に向かうことにした。ここに越してきて、いちばんにこしらえた部屋だ。「これの次は『スタンド・バイ・ミー』を見てみ。あるいは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』」

「参考にはするけど、正直、映画なんて、どうでもいい」

「僕にもやらなきゃいけないことがある」

「そりゃそうだ」

「早めに切り上げよう。今日はスパゲティ」

「パエリア食べたいな」

「あれって作れるの? ピザみたいなデリバリーかと思ってた」

 そうして少年は分解して、掃除・手入れをして、弾を込めた拳銃をベルトと背中の曲線の間に挟んで、、人殺しに出かける。きっと、少年にもわからないけれど、それは宿業なのだ。僕にとっての兄と一緒で。

 書庫には僕が買った本が整理し分類され、収められている。正直、そんなものはすべて要らない。



スマート・フォンが振動している。電話だ。

「よう」

「ああ」

「どうした?」

「今日空いてる?」

「用事はないけど、ここしばらくは友達と住んでるから、そんなに寂しくない」

 殺人鬼と。

「気にしなくていい」と続ける。

「そ。でも、気使ってるんじゃないよ」

「もちろん」

「暗いやつだな。その友達って、おれの知ってるやつか?」

「さあ。知らないんじゃ?」

「ふうん。まあ、いいや。良いワインがあるんだ。赤。好きだろ。そのうち、おれんち来いよ。その友達も連れて」

「ああ、気が向いたら」

 そして僕は、彼が何か言いたそうにしているのを、じっと待った。彼は僕のことを知りたがるくせに、図り事に関してはとんと疎い。「じゃ」

 電話が切れ、静かになった。スタンドの電気が光っていて、書きかけの漫画を照らす。



「ぼくは飼いならされているって、ときどき思う。言うなれば、抜本的な世界に」「それはまずいことなの」

「そうでもない」

「よかったね」

「死んだら全部なかったことになるかな」

「それはないな。無駄なあがきだ。君の歩んできた歴史は、どうしようもなく分散的にも、集合的にも、あるいは整然と混然と残ることになる」

「そういうのって、なんかいやだね」

「うん。僕もそう思う」

「そういうことを飼いならされているって、言い方が当てはまると思うんだ」

「そうだね」

「抜本的、なんて言ったけれど、本当は違うのかもしれない。うん。……僕にはうまく言えない」

「言う必要あるの?」

「あのね」

「うん」

「ものすごい昔の話。僕が人の殺し方を知らなかった頃の話」

「うん」

「馬鹿みたいに膨大な人脈を持っている人がいてね、そいつにぼくは『顔が広いね』って言ったら、そいつはえらく怒った。そのときに僕は気が付かなくて、戸惑ったんだけど、そいつはね、帰国子女で『顔が広い』っていうものの言い方を知らなくて、額面通りに受け取って、怒ったんだ。実際、そいつの顔はでかかったんだけどね」

「何の話」

「抜本的な世界に飼いならされている人の一例」

「へえ」

「まあ、いいや」

 そう言って、少年は僕にくっついてきた。僕の足をくすぐってきたから、その手を引っ張って、少年の腰に手をまわして、抱きしめた。あたたかくて、やわらかかった。

 少年は嫌がっている演技をしながら、僕の肩に首をのせ、甘えた。

 時間が止まればいいのに。過ぎていく時間を十全に味わえたなら。何もかもが低速になるときがあったって、いいはずだ。

 少年はくすぐったそうに笑った。僕の首元に少年のこそばゆい息がかかった。やわらかい髪が、僕のほほに触れた。

「僕のこと、好き?」と少年は訊いた。なんてことないっていう調子で。

 この少年は殺人鬼で、人を殺すことを狩りだといい、自分を狩人だという。それなのに、僕の気持ちは一向にぶれず、僕が少年の狩りの対象になる日が来てもいいとさえ思える。

「好きだよ、もちろん」

 僕はこんなことを一日に千回以上やったっていいと思っている。



 兄のほほはこけていた。

 目を閉じていて、ちょっとした過労によるストレスで、眠っているだけのように見えた。

 しかし兄の現状は極めて深刻った。僕は兄の手を握り、唇にキスをした。そうしたら、なんだか目を覚ますような気がした。

 気がしただけだった。兄の眠りはもしかしたら、絶対的なものかもしれない。とはいえ、兄の雰囲気に憂いは見受けられなかった。それが、兄の兄たるゆえんだった。

 僕は兄の歯の数を舌先で数え、兄の舌と僕の舌を絡ませた。兄の舌は動かない。それでも、よかった。大事なことは、そういうことではなかった。

 僕もきっと、両親のように兄のことが好きなのだろう。僕もきっと医者や看護師のように、兄のことが好きなのだろう。そう考えると、気が楽になった。そう考えるだけで、気が楽になった。

「また来るよ」

 病室を立ち去った。

 病院の食堂で、少年は読書をしていた。拳銃は持ってきていない。少年は病院と銃は等しいものであり、ゆえに銃は必要ないのだ、と言った。

「何を読んでいるの? 書庫のやつ?」

「『ゲド戦記』ってやつ。これどの辺が戦記なの?」

「そうだな。ファンタジー好きなの?」

「こういうの、ファンタジーっていうの?」

「さあ?」

「ファンタジーだとは思わないけど」

「食事は?」

「まだ。ラーメンがいい」

「食券買ってくるよ」

「うん」

 


 僕は自分が誰なのか――つまり記憶や意識や感覚と呼べるたぐいのもの――が混乱しているような気がする。僕が一個人でいようとすると、あまねく個人ではない志向が僕を挫く。僕にとって大事なことは、個としての在り方であり、他社との共存ではなく、意識的欠如だ。自分は生きていく。自分は死んでいく。そんな絵画があったような。大した問題ではない。何も面白くない。だからこそ、いろいろな価値観を知りたいと思うのではないのだろうか。

 すやすやと寝息を立てる狩人の髪をなでる。客観だとか悪口だとか蔑みだとか弱者だとか、正直そんなことには興味がない。第一義の問題として直面せざるを得なくとも。一から十まであったら、僕は六とか四くらいでいい。満足だ。所詮、脳は情報の処理・伝達で手一杯。何も誰も意味なんて、本当なんて、真実なんて、それこそ在るべき現実なんて考えない。そういう環境。いじめ? 否。まっすぐであることにいかなる対応が伴おうとも、僕にはさらさらてんで興味がない。「あなた」(つまり僕と狩人以外)がいることは僕に何のメリットもない。システムが稼働しているだけで、そこに意味が生じない。

 僕の生い立ちは僕のもので、僕の主観に寄り添ったものだ。つまらない。奥行や深さが僕を支配し、「健全」を殺していく。日々くだらないことを増長した屑の相手をすることにどんな意義が? 僕はとても疲れている。「あなた」は間違っている。「あなた」。僕と狩人以外の「あなた」。そうなので、そうなのだ。何もない。ただ。何もない。


10


誰かを好きになることは病気の一つだ。西武新宿線は今日も黄色いラインを流れるようにあとに残し、電車としての機能を果たしていた。上井草駅はさびれている。電車を来るたびにそう思う。高校の時の担任にメールで、文化祭に伺ってもいですか、と尋ねると、快い返事が来た。狩人は『ゲド戦記』にすっかり夢中になり、繰り返し読んでいた。今日はお留守番だ。

 自分の手がインクで汚れていないか、服にスクリーン・トーンが張り付いていないか、チェックした。かって遅刻しないように走っていた通学路を歩いた。ウォーク・マンは持ってきていなかった。空は曇り始めていた。ビニール傘を持っていた。折り畳み傘はどこかにいってしまったのだ。

 玉田先生という高校二年の時の担任は、僕を教室で悪目立ちさせるようなことをたくさんした。僕に注意というか注目し、皆がやっているようなちょっとしたズルや惰性を見逃さず、隙あらば、僕を注意した。僕は玉田先生というものがよくわからず、彼女は体育教師だったから、教育方針も何か考えがあるのだろう、と思った。例えば、集団というものを作るにあたって、集団をまとめるには一人か二人浮いた存在や仮想敵、いじめてもよい存在、バカにしてもよい存在、孤立させる存在、うまくやっていけない存在を作る必要性に駆られたのだと思う。僕はその役どころにぴったりとはまった。学業も不振だったし、ボート部をやめたころで鬱屈しているころだった。

 玉田先生が僕に対して求めているのは、内気で精神障害に近い、皆から嫌われている問題児なのだ、と僕は考えた。僕は面倒くさいので、そうしていればいい、と考えた。そうしたら、玉田先生はあろうことか増長し、あるいは玉田先生の予想を上回る居心地の悪い教室が誕生してしまい、友達もクラスメイトも全員が距離を置き、僕は学校から追い出された。

 僕は学校に対して未練はなかったが、高校を三年間通うのは普通なのではないか、と思い、家族もそれに同意した。しかし、学校側は三年間ではなく、留年措置を設け、休息期間と称して、半年間の休学を要求し、結果として僕は四年間も高校に通った。心からくそみたいな学校だと思うが、それが僕の母校であり、僕は今そこに向かっている。何が言いたいのかというと、僕は玉田先生が好きなのだ。


11


 僕は、狩人に殺してもらう約束をした。今日、僕は死ぬ。

 雨が降っていた。祖母の私有地のなかに山がある。僕は雨の中を、全裸で我武者羅に走った。裸の足が土を踏み、枝を踏み、切り傷だらけになり、沈む。蜘蛛の巣が全身に引っかかり、蚊に刺され、ダニとかそういう虫が肉体にまとわりついて、かゆくなる。むずむずする。しかし、僕は秋の雨に導かれ、全裸で山を走る。私有地だから、誰かに見られたり、ばれたり、写真を撮られることはない。九歳から天啓を受けたかのように始めた。

 両親とはどうしても折り合いが悪い。父は僕を「能無し」と言い、母は僕を「ゲス」と言う。死んだ祖母は僕にこれと言って、何も言わなかった。ただ、やたらに本を買ってくれた。読みたくもない本がどんどんと増え、未だに読み切れていない。それが書庫の本の大半だ。僕は基本的に、社会というコンセプトを理解するまでに十年間かかった。

 人前で裸になるとある種の概念の更新がある。狩人は僕の体を点検する。僕は何とも思わない。ソファで岩井俊二を見る。タイトルは忘れてしまった。

「死にたい?」

「死にたいよ」

「自殺は?」

「狩人君に殺されたいんだ」

「そうだろうね」

 ベランダに出る。風を感じ、持ったりとした空気を全身に浴びる。それはターミナルのようなもので、それは如何ともしがたい。それはいわゆる本能のようなものだろう。大事なことも大事ではないことも、忘れていく。僕はいつしか覚醒しているのか、眠っているのか、わからなくなっていく。結局、僕が残すものはなんなのか。肉体? 死? あるいは、リヴァース? 固定観念に価値はない。常識など、以ての外だ。


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ぼくは狩人 真希波 隆 @20th

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