悲しいミモザの旅 第12話

葉っぱちゃん

第12話 2年過ぎたある日竜道が現れ悶えるミモザ

 ミモザは、三ヵ月ほど、ぶらぶらしていた。ミモザが子供をおろしたことを知らない父は、ミモザの憔悴を、竜道に捨てられたからだと思って、気分転換に働くことを勧めた。今はすっかりあきらめて、恥をかかされたともなんとも口にしなくなった父に謝る積りで、素直に父の考えに従った。なんの特技もないミモザは、スーパーマーケットで、品出しの仕事に雇ってもらった。

 シングルになったミモザに、誘いをかけてくる男性は多かった。出入りの業者の営業マン、年下の店員、スーパーマーケットのオーナー。なかでも、オーナーは、正社員にしてあげようという条件で釣ってきた。ミモザは、もう妻帯者はこりごりだった。どんなに素敵な人でも、その後ろに控えている妻のことを思うと、恐ろしさの方が先にたった。ミモザは、オーナーの誘いを断り続けて居づらくなり、半年で辞めざるをえなくなった。

 次の仕事を「ハローワーク」で探したり、新聞の折込み広告で見つけようとしたが、ワードもエクセルも出来ない四十四歳の主婦あがりの女性には、雇ってもらえる所がなかった。かろうじて、病院の受付と、スーパーマーケットが雇ってもらえそうだった。ミモザは、個人的な経営の医院は避け、個人経営でない大手のスーパーマーケットに雇われることにした。そこでは、レジ打ちが仕事だった。

 ある日、婚家の近所に住む主婦が、たまたま通りかかって買い物し、ミモザを見つけて声をかけて来た。それからスーパーのパートの間でミモザの噂が広まり、お寺の奥さんでいられたのに、落ちぶれたものだと言う悪口が聞えてきた。ミモザは竜道と家を出てしまったことを、後悔はしていなかった。あのまま、喜びを与えられないまま一生を過ごすよりも、持続できなかったとはいえ、大輪の花が開花するように、体の中で美しい花を咲かせた体験を得たことは、何ものにもかえがたいと思うのだった。しかし、噂を聞いて、ミモザをそれ好きの女と見下したのであろうか、七十歳近い自転車の整理をしているガードマンまでもが、誘いをかけてきた。ミモザはまた職場を変らざるをえなくなった。

 ミモザは、閉鎖的な地元を捨て、ターミナル駅のコンビニで働く事にした。

コンビニはローテーション制で、遅番の時は。十一時過ぎに帰って来る。ある夜コンビニから帰ってくると、父母がミモザを待ち受けていた。母は、昼頃、仲人の河村が訪ねてきて、陽一が夏休み明けから大学の寮に帰らないで、姑や勲が悩んでいると伝えてきたと言った。ミモザは勲と別れる際に、陽一に会いたいと頼み、この二年半で、数回陽一の携帯に電話をかけていた。「元気なの?」と聞くと、「うん」とだけ答えてあとはなにもいわない。「あした、お昼ご飯一緒に食べてくれない?」と持ちかけると、「塾があるから」と、いつでも同じ返事で断ってくる。仏教系の大学に合格したと聞いた時も、お祝いの電話をいれたけれど、無口だった。ミモザは気がかりだったけれども、電話をかける勇気がなくなり、それ以来かけていなかった。

 陽一を助けねばならないと、あれこれ思い巡らす床の中で、陽一の夢を見た。鈴虫の籠を覗き込む陽一の顔は、病気の顔ではなかった。ミモザの心にほのかな希望が湧き立ってきた。陽一をもう一度抱きしめたい!ミモザの目に五歳くらいの陽一の姿が浮び上がった。いやいや、もう五歳じゃない、もう立派な一人前の男なのだ。抱きしめたりはできない。ミモザは厳粛な気持になって、朝の紅茶をいれた。

 夜通し鳴いていた鈴虫も眠りについたのか、ギーという鳴き声を残して静かになった。ミモザは、まだ誰も起きてこないキッチンで静かにレモンティを飲んだ。レモンの爽やかな香りに触発されて、最初に竜道と交わしたキスを思い出していた。竜道は別れた当初、十日に一度くらい公衆電話から電話をかけてきて、以前のようにラブホで会おうと誘ってくるのだった。資金が貯まるまでの間だけ、ラブホで我慢して欲しいというのだった。絶対にワイフに知れないようにするから、とも言うのだった。ミモザはその度断り続けた。本当に資金が貯まって、奥様と離婚できてからにしましょう、と言った。そうするうちに、だんだんと電話も遠のいてき、ここ数ヵ月は電話がなかった。

 ミモザは、父がいくら騙されたのだと怒っても、竜道を疑わなかったが、このごろでは、自分を有馬に連れ出したのが、どういう動機だったのかと、解釈に苦しむことがある。でも、単なる遊びなら、連れ出す必要もなかったのだから、やっぱり二千万円の喪失が、竜道を変えたのだと思った。だから竜道は悪い人ではない、という思いを変える事は出来なかった。お金というものが悪いのだ、と思った。

 二千万円貯めるのに二十年かかっている。竜道は、気の遠くなるような歳月に耐えられず、ミモザが応じないとなると、待てなくて、新しい女をつくったのかも知れない。今はもう、新しい女に夢中で、かたくななミモザを、捨て去ったのかもしれない。そう考えるとミモザの心は、もう一度竜道に会ってみたいと揺れるのだった。しかし竜道の妻は恐い。いや、竜道の妻だけが恐いのではなく、世の中の、妻と言う存在は全部恐いと思うのだった。

 今は、その上に陽一のことを考えなければならない。

出窓に、母の活けたドライフラワーが、静かにたたずんでいるのを見て、ミモザは、欲望は体の奥深くに静めて、ドライフラワーのように、枯れた花となって美しく生きていきたいと思うのだった。

 母が起きてきた。ミモザは母にも紅茶をいれた。

「お母さん、陽一が大学に戻らないって、河村さんが知らせに見えたということは、あちらの家に頼まれたから、来たのではないかしら? だって河村さんは、あちらへの義理立てからか、うちへはもう二年も見えなかったのだもの。迂闊に陽一のことをしゃべってみえるとは思わないわ。陽一は鬱病なんかじゃないわ。今朝、夢に現れた陽一は、普通の顔だったもの。陽一は我を通せない子だから、自分の本当の希望を言えないのよ。あの子は中学からずっと美術部で、県の賞をとったこともあったし、

絵のほうに進みたかったと思うの。進路を変えれば、元気になると思うのよ。河村さんにそれとなく陽一のことを私に知らせさせたのだとしたら、今、勲さんにお願いすれば、チャンスを作って下さるかもしれない。私、手紙を書いて河村さんにお願いしようと思うの」

「私もお父さんも、突然河村さんが見えたので、ひょっとしたら、あちらのお使いで見えたのかもしれないと、話していたのよ。ミモザの考えは正しいわ。陽一さんをなんとかしてあげなくっちゃ」

「幸い、今日はお休みだから、私の気持を書いて、河村さんの所に行ってみます」

 ミモザはパンと紅茶で簡単に朝食をすませて、自室にこもって手紙をかいた。

 勲様

  突然このようなお手紙を差し上げます事をお許しください。お姑さまはじめ勲様におかれましては、お変わりなくお過ごしの事と存じます。

  この度、河村さんから、陽一のことをお聞きしました。陽一は、大学を放棄して家に留まっているとのこと、わたしはとても心配になりました。家を出ましてから、陽一には携帯を数回かけましたが、わたしに会いたくないのか、いつも、受験勉強に忙しいと会ってもらえませんでした。あのようなかたちで、家を出たわたしが、陽一の成人した姿を一目見たいというのも、勲様にとりましては、虫が良すぎるとお思いになるでしょうが、わたしは陽一に会いたいのです。陽一に会い、詫び、陽一の今の気持を聞きたいのです。勿論、あなたさまにも、お姑さまにも、お詫びいたします。陽一はわたしから直接電話をかけましても、きっと以前と同じように断ると思います。どうか、あなたさまからお口添え願えませんでしょうか? 母ともいえない母でしょうが、どうか母に会ってやれと一言仰って下さいませんでしょうか。地に臥してお願いいたします。陽一の気持を思いますと、涙がとまらないのです。どうか、わたしを憐れんで、陽一に口添えしてやってください。じかにあなたさまにお願いするべきでしょうが、この度は河村さんに託するのをお許しください。切に切にお願い申しあげます。

              青山 ミモザ

 ミモザは手土産を買って、河村宅へと向かった。

  河村は、おそらくミモザの来訪を待っていたのだろう。ミモザは期待以上に快く迎え入れられた。

「ご住職様は陽一様が鬱病になられたと思って、ひどくお悩みです。今ならあなたのお望みが叶うかもしれません。早速このお手紙を持って、明日にでも行って参ります」

 ミモザは河村からの返事を待った。返事はなかなか来なかった。ミモザは、パートの仕事でも仕事があることによって、気を紛らわせる事ができた。それでも、待ちきれなくなって何度か河村に電話をかけた。まだ陽一が、「うん」といってくれないのだという返事がいつも返って来た。一ヵ月程して、ようやく、喫茶店で会うという返事が来た。

 その日、ミモザは陽一の母にふさわしい装いをと考えて、紺のスーツを着た。喫茶店では約束の時間を二十分過ぎて陽一が来た。陽一が現れたとき、まだ幼さが残る白い顔や細い首に、はっとなった。まだ成人しきっていない十八歳という年齢の危うさがミモザに迫ってきた。こんな息子を捨てて、罪なことをしたのだという思いが、胸を痛めた。

「陽一!」

と言って、ミモザは立ち上がって、いきなりハンカチを目頭に当てた。

 陽一はいきなり泣き出したミモザから目をそらした。それでも、陽一は母の前に坐った。ミモザも腰をかけたが、いつまでもハンカチを目に当てていた。

 漸く涙を拭くと、

「陽一さん、私のした事を、お詫びします」

と、まず詫びた。ミモザはもどかしかった。何故こんなに他人行儀な言葉が出るのだろうと、自分でも理解できなかった。陽一を目の前にしてこんなに嬉しいのに、何故それを一番に表せないのかと、もどかしかった。陽一!と言って抱きかかえたいのに、それが出来ない。せめて手だけでも、握り締める事はできないのだろうか?

 ミモザにはいつも遠慮がついてまわった。陽一はお姑が大切にしている跡取りである。自分の息子でありながら、いつも陽一には遠慮があった。激情がすぎると、呼び方も陽一!ではなく、陽一さんと一目置くようになってしまうのだった。

「おばあちゃまは、お変わりなく?」

とミモザは聞いた。

「元気にしている」

と、陽一は答えたが、後は無言だった。

「お父様も?」

と、ミモザは接ぎ穂を失って聞いた。

「うん」

と、陽一は言った。

「陽一さんも元気そうで、安心したわ」

と、ミモザは陽一の気を引き立てようと思って言った。陽一は無言で俯いていた。ミモザは慌てて、

「この前、陶板の絵で、ゲルニカっていうのを見たのよ。確か陽一さんが中学生のとき、実物を見たいって感激してたものでなかったかしら? この頃絵は描いている?」

と話した。

「描いていない」

と、ぶっきらぼうに陽一は答えた。

「その絵をみていると、お母さんもスペインに行きたくなったの。今、お母さんはコンビニで働いていて、少ないけどお給料をもらえるのよ。来年の春には、貯金も貯まるから、陽一さん、お母さんを案内して一緒にスペインに行ってくれないかしら? お母さんは陽一さんに悪い事をしたと、いつも心で謝っていました。いつも会いたくて・・・」

 ミモザはまたハンカチで目頭をおさえた。

「いまさら」

と、陽一の言う声が聞えた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」とミモザは頭を下げていった。

「今日はおばあさまを歯医者に連れて行く日なので、時間がきたので帰ります」

と、陽一は立ち上がった。

「おばあさまが、歯がいけないの?」

「いや、大した事はなく、入れ歯が歯茎にあたって痛いだけです」

陽一はもう帰る方に心が向いているようだった。ミモザは慌てて、

「お願いです。また、会ってね。スペインに案内してね」

と、すがるように言った。

 まだ、幼さが残る我が子にも、確としたことが言えない自分がなさけなかった。小さい時から息子の方が地位が上で、自分は息子をあがめるような風になってしまった。手をあげたこともなかった。愛は心の中にあふれていたのに、表現は出来ずじまいだった。お姑さんの溺愛に、一歩身を引いてしまった。愛情を剥き出しにするのが、憚られた。それが今日も出ている。ミモザは不安定な年ごろだと、息子の後姿を見送りながら、もっと小さかった息子に痛手を与えた自分の行ないを、罪深いものだったと、心の中で謝罪するのだった。

 ミモザはまた、勲に向けた手紙を書いて河村に託し、スペイン旅行の事を頼んだ。母親としての直感から、陽一は鬱病ではないと思うこと、その根拠は、祖母を積極的にサポートしようとしていることだと書いた。差し出がましい事だけれども、今、陽一が落ち込んでいるスランプから立ち上がるためには、陽一の好きな絵の道を歩ませる事ではないかとも書いた。

 結果は意外にも早くもたらされた。陽一も同意して十一月末からスペインに出かける事になった。そうなるには、勲と姑の力が大きかったと河村は語った。勲も姑も反抗期一つなかった陽一の突然の変貌に心を痛め、どうにかして引きこもりから立ち直らせたいと、必死だ。勲も姑も、ミモザを許してはいないが、陽一が母の力で立ち直れるのならば、陽一のために私情を抑えなければならないと思っているようだと語った。

「たったひとつ陽一様が条件を出しておられます」

と、河村は言った。

「どんな事なのでしょう」

と、ミモザは条件を計りかねて、不安そうに聞いた。

「お母さまと、お部屋は別にしたいと」

「はあ・・・、勿論そのようにしてください」

と、ミモザは不意をつかれて動揺して答えた。

 ミモザは河村からの帰り道の電車の中、陽一の言った言葉が頭の中一杯に広がり、周りのことはいっさい目に入らなかった。家にたどりついては、自室に入り、洋服も着替えないでベッドに腰掛けたまま、動けなかった。

 自分は漠然と陽一と旅行に行くとだけ考えていたのだけれども、陽一の方はデティールを、忖度していたのだ。自分は、「母と子」という世間でいわれる通常の見方で、ぼんやりと親子の関係を考えていたのだけれど、陽一は、自分をけがれた女と見ているのではないだろうか? けがれた肉体を持った女。それは理想の母親の正反対のものに違いない。理想の母親は、肉体を持たない精神性だけの存在でなければならない。勲と私が、精神も肉体も満足しあえる関係であったなら、陽一の前では、肉体性をカモフラージュし、口を拭い、肉体的な面は見せず、精神性だけの母として振舞えたのだ。勲と私の亀裂の割れ目から、陽一は、私の肉体を意識せざるを得なくなったのだ。その肉体から遠ざかる。けがれた肉体を見たくない。それが、陽一のたった一つの条件となってあらわれたのだ。

 夫との生活がうまくいっていれば、こんな苦しみは味わわなくてすんだのに、それが許されない運命にあったのだと思って、涙ぐんだ。陽一が、自分の母が、自分の父以外の竜道の子をはらんだと知ったら、どんなに母を軽蔑するだろうかと、陽一の目にはもう母は薄汚れたものと映っていたのに、取り繕いたい思いもあって、おろしてしまった、その心の軽薄さが、情けなかった。でも、矢張り、そのことを知らずに陽一がいることは、よかったと思うのだった。

 竜道と泊まり歩いた以外、国内旅行もほとんど行ってないミモザは、初めての海外旅行なので、仕事の合間を縫ってパスポートを取りに行った。

 いよいよその日、集合時間に陽一は一人で来た。初めての関空で、心細くきょろきょろあたりを見回していたミモザの目に、なにか懐かしい人影が写った。我が子だった。陽一だった。

「陽一さん!」

と、ミモザは伸び上がって、細っそりとした手のひらで、陽一を招いた。陽一は近づいてきて、ミモザのわきにリュックを下ろすと無言で立っていた。

 ツァーは二十名くらい、ざわつく空港の中で、添乗員の説明に必死で耳を傾けた。ミモザと陽一とは苗字もちがい、申し込みも別々なので誰も親子と思っていない。機内の席もばらばらで、ミモザは通路をはさんで、斜め後から陽一を見た。鼻の線から顎の線まで、姑に似て申し分のない整い方だった。まだ大人になりきっていない柔かさがその線からも感じられる。ミモザは何を言っていいかわからないけれども、何かを話し掛けてみたかった。だが陽一はアイマスクをつけて、背もたれにもたれかかって、ミモザを寄せ付けない風情だった。

 ミラノで乗り継ぎのため飛行機を降りるとき、同じツァーの中の、陽一よりも三つ四つ年上に見える女の子が、荷物を降ろしにくそうにしていた。その子は友達と二人で来ていたが、少し体が不自由に見えた。背の高い陽一は、自分の荷物を降ろすついでに、その子の荷物を降ろしてあげていた。ミモザは陽一の身体の成長ぶりや、心の優しい子に成長している姿を、満足して眺めていた。だが、陽一はミモザの方に目をやらず、ミモザの荷物も降ろしてはくれなかった。そして、手足が少し不自由な娘のために、なにくれとなく気を使っている様子を、ミモザに見せつけるのだった。ミモザには、それが、母を寄せ付けないための行動と思えるのだった。

 以前に喫茶店で会った時も、「どうして、大学に行かないの?」と、ストレートに大学に行かない理由を聞きたかったのだが、余りにも早く陽一が席を立ってしまったので、聞くことができなかった。今度の旅行でも、この様子では、聞けそうにないと思ったけれど、聞けなくても、陽一が「ゲルニカ」を見て、何かを感じてくれればいいと思った。女の子に親切にしている様子から見て、陽一は、父親が考えているような鬱病ではないとますます確信して、心が明るくなっていった。

 飛行機は、ミラノを飛び立ち、マドリードに着いた。宿泊地のウエスティン・パラスホテルに入ったとき、ミモザは、ロビーに立ってドーム型の屋根を見上げ、ステンドガラスの美しさにうっとりとなった。竜道と日本で泊まったどのホテルも、これに比べると、みすぼらしいものだった。もしもここに竜道と来ていたら、竜道は自分を美しいとは言ってくれなかったのではないかとミモザは思った。この荘厳な美しさのもとでは、二人の愛の行為は余りにもちゃちだ。二千万円で崩れ落ちるような愛は、あの日本の薄っぺらなホテルでこそ、成り立ち得たのだ。もしここであのような行為を行うとしたら、神にも通ずるような愛でなければならない。

 ミモザがそんな思いにふけっていると、陽一がキーを貰うようにと注意した。ミモザは顔を赤らめた。さっきまで陽一のことを思っていたのに、ふっと陽一の存在が頭からずり落ちていた。

「陽一さんのお部屋は何階? あら、お母さんと同じね」

と、ミモザが言うと、

「お母さんと言わないで下さい」

と、陽一は冷たく言った。

 この子は母親と訣別するために来たのだとミモザは直感した。そう思うと、腰がひけた。

 翌日、ガイドに案内されてプラド美術館に行ったとき、ゴヤの『我が子を食うサトゥルヌス』の前で、陽一は食い入るように見ていた。ミモザは他の絵を見ているような振りをしながら、陽一を視野の中に納めていた。多分陽一も自分と同じように、この母と『サトゥルヌス』を重ねて見ているに違いない。ミモザは、陽一が早くその絵から立ち去ってくれるといいと思ったが、陽一はなかなか離れなかった。

 午後の自由時間は、『ゲルニカ』を見に行くことにしていた。ミモザは二人きりになれるチャンスだと思い、何処かカフェでゆっくり話し合いたいと思っていた。ところが、陽一は二人の若い女性を誘っていた。思いつめたような顔をして必死で二人を誘っている。女性を誘うなどということは不得手だが、ミモザと二人きりになりたくないばかりに、一生懸命だということがうかがえた。街角のタクシーに二人を押し込むと、陽一は後部座席に二人と一緒に坐わり、ミモザだけが助手席に坐った。

四人は『ゲルニカ』の絵のある『国立ソフィア王妃芸術センター』の正面で、タクシーを降りた。そこには驚くほどあっけらかんとした空間があった。花や樹の植物は全然なく、コンクリートで固められた玄関前広場があった。建物の正面の左右に、二基、ガラス張りのエレベーターが取り付けられていて、エレベーターが上り下りしているのが、外からすけすけで見えていた。それがいかにも現代アートの美術館らしかった。陽一は二人の娘と肩を並べて、ミモザを置き去りにして先へ先へと歩いていく。陽一のジーンズ姿と、娘たちの今風の装いが、現代アートの美術館とよくマッチしていた。ミモザは、母として自信を持って陽一に接したいと思ったが、陽一の肩のあたりから、後にいる自分を拒否している空気を感じ取り、馴れ馴れしい態度がとれなくなってしまう。わざと陽気に振舞って、二人を笑わせているとしか思われない陽一のあとについて、ミモザも玄関に入っていった。陽一は長い間「ゲルニカ」の絵の前に留まっていた。ミモザと二人の娘は、先にカフェに行って紅茶を飲んで待っていた。少し体の不自由な子が、

「本間さんには、荷物を持って貰ったり、お世話になっています。おばさまの荷物を持たないで、悪いわ。最初、親子かしらと思っていたのですけど、名前が違うし、叔母様だと聞いて納得しましたわ。どこか、似てますね」

と言う。

 ミモザは叔母にされていることに驚いていた。しどろもどろになって会話を続けているうちに、陽一が入って来た。

 夜、「エル・コルテ・イングレス」デパートに見物に出かけた時も、四人が一緒だった。溢れんばかりに積み上げられている商品に目をみはり、娘たちが皮のバッグを買って外に出てみると、デパートの前は、夜の八時だというのに、人で溢れかえっていた。大人だけでなく子供も親に連れられて出てきている。折りしもデパートの大きなからくり時計が時を刻み、ミモザは中から飛び出してくる人形たちに見とれていた。その間に三人はどこかに行ってしまって、気がついたらミモザはみんなとはぐれていた。ホテルに帰る道も知らないとパニックになって、あちこち三人を捜して真っ青になっていると、陽一が戻ってきてミモザを見つけ出し、二人の居るところに連れて行ってくれた。陽一も相当あわてたような顔つきだった。自分を心配してくれたと思うだけで、ミモザは嬉しかった。陽一と自分の距離が少し縮まったと思ったのだが、翌日トレドに行ったときには、やはりミモザに近づかなかった。

 ミモザは話し合うことはあきらめ、陽一の姿を見るだけでも幸せなのだと、頭を切り替えた。

 明日は朝早く帰国の飛行機に乗るという前夜、ミモザは思い切って陽一をホテルのカフェに誘った。ようやく二人きりになれたミモザは、

「陽一さん、ずっとお話したかったのだけど、陽一さんは美術の道に進んだ方がいいと思うのだけど」

と、切り出した。陽一は、二人の娘を相手にしていたときの陽気さと打って変わって、顔をしかめて、返事をせずコーヒーを飲むばかりだった。ミモザは、慌ててつけ加えた。

「家を出たわたしが、何も言う資格はないと思っているけど・・・。陽一さんが進路を決める大切な時に、あんなふうに家を出て、そのことはずっと咎めていました。ごめんなさい。謝ります。許して下さい」

「僕は許せない。高二の僕を捨てて、あんたは男と家を出た。そのあと、おばあ様はひどい胃潰瘍になったのを、あんたは知っているのですか?」

「いいえ」

「おばあ様は吐血して、生きる死ぬの苦しみをしたのです。それもこれも、あんたが男と駆け落ちをして、おばあ様の世間体を台無しにしたからです。僕も学校でどれだけの噂に悩んだか。休まずに必死の思いで卒業したのです。お父さんは一番気の毒でした。どんな思いで檀家でお勤めをしたか、考えた事がありますか? 僕はあんたを許すどころか、あんたと一生縁を切るということを直接言う為に、旅行に来たのです」

 ミモザは急に流れ出る涙を手でおさえて、

「ああ」

と、溜息をついた。

 陽一はそれ以上何も言わなかった。ミモザは仕方なく、

「明日朝早いから、もう部屋に帰りましょう」

と言って、陽一と別れた。

 関空に着いたとき、

「元気でね」

と言って陽一と別れた。陽一が歩いて行ったさきに、ちらりと、勲と姑の姿が見えた。あっ、お元気そうだと、姑のことを思って、急いで後ろを向いて去った。

 ミモザは陽一に許すと言ってもらいたいという、甘い期待を断ち切られて、おろしてしまった子供の歳を数えていたりする。今頃はよちよち歩きで、抱き上げればもうずっしりと重くなっていて、どんなにか生きる支えになっていたことだろう。顔は竜道に似て女の子でも男の子でも愛くるしい。母のあとを追ってよちよちついて来る。ミモザの乳房は痛みを覚えた。

 毎日コンビニで働いていても、だんだんとむなしさがつのって来る。老後のために働いては貯め、働いては貯めする生活が、味気なく感じられ始めた。

 そんなある日、竜道がコンビニに訪ねてきた。商品をチェックしているミモザの横に客然として立って、小声で、

「あがりは何時」

と聞いてきた。驚きのあまり反射的に

「六時」と言ってしまった。

「いつもの所で待ってるよ」

と言って竜道は出て行った。

 二年間、竜道以上の人は出てこなかった。妻帯者はこりごりなので、シングルで結婚できる人をと思っていたせいか、いい人に巡り合えなかった。竜道が離婚をして迎えにきてくれるとは、考えられなかったので、いい人と巡り合えるのを待っていた。枯れた花となって欲望を押し殺して生きていこうと決心したが、竜道に性の良さを教え込まれた後では、それはあまりにもつらいことだった。竜道の突然の出現に、ミモザの乳房は震え、子宮が痙攣した。

 竜道の出現には、散臭さがつきまとう。でも、でも、万に一つ、障害をクリアして、来てくださったのだとしたら・・・。

 ミモザは震えながら、ホテルの中の喫茶店に行った。

「久しぶりだなあ、ミモザ」

竜道は容姿も、口調も全然変っていなかった。懐かしさがこみ上げてきた。

「二年ぶりだよね。昔のPTAの沢山さんが、ここで見かけたと教えてくれたんだよ。会いたくて飛んできたよ」

「奥様はお変わりなく」

「いや、あんな者のことは取るにも足りない。二年間おとなしくしていたから、信用抜群だ。今日二人で焼肉でも食べに行かないか?」

 そうだ、焼肉なんて久しく食べていない。ビールを飲んで、二人で焼肉を食べて・・・。それから、・・・。

 それは恐ろしい誘惑だった。ミモザはその誘惑と戦うのに必死だった。ついて行きたい! もう一度竜道の愛を受け、体の深部に綺麗な花を咲かせてみたい。そしてぐったりとなって、竜道にしがみつき何度でも竜道に愛撫され続けたい!

 でも、ミモザは竜道に「ノー」と答えた。勇気を奮い立たせて「ノー」と言った。

 竜道はしつこく誘ったが、あきらめて帰って行った。

 その夜ミモザは泣き通した。竜道の生(なま)の姿を目にして、懐かしさが溢れ出て来る。このあとの人生、竜道以上に、自分を優しく愛撫してくれる人は現れて来ないように思う。竜道の事を思い、悶えながらむなしく日々を生きるよりも、いっそ、竜道の希望を受け入れて、妾のように竜道の訪れを待つ日々を送ったほうがよかったのではないかと思ったりする。

 だが一方で、竜道の妻は怖い。その妻に竜道がしがみついていることを思うと、「ノー」と言うより仕方がなかったのだと思う。

 そう思う傍らから、竜道と一緒に旅した一週間の思い出が、沸々と沸き上がり、禁じられた旅をもう一度してみたいと、切なく、声を忍んで泣き通すのだった。

              「完」  

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