その六

 充路には分からないが、伊織には羽麻が逃げた方向が分かるのだろう。動きに迷いがなかった。そして、充路が己で走るよりもずっと速い。こんなに速く走れたのかと、自分で驚くほど。

 だが、驚くほど速く走るせいで、喋ると舌を噛みそうだった。

 猫のように走る小さな影が、闇夜にあった。撒こうとしているのか、何度も角を曲がる。しかし、曲がる度に羽麻との距離は詰まっていく。

 追われる羽麻が振り返る。充路との距離を確かめると、その先の角でまた曲がった。

 この角を曲がればいよいよ追いつくだろうか――。

 充路を操る伊織は、強く地面を蹴って、最短の距離で角を曲がる。その曲がったすぐのところに、羽麻が伏せて待ち構えていた。

「しまった――!」

 と思ったのは、充路だけだ。伊織からは焦る感情が微塵も伝わってこず、走る勢いを利用して、飛びかかってくる羽麻に蹴りを放つ。

 羽麻は、すんでのところで充路の足を避けた。しかし姿勢が崩れたために着地は上手くいかず、小さな体が地面を転がる。

「伊織様、なんてことを!」

 蹴りは当たりこそしなかったものの、充路は悲鳴を上げていた。しかし、伊織は少しもその動きを止めることなく、地面に転げた羽麻を追いかける。

 羽麻も、すぐに起き上がった。しかし今度はこちらには向かわず、近くの建物に飛びついた。

 屋根に上がって逃げるつもりだろう。だが、伊織がそれを許すはずがない。走りながら、伊織は刀を振りかぶった。

 その刃は、白い光に包まれていた。物の怪に刃はきかないが、呪力をまとわせた刃なら、物の怪の体に届く。白い光は、伊織が持つ呪力の色だった。

「やめ――」

 充路が言い終わる前に、庇を掴もうとしていた羽麻の腕に、白い刃が届く。どす黒い血が噴き出し、羽麻が悲鳴を上げて地面に転がり落ちた。

「伊織様、やめてください――!」

 充路の口は叫んでいたが、体は勝手に動いていく。起き上がろうとする羽麻の喉を、伊織はいっさいのためらいなく切り裂いた。

「お羽麻……」

 仰向けに倒れたまま、羽麻は動かない。閉じた目からは、また涙が流れていた。

 喉と手の回りには、どす黒い血が広がっていく。

「お羽麻!」

 充路は羽麻の体を抱き上げた。頼りないほど軽い。自分の意志で動けるようになっていたが、充路はそれに気付かず、羽麻の喉元に指先を当てた。

「……生き、てる……?」

 指先に、確かな拍動を感じる。肌は温かく、冷たくなりそうにもない。

 よく見れば、切られたはずの喉にも腕にも、傷跡はない。地面に広がっていたどす黒い血は、煙のように消えていくところだった。

 倒された物の怪が消えていく時と同じだ。

「伊織様、これは……?」

――その娘は物の怪に憑かれていた。だが、もう大丈夫だ。

「……物の怪だけを、斬ったんですか?」

――そうだ。

 羽麻を抱きしめたまま、充路は地面にへたり込んだ。そうならそうと先に言ってくれれば良かったのに、と恨めしく思う。羽麻が逃げていったから、説明する余裕などなかっただろうが。

――食糧だけを狙っていたというから、おそらく、死んだ弟が餓鬼となり取り憑いたのだろう。

「……」

 小さな体を、ますますぎゅっと抱きしめる。物の怪を退治できたのは良かったが、なんともやるせない。

――いつまでそのままでいるつもりだ。早く宿に戻れ。傷の手当てもしろ。

「はい……」

 伊織に操られている間は感じなかったが、腕も足も、かなり痛い。血もまだ止まっていなかった。羽麻よりもよほど重傷である。

 痛みで、大事なことも思い出した。

「あの、伊織様。今回の試験……」

 羽麻だった物の怪を倒せないと喚いて、伊織に体を操られるという情けなさだった。これ以上は『巣』として役立たないと判定されてもおかしくない。

 伊織からなかなか返事がないので、不安になる。

 こんなところで、終わりたくはない。そう思った時だった。

――人に憑いた物の怪だけを斬るのは、充路にはまだ無理だ。今回は見逃してやる。

「……ありがとうございます」

 今度は、いつまで待っても伊織からの返事はなかった。これ以上はもう必要ないと判断したのだろう。

 だが、もう不安はなかった。

 怪我をした足で宿までずいぶんと歩かなければならないが、背負った羽麻の重さと温もりが、心強かった。

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巣と糸 永坂暖日 @nagasaka_danpi

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