その五

 今夜は月明かりがある。その上夜回りをしていたから、充路の目はすっかり夜に慣れていた。

 聞いた通り、すさまじい形相だった。それでも、夕刻にも見たばかりの顔を忘れようもない。わずかながら、羽麻の面影があった。

 元気よく返事をしていた口は、その倍ほどにも広がって、うなり声を吐いている。盆を運んでいたかわいらしい指先に、長く伸びた爪が生えている。

 羽麻からは、彼女が抱えているであろう肉親を失った悲しみと同様に、物の怪の気配をまったく感じなかった。

 それとも、あれは羽麻によく似た物の怪なのか。餓鬼の一種だろうか。

 しかしならば何故、羽麻と同じ柄の着物をまとっている――。

 物の怪がきびすを返し、充路に向かって突進してきた。屋根を走っていた時よりも速い。充路のいる屋根に飛び移り、大きく上に飛ぶ。

 充路を飛び越えて逃げるつもりかと思ったが、そうではなかった。大きく口を開け、長い爪が生えた手を振りかぶり、上から降ってくる。

 ここは切り妻の屋根だ。どちらに飛んでも、多分屋根から転げ落ちる。腕で頭をかばいつつ後ろに飛んだが、その判断はわずかに遅かった。

「うっ」

 腕に鋭い痛みが走る。その傷を確かめる暇はなかった。充路の足下に着地した物の怪は、彼の右足をしっかりと抱えて、その歯を突き立てた。

 充路は痛みに声を上げながら、腰に差していた刀を抜いた。物の怪に突き立てようとするが、物の怪が、充路の足に食らいついたまま、彼を見上げる。

 その目から、涙が流れていた。

 急に金縛りにあったように、充路の手が止まる。宿では感じさせなかった羽麻の悲しみを、見てしまった気がした。

――充路、何をしている。

 頭の中に覚えのある声が響く。感情を抑えたいつもの口調だが、わずかに苛立ちと怒りが滲んでいた。

「伊織様……」

 羽麻が充路から離れ、背を向けると、屋根から飛び降りた。

――何をしている、充路。さっさと追え。取り逃がすぞ。

『糸』を通して、伊織は充路の行動を見ているに違いない。

 今回の物の怪退治は、充路がこれからも彼女の『巣』でいられるかどうかの試験でもある。

 だが。

「できません……」

――足をやられたからか?

「……あれはお羽麻です。伊織様も『糸』を通して知っているでしょう。俺が泊まっている宿の」

――なるほど。つまり、明日の朝、あの娘がお前に朝餉を運んできたところでしとめるつもりか。

「そんなこと、できるわけがない!」

――ならば、今すぐに追え。

「できない……お羽麻を倒すなんて、俺には」

 どうして羽麻が物の怪なのか、充路には分からない。分からないが、いつでも元気な声と笑顔を充路に向けてくる少女を倒すなど、できそうになかった。

 伊織のため息が聞こえた気がした。

――分かった。わたしがやる。

「え?」

 無事な方の足で、充路は立ち上がった。だが、彼が自分の意志で立ったのではない。足は勝手に動き、羽麻が逃げた方へ、屋根から飛び降りる。着地すると同時に、走り出した。これもまた、充路の意志ではない。体は、彼の意志とは関係なしに、勝手に動いていた。腕も足も、さっきまであった痛みは感じない。自分の体なのに、自分の体ではなくなってしまったようだった。

「伊織様、何を!?」

 充路は今、伊織に操られているのだ。前にもやられたことがある。自由になるのは喋ることくらいだ。

『糸』を通して意志疎通するだけでなく、伊織は充路を操ることさえできる。その逆は、もちろんできない。

――決まっている。あの物の怪を倒す。

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