その四

「お帰りなさい。今夜もお食事は早めですか?」

 暖簾をくぐると、番台と羽麻が出迎えてくれた。昨日も、食事を他の客より早めに出してくれと頼んだのだ。

「はい。お願いします」

「あと少しでご用意できるので、部屋でお待ちください。――羽麻」

「はい! すぐにお持ちしますね!」

 羽麻は元気よく返事をし、奥へ消えていった。

「元気な子ですね」

「よく働いてくれてますよ。夏に弟を亡くしたばかりなのに……健気なもんです」

「この前の夏に、ですか?」

「ええ。羽麻は近くの農村から奉公に来てまして。この夏は日照りが続いたでしょう。水も食糧も足りない上に暑さにやられて……」

「そうですか……」

 羽麻の弟ならば、彼女よりさらに幼い。

 家族のことを思うと、充路の胸はまだまだ痛む。気を抜いたら涙が滲む。

 夏に弟を亡くしたばかりで悲しいだろうに、それを感じさせない羽麻の姿は哀れなほど健気で、充路の方が泣きたくなった。


 夕飯時のにぎやかさはなりを潜め、今はもうすっかり静かになっていた。通りの表に出ても、店先の行灯は軒並み火が消えている。人の姿もない。

 誰もが眠りにつく頃合いだ。こんな時間にうろうろしているのは、件の物の怪と、本物の盗賊くらいだろう。

 物の怪は、数日に一度、岩飛宿のどこかに現れる。聞き込みをして集めた情報では、出没に周期性や特徴は見られなかった。強いて言えば、食糧がたくさんありそうな店や家を狙っているようだ。なので、岩飛宿の中心部付近を重点的に巡回する。

 青物問屋では、屋根近くのわずかな隙間から逃げていったという。他のところにも、似たような場所から忍び込んだのだろう。

 そう思って屋根の上に視線を向けた時、月を背に負う小さな影を見た。

 息を呑む。それは確かに、子供ほどの大きさだった。細い手足で、まるで猫のように屋根の上を走っていく。着物をまとっているようで、その裾を翻しながら。

 充路は地面を蹴って、屋根をゆく影を追った。あれが物の怪に違いない。どこかに忍び込んだあとか、これから忍び込むところか。

 足音はほとんど聞こえなかった。本当に猫みたいだ。だが、猫ほど速くはない。充路の足でも十分に付いていける。向こうはまだ充路に気付いていないようだ。気付かれる前にもっと近付いて、一人でしとめたい。

 物の怪にふつうの刃は通じない。火もきかない。倒すには、呪力をもってするしかない。

 伊織の『巣』となって半年。『巣』となることで伊織と『糸』で繋がり、彼女が持つ呪力を充路もほんの少しだけ使える。修行を積めばもっと強い力を行使できるようになるが、今は、たとえば食糧を盗む小さな物の怪を、やっと一人で倒せるかどうか、という程度だ。

 今までは伊織と共に退治してきた。今回初めて、一人で立ち向かうのである。

 これは試験でもあった。この先、成長の見込みがあるかどうか見極めるための。見込みがない者にいつまでも『巣』をやらせるつもりはない、と出会った夜に伊織は告げた。

 彼女に示すのだ。物の怪を倒してやる、というやる気だけではないことを。これからもっと強くなれるのだ、と。

 物の怪はまだ屋根を走っている。充路は角に積み上げられていた、消火用の桶を踏み台に屋根に駆け上った。

 物の怪が充路の気配に気付いて振り返る。物の怪は隣家の上だが、すぐに詰められる。駆け出そうとした足は、しかし屋根に縫い止められた。

「お――羽麻……?」

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