その三
岩飛宿に物の怪が出没するようになったのは三月ほど前。日照り続きだった夏がようやく終わり、秋の気配が漂い始めた頃だという。
はじめのうちは、物盗りだと思われていた。というのも、狙われたのが野菜や米、ぬか漬けや干物などの、食べ物ばかり。商店の売り物や、民家の台所が夜中に荒らされた。盗人はその場で食べるらしく、しかし食い意地が張っているようで、食べ残しはわずかだった。
しっかりと戸締まりしても、どこかから忍び込まれる。夏の日照りのせいで食糧不足となっていたから、岩飛宿の町人役人は、なんとしても不届き千万な盗人を捕まえてやると躍起になっていた。
ある晩、とある青物問屋の主人が、皆が寝入っているはずの夜更けに妙な気配を感じ、目を覚ました。もしや件の盗人かと疑い、息子を静かに起こして、二人で台所に様子を見に行った。
そこで二人が見たのは、小さな影だった。子供くらいの大きさ。盗人は飢えた子供だったのか。しかし子供といえど、盗みは盗み。しかるべきところに突き出さなければ、その子の将来のためにもなるまい。無言で頷き合った親子は、子供を捕まえようとしたが、それより一瞬早く、相手に気付かれた。
ちょうどその時、雲に切れ間があったのか、月の光が射し込んで、盗人を照らし出した。
親子が見たのは、飢えた子供ではなかった。
口の端は頬の中程まであり、その中には明らかに人間よりもたくさんの歯がずらりと並んでいた。見開いた目は血走り、顔中の血管が浮き出て波打っていた。すさまじい形相であった。もうほとんど残っていない胡瓜を掴む手には鋭い爪が生えていた。
月明かりが差し込み、親子が悲鳴を上げるまでは、実際にはほんの一瞬だっただろう。悲鳴が途切れる前に、盗人――いや、異形の化け物は、壁を這って、月明かりが射し込む隙間からするりと逃げていった。
盗人の正体が化け物だったという話は岩飛宿に瞬く間に広がり、捕まえようと躍起になっていた人々は怖じ気付いた。役人は、人に害が及んでいないのなら化け物退治は自分たちの領分ではない、と手を引いた。
物の怪退治屋に討伐を依頼しようにも、大事な食べ物とはいえ一軒当たりの被害はたかがしれていて、退治屋に報酬を支払う方が高く付く。仲間内で金を集めて退治屋を呼ぼう、という話は岩飛宿のどこからも上がらず、被害に遭った者は運が悪かったと諦めた。
かくして、食料を狙う化け物がいると知りながら、岩飛宿は積極的に動かなくなってしまった。
聞いて回った話を統合すると、そういうことだった。
姿形は物の怪に違いない。充路の通行手形に物の怪退治屋と書かれてからまだ半年ほどだが、食糧だけを狙う物の怪というのは聞いたことがない。
物の怪は、人を襲うものではないのか。人を食らうものではないのか。己の村に現れた物の怪が、人を襲うものでなければどんなに良かったか――。
気が付けば、奥歯を強く噛みしめていた。
詮無い考えだ。今は、岩飛宿に現れる物の怪をどうにかしなければならない。食糧を奪われるのだって、十分な被害だ。
伊織の他の『巣』からの情報によると、件の物の怪が現れるのは岩飛宿の中だけ。宿場町周辺の村や、よその地域には現れていない。
これから現れるようになるのか、岩飛宿の中に留まり続けるのかは分からない。とにかく早く手を打つことだ。
物の怪は人を襲い、人の体を喰らい、心を喰らい、魂を喰らう。およそ放っておける存在ではない。
だが――充路は周囲を見回した。一日中聞き込みをして回り、空はもう茜色に染まっていた。岩飛宿の、特に宿屋の周辺はこれからますます活気づく時間が訪れる。
物の怪が人を襲うのは、人を好むからだ。一方で、奴らは闇も好む。闇に潜み、闇から現れる。人を好むが、宿場町のように夜遅くまで明るい場所は好まない。
なのに何故岩飛宿の中にだけ出没するのか。伊織に尋ねたいところだが、彼女と対面で会話するような意志疎通は、まだ無理だ。
充路にできるのは夜回りである。それに備えて、いったん宿に引き上げることにした。
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