わさび

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わさび

 乳白色の霧が眼下の空港を覆っている。羽田を立って一時間半、愛を乗せた全日空機は、グングンと高度を下げ、ふるさと北海道東にある湿原で姿を現した滑走路に滑らかに着陸した。

「お帰り、あ・い!」

 到着ゲートで、小学校時代からの幼馴染み、沙織が迎える。

「沙織、元気だね」

「愛も、とてもきれい。その髪は、どういう髪型なの」

「アラサーに流行っているの、顎下ボブだけど、沙織のフェアリーウェーブのロングには負けるな。王女様みたい」

「なに、いっているの。赤い革ジャンに、黒い革パンツかあ。決まっているね」

「派手かなあ」

「ゼンゼ~ン、派手じゃないよ。こっちは夏だって気温は今、十五度なんだから」

「結婚式の準備は整ったの?」

「まあね。残り三日。もともとは、健太と結婚する予定が、別の彼とね。人生、複雑よ」

「なにを今さら」

「やっぱ、愛と呼ぶしかないね」

 愛は高校を卒業するまで健太だった。沙織は小学生時代から幼馴染みの健太から自分は女性だとトランスジェンダーの悩みを告白されるまで、本当に恋人と思っていた。

「お母さん、待っているよ」

「あとでいいよ」

「何いってんの。愛の最大の理解者じゃないの。お父さんと違ってさ」

「まあ、そうだけど」

「さっ、車に乗ろう」

 沙織はさっさと足早に外に向かった。


 彼女の結婚式に出席するため広告企画制作会社のカメラマンの仕事を休み、ふるさとに戻った。高校を卒業して東京の写真専門学校に去って以来、十年ぶりだ。会社はLGBTQに理解があり、愛を入社以来、女性として処遇してくれる。同僚たちにも、愛は違和感を感じていない。

 しかし、この港町で老舗の寿司店「魚壱うおいち」を経営する父は絶対に愛の生き方を許さなかった。兄も父に同調した。ただ、母と妹は愛の味方だった。

 駅前の横丁にある小料理店で、母は屈託なく笑った。

「愛みたいな美しい女性は沙織さん以外に、この町にはいないね」

 愛のことで結局、父と衝突し、あっさりと捨て去り、新たに経営した小料理店で、こうして子供を迎える。曽祖父が明治時代に、会津若松から移住した開拓者だったから、その激しやすい血を受け継いでいるのだろうと、沙織は自説をよく展開する。

 母はサッポロの黒ラベルの大瓶をカウンターに出し、三つのグラスに注いだ。

「じゃあ、まずは沙織さん、結婚、おめでとう。愛、お帰りなさい」

 三人はカンパイし、母と沙織は一気に飲み干した。愛は、ざっくばらんな二人に心温まった。二人を見ていると、高校二年生の、あの時がフラッシュバックするした。

 沙織の父は、大きな水産会社社長だ。健太は豪邸の玄関までの石畳を進んだ。オーク材で作った頑丈なドアを開け放ち、沙織は健太を招き入れた。二階の自室に上がる。高校生になってからは一度も彼女の部屋に入ったことはない。

 八畳の部屋は大きな窓から日が入り、室内全体がピンク色に染まっている。小中学生時代と変わらない。沙織は薄いピンク色に、赤く細かいイチゴ模様のカーテンをさっと閉めた。

「そこに座って」

 クローゼットの前にある白い木製の椅子を指差した。健太は俯いたまま黙って従う。

「こっち、見て」

 沙織の手に口紅があった。

「女性には、こういうものが必要なの。試す?」

 有無をいわさない調子だ。健太は混乱していた。突然、自宅に誘われ、化粧を強要されるとは、なんなのだ。

「これね、コーラルレッドという色のルージュなの。お母さんの、かすめ取っちゃった。するの、しないの」

「そういわれても」

「わたし、この一週間、苦しかった。とっても、と~っても。でもね、小さい時からずっと、健太を見て来て、ああ、そうなんだ、となんだか、ヘンに合点がいったの。確かに男性という感じ、しなかったよね。アハハハ」

「子供だったから」

「健太、辛いでしょう。ごめんね。わたしより、何十倍も苦しんでいるはずだよね。あれから、いろいろ調べたんだ。トランスジェンダーのこと。LGBТQのこと。学校の図書館には、あんまりそういう本はないから、市立図書館に行ったよ。このわたしが、だよ。ああ、前にあそこに行ったのはいつだったか、忘れちゃったぐらいなのに。恋したとか、愛したとか、青春ドラマの肉の細切れみたいな恋愛なんて、ゼ~ンゼン、問題じゃない。健太にとっては自分の生きる道の選択だからね。ずっと、こんなにずっと、一緒にいて、そのことを理解出来なくて、本当にごめんなさい。許してね、健太」

 沙織の目から大粒の涙がこぼれた。泣きじゃくる。健太は呆然としてどうしていいか分からない。両こぶしを固く握った。

「うん、それで泣いてばかりはいられない!わたしに出来ることは協力するよ。健太がカミングアウトするまで、絶対、だれにもいわない。ああ、これ」

 沙織は勉強机の上から一冊の本を手にした。聖書だ。

「お母さんはクリスチャンだからね。父さんは、近くのお寺の浄土真宗だけど。わたしは無宗教よ。でも、この聖書に手を乗せて誓います。健太を応援します。彼の意思に従い、口外しません」

「その口紅、つけてもいい?」

 恐る恐る、口にした。

「うん、任せて!」

 目の前に、沙織の優しい顔があった。澄んだ瞳、艶やかな頬、すっきりとした鼻筋、肉感のある唇、丸い顎。健太は、そっと目を閉じた。自分の唇にルージュが滑る。なんだろう、この未体験の感触。ルージュは少し冷たい。次第に唇に温かく溶け込む。

「こうするの」

 沙織は上唇と下唇を擦るように動かせた。

「そう、そうよ。ほら、きれいでしょう」

 丸い手鏡に健太の顔が映る。肌理の細かい白い肌に薄い産毛。コーラルレッドの鮮やかな唇。

「ぼく、似合うかな」

 沙織はゆっくりと力強く、うなずいた。


 港を望むホテルで旅装を解いた。三人でたった二本のビールでも、気兼ねのない母と親友に囲まれ、軽い酔いが心を満たした。シャワーを浴び、洗面台の前に立つと、水滴が滴る左頬から顎をそっと右手でなでた。

 高校二年の冬、父に殴られた。思いっ切りの強烈な一発だった。唇が切れ、血が飛んだ。母が間に割って入り、健太をかばった。女性として生きたい、とカミングアウトした。父は逆上し物もいわず、いきなり、こぶしを振り上げた。健太は、それを予期し目を閉じていた。

 それ以来、父とは話したことはない。魚壱を継ぐ兄はこの問題に決して触れようとはしなかった。妹は次兄の生き方を否定しなかった。ただ、家族が壊れることを心配していた。彼女は一昨年、結婚し今、妊娠七カ月だ。

 店の朝は早い。町の中心を流れる川の長い橋を渡り、活気づく魚河岸に父と若い職人が魚介の仕入れに行く。魚壱の寿司ランチは周囲の官公庁やビジネス街で人気があった。母は父と中学時代の先輩、後輩で二人はテニス部に所属していた。それが縁で二十代の初めに結婚した。父は家業の寿司店を継いだ。

 母は商業高校で簿記を習い、店の経理を仕切った。若い職人の世話も母の仕事だ。三人の子供を育て、父と共同で寿司店を営んだ。父は一途な職人で、寿司の仕込みと味に頑固なこだわりを持っていた。この町でサケはすしネタに出さない。あれは、凍ったルイベか、切り身で焼くか、鍋にするか、ミソと野菜でチャンチャン焼きにするか、そのどれかだと、父の信念だ。

 でも転勤者の多い公務員、ビジネスマンは、東京ではあぶりサーモンやらタマネギスライス載せサーモン、トロサーモンなど、回転寿司ネタで普通といい、店で注文することがしょっちゅうだった。これで父と客はぶつかる。かたくなな父を説得し、客に頭を下げるのは母の役目だ。客との間合いをバランスよくさばいた。

 健太がカミングアウトし、父に殴られた後、傷の手当をする母と話した。

「ぼくのこと、みんな、嫌いだよね」

「どうして、そう思うの?」

「男の子なのに、女の子になりたいぼくだから」

「健太、お母さんはね、そんなことずっと前から知っていたよ。健太がとても苦しんでいることも知っていたよ。でも、どうやって励ましていいか、分からなかった。初めての経験だもの」

「うん」

「正直に話そうか」

「うん」

「わたしが小学生の頃、友だちに大人たちからシスターボーイといわれた男の子がいたのよ。女の子っぽくて、遊びに行くと、母親の着物を着て踊るの。鏡台で紅もさしていたの。びっくりしたよ、そんな男の子、見たことなかったからね。海岸に遠足に行った時、鬼ごっこしたの、みんなで、年取った先生もよ、シスターボーイ、シスターボーイと囃し立てるの。お母さんは小さかったけれど、なんだか、とっても違和感があって、そんなことをみんなでいっちゃいけないと思ったの。でも、なにもいえず黙っていた。そのうち、その男の子は泣き出した。足元の小石を友だちに投げつけて泣きじゃくっていた。とても、かわいそうで見ていられなかった。どうして、こんな悲しい遠足になったんだろう、どうして仲良く遊べないのだろう。後でシスターボーイは古い頃から侮蔑と差別の言葉と知った。いじめの言葉と分かったの。もしかすると、健太もいじめられるかも知れない。お母さんは不安だったよ」

母はフッと寂しく笑った。

「お母さんのせいじゃないよ」

「健太を守れなくてごめんなさい」

「お母さんは謝る必要ない」

「ううん、親には親の責任があるの。その第一は、決して子供を傷つけてはならないこと。わたしが結婚する時、母の前で正座していわれたの。精神的にも肉体的にも、ね。でも、暴力を振るったお父さんをわたしも許せないけれど、今は時間が、それもきっと長い時間が必要なの。それだけは理解してあげてほしい。お母さんのお願いよ」

 母の頬に一筋の涙がこぼれた。母は、それを見せまいと顔をそむけた。母の大きな愛情を感じる一方で、父に対しては憤懣と怒り、失望と不安のアマルガムだった。結局、母も、そんな父に耐えられなかった。


 沙織と妹との約束の夕食時間が迫っていた。繁華街にあるイタリアン「クッチーナ ルーチェ」だ。イタリア語で「光り輝く食堂」という意味だ。

 寿司職人の父が和食の世界だけに閉じこもっていては伝統の味は守れない、敵を知ることが大切だ、と家族でたびたび、食事した。それも皮肉だ。父は世界に目を開いていたのに、トランスジェンダーの息子には目を閉じる。愛は、そのギャップを敢て埋めようとは思わない。理解出来ないのは仕方がないが、父の子であることは消しようがない。自分が自分であること、それを認めてほしい。

 スーツケースから出したデニムのパンツに、インナーのニットと同系色の淡いグレイのベルテッドコートを羽織ると、部屋を後にした。ルーチェはタクシーで五分ほどだ。

 イタリア中部地方の濃い赤味を帯びた土色、バーントシェンナの外壁、店先に赤、白、緑の小さなイタリア国旗を掲げている。格子ガラスの入ったドアを開けると、奥に二人の姿を見つけた。妹はマタニティドレスを着ている。

「お姉さん、お帰りなさい」

 妹は自然体だ。

「うん、元気そうで、なによりね」

「お腹、こんなに大きくなったの」

妹は両手でさする。

「触れてもいい?」

「もちろんよ」

 愛は右手で妹の膨らんだお腹にそっと手を添えた。温かい。脈動が感じられる。ああ、これが、いのち、なのだ。

「音を聴いてもいい?」

 妹は笑ってうなずいた。愛は右の耳をそっと当てた。規則正しい鼓動が伝わる。ああ、なんて素晴らしい、うれしい音色だ。

「女の子よ。彼女の了解を得ているので伝えます。あなたの姪ね」

 沙織がいたずらっぽい目を見せ、メニューを開いた。

「さっ、注文、注文」

 愛はフッと窓際のテーブル席に顔を向けた。若い夫婦と男女の幼い子供が二人の家族連れだ。三十代前半に見える夫の横顔にハッとした。

「どうしたの、愛」

 沙織が視線の先を一瞥した。

「ダメ! 見ない、見ない。これは、わたしの命令よ。放っておきなさい」

「どうかしたの?」

 妹はメニューから目を上げた。

「なんでもないの。お姉さんは過去の亡霊を引きずっているの。楽しい食事にコンセントレイト、集中!」

「そうだね。さあ、なににしようかな。ライスコロッケは、もちろんだよね。ローマ風サルティンボッカと、これなんか、どう」

 愛と沙織はメニューの料理をあれこれ、指差し、話題を急転換した。

「どうしたの、二人とも、ヘンなの」

 妹は腑に落ちない。

「やっぱり、バーニャカウダとラザニアは、必須でしょ」

 沙織はメニューから目を離さない。

「そうかなあ、トリッパのトマトソース煮は絶対ね」

 愛がメニューの写真を指差す。

「あのお、わたしはピザのマルゲリータが食べたいです」

 妹がおずおずと割って入った。

「ええっ、最初からマルゲリータ?」

 沙織と愛が同時に見下すような口調だ。

「悪いですか」

「それはないでしょ。妊婦には、もっと多様な栄養素が必要よ」

 沙織は一蹴した。

 高校二年の夏休み、健太は湿原の土木調査のアルバイトをした。測量用の三脚を持ち運び、支える仕事だ。自分のカメラを買うこと、東京の専門学校に進学すること、その資金を貯める。目標は定まっていた。

 そこで、地元の大学に通う、あの男と知り合った。好きになったのかな、と思った。初めての性体験だった。数日後、町で一番大きい書店前で、健太は三、四人の仲間と談笑している彼とすれ違った。

「あれ、あの高校生、おまえの車に乗っていたな」

「ああ、測量のアルバイトで一緒さ。でも、オカマだっていうじゃないか。おれ、気持ち悪いよ」

「オカマなのか。この町もけっこう、多様な人種がいるな」

 どっと、笑いが湧く。健太は駆けた。こんな男を好きになった自分が許せなかった。

 その男がルーチェでイタリア料理を囲み、家族団欒だ。沙織の話では、今や若手のイケメン市会議員としてトップ当選の人気だそうだ。妻は地元ガス会社の社長の娘だ。愛は、もう過去のことだと割り切っていたが、あの団欒の光景に古傷が疼いた。

 その時、男と目が合った。彼は数秒の後、驚き、狼狽した表情を見せた。一瞬にして目をそらした。何事もなかったように、子どもたちに話しかけた。愛は、自分は聖人君子にはなれないが、人生の経験の一つとして気持ちの整理をすることぐらいは出来る。何者でもない。自分は自分だ。愛は好物のトマトソースに絡めた温かいトリッパを口に運び、沙織に自信たっぷり、大丈夫と目で合図した。

 沙織は右目で軽くウィンクした。愛に、あの記憶が鮮やかに甦る。高校の卒業式の日を控え、愛は決心した。男の詰襟は脱ぎ捨て、セーラー服で式に臨む。沙織に、その計画を打ち明けると、とんでもない、と反対した。

「先生たちが、許さないよ」

「どうして」

「未知の世界だもの」

「でも、もうぼくが女だと知っているよ」

「健太は一応、肉体上はまだ、男でしょ。卒業は一応っていうか、形の上では男で終了するしかない」

「沙織は、揉めると思っているの」

「う~ん、どうかなあ。いやあ、揉めるな」

「男のレッテルで卒業したくない」

「駄々こねないでよ。出来ないこともあるでしょ」

「不可能ですか」

「本気なの」

「うん」

「あっ、そう。分かった。協力するよ」

 沙織は溜息をついた。でも、決断は早い。この高校は、卒業式は在校生たちの自主運営が長年のルールになっている。もちろん、先生の助言はあるが、在校生たちの卒業式運営委員会が仕切る。進行役のアナウンスは放送部長が務める。

 卒業式の数日前、委員会の在校生たちに極秘で話をつけた。決行する。在校生たちは恐れながらも、興奮していた。新しい一頁を自分たちで切り開く。一九四八年、国際連合で世界人権宣言を発表した。これは、この学校にとって、それに匹敵する。自分たちが歴史を作ると宣言する者もいた。

 制服は、沙織が大きなサイズを探し回り、先輩のバレーボール選手のお古を調達した。当日、健太は詰襟姿で自宅を出て、沙織の家に寄った。母には、その計画を伝えておいた。母は無言でうなずいた。

 沙織が健太に薄化粧し、制服を着せた。姿見に映る女子学生。薄いピンクのルージュ、ほんのりと赤味を帯びた頬。前髪は両眉の上にサラッとかかっている。二階から降りて行くと、沙織の母がいた。見上げて目を丸くしている。

「お母さん、健太と一緒に卒業式に行くね。後から来るでしょ」

「ええ、行きますよ、行きますけれど。どうしたの…」

「見ての通りよ」

「あっ、そっ」

 二の口が継げない。

「お世話になっています」

 健太は、ちょっと艶めかしい声色で頭を下げた。

「こ、これから卒業式だよね」

「はい」

「詰襟は?それでいいの?」

「はい」

「お母さん!」

「はいっ」

「女同士、お父さんには内緒よ。わたしも共犯だからね。一蓮托生だからね」

「…いってらっしゃい」

 母は、呆れ顔で、見送った。

 茶のダッフルコートに身を包み、健太は学校に向かった。生徒たちの多くが白い息を吐きながら、登校する。三月の空は澄み切っている。

 式は紅白の天幕が張られた体育館で始まった。卒業生入場のアナウンスで、待ち受ける在校生や来賓、父母、先生の視線が一斉に入場口に集まった。二百五十人余りの三年生は男女混合で一列に姿を現した。やはり、頭一つ飛び出た大柄の女子学生服の健太は目立つ。

 なにも知らなかった担任が立ち上がった。校長と教頭が座ったまま、顔を見合わせている。しかし、来賓や父母が静かに見守る中、どう対処していいか考えあぐねている。アナウンスはどんどん、進む。在校生や卒業生の一部はざわついたが、ほとんどの父母や生徒たちには、ただの私語にしか聞こえない。

 校長の卒業証書授与になった。卒業生一人一人が登壇し、校長から受け取る。名前を読み上げられ、卒業生はクラス順に立ち上がって次々と登る。いよいよ、健太の組だ。健太はジッと目を閉じた。隣で沙織が手を握っている。

「大丈夫よ。卒業証書をもらってしまえば、こっちのものよ」

「うん」

「おまえ、どうした。冗談かよ」

 後ろの男子生徒が健太の背中を突く。

「うるさいっ」

 沙織が低い声で睨み付ける。

「おっ、こえぇ」

 健太の番だ。沙織の手を離し、立ち上がった。周囲の視線が集中しているのが、分かる。さざ波のように、ざわめきが広がる。健太は三段の階段を昇り、校長と向き合った。校長は手に卒業証書を持ったまま、身動きしない。どうしていいか、計りかねた。式場は水を打ったようだ。

「校長先生!」

 沙織が立ち上がった。

「卒業生のアイデンティティーを尊重して下さい。お願いします。式を続けて下さい」

 校長はひと呼吸し、小さくうなづいた。

「卒業証書…おめでとう」

 校長は渡すと同時に右手を差し出し、握手を求めた。健太は恐る恐る、校長の痩せた手を握った。

「おめでとう」

 校長は再度、祝福し微笑んだ。式場から小さな拍手が起きた。それは戸惑うようにパラパラと始まり、次第に大きな波となった。しかめ面もあった。憤りや怒りの表情も混じっていた。沙織の母と並んでいた健太の母は涙を止めることは出来なかった。


 沙織の華やかな結婚式と披露宴が終わり、母に、父と会うように促された。父は最近、悪夢を見るという。妹が母に報告した。健太を殴りつけた後悔だ。夢の中で鼻と口の周りを血だらけにして横たわっている。父を見上げる健太の悲しい双眸が焼き付いている。

「頑固を装っているけれどね、本当は気弱な人なの、お父さんは。愛があまりに自分の知らない新しい世界に足を踏み入れたので、どうしていいか分からなかったのよ。でも、愛を待っている。東京に帰る前に会いに行ってね。お母さんからのお願い」

 母にも父への愛がまだ、残っているらしい。そう、愛に健太だった頃のこだわりはもうない。一人の成人した女性として父と向き合うことに恥じらいはない。兄だって今は子煩悩な家族持ちだ。いつか弟を妹として受け入れてくれるだろう。岸壁の釣りで海に落ちた幼い健太を飛び込んで救ってくれた、あの兄なのだから。

 帰京の早朝、ホテルで朝食を取っていると、突然、父が姿を現した。黒いハンチングを目深に被り、グレイのジャンパーに黒いチノパン姿で、丸で冴えない。ファッションセンスにほど遠い。真正面から久しぶりに見ると、顔のシワは深く、年以上に思える。

「ここにいると聞いたよ」

「コーヒー、飲む?」

 会話は、すれ違う。そりゃ、そうだろう。高校生の、あの時以来、話したことはないのだから。

「いや、朝のコーヒーは、おれの性に合わん」

 いつもながら、頑固な人だ。どうせ、飲まないとは思ったけれど、社交辞令で勧めただけだ。

「座る?」

「ああ、食事中で申し訳ないが」

「あちらのテラスに行こうよ」

「ああ」

 席に着くなり、愛は驚いた。父がタバコを胸ポケットから出したのだ。ライターで火を点け、一服くゆらした。愛は黙って見ていた。

「おれがタバコを吸うのは、ヘンか」

「見たことがなかったから」

「そうだな。母さんが家を出てからだ」

「えっ、そうなの。可笑しいね、お母さんもお父さんと一緒にいると、ずっと禁煙していたから、今は好きなだけ吸えるって笑っていたよ」

「ああ、そうだろう。息苦しかっただろうな」

「そんなことは、いっていないけれど」

「東京はどうだ」

「順調だよ。こんど、フランスに行く。企画の仕事が入った」

「フランスか。遠いな」

「初めてだから、遠いような、テレビやユーチューブでいろいろなイベントを見ていると近いような。直行便で十一時間」

「シベリアの上空を飛ぶのだろう?」

「そうだよ」

「曽祖父が、昔、オヤジにシベリア出兵の話をしていたらしい」

「すごい、昔じゃない。一九一七年よ」

「歴史も勉強しているのか」

「東京で先生に厳しくいわれたの。欧米の一流カメラマンは、自国の歴史をすごく勉強している。自分の生まれ育った国に対するアイデンティティーが半端じゃない。歴史の真実を知らなくて、他者を理解する能力が育つはずがない」

「他者への理解か」

「そう。ファインダーの小さな窓から、人の表情でも景色でも、真実が滲み出て来る。奥にあるなにかが。それを見極めるには、まず、自分が何者であるかを知らねばならない」

「健太は、いや、すまん、愛は自分が何者であるか、分かったのか」

「まさか!ゼ~ゼン。確かにいろいろ経験したけれど、まだ、未熟で、なにもこなし切れていない。仕事も私生活も」

「自信あるように、見えるぞ」

「そう。そうかなあ」

「独り立ちして、頑張っているじゃないか」

「それは、必要に迫られてだから」

「おれのせいか」

「ううん、そんなつもりでいったんじゃない。この年になって、自分が選択した道で生きて行くのは、大変だと思うから。情熱だけじゃ、やっていけないよね」

「いや、その情熱こそ、原動力だろう」

「そういってくれて、ありがとうございます」

「済まなかったな」

「えっ?」

 愛は、父の謝罪にハッとした。それをずっと、心のどこかで待ち望んでいたのは間違いない。

 父は、おもむろに立ち上がった。

「これ、おまえのだ」

 茶のA四封筒を愛の前に差し出した。

「なに、これ」

「足しにしろ。じゃあ、元気でな」

 父はぶっきらぼうにいうと、大股で去った。背中が少し、丸まっている。寿司を握る時の父は、背筋が長い棒を背中に添えたかのようにピンとしていた。封筒を開けた。一冊の預金通帳と三文判、キャッシュカードがあった。名義は健太だ。毎月、三万円ずつ、十年以上、四百万円近い。父は愛が東京に行く前から、ずっと積み立てていたのだ。

 涙は出ない。想定外のことで、父の神経がどこか、狂ったのかと疑念のほうが先だった。しかし、父が愛のために積み立てた事実は物語っている。それなら愛は父に改めて自分の気持ちを伝えるべきだろう。明確に感謝の気持ちを伝えることこそ、今、必要なのだ。

 帰京する昼の便を夕方にずらし、愛はランチタイムの魚壱の暖簾をくぐった。

「らっしゃい!」

 若い職人の溌剌はつらつとした声だ。

「らっしゃい」

 少し遅れて父のしゃがれた声だ。店は客であふれていた。一つだけ空いていたL型カウンターの端に愛は座った。父は黙々と寿司を握っている。白い和帽子から見える短髪はすっかりごま塩だ。若い職人が飲み物の注文を取った。愛は地酒の冷やを頼んだ。父はさりげなく、愛の前に白木のゲタを置き、ガリをひとつまみ乗せた。客の注文を若い職人に任せ、再び、愛の前に立った。

「この寿司、好物だったな」

 軍艦巻きのイクラ二貫、タコ二貫の紅白だ。

「新鮮な毛ガニ、東京ではなかなか食えないだろう」

 赤い筋の入ったボイルのカニ足の握りを二貫、加えた。

「きょうのボタンエビは、美味しいぞ。それにサーモンもメニューに入れたよ」

「父さん、ゆっくりでいいよ。いっぺんに食べ切れないよ」

「そうだな。腹いっぱい、食べていけ」

「うん。ありがとう、父さん」

 愛はタコを口に入れた。うれしくて涙がこぼれて、俯いた。これは想定外だ。父が心配げに握る手を止めた。

「わさび、効き過ぎだよ」

 愛が顔を上げると、父は苦笑いを浮かべていた。   

                           了


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