Episode5 02

 体が無数の冷たいもので貫かれたような気がした。

 父親を見上げることも、立ち上がることもできないと思った。

 何もすることができない。強い虚脱感のせいで、体が動かない。ただ、悲しいということだけがわかる。


 自分の手を見る。


 さっきよりもさらに小さな、少年の手になっている。

 遡って、どうするつもりなんだ。


 この変化は自分に対する追い打ちのようにも感じられたが、姿が変わって、かえって自分を客観的に見る冷静さが取り戻せた気がした。


 ゆっくりと顔を上げると、そこは自宅の暗い廊下だった。昼でも光の当たりづらいところだが、ここまで暗いのはおそらく夜だからだろう。さっきまでと場面が変わったらしい。


 目の前にはリビングへと通じる扉があった。そこからわずかに光が漏れてきている。

 漏れてきているのは光だけではなかった。声もコウの耳に入ってきた。


「絵なんか描かせてどうするつもりだ。あいつはただでさえ兄貴に比べて遅いんだ。勉強をさせろ。どんどん取り返しがつかなくなって、結局あいつの首を絞めるぞ」

 また気難しそうな父親の声だ。どうして、いつもつまらなそうに話すのだろうと幼い頃からコウは思っていた。まるで笑うと親の失点になると信じているようだった。


 コウはゆっくりと立ち上がって、光の先の両親を見つめた。


「わたしが描かせてるわけじゃないわよ。おばあ様がどんどん描きなさいって言うの」

 母親はコウの味方をしてくれはしたが、こうやって無意識のうちに責任を回避しようとするところがあった。本当にどうしようもなくなって泣きついたら、その時は見捨てられてしまいそうな怖さがコウの中にあった。


「小さいうちは何でも真に受ける。たいして上手くもないのに上手い上手いと言われたら簡単に調子に乗って、それしかしなくなる。それは大人が選択肢を奪ってるのと一緒だ」

「でも、あの子、勉強は本当に苦痛そうだから、何か楽しいことをやらせてあげないと」

「楽しいことだけで生きていけるなら、誰も勉強勉強と言わないさ。スポーツや芸術の世界で活躍している人間も血のにじむような苦しみに耐えて、今がある。あいつにそれだけの覚悟や意志がないのはお前もよく知っているだろう」


 父親が好きになれるわけがないが、その言葉が完全に間違っているわけでもない。


今のコウにはそれがわかる。嫌な性格であろうと、父親もコウの能力の限界ぐらいは見抜いていたのだ。


「もし、明らかな才能を見せつけられたのなら、そういう道もあると考えてもいい。だが、あいつには……そこまでの才能はない」


 やめてくれ。分析しないでくれ。諦めないでくれ。

 そんなことなら、一方的に叱りつけてくれるほうがまだマシだ……。


「でも、ほら……あの子……」


 母親が気まずそうに言いよどむ。



「これしか取り柄がないじゃない? それまで奪うのは可哀想よ……」



「取り柄ぐらい、勉強していれば自然と見つかるものだ。就職してから見つけてもいい。今から逃げるだけの人間になるよりはマシだ」

「無理よ。あなたは心の奥底であの子の能力に期待してるの。これがあの子の伸びしろよ。だって、あの子はうちの子じゃないんだもの」


 耳を塞いでいればよかった。


 これは過去の記憶が元になっているから、そんなことを考えても意味のないことだというのはわかる。


 それでも、耳を塞いでいればよかったと思った。


 この会話を聞いてしまって、自分は何にもひたむきになれなくなったのだ。

 自分の能力は知れている。

 限界は知れている。

 たいした才能はない。


 コウを近くで見てきた親がそれを理解していた。自分の絵を褒めてくれた母親だって、たいして上手くないと諦めながら、母親の役割として褒めていただけだった。

 何の救いもない。いっそ、親を憎んだり、恨んだりできるように、悪役のように嘲ってほしかった。こんなふうに見捨てないでほしかった。


 手足からは血の気が引いて、床は容赦なくコウの体温を奪った。

 体がふるえる。ふるえるけれど、動けない。動くのに必要な気力が、もうないのかもしれない。あの時は夜が明けるまでここに居たわけじゃなくて、自分の部屋に戻ったはずなのに。



 本当に足下から体が冷えていく。凍えてしまいそうな気がして、足下に目をやった。


 足首まで水につかっていた。


 家ごと浸水したように、かかとの上までが水に覆われている。


 それに気づくと、反射的に声にならない悲鳴を上げた。


 足が動いて、音と共に水しぶきが上がった。


 扉の奥で両親が目を見開き、コウのほうを向いた。

 その表情は幼い頃に祭りで見た、鬼の仮面によく似ていた。少なくとも、人間の形相ではなかった。


 早く逃げようとしたが、足がもつれた。


 まとわりつく水が異様に重い。


 いや、動けないのは恐怖のせいではないのか? それすらわからない。


 数瞬動けないうちに化け物じみた両親はもう扉のところにまで来ていて、扉を開けた。両親の姿はいつの間にか、真っ黒なものに変わっていて、顔の部分だけうっすらと鬼のような表情が見えるだけだった。


 父親のほうの手がゆっくりとコウのほうに伸びてくる。


「やめてくれ! やめて! やめてっ!」

 コウは絶叫した。体は動かなくても、声だけは出すことができた。もっとも、それで手を止めることはできなかった。


 だんだんと自分へと伸びてくる手から目だけが離せない。目を閉じることもできない。


 手首を掴まれる。


 その瞬間、自分ではない体温を感じた。


「――ッッ!」

 これまでとは違う種類の生理的な嫌悪感が全身に走った。



 また、コウは大声を上げた――気がした。




  ◇




 気づいた時には、視界が高校生の自分の部屋に戻っていた。

 どうやら、HMDをとっさに外して、投げつけていたらしい。ずいぶん遠くにHMDが飛んでいた。恐怖に耐えかねて、体が無意識のうちに動いたのだろう。


 助かったとわかると、急に力が抜けて、よろけた。おかげで腰を床に打ちつけた。

 もっとも、その程度の苦痛で、あの恐怖から解放されるなら安いものだった。

 苦痛よりもはるかに安堵感のほうが大きい。


「助かりはした、んだよな……?」

 風邪で寝込んでいた時ぐらいの汗をかいている。息も高校の授業でサッカーをしたあとぐらいには荒れている。


 もっとも変わったことといえば、それぐらいだった。

 恐る恐る、夢の中の父親――あれを父親と言ってよければだが――に掴まれた手首を見る。そこにアザができているなんて心霊現象も起きていなかったが、確かに掴まれた感覚が残っている。


 防音マットを突き抜けるような大声を上げていた気はするが、親からの苦情でドアが開く様子もない。


 何もかも独り相撲だったのか。ひとまず、コウは汗を腕でぬぐった。

 

 あれは何だったのだろう? 落下という恐怖体験が過去のトラウマめいたことを思い出させたのか? 考えたくもない話題だが、逃げるわけにもいかない。自然と眉間に皺が寄った。


 当時の記憶と一点だけ、絶対に違うところがある。


 うちの子じゃないだなんて言葉を、母親は言ってなかったはずだ。

 自分にはそんな記憶は絶対にない。


 しかし、あれが実際にあった、、、、、、過去の記憶の回想だとしたら……?


 うちの子じゃない、と言われた記憶を自分は無意識のうちに押し込めていたんじゃないか? それが落下のショックであふれ出したんじゃないか?


 そんな嫌な疑念が浮かんできては振り払う。

 だいたい自分の親が、他から子供をもらってくるわけがない。子供ができなかった夫婦が養子縁組をするというケースも、兄がいる以上、当てはまらない。



 とにかく嫌な夢だった。さっきのせいで、高所恐怖症になりそうなぐらいには、ろくでもない体験だった。

 自分なりに結論を出したところで、放り投げたHMDがコウの視界に入った。


「そ、そうだ! みんなは……」

 飛び降りたのは自分だけじゃない。慌てて、スマホでログイン状況を確かめる。


 HMDを外した自分のアイコンには退席マークがついているが、フレンドのアイコンはルリもクータもログイン中の表示になっていた。


「やっぱり、自分だけの夢だったのか……?」

 常識的に考えれば、そうなる。それぞれの人間に最適な悪夢やトラウマを提供するなんて、悪魔ぐらいしかできないだろう。


 すぐにHMDをかぶり直して、VR内に戻る。

 その途端、クータの悲痛な声が飛び込んできた。



 本能的に恐怖を覚えた。



 悪夢からまだ覚めていないような気味の悪さがあった。


「ルリ様っ! ルリ様……!」

 クータのアバターがうずくまりながら、悲鳴を上げている。


 その向こうに倒れている人影が見えた。残っているのはルリしかいない。

 考えたくなかったその想像が当たってしまった。


 ルリのアバターが、現実のルリが倒れているかのような生々しさで、目を閉じたまま倒れていた。

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