読み切り版:後編

「……おやァ?」


 甘ったるい煙が支配する学校の廊下にて。

 山ン本は、何かに気付いたように顔を上げ、どこか遠くへと視線を動かした。

 長いキセルを手元でクルリクルリと弄び、口角をヌラリと吊り上げる様は不気味としか言い様が無い。


「おやおや、オフダの奴が変化ヘンゲしたみたいだねェ。逢魔刻おうまがどきまで粘った甲斐もあるってものさァ」

「ハァ、ハァ……ッ! 逢魔刻おうまがどき、だって……!?」


 膝をついていた九十九が、緩い動きと共に立ち上がる。


 この場で行われていたのは、凡そ戦闘とは呼べないものだった。

 九十九が攻撃し、お千代が攪乱し、その全てを山ン本がヌラリと受け流す。

 山ン本が能動的に行った事と言えば、せいぜいが甘ったるい煙を湧き立たせて九十九に纏わりつかせる事くらい。


 たったそれだけの応酬によって、九十九は体力を消耗していた。

 視界の隅には、床に這いつくばって黒い翼を伸ばし、体力の回復に努めているらしいお千代の姿が見える。


「ヒヒヒ、八咫村の小倅は不勉強でいけねェや。暮れ六つ、がれどき逢魔刻おうまがどき、名前は何でもいいけどねェ。要するに夕暮れ時ってのは、あたしたち妖怪の力が最も高まる時間なのさァ」

「そんな事は知ってる! けど、僕たちとお前が戦い始めてから、まだんだぞ!? なのに、今が午後6時なんて……っ」

「ヒヒッ、そういうところが不勉強だって言ってるのさァ」


 山ン本の嘲笑が、九十九に浴びせかけられた。

 咥えたキセルから甘ったるい煙を吸い込んで、山ン本は肺の内に青臭い匂いを巡らせる。

 そのネバネバとした視線は、ヌラリと音を立てて九十九を突き刺した。


「ここはもう、とっくの昔にあたしの幽世かくりよ。真っ当に時間が流れると思うのかい? ここであたしたちがのは20分かそこらでも、外の世界ではもう暮れ六つさァ」

「なんて事だ……! それじゃあ、白咲さんは……」

「今頃、オフダの奴に喰われてたりしてなァ? ヒヒヒヒッ。アイツ、どんな妖怪に変化ヘンゲしたんだろうなァ……楽しみで仕方ねェや」

「──ッ!」


 九十九の表情に怒りが灯る。


 巻き込んでしまった。

 あの時、教室で「まだ不確定だから」と様子見なんかせずに道人を抑え、彼が持っていたであろう外法の道具を奪っていれば。

 姫華はこんな悪意に巻き込まれる事なく、平穏な学校生活を送れていた


 そんな“たられば”が心に楔を打って、九十九は己の不甲斐なさに奥歯を噛み砕きたくなった。

 床に視線を這わせても、煙がとぐろを巻いているだけ。答えなどありはしない。前を向くしかない。


 けれども目に映るのは、相も変わらずキセルをんでこちらを嘲笑う山ン本の姿。

 湧き出た激情のままに、九十九は足を前に出して──


「お気を確かに持ってくださいまし!」


 九十九と山ン本の間に、黒い羽根のカーテンが吹き荒れた。

 煙を飛ばすように吹く風を受けて、九十九は立ち止まりながら目を細める。


 この現象がお千代の妖術によるものなど、九十九と山ン本には分かり切っていた。

 放たれた“めくら”の羽根は、しかし山ン本が煙混じりの息を吹きかける事で消散する。


「お千代……!」

「しゃんとしてくださいませ。若様がその調子では、わたくしたち召使いも働き甲斐が無いというものですわ」


 九十九の肩に止まり、お千代はつんと嘴を尖らせた。


「あの“れでぃ”を助けるチャンスはまだありましてよ。この幽世かくりよを突破さえすれば、あとはこちらのものって訳ですの」

「突破さえすれば……って、アイツが陣取ってるのにどうやって……」

?」


 藍色の小さな瞳が、九十九の黒い瞳を見透かす。

 彼がお千代の言葉の意図を理解するのは、その一拍後だ。


「……っ! 分かった、行こう!」

「その調子ですわ。“れでぃ”を助けに向かう殿方は、そのくらいでないと!」


 踏み締めた床から、跳躍に近い動きで疾走する。

 甘ったるく青臭い煙を全身で切り裂いて、九十九が目指すは山ン本に一直線。

 その傍らでは、大きく翼を広げたお千代もまた、併走する形で飛んでいた。


「ヒヒヒ。カッコいいねェ、見惚れるねェ。さながら艶本の主役気取りかい」


 山ン本から見れば、それはただの愚行に過ぎないのだろう。

 彼の口から漏れるのは、これまでと変わらない嘲笑の吐息のみ。


 クルリと指先を転がして、キセルを2人に向ける。

 事実、この馬鹿げた長さのキセル1本あれば、山ン本が2人の愚者を相手取る事など容易かった。


「やぶれかぶれの神風が功を成すなんてさァ──?」


 そこで、目を細めた。

 九十九の前に滑り込む形で躍り出たお千代が、山ン本に向けて大量の羽根を投擲したのだ。


 妖術によって編み上げられた、触れた者の視力を落とす“めくら”の羽根。

 それは山ン本の視界一面を埋め尽くすほど大量に放たれて、一見すると回避する手段は無いように思えた。

 しかし、不意打ち気味に展開された弾幕を前にしてなお、山ン本はヌラリと嗤うのみ。


「やァれやれ、まァたそれかい? 一発芸もそろそろ飽きたところだねェ」


 キセルの先端から、更に煙がまろび出た。

 吹き出る大量の煙はやはり甘ったるく、そして山ン本を襲いつつあった羽根の弾幕を全て吹き飛ばしてしまった。

 煙を浴びた羽根たちはたちまち消滅し、羽根を消し飛ばした煙は横へと逸れて山ン本の視界を開ける。


「さァ、次は何を見せてくれ…………?」


 首を傾げる。

 本来であれば、“めくら”の術を防がれ、しかし疾走の勢いを止められずに九十九とお千代が飛び込んでくる筈なのだ。

 それがどうだろうか。煙が晴れたあとには、彼ら2人の姿などどこにもありはしない。


 不思議に思って周囲を見回しても、九十九たちはどこにもいない。

 この廊下は、最初に煙が立ち込めた時点で既に山ン本の展開する幽世かくりよの中だ。

 隠れる場所など無い。山ン本は、そのような“遊び”を作らない。


 であれば、考えられる可能性は1つ。

 そして、その可能性を九十九たちが実現する為の手も、そう多くは無い。

 そう思い当たったからこそ、山ン本はヌラリと口元を歪めた。


「ふゥん……? 視界を埋め尽くす“めくら”の羽根は囮。そこに“ごまかし”を重ねて、まんまとあたしの視界から逃げ果せたってところかい。嫌なところで仕事をするバケギツネだよ、まったく」


 そう吐き捨てて、キセルを口にする。

 今頃、九十九たちは幽世かくりよを脱出しただろう。その為の機会は一瞬でも、その一瞬を無駄にしないだけの技量と度量が彼らにはあったのだから。


「まァ、いいさ。“げえむ”には、障害の1つ2つもあった方が面白いだろう? それを乗り越えてこその“ぷれいやあ”って訳だよ、オフダ」


 煙草をむ山ン本。

 彼が息をする度に、煙の量は段々と膨れ上がり、やがて廊下を埋め尽くす。

 その姿は、甘ったるくて嫌になるほどの煙に紛れて見えなくなっていった。


 そうして、一方。


「──抜け、たっ!?」

「ええ、あんちくしょうの幽世かくりよは抜けましたわ! ここはもう現世うつしよでしてよ!」


 夜の帳に閉ざされた学校の廊下を九十九が走る。

 授業なんてものはとっくの昔に終わっていて、薄暗い廊下には人の気配などある訳も無し。

 この場は既に、人の住まう昼の世界から、妖怪の住まう夜の世界へと切り替わっているのだ。


 廊下の出口から転がるように校舎の外へと飛び出して、九十九の足はグラウンドの砂利を踏み締めた。

 彼の傍らを飛ぶお千代の翼は、その黒さ故に夜闇と同化しているように見える。

 そして、九十九の肩に飛び乗るは。


「ごめん、イナリ! さっきは助かった!」

「いえいえ、わての方こそ救援が遅れて申し訳ありやせん!」


 もっふもふの毛皮を持つキツネ。

 ちっちゃな前脚で器用に九十九の肩を掴んで飛び乗ったのは、当然ながらイナリだ。


「あのあと、坊ちゃんとお千代の気配が消えたのは分かっておりやしたが、まずは騒ぎの“ごまかし”を優先して行いやした。ですが、その間に灰管のクソガキにはまんまと逃げられてしまい、その上わてまで幽世かくりよに……申し訳ない」

「まったくですわ。馬鹿なキツネがまごまごしている間に、相手はもう変化ヘンゲしてしまったようですわよ。筆頭召使いの名は返上した方がいいのではなくて?」

「へっ、たかが幽世かくりよの突破に難儀したスズメが何か囀ってら。坊ちゃんのサポート1つできないほど愚鈍なら、ご当主様から米を頂くのはやめた方がいいですぜ?」

「そこでご当主ダーリンの名前を出すのは反則でしてよ! あなたの方こそ、今の今までわたくしたちの痕跡すら見つけられなかったなんて知られていいんですの?」

「あ?」

「お?」

「2人とも、今はやめて……!」


 肩越しに行われるいつもの応酬を聞かされて、流石に余裕の無い九十九が悲鳴を上げる。

 不承不承ではあるものの、九十九に掣肘されては「むぅ」と黙る他無い。

 ぷい、と互いにそっぽを向いた召使いたちに苦笑いしながらも、九十九の視線は真っ直ぐ前方にあった。


 校門までもう少し。そこを出れば、あとは妖怪の気配がする方向へ全力で向かうだけ。

 それを踏まえて、九十九の手は横を飛ぶお千代へと伸ばされた。


「お千代、いつもの出して!」

「いつものですわね? 然るべく!」


 ぷくぅ、とお千代の頬が膨らんだ。

 その体積は、一般的に言う「頬を膨らませた」と表現するべきそれよりも遥かに大きく、さながらゴム毬のよう。


 次いで、お千代の嘴が開く。

 そのちっちゃな喉の奥から飛び出てきたのは──


「ぽいっと! こちらですわ!」

「ありがとう!」


──火縄銃。


 日本史を扱う漫画の中でしか見た事の無いような、長身の日本式狙撃銃がそこにはあった。

 それが、お千代の嘴から飛び出てきたのだ。火縄銃よりも遥かに小柄なスズメでしかない、お千代の体の中からである。


 しかし、九十九はそれを疑問に思わない。

 空中に躍り出た火縄銃を、九十九は待ってましたと両手で掴み取る。

 ガシャリと構えながら走るその姿は、まるで──


「行こう! 白咲さんの下へ!」


 歴戦の狙撃手にも似通っていた。





「あ゛っ……!? が、がががが、あぎゅっ……」


 それは、凄惨な光景だった。


 オフダ・キュウケツキの伸ばした右手が不良の首を握り締め、その体を片手で持ち上げていた。

 こうなっては不良に逃れる術など無く、わたわたと藻掻いても強靭な握力から抜け出す事はできない。


 そして、不良の首を鷲掴みにするその右手は、徐々に彼の首にめり込んでいった。

 ドクン、ドクン、と歪な音を鳴らし、彼我の血管が激しく脈動する。

 見る見る内に萎びていく不良の体は、彼から刻一刻と血液が失われている事を何よりも示していた。


 オフダ・キュウケツキの足元に転がっているのは、そうして木乃伊ミイラと成り果てた不良たちだ。

 この恐るべき妖怪から逃げる事の叶った者はただの1人もいない。今、オフダ・キュウケツキに血を吸われている男こそ、大勢いた不良の最後の1人だった。


「不味い」

「み゛」


 最後に残った不良、その断末魔だった。

 肉と皮と骨だけになった出涸らしをぞんざいに放り投げて、その真っ赤な視線を飛ばす先は……


「あ……ぁ、こ……っち?」

「ひっ!? く、来るなぁっ!?」


 姫華と道人。

 濁った魔物の目に中てられて、2人のか弱い獲物たちはガタガタと震え上がる。

 道人が引き連れていた不良たち全員を吸い殺してなお、オフダ・キュウケツキは更なる血を求めているのだ。


の血は不味かった。下卑た物言いしかしない、大した欲望も持っていない。そんな塵芥どもの血が不味いのも当然の道理だな」

「な……にが、言いたいんだよ……っ!」

「美味い血の話だ」


 舌が見える。

 口内からチラリと見えたオフダ・キュウケツキの舌は、蛇のように長く細く、不気味に蠢いていた。

 それが自分たちを値踏みする動きである事を、2人は嫌というほど理解する。


「我らが長の言うところでは、徳を積んだ僧か、或いは強い欲望を持つ者の生き肝を喰らえば強くなれるという。だが、我が輩が重要視しているのは強さじゃない。味だ。そして我が“キュウケツキ”という種族名カテゴリーに従うならば、最も甘美とされるものは……」


 カツン。

 オフダ・キュウケツキの履く靴が、1歩踏み出すと同時に音を鳴らす。

 2人にとっての死神が、1歩1歩迫り来る。


 ただ、より正確な表現を求めるならば。

 この場で生き残った2人の内、先に死神が狙うのは──


「処女の、生き血」

「──ッ!?」


 その言葉が自分を暗示しているのだと瞬時に悟り、姫華は顔を強張らせた。

 対して道人は、自分が狙われないのだと知って安堵を見せている。


「見れば分かる。生娘おぼこだろう? 貴様。それに、ほんの僅かだが妖気も香る。妖術師の才があるとはな……ますます、喰いでのある血と見える。」

「え……わた、わたし……わた、し、はっ……」

「ひっ、姫華っ!」


 悲鳴混じりの呼びかけ。

 その上ずった声からしても、道人が半ば狂乱しているのは明白だった。


「ちっ、ちち、血を吸われろっ! ソイツにっ、血をっ! それっ、そ、それでっ、俺が逃げるじ、かんを、時間を稼」

「黙っていろ」


 オフダ・キュウケツキの瞳が輝いた。

 鮮血のように赤く濁ったその目は、道人にそこから先の台詞を言わせない。

 自分は助かる。そんな安っぽい確信など、ほんの少し威圧されただけでかき消されるほど薄っぺらいものだった。


 邪魔なノイズが収まった事に満足して、オフダ・キュウケツキは改めて姫華を見やる。

 姫華にはもう動くだけの体力も気力も無い事を、恐るべき妖怪は十全に理解していた。

 だって彼は、お札だった頃から道人の陰で全てを見ていたのだから。


「畏れろ」


 あとは、どのように苦しめて、どのように血を味わうか。

 その為の手段に、軽く考えを巡らせるだけだった。


「畏怖しろ。恐怖しろ。狂乱しろ。絶望しろ。畏れこそが、妖怪の力だ。人間が夜を畏れる故に、我ら妖怪は夜と共に在る」


 出で立ち。目つき。口元。牙。手にベッタリとついた血。

 その全てが、どうしようもなく「これからお前の血を吸い尽くして殺す」と、そう姫華に語り掛けていた。


 だから、もう、逃れる事はできない。

 だから、もう、生きる事はできない。


 白咲 姫華はここで死ぬ。

 それはもう、覆しようの無い事実に思えた。


(ああ。死ぬんだ、私)


 だからだろうか。

 恐怖とか絶望とか、そういうものを通り過ぎてしまって、姫華の思考はまっさらクリアな状態にあった。


 視界には、こちらに迫るオフダ・キュウケツキの姿のみ。

 事ここに至ってしまえば、それ以外の情報は不要だった。心臓の鼓動も、道人の喚きも、全てが遠くに過ぎていく。


 ジャブジャブと、余計なモノを濾して濾過して綺麗にして。

 そうして残った思考の上澄み、たった1滴だけ零れ落ちた記憶の雫。


『白咲さんは……どうしたいの?』

『多分、私は……』


 夕暮れの河川敷で、私は、彼に。


『誰かに……助けてほしいのかな』


 なんて、答えたんだっけ?


「…………」

「最早、何も話せぬか。まぁ、無理も無いだろう。ならば、これから苦悶の断末魔を上げさせて……」

「…………て」

「……うん? 何か、言ったかね?」


 喉が掠れて、上手く声が出せない。

 舌が震えて、上手く言葉にできない。

 それでも、言わなければならないのだ。


 ここを逃がせば、もう2度と言えないのだから。

 もう見る事すら叶わない希望だとしても、手を伸ばすチャンスはこれっきりなのだから。

 例え、1秒後には失われる人生だったとしても。


 それは果たして、白咲 姫華という少女の、最後の叛逆さけびであるようで。


「誰、か……助けて……っ!!」











「──うん、分かった」


 銃声が轟いた。


 乾いた夜の空気を引き裂いて、弾丸が飛来する。

 それに一瞬で気付いたオフダ・キュウケツキが、顔を僅かに横へズラした。

 高速で飛翔し、そのまま彼の脳天を撃ち抜く筈だった弾丸は、彼の横髪を消し飛ばすだけに終わる。


 だが、それでも。

 その1発は、恐るべき妖怪である筈の彼に脅威を実感させ、一筋の冷や汗を垂らさせた。


(あと1秒……あと1秒反応が遅ければ、我が輩は……死んでいた)


 そして、その直後だ。


「……っ!? な、なんだこれはっ!?」


 頭上から振りかけるようにして、オフダ・キュウケツキの体を黒い羽根のシャワーが襲った。

 振り払おうとして手を動かすも、羽根は触れた瞬間に溶けて消滅し、体の中に妖術を染み込ませていく。

 気付いた時には、もう遅い。


「目、が……っ! 前が、見えん!?」


 突如として暗闇に染まる視界。

 夜の世界に生きる妖怪にとって、夜の闇の中をも見通す暗視の力は生態的に備わっていた。

 にも拘らず、オフダ・キュウケツキは只人が闇の中に放り込まれた時のように、何も見えない状態を味わっている。


 パニック気味に両手を振り回しても、視界が開ける事は無い。

 あの黒い羽根が自らを“めくら”に変えたのだと気付くのは、それから数拍の後だ。


「舐めるな……っ! 我が輩とて妖怪だぞ!」


 妖気を身体に巡らせる。

 妖怪たちが術を使う際に用いる独自の「気」。それが全身に行き渡る事で、オフダ・キュウケツキの視界は徐々に明るさを取り戻していった。

 やがて完全に視界が開け、周囲を見回してみれば。


「っ!? いない……だと!?」


 もうすぐ手が届く距離にいた筈の姫華が、忽然と姿を消していた。

 姫華だけではない。あれほど喚いていた道人でさえ、その姿はどこにもない。


 また、何かの術だろうか。

 今しがた視界を眩ませた術と同じ、謎の乱入者による何らかの術。


「……! そこかっ!」


 その結論に至ったからこそ、オフダ・キュウケツキは周辺の気配を探り、ある一点に向けて右手を伸ばした。


 伸ばされた右手、その人差し指が分離し、ミサイルのように射出される。

 射出された人差し指は空中でコウモリへと転じ、キィキィと喚きながら翼を広げ、空間の揺らぎに切れ込みを入れた。

 切れ込みは瞬く間に広がり、数秒も経たずに空間の揺らぎが完全に消失する。


 その揺らぎ──“ごまかし”の術によって隠れていたのは、やはり。


「ま、即席ならこんなもんよ。一手二手は稼げたんだから上々さね」

「なんて見苦しい言い訳でしょう。素直に『見破られたのが悔しい』と仰っては如何ですの?」

「あんだけ振り撒いた“めくら”をさっさと解除されたスズメの囀りは煩くて敵わねぇや」

「お?」

「あ?」


 イナリと、お千代。

 お千代はそのちっちゃな足で姫華を掴んで運んで来たらしく、イナリも同様に道人の体を運んで……というか、引き摺って隠れ潜んでいたようだ。


「え……? なに、これ……スズメ?」

「なっ、なんだよ……!? キツネが喋って……何が、何が起きてんだ!?」


 当惑する姫華と道人。

 彼らを地面に優しく置いて、イナリとお千代は彼らの前に出た。

 対峙するは、怒りの表情を浮かべるオフダ・キュウケツキ。


「貴様ら……っ! 我が輩と同じ妖怪だな!? 何ゆえ我が輩の邪魔をする!」

「ケッ、令和生まれのシャバ僧が粋がってんじゃねぇや。年季が違うのさ、年季が」


 今まで他者を嘲ってきたオフダ・キュウケツキへの意趣返しか、イナリが嘲笑を込めて鼻で笑う。

 もこもことした尻尾を振り、デフォルメめいた外見にそぐわぬ獰猛な笑みを見せた。

 お千代も同様に、漆黒の翼をはためかせて敵を威嚇する。


「こちら、生まれは延宝えんぽう3年、育ちは江戸。妖怪キュウス・バケギツネ、あざなはイナリで御座いやす」

「生まれは明治21年、育ちは吉原。わたくし、妖怪キンチャク・ヨスズメ、あざなはお千代チヨですわ。以後、お見知り置きを」


 名乗りを上げたイナリとお千代。

 その口上を受けて、オフダ・キュウケツキの眉が微かに吊り上がった。


「フン。何を言うかと思えば急須だの巾着だの、そんな木っ端どもが…………待て。延宝に明治、だと?」


 急須生まれの化け狐に、巾着生まれの夜雀。

 それはさして重要ではなかった。オフダ・キュウケツキにとって驚愕すべき事は、彼らが口にした年号。


 明治は言わずもがなとして、延宝は江戸時代の年号だ。

 オフダ・キュウケツキたちの長である山ン本が外法に手を出したのはつい最近。

 つまりイナリとお千代は、それよりも遥か以前の生まれであり──


「き、貴様ら……99年使われた道具から真っ当に変化ヘンゲした、かっ!?」

「ケッ。遅いんでさ、気付くのが」


 またもや鼻で笑うイナリに、オフダ・キュウケツキの額に青筋が走る。


「山ン本、だったか? が大層なあざな名乗りやがって。お前らの“げえむ”とやらで、こっちは大迷惑してるんでさ」

ご当主ダーリンも“おこ”でしたわよ。あなた方のような“きっず”のせいで、若様が99歳を待たずに覚醒してしまわれて……」

「かく、せい……? …………まさか」

「そのまさか、ですわ」


 お千代がある方向に首を向ける。イナリもまた、勝ち誇ったように追随した。

 彼らの視線の先、そこにがいる事を悟り、オフダ・キュウケツキが振り返った。

 姫華と道人の2人も、状況が全く分からないなりにそれを把握する為、妖怪たちが首を向けた先へと視線を飛ばす。


 『昼』の象徴たる太陽は沈んだ。

 であれば、夜空にポッカリと浮かぶは『夜』の象徴たる月に他ならない。


 少し小高い廃倉庫、その屋根。

 蒼く輝く月を背中に、火縄銃を構えるその姿。


「……ぁ……あなた、は…………」


 姫華は、その正体に気付いた。

 記憶の中のとは随分と雰囲気が異なるけれど、それでも思い当たる事ができた。


 だから、口に出す。言葉を紡ぐ。その名を呼ぶ。

 自分のささやかな叛逆さけびが届いたのだと、そんな小さな確信を胸に抱いて。


「…………八咫村、くん……?」

「うん」


 そこにいたのは、果たして。

 姫華が想像した通りの、死を前にして夢見た通りの青年。


「助けるよ、絶対に」


──八咫村 九十九。


 カラスのように黒い髪と目を伴って、小さなヒーローがそこに立っていた。


「ホント、に……ホントに、八咫村くんなの……!?」

「や、八咫村って……ちびカラスか!? あの陰キャが……あっ、あり得ねぇっ!」


 驚きと喜びがごちゃ混ぜになった姫華に対して、道人は否定の言葉を口にする。

 彼の知る八咫村 九十九は、小柄な体躯と陰気な雰囲気を併せ持つ「ちびカラス」だったからだ。


 かくいう姫華とて、九十九が助けに来た事については半信半疑なところがある。

 廃倉庫の屋根に立つ彼は、いつものようなダウナー染みた、それでいてどこか眠たそうな気配など持ち合わせてないのだから。


 彼らの心情を何となく察したからこそ、九十九は少し複雑そうに口元を歪めた。

 説明に困った風な素振りを見せて、唇をもごもごと動かす。


「まぁ……そうだよね。とても信じられないだろうけど……うん、僕は八咫村 九十九で間違いないよ」

「夢、じゃないのよね……? それに、その、持ってるのは……」

「これについても……また、あとで話すよ。それよりも──」

「貴様が……貴様が、そうか!」


 オフダ・キュウケツキが声を荒げて叫んだ。

 彼は知っている。八咫村 九十九が、八咫村家がどのような存在であるのかを。

 自分たちの長たる山ン本──キセル・ヌラリヒョンから、八咫村家についてよく聞かされていたが故に。


「混ざり者の半端者。名高き大妖怪テッポウ・ヤタガラスの末裔、妖怪と人間の間の子……! 99歳を以て妖怪に変化ヘンゲする一族でありながら、齢16で妖怪の力を得た青二才!」


 彼らが知るところの八咫村 九十九には、もう1つの名があった。

 故に、叫ぶ。彼ら『現代堂』の妖怪たちが、畏れと共に呼ぶ忌々しい名を。


……ッ!」

「……お前も、その名前で呼ぶんだね」


 溜め息。

 自分の口から漏れ出た小さな溜め息を振り払って、九十九は黒い瞳を細めた。


「悪いけど、それは違うよ。僕の名前は、僕が決めたから」


 そう語る九十九の脳裏に蘇るのは、初めて妖怪の力を得たあの日の事。

 キセル・ヌラリヒョンが起こした最初の“げえむ”に巻き込まれた時、心の底から湧き上がった「生きたい」という想いに応えるように、始祖たるヤタガラスの力に目覚めたあの時。


 事を知った九十九の曾祖父──妖怪としての八咫村家現当主“ニンゲン・バケダヌキ”が、九十九に妖怪についての知識を伝授してくれた。

 力の使い方に思い悩み、それでも『現代堂』の暴挙を止められるのが自分しかいないと悟り、九十九は戦いを決意する。

 そうして立ち上がった九十九は、曾祖父とあるやり取りを交わした。


『そういえば……そうして妖怪退治して回るなら、それ用の「名前」が必要なのかな?』

『そうだのう。真名を隠さねば、まじないに中てられるもあり得る話。故、夜に紛れて活動する時は「ニンゲン・ヤタガラス」と名乗るがよい』

『……爺ちゃん。その「ニンゲン」って必要なの?』

『まぁ、“ふぁーすとねーむ”のようなものぞな。己の由来を表すものじゃ』

『…………ダサい』

『ダサい!?』

『僕なら……うん、そうだな──』


──“ちびリトル”。


「妖怪リトル・ヤタガラス。それが、僕の名前だ」


 例え背丈は小さくとも、その身に秘めた魂は大きく強い。

 そんな祈りを込めて、彼は「“小さいモノ”の九十九神ツクモガミ」を名乗る。


 その目に宿る意志は、クラスメイトたちの知る内気な「ちびカラス」のものではない。

 人間と妖怪、相反する2つの血を持つ戦士「リトル・ヤタガラス」のそれに相違無かった。


「────」


 それを目の当たりにしたが故に、姫華は目を見開いた。

 絶望一色だった瑠璃色の瞳に、淡い希望の光が再び灯る。


だ……! 貴様のその外連味ハッタリに、3人の同胞たちがられたのだ!」


 オフダ・キュウケツキが吠える。

 彼らの“げえむ”は、これが初めてではない。キセル・ヌラリヒョンが始めたそれは、過去に幾度も行われている。

 “ぷれいやあ”として選出された妖怪も同様に、複数人が存在していた。


 それが公にならず、昼の世界が未だ健在な理由。

 その答えこそ、火縄銃を構えて立つ九十九の存在にあった。


「カタナ・キリサキジャック、シャリン・オオムカデ、フデ・ショウジョウ! 奴らを滅したのは貴様だろう!?」

「……うん」


 ただ、頷く。


「お前たちの“げえむ”で、たくさんの人が傷ついた。不幸になった。だから……」


 黒い瞳に決意が光る。

 譲れない。火縄銃を握るこの手に宿る意志だけは、譲れない。


「だから、お前たち『現代堂』の企みは、僕が潰す。お前たちは、僕が滅する」

「戯れ言を……! ならば、やってみせるがいい!」


 ブワリ。

 オフダ・キュウケツキの帯びる妖気が瞬く間に膨れ上がる。

 妖怪が妖気を練り上げる。それが意味するところとは即ち、妖術の行使である。


 それを知る九十九もまた、対抗するように妖気を発露させた。

 火縄銃の引き金にかけられた指は、開戦の時を今か今かと待ち侘びている。


「我が輩こそは妖怪オフダ・キュウケツキ! 最新最高の百鬼夜行、その先鋒を見せてくれようぞ!」


 一瞬にして、オフダ・キュウケツキの両腕が弾け飛ぶ。

 否、弾け飛んだのではない。妖術の行使によって、彼の両腕は大量のコウモリへと変貌したのだ。


 1匹1匹がドロリと濁る赤い目を持った、妖怪コウモリの群れ。

 その黒い暴力が、屋根の上の九十九を狙って一斉に羽ばたいた。


「イナリ、お千代。2人を任せた」

「分かりやした。危なくなったら介入しやす」

「合点ですわ。“ぱーふぇくと”に護衛を完遂してみせましょう」

「ん」


 頷きだけを残して、九十九は跳躍する。

 1秒前まで九十九が立っていた場所を、コウモリの群れが通過した。

 バサバサとけたたましく羽ばたく殺意の塊は、あと1秒遅れていれば九十九の全身を切り刻んでいただろう。


 それを回避して空中を舞う九十九。

 人間が跳躍しただけでは実現し得ない、鳥の羽根のようにふわりと軽やかな軌道を描く。

 空中で上下逆さまの状態になった九十九は、しかしガッチリと構えた火縄銃の銃口をオフダ・キュウケツキに向けていた。


 その状態で、引き金を引く。

 それを文字通りのトリガーとして、火縄の挟まれていない火挟ひばさみ火皿ひざらへと叩き付けられた。


 これが従来の火縄銃であれば、弾丸が発射される道理は無い。

 銃身には弾丸も火薬も仕込まれておらず、着火された火縄が火挟に取り付けられているという事も無いからだ。

 しかし、八咫村 九十九──リトル・ヤタガラスは妖怪である。


──BANG!


 火も火薬も、弾丸すら無い火縄銃の銃口から、銃声と共に弾丸が放たれた。

 妖しい緋色を帯びたそれは、虚空を飛翔してオフダ・キュウケツキを真っ直ぐに狙う。


「くぅ……っ!?」


 果たしてその速度は、オフダ・キュウケツキを驚愕させるほどのものであった。

 やはり額を狙って飛来した弾丸に対して、体を大きく仰け反らせての回避には成功する。

 それでも、弾丸はオフダ・キュウケツキの頬を掠め、ジュッという音を立てて肉を焼き焦がす。


「ただの弾丸ではない……妖気の塊、妖術弾か!」


 妖怪であれば、誰もが妖気を操り、練り、編み、妖術を振るう事ができる。


 イナリの場合は、人の認識や意識を惑わせる“ごまかし”の術。

 お千代の場合は、人の視力を低下させる“めくら”の術。

 オフダ・キュウケツキの場合は、人を洗脳する魅了チャームの魔法に、肉体をコウモリに変える獣化の術。


 当然、九十九も自分だけの妖術を持っていた。


「だが、我が輩を愚弄するなッ!」


 両肩から先の存在しないオフダ・キュウケツキが、瞳を鈍い赤色に輝かせる。

 今、上下逆さの状態で自由落下に身を任せている九十九の背後からは、コウモリの群れが迫りつつあった。

 牙を剥いてキィキィと喚くそれらは当然、オフダ・キュウケツキの両腕だったモノたちである。


「──!」


 九十九の視線が流動する。

 空中で体を捻じらせ、後ろを振り向いた時には既にコウモリたちの牙が目前にあった。

 獣化の術によって変成した妖怪コウモリたちは、その全てが凡百の妖怪ほどに強い。


「喰らい尽くせ」

「そうは……させないっ!」


 咄嗟、刹那の内に体を反転させる。

 無防備な空中にあって、九十九は自由落下のままにコウモリの群れと相対した。

 大きく弧を描いて振り抜かれた火縄銃が、刻一刻と迫る妖怪コウモリに銃口を覗かせる。


 再度の銃声。

 コウモリの目と鼻の先で放たれた真っ赤な弾丸は、そのまま一番先頭にいたコウモリへと着弾し──


「ギ、キィイッ!?」


──爆発。


 普通の弾丸であればまず起こらない、激しい爆炎がコウモリの群れを呑み込んだ。

 弾丸から解き放たれるように吹き荒れる緋色の光と爆音が、夜の空に大きな華を咲かせる。


「なんだよこれ……なんなんだよ、これぇ!?」

「……凄い」


 傍らで喚く道人のノイズに意識を向ける余裕すら無く。

 姫華はただ、自分の目に映り込む“美しさ”に真っ当な語彙を零せずにいた。


 恐ろしさはあった。

 道人の変貌に、友人たちからの拒絶、オフダ・キュウケツキなる異形の出現と、目の前で行われた殺戮。


 そこに現れたのが九十九だ。

 彼らの言う事はあまり理解できなかったが、九十九や目の前のキツネとスズメもまた、オフダ・キュウケツキと同じ存在であるらしい。

 道人の目には、彼らがまったく同じ化け物に見えているのだろう。普通の人であれば、道人と同じ認識を抱くかもしれない。


 それでも。


(助けに……来てくれたんだ)


 姫華は、助けを求めた。

 九十九は、それに応えた。

 その事実だけが、今の姫華にとっては何より重要なのだから。


「……っと」


 燃え盛る波濤を当然のように掻い潜り、九十九は重力を感じさせない足取りで着地する。

 火縄銃を抱えて地に足を付けた彼の視線は、自分が倒すべき敵の姿を捉えて決して離さない。


 そんな九十九と相対するオフダ・キュウケツキの下に、彼が放ったコウモリの群れが帰還した。

 その数は明らかに減っており、中には体を焼き焦がした個体もいる。九十九が放った爆発に巻き込まれ、なお生き残った者たちだ。


 妖怪コウモリたちは肩から先を失った本体の両肩に群がると、すぐさま肉体を同化させて元の腕へと戻っていく。

 数秒もしない内に両腕を取り戻したオフダ・キュウケツキは、ゴキゴキと音を鳴らして軽く具合を確かめた。

 コウモリの受けたダメージが、彼にもフィードバックしているのだろう。よく見ると、腕には火傷の痕が見られる。


「……火行の気。捏ねて丸めた妖気に火をつけ、銃身に装填しているな? それが貴様の妖術か」

「答える義理は……無いよ」

「そうだろうな。わざわざ手札を晒す阿呆である筈も無し」


 ギラリと牙を剥くオフダ・キュウケツキ。

 何か仕掛けてくる。本能が鳴らす警鐘に従い、九十九が火縄銃を持ち直して狙撃の態勢を取り──


「では──これならば、どうだ!」


 オフダ・キュウケツキの瞳が輝いた。

 鮮血のように色濃く、それでいて汚泥のように鈍く、淀んだ赤色に輝く妖怪の目から迸る妖気の閃光。

 それは一瞬だけ周囲を真っ赤に照らし──九十九の両目は、その妖しげな輝きを目の当たりにしてしまった。


「…………っ!」


 動きが、止まる。

 赤色の光が宿す絶対隷属のまじないが、九十九の心を縛り付ける。

 たった一瞬で、九十九の体は金縛りを受けたかのように動かなくなった。


「どうだね? 我が輩が得意とする魅了チャームの魔法は」


 動けずにいる九十九の後頭部が、背後から鷲掴みにされる。

 九十九が金縛りにあった刹那の内、全身をコウモリの群れに変えたオフダ・キュウケツキが九十九の背後に回り、そのまま元の体へと戻ったのだ。

 後ろを取られた青年の冷や汗に、魔の妖怪はニタリと嗤う。


「貴様のような妖怪を洗脳する事は難しいが、拘束する分には──」


 後頭部を掴む左手はそのままに、振り上げた右手に膂力と妖気を集中させる。

 狙うは心臓。生ける者たちの急所にして、妖気の要たる生き肝。

 心臓を抉り出して潰し、或いは喰らって血と魂を啜り取る。そうすれば、如何な妖術師と言えどもたちまち死に至るものだ。


「覿面だ、ろうッ!!」


 絶死の爪が振り下ろされた。

 オフダ・キュウケツキの右手は、どんな肉であろうとも抉り切る殺意に満ち満ちていて、九十九の背中へと真っ直ぐに吸い込まれていく。

 恐るべき一撃が、今まさに肉へ突き刺さろうとした……その瞬間。


「──あ──?」


──当たらない。


 直撃の瞬間、九十九の全身が蜃気楼めいて歪み、そして彼を死に至らしめる筈だった爪によって完全に霧散した。

 ゆらりと僅かな残滓のみを残し、瞬きする間に虚空へと散る九十九の面影。

 攻撃が空振りに終わっただけでなく、抑え込んでいた筈の後頭部さえ消失した事で、オフダ・キュウケツキの態勢は空中で大きく崩れてしまう。


 なんとかバランスを立て直し、空中に立つ。

 このような珍妙な事ができる者は、この場に1人しかいるまい。

 即座に至った結論の下、赤い目を走らせてみれば。


「……っ。ありがとう、イナリ。助かったよ」

「なんのこれしき。坊ちゃんの為なら、わては粉骨砕身する所存に御座いやす」


 少し離れた場所の空間が揺らぎ、本当の景色が現出する。

 右肩を抑えて顔を歪める九十九と、その頭上に乗っかって尻尾を揺らすイナリ。

 イナリが咄嗟に行使した妖術は、至近距離から九十九を抑えていた筈のオフダ・キュウケツキの認識すら“ごまかし”たのだ。


 オフダ・キュウケツキが嫌悪の意を込めて舌打ちしたのを認めると、イナリはしたり顔で歯を剥いた。

 ゆらゆらと揺蕩う尻尾の動きは、さながら「どうだ、見たか」と勝ち誇っているようにも受け取れる。


「向こうはお千代に任せてありやす。しかし、アイツだけでは非戦闘員の護衛に不安があるのも事実。早いとこ片付けちまいやしょう」

「分かってる。分かってる……けど」


 九十九が見やるのは、今も抑えている自分の右肩だ。

 イナリのアシストによって、致命的な一打から逃れる事には成功した。しかし、完全に回避できたかと言えばそうではない。

 オフダ・キュウケツキの放つ強靭な爪は、九十九の肩を服の上から切り裂いて鮮血をしとどと溢れさせていた。


 吸血鬼にとっては甘美に感じられる血の気配。

 それを鋭敏に感じ取って、してやられた事への嫌悪に染まっていた魔の妖怪の表情に悦が滲み出る。


「無敵、無双、万夫不当に非ず。肉を裂けば血が迸り、命脈の炉は衰える。如何に大妖怪ヤタガラスの血筋と言えど、世代を重ねればただの小僧だな」


 こうしている間にも、オフダ・キュウケツキは次なる攻撃を仕込んでいる。躊躇する理由が無い。

 練り上げられた妖術が放たれるのは、果たして何秒先の事か。


「たかだか火男ひょっとこの手妻如き、種が割れればどうという事も無い。事実、貴様は我が魅了チャームの魔法に抵抗できぬようだからな?」

「……どう、かな。まだ、一手二手を攻防しただけ……でしょ?」

「ほざけ。ならば、三手目でより差を開けてやろう!」


 そう言うや否や、オフダ・キュウケツキの全身は瞬きする間に消散した。

 いや、姿が消えたのではない。先ほど同様、妖術を用いて全身を妖怪コウモリの群れへと変じさせたのだ。


 おぞまし気な羽音を立てるコウモリたちの体は、薄暗い夜の中にあってなお映えるほどに黒くあおい。

 変わらず九十九への殺意を宿すコウモリたちは、これまでのように群れを形成して襲い掛かるのではなく、むしろバラバラに離散して空中を飛び交っていた。

 その全てが個別の意思を持っているように見えるのは、やはりオフダ・キュウケツキの妖術が高い精度を誇っているが故か。


「ギィィィィィイイイイイィィィィィイ!!」


 聞く者が思わず顔を顰めてしまうほどの、歪な歯ぎしりの大合唱。

 たかが人間の肉であれば容易く噛み切ってしまうだろう牙の群れが、凄まじい速度で九十九とイナリを取り囲んだ。


 前方、後方、右、左、頭上。

 隙間という隙間を埋める形で包囲しながら、妖怪コウモリは何の号令も無しに九十九へ迫る。

 勿論、ただでやられる九十九である筈が無い。火縄銃に妖気の弾を込め、尻尾を逆立たせたイナリを頭に乗せたまま立ち上がった。


「「「「「【動くな】」」」」」


──視界の全てが、血河色に染まる。


 四方を覆い尽くした妖怪コウモリ、その全てが瞳を赤く光らせたのだ。

 オフダ・キュウケツキの振るう魅了チャームの魔法が、何も獣化状態では使えないなどと、一体どこの誰が決めたのだろうか?

 ましてや変成したコウモリの群れ、その1匹1匹が妖術を使う事ができないなどと、誰も言っていないではないか。


 四面楚歌。

 視界のどこに視線を巡らせても、赤く光るコウモリの目が己への魅了チャームを強いてくる。

 少しでも動きが止まれば、その隙をコウモリたちが貪り尽くすだろう。


 そして、それは現実のものとなる。

 九十九へと群がったコウモリたちが彼の姿を完全に見えなくした直後、バリバリとナニカを貪る不快な音が響き渡った。


「──ッ!? 八咫村くんっ!!」


 甲高い悲鳴が木霊する。

 助けに来てくれたクラスメイト、その身に降りかかっただろう惨劇を幻視して、姫華が恐怖と絶望の叫びを上げたのだ。


 居ても立ってもいられなくなり、思わず飛び出そうとする彼女の体を、後ろからお千代が引っ張った。

 制服の襟をちっちゃな足で掴まれて、姫華の口から「うっ」という声が出る。


「落ち着いてくださいまし」

「やっ、でも、だって! 八咫村くんが……っ!」

「よくご覧になって? わたくしがお仕えする若様は──」


 無数のコウモリで構築されたドームが吹き飛んだ。

 爆発と共に吹っ飛んだ上部から、瀕死のコウモリたちを掻き分けて──


「そんなにヤワではありませんのよ?」


 九十九が空中に躍り出た。

 身に纏った服はところどころが切り裂かれ、無数の切り傷からは血も見える。

 それでも九十九は生きていた。頭の上にはイナリも健在で、その尻尾はぶわりと逆立っている。


「いやはや、死ぬかと思いやした。見てくださいよ坊ちゃん、わてのキューティクルな毛並みがボロッボロでさ」

「助かったんだからいいでしょ! 振り落とされないでね」

「合点でさ!」


 火縄銃が、文字通りに火を吹いた。

 その銃口が狙うのは、当然ながら目下に群がる妖怪コウモリたち。


 上空から地上へと放たれた真っ赤な弾丸が、コウモリの内の1匹を貫き、その直下にいたもう1匹も巻き込んだ。

 燃える妖気の弾丸に撃ち抜かれたコウモリたちは、一瞬にして全身が燃え上がったのちに塵となって消滅する。


 自分が射殺したコウモリの末路を確認する事なく、九十九は流れるように火縄銃の照準をズラす。

 尋常の火縄銃とは違い、彼の攻撃に弾丸や火薬の装填は必要無い。火縄を装着する必要すら無い。

 ただ、弾丸の形にした妖気を詰め込めばそれでいい。


──BANG! BANG!


 狙撃銃ライフルでは凡そあり得ざる連射。

 虚空を焼き切り裂いて、2発の火炎は更に数体のコウモリたちを焼き尽くした。

 九十九が空中に飛び出してから、10秒すら経っていない。そんな状況下にあって、オフダ・キュウケツキの変じた妖怪コウモリたちは数体が消滅したのだ。


 オフダ・キュウケツキとて、それを黙って見ている訳が無い。

 無数のコウモリは規則の取れた動きで四散すると、空中の九十九目掛けてバサバサと翼をはためかす。

 それらの目は、いずれも赤く光っている。魅了チャームの魔法が起動している事は明らかだ。


「……!」


 

 自分を追ってきたコウモリたちの姿に、九十九は靴の裏で空中を蹴り飛ばす。

 足場すらない空中を、飛ぶように舞い踊る。こんな動きは、人間ではあり得ない。


 1秒前まで自分がいた場所にコウモリが群がっていく様を流し見て、空中でサマーソルトを描く九十九。

 火縄銃を構える両腕は、右肩を負傷している中であっても正確な構えを揺らがせない。

 故に、火縄銃から次の弾丸が撃ち放たれたのも当然の結果だ。


 射出された緋色の弾丸は、コウモリの群れのど真ん中に入り込むと同時に爆発。

 妖気が混じる爆炎に呑み込まれて、複数体のコウモリが灰塵へと成り果てた。


 それでもなお、全てのコウモリが爆散した訳ではない。全体の半分も減ってはいないだろう。

 爆発を逃れたコウモリたちは再び隊列を組み、黒い霧にも思える塊となって宙を切る。


(……おかしい。変成した我が輩は個にして集、集にして個。いくらあのバケギツネが“ごまかし”の術を扱えるからと言って、目まぐるしく変動する我が輩全ての目に“ごまかし”が効く筈など……)


 オフダ・キュウケツキは疑念を抱いていた。

 ここまでの攻防で、イナリなるキュウス・バケギツネが“ごまかし”の術を使う事は分かり切っていた。

 幻惑の妖気によって認識・意識を“ごまかし”、視界さえ歪めるのが奴の術であるならば、この状況は些かおかしいと言わざるを得ない。


 何故って、今のオフダ・キュウケツキは自身の妖術によって体を無数のコウモリに変えている状態だ。

 その動きや位置取りも個体によって自在に異なり、その全てを捕捉する事は至難の業。

 加えて、それらの個体全てが個別に妖術を使う事ができる。無数の群れが一斉に魅了チャームの魔法を放つ以上、そこから逃れる術は無いように思えた。


 にも拘らず、九十九は今も空中を跳ね飛んでいるではないか。先般、オフダ・キュウケツキの魔法を受けて動けずにいた九十九が、である。


 考えられる答えは1つ。九十九の頭に乗っかっているイナリが、“ごまかし”の術を使っている。

 だが、そこで先の疑問に回帰する。絶えず流動するコウモリの群れ全てに対して、それも抵抗レジストの意思を持つ妖怪相手に“ごまかし”を維持し続ける事など可能なのだろうか?

 あのバケギツネに、そこまで高度な妖術が扱えるのだろうか?


「……そこ!」


 新たな銃声が、そんな思考を打ち砕いた。

 撃ち放たれた銃弾は、今までのそれよりも大きく、より濃い赤に染まっていた。

 しかし、九十九の燃える弾丸はこれまでにも数発撃たれていた。その軌道や速度を見抜けないオフダ・キュウケツキではない。


 それが通常の弾丸であれば、の話である。


(馬鹿め! そのような見え見えの弾丸、大振りにも程が──ッ!?)


 4つに割れた。

 銃口から飛び出た大きな銃弾が、中途で4つの塊に分離して小さな弾丸を形成した。

 そうして4つの弾丸はそのまま、慣性の法則を真っ向から無視するように、それぞれが別途に巨大な弧を描く。


 ある弾丸は右にカーブを、ある弾丸は左にカーブを、またある弾丸は上下それぞれに軌道を曲げる。

 それらはいずれも、オフダ・キュウケツキ扮するコウモリの群れへと向かっていた。


(不味いっ!? これは──)


 これは、一種の狩りだ。

 先ほどオフダ・キュウケツキが九十九に対して行った追い込みの意趣返しか、別個の弧を描く4つの弾丸は上下左右からコウモリの群れを狙う。

 逃げ場は無い。どの方向へ向かっても、その先には火の弾丸があるのだから。


 つまるところ、この攻撃を回避する事は叶わないが故に。


「ぐっ──ぁあぁっ!?!?」


 四方から妖怪コウモリ軍団を追い詰めた全ての弾丸が、一斉に起爆した。

 上下左右の爆炎から逃れる事は限りなく困難で、その場にいた全てのコウモリが炎に包まれた。


 夜空に咲いた大きな花火に照らされて、九十九が地上に着地する。

 頭に乗ったイナリは、未だ尻尾を逆立たせていた。彼らの視線は、いずれも空の爆炎に向いている。


 そんな炎の華を突き破って、黒い影が落ちてきた。

 ベシャリ、と奇怪な音を立てて地面にぶつかったそれは、夜の薄暗さゆえに肉塊にも見えただろう。


「ぐ、ぅう……っ! くそっ、糞餓鬼めぇっ……!」


 尤も、肉塊の正体はオフダ・キュウケツキである。

 数え切れないほどの火傷を身に帯びて、貴族を思わせていた服装はボロボロじゃない個所を探す方が困難だ。

 怒りと憎しみで赤い目をより一層濁らせながら、オフダ・キュウケツキは痛みに歯を食い縛った。牙が鈍く瞬いて、九十九への殺意を表現しているようにも見える。


「だが……分かったぞ。これほど長時間に渡って、貴様に魅了(チャーム)の魔法が効かない理由が!」


 指をさす。

 恐ろしく長い指の、これまた恐ろしく鋭い爪の切っ先が向けられたのは、憎き怨敵たる九十九……ではなく、彼の頭の上に乗ったイナリである。

 未だ尻尾を逆立たせているイナリは、自分に向けられた指を見て「へっ」と不敵に笑う。


「そのバケギツネが“ごまかし”の術をかけている対象……それは我が輩ではなく、そこの糞餓鬼だろう!? 糞餓鬼自身の認識を“ごまかし”、我が輩の視線を意識できなくしている……!」

「へへ、今更気付いたってもう遅ぇや。畳み掛けましょうぜ、坊ちゃん」

「うん。……白咲さんたちの為にも、終わらせよう」

「抜かせ……! 勝ち誇るには早いぞ、糞餓鬼!」


 オフダ・キュウケツキの肉体が、更なる変成を見せる。

 火傷を押してなお、その膂力、妖気が衰える兆しは無かった。


 長く鋭い爪の目立つ両手は、熊や狼のそれを混ぜ合わせたように歪な、かつ殺傷性の高い形状へとすり替わっていく。

 肩が隆起し、足が太く頑丈に肥大化して、それらのバランスを取る為に胸や腰回りも膨張する。

 襤褸切れ同然の夜会服は、もう不要と言わんばかりにはち切れて布切れへと成り下がる。


「その余裕ヅラ、貴様の生き肝を抉り出す事で歪めてくれよう!」


 踏み込みがあまりにも強過ぎて、オフダ・キュウケツキの足元のアスファルトが砕け散った。

 そんな瓦礫さえ煩わし気に蹴り飛ばし、砲弾紛いの速度で九十九に肉薄する。

 真っ向から襲来する暴力に対抗するべく、九十九は火縄銃に弾を込め、イナリは妖術の励起を再開する。


「来やしたぜ、坊ちゃん。妖怪相手の至近戦闘インファイトには何卒お気を付け──をぉおぁっ!?」


 イナリが吹き飛んだ。それを成したのは、3匹ほどの妖怪コウモリだ。

 確かにオフダ・キュウケツキは、四方から襲い掛かってきた爆炎の中で獣化の術を解き、元の姿へと戻った。

 しかしその際、3匹だけ分離させたまま、爆炎に紛れて潜伏させていた個体が存在していたのだ。


 その個体たちが今、意識の死角からイナリの不意を打つ。

 3匹のコウモリたちから突進紛いの噛みつき攻撃を受けたイナリは、そのままの勢いで九十九から遠ざかっていく。


「イナリっ!?」

「わては気にしないでくだせぇ! それよりも──」

「他所見をしている場合かね、糞餓鬼ィッ!!」


 アイアンクローが襲来する。

 コウモリの奇襲に動揺した九十九の隙を突き、至近距離まで到達したオフダ・キュウケツキ。

 その膂力と殺意を込めた爪の一撃が、九十九の土手っ腹を狙い撃つ。


「くっ……!」


 脅威に等しい爪が自らに突き刺さる直前、九十九は体を屈める事で回避する。

 そのままの動きでオフダ・キュウケツキの左側面に滑り込み、これまた至近距離から見上げる形で、銃口を敵の頭部に向ける。

 銃口が火を吹き、妖気弾は敵のこめかみを穿たんとした。


「そう何度も喰らうと思うなァッ!!」


 しかし、回避される。

 ギリギリのところで首をズラしたオフダ・キュウケツキの眼前を、弾丸が通り過ぎる。

 正真正銘「目と鼻の先」を掠め、熱量で鼻先を焦がした弾丸を見送る事なく、オフダ・キュウケツキは次なる一撃の為に爪を振り上げた。


 そんな大振りの、しかし速度を伴った爪での攻撃は、九十九が大きく飛び退く事で直撃を免れた。

 それでも、爪が穿ち抜いたアスファルトは爆散したように吹き飛んで、轟音が彼我の肌に突き刺さる。


 後ろに飛び退く勢いのまま、何度も行った火縄銃の構えを九十九が見せる。

 そうして放たれた弾丸を、オフダ・キュウケツキはやはり回避しながら駆け出し、九十九に接敵した。

 火縄銃の銃口と、鋭利かつ強靭な爪が、それぞれの剣であらんと交差する。


 銃撃、回避、斬撃、回避、射撃、回避、斬撃、回避。

 息もつかせぬ人外同士の至近戦闘インファイト。これが殺し合いでなければ、きっと多額の金銭を賭けるに値する興行としても成立し得るだろう。

 けれどもこれは真剣勝負。銃弾が、爪が彼らの体を掠める度に、その肉体には傷が刻まれていくものだ。


「八咫村くん……」


 その応酬を、姫華は離れたところからずっと見続けていた。

 介入はしない。できる訳が無い。あのような全力の殺し合いに、姫華の何が介在できるというのか。


「勝てるの、かな……。あんな化け物……ううん、妖怪相手に」

「そ、そうだ! さっさとやっちまえよ、そんな化け物! 化け物同士殺し合って、ちびカラスともどもくたばってしまえば……」

「ちょっと黙ってて!」

「なっ……!?」


 自分勝手に騒ぎ立てる道人を怒鳴る。

 つい衝動的に声を荒げてしまったが、そんな事は気にせずに目の前の戦闘へと目を向けた。

 姫華が声を荒げて口答えしてくるなど、思いもしなかったのだろう。苛立った道人が食ってかかろうとして、しかしお千代に制止された。


「お前ぇ……っ!」

「あらあら。そんなに騒ぎ立てては、あのコウモリ野郎がこちらに意識を向けるかもしれませんわよ?」

「チッ……!」


 お千代はパタパタと翼を上下させて、姫華の頭の上に乗った。

 ちっちゃな足が白い髪に優しく乗っかって、翼を畳んだお千代が胸を張る。


「あなたもですわ。殿方の勝利を疑うなど、些か“れでぃ”が足りていませんこと?」

「で、も……相手も強そうで、八咫村くんもたくさん傷ついて……」

「そういう時に、“れでぃ”はどうあるべきか。分かりまして?」


 嘴を尖らせて、つんと澄まらせる。

 自らが仕える「若様」の死闘を見る藍色の目は、一時たりとも濁ってはいない。


「『勝って』、『負けないで』、そう祈る事こそが肝要ですわ。“れでぃ”の声援さえあれば、どんな殿方でも百戦錬磨の“いけめん”に早変わりでしてよ」

「せい、えん……祈る、って──!?」


 その音は、形勢逆転を示唆しているように思えた。


 異形に歪んだ右腕が、アッパーカットのような構えを見せていた。

 その爪がかち上げた火縄銃は、空中でクルクルと回転しながら闇の奥へと消えていく。

 接戦と応酬の果てに、オフダ・キュウケツキが九十九の武器を弾いたのだ。


 濁った赤い瞳が捉えるは、武器を弾き飛ばされた拍子に無褒美な姿を晒す九十九。

 驚愕に見開く黒い瞳が対照的で、勝利の天秤がオフダ・キュウケツキに傾きつつある事は誰の目から見ても明らかだった。


 口角が吊り上がる。勝利の美酒の到来を予感して、舌の上に甘い血の香りが湧き立った。

 火縄銃をかち上げる為に振り抜いた右腕の代わり、オフダ・キュウケツキは左手を大きく引いた。


「死ねェ、リトル・ヤタガラスッ!!」

「……っ」


 ギリ、と歯を擦り合わせる。

 普通の人間が、この戦いを見ていたとして。ここから九十九が逆転するヴィジョンを、誰が想像できるだろうか?

 きっと誰もが、八咫村 九十九の敗北を悟る。リトル・ヤタガラスの死を予測する。


「…………って」


 決して、そうではない。


「勝って! っ!」


 九十九は、確かに聞き取った。

 遠く離れた姫華が。死闘を見守っていた姫華が。守るべき相手である姫華が。

 自分に向けて贈った、祈るような声援を。


 それがどうしたと、そう嘯く者もいるだろう。

 心の強さは戦いに寄与しないと、そう嘯く者もいるだろう。

 声援1つで勝てる筈が無いと、そう嘲る者もいるだろう。


 それでも。それでも、だ。


「──大丈夫」


 九十九は、姫華の声援を受け取った。

 彼女の祈りを、己の心に響かせた。


八咫烏ヤタガラスは、必ず勝つ」


 だから彼は、1歩を踏み出す事ができたのだ。


「…………あ……?」


 左の、肘から先が消滅した。

 たった今、振り抜いた筈だ。九十九の心臓を抉る為に、オフダ・キュウケツキは左の爪を振り抜いた筈なのだ。

 その腕が今、肘より先の一切を失っていた。


 視線を動かす。視界の端にナニカを捉えた。

 果たしてそれは、オフダ・キュウケツキが探してやまない左腕だった。

 切り口は焼け焦げていて、そこから瞬く間に燃え広がった炎が、空中で左腕を消し炭に変えていく。


 視線を落とせば、肘の切り口もまた焼けていた。

 まるで、高温に熱された刃物か何かで切り飛ばされたかのように──


「……僕は昔から、“魔法の手”って呼ばれていてさ」


 九十九の右手には、1本のナイフが握られていた。

 それ自体は大した事の無い、どこにでも売っているような市販品のものだ。

 しかし、刀身がメラメラと炎に包まれているそれを指して、市販品のナイフと呼べる者は誰もいまい。


「どんな道具でも使う事ができた、使いこなせた。でも、本当はそうじゃない。そうじゃなかったんだ」


 ただのナイフが、妖気を纏わせただけのナイフが、自分の腕を切り飛ばした。

 その事実を理解した瞬間、オフダ・キュウケツキは激昂した。


「オ──オォオォォォオオオオォォオオォオオォォォオオオオオオォオッ!!」


 目の前の存在を、跡形もなく滅びし尽くす。

 激情と衝動に支配されたオフダ・キュウケツキの本能は、技巧や駆け引きも無い、ただの拳を九十九に叩き付けんとした。

 左腕は使えない。故に右腕を使う。生き肝など知った事ではない。この糞餓鬼の頭を潰して、柘榴の実のようにしなければ気が済まない。


 その一撃はどう見ても、隙だらけのテレフォンパンチ。

 くるりと手の内でナイフを転がした九十九は、ナイフを逆手に構えてそれを迎撃した。


「銃を使うとか、火の弾丸を作るとか。そんなものは全部、おまけに過ぎないんだ」


 迫り来る拳に刀身を添えて、児戯のように容易く絡め取る。

 絡め取られた腕は勢いを残したまま、添えられたナイフに誘導される形で、その軌道を大きくズラされた。


 九十九を狙った筈の拳が、九十九に掠りもしなかった現実に、オフダ・キュウケツキは目を見開いた。

 必要最小限の力と動きで攻撃を無力化した九十九は、即座にナイフを構え直し、その刀身にもう1度炎を宿らせる。

 再び振るわれた斬撃は、今度は右腕を切り飛ばす。


 ボトリ、と地面に叩き落された右腕が、炎に呑まれて塵となる。

 苦悶の声を漏らすオフダ・キュウケツキ。その視線が、九十九の冷静なそれと交差した。


「──使。それが、僕の妖術だ」

「こン──の、混ざり者がァァァァァアアアアアッ!!」


 口を開く。オフダ・キュウケツキの口内には、無数の牙がビッシリと生え揃っていた。

 両腕が失われたのならば、今度は牙を以て喉笛を噛み千切ればいい。

 そんな意図を抱き、勢いよく首を伸ばして九十九の首筋へ迫る。


 どんな鮫や猟犬よりも殺傷性に満ちた牙が九十九を噛み砕こうとしたその直後──九十九の姿が、幻影のように揺らいで消えた。

 空間の揺らぎを引き裂いてたたらを踏みながらも、オフダ・キュウケツキは転ばないよう地面を踏み締める。

 先ほどまで目の前にあった筈の幻を掴み損ねて、瞬時に理解した。


 また、“”のだと。


「狐七化け、狸八化け。ま、お前みたいなシャバ僧相手じゃあ、三化けでも十分過ぎるくらいだと思いやすがね」


 オフダ・キュウケツキが放った妖怪コウモリ、その最後の1匹が噛み潰される。

 他の2匹は既に仕留め終わったらしい。コウモリの喉笛を牙で引き裂いて、イナリがニヤリと笑った。

 その尻尾は逆立っていて、彼が“ごまかし”の術を使ったのだと嫌でも理解する。


 そう理解したからこそ、オフダ・キュウケツキは周囲を見回して──


「護衛を遂行する。若様の支援をする」


 黒い羽根の存在まで“ごまかされて”いたのだと、終ぞ気付かなかった。

 オフダ・キュウケツキの頭部に黒い羽根が纏わりついて、視界を漆黒に変貌させる。

 不意を打たれたが故に2度と脱却できぬ“めくら”の術に囚われたオフダ・キュウケツキを、羽ばたきながら見下ろす影が1つ。


「その両立こそが、“ぱーふぇくと”な“れでぃ”の心得でしてよ。お忘れなきよう」

「おっ、おの、れぇぇぇぇぇ……!」


 恨みの声を上げるオフダ・キュウケツキから視線を外し、お千代はある一点を見た。

 イナリもまた、お千代と同じ方向を見やる。そこに“勝利”が立っているからだ。

 姫華もつられてそちらを見る。そして、思わず笑みを浮かべてしまう。


 夜が徐々に深まる中、暗い道路に溶け込む形で佇む影こそは。


「……終わりだよ」


──八咫村 九十九リトル・ヤタガラス


 オフダ・キュウケツキに弾かれた火縄銃を拾い上げ、銃口を向ける姿がそこにはあった。

 銃弾は既に装填されている。その為の隙を、イナリとお千代が稼いでくれた。


 道具の使い方を十全に理解する。それが、リトル・ヤタガラスの妖術である。

 で、あるならば。視界を塞がれた今のオフダ・キュウケツキから、火縄銃の狙いが逸れる事はあり得ない。

 引き金を引けば、中に込められた火の妖気が暴れ出し──


「穿て、“日輪”」


 勝利の号砲が奏でられた。

 銃口から飛び出してきたのは、炎で構築された3本足の巨大なカラス。

 大きく開いたその嘴からは何も聞こえない。しかし、その威風を見た者は、誰もが勝鬨にも似たけたたましい叫びを耳にしただろう。


 夜闇を照らし、飛翔する赤い翼。

 真っ直ぐにオフダ・キュウケツキを狙う勝利のカラスは、その肉体をより燃え上がらせた。


「なっ──がぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあ!?!?!?」


 着弾。

 燃え盛るカラスが胸部に着弾すると同時に、その余波を演出するかのようにオフダ・キュウケツキの背中に緋色の輪っかが刻まれた。

 濃縮された炎の妖気は、妖怪を構築する核とも言えるナニカを穿ち、全身を舐めるように灼熱が広がっていく。


 それは、オフダ・キュウケツキに致命的な一撃が与えられた事を意味していた。


「あ、ぁあああぁあぁ……!? 消える……我が輩の存在が、消えていく……っ!」


 穿たれた胸部を中心として、燃え広がる妖気の炎。

 右腕が、左腕が、下半身が、見る見る内に燃えカスへと成り果てていく。

 炎は首から上にも到達しつつあり、今まさに顎が焼けていくところだった。


「嫌だ……嫌だ! “げえむおおばあ”になど、なりたくないっ! 我が輩は、まだっ……血を……吸い、た…………おの、れ、ぇっ…………」


 そうして、全てが焼き尽くされた。

 断末魔の叫びすら燃やし尽くし、オフダ・キュウケツキは完全に消滅する。


 ヒラリ、とその場に零れ落ちたのは、彼の素体になった古びたお札。

 オフダ・キュウケツキという妖怪の死を表すように、お札は真っ二つに裂け、真っ黒に焦げていた。

 しかしそのお札も、不意に吹き付けた風に乗ってどこかへと消え去っていった。


 奇妙な静けさが、暫し辺りを支配する。

 やがて沈黙を破ったのは、姫華が砂利を踏み締めた音だ。


「…………終わった、の?」

「……うん」


 姫華が、ポツリと呟いた。

 その呟きに、火縄銃を下ろした九十九が肯定の頷きを示す。


「勝った……んだよ、ね?」

「うん、勝ったよ」

「助けに来てくれた、の?」

「うん」


 九十九が笑みを見せる。

 そこには、いつものダウナーっぽさが宿りつつも、柔らかい優しさに満ちていて。


「白咲さんを、助けに来たんだ」


 その一言は、この上なく姫華を救った。

 もう枯れ果てたかと思った涙が、じわりと溢れ出る。


「九十九、くん。あの、私──」

「この、化け物っ!!」


 全ての視線が、声の主に集中する。

 やはりというかなんというか、声の主は道人だった。


 彼は恐怖とか嫌悪とか、勝ち誇ったようなとか、そういう情動がごちゃ混ぜになった表情を浮かべている。

 その指先は力強く、九十九に向けられていた。まるで、九十九が犯罪者であると糾弾しているかのよう。


「み、見たぞ……ふへへ、俺は見たぞっ! お前の正体を……! へへ、まさか陰キャのちびカラスの正体が、まさか化け物だったなんてなぁ……!」


 山ン本からもらったお札で、クラス中の人間を支配下に置いたのも。

 そのお札がオフダ・キュウケツキなる妖怪に変わって、自分たちを襲ってきたのも。

 そこに駆け付けた九十九たちが、オフダ・キュウケツキを倒してくれたのも。


 道人の都合の良い頭からは、全て忘却されてしまったのだろう。

 今の彼はただ、九十九という「人間の皮を被った恐ろしい化け物」を排斥する為だけに思考を働かせていた。


「これ、この事をさぁ……他の連中にバラしたらどうなると思う? お前はたちまち社会の敵さ! 頼んでもねぇのにヒーロー気取りしやがって……そういう化け物をなぁ、俺たち一般市民は犯罪者って呼ぶんだよ!」

「……ねぇ」

「お前は終わりだよ、ちびカラス! 一般市民を代表して、俺が正義の裁きを」

「ねぇ」


 九十九を視線から庇うように、姫華が道人の前に立つ。

 その表情はいっそ清々しいほどの無感情で、なんの情動も宿っていなかった。

 それを見て一瞬だけ立ち竦んだ道人だったが、すぐに威勢を取り戻す。


「あん? なんだ、姫華かよ。お前もアイツが気持ち悪いだろ? 小学生の時から同じ幼馴染なんだ、ここは一致団結してアイツを……」

「ねぇ」

「……なんだよ、姫華の分際でウザってぇ。大体、そういうところがお前は」


──パァン!


 小気味の良い音が、郊外の空に響き渡って溶けていく。

 姫華渾身の平手打ちは、ものの見事に道人の頬にクリーンヒットした。


 何をされたのか分からず、道人はぶたれて赤くなった頬をゆっくりさする。

 視線を前に向けると、そこには怒りの形相で道人を睨みつける姫華がいた。


、あなた」


 不良たちをけしかけて姫華を乱暴しようとしていた時、道人が言い放った言葉である。

 意趣返しに言うだけ言って、姫華はかつての幼馴染に背を向けて歩き出す。

 それが姫華から道人への決別であると、彼には理解できただろうか?


「な、な、な……!」


 いや、理解できていないのだろう。

 姫華にぶたれた。その事実だけを理解して、道人の顔が真っ赤に染まる。


「姫華、テメェ──」

「そこから先はダサいってモンじゃないぜ、小僧」


 不意に暗くなる視界。

 しかしてそれは朝に起きた騒ぎのように視力が低下したとかではなく、純粋にによって遮られたが故の事。

 おぞましい気配を感じながらも、道人は恐る恐る見上げる。


「ひ、ぃいっ!?」

「わてらはいつでも、お前を頭から貪る事ができるんでさ。それをやらない意味、よーく考えるこったな」


 そこに立っていたのは、大型トラックほどに巨大な体躯を持つキツネだった。

 いや、キツネと呼ぶ事さえ憚れるだろう。おぞましくリアルで、見るからに獰猛なモンスターがそこにいた。

 こちらを食い殺さんと睨みつけてくるモンスターを前に、道人は呼吸さえ疎かになる。


 金色の毛皮や口元にベッタリとついている赤色は、何かの血液だろうか。

 恐らくは……この怪物が貪り喰ったナニカの。


 モンスターが口を開き、吐息を道人に浴びせつける。

 生温く、生臭い。吐き気を催すような吐息の匂いの奥に、道人は“死”を嗅ぎ取った。


「妖怪を畏れろ、人間。妖怪はいつでも、影からお前たちを見ている」

「あ……あぁ……ぁ……」


 ガクガクと震えが止まらない。

 道人の顔は恐怖で死人ほどに蒼褪めて……やがて、その場に膝をついた。


 ガックリと項垂れて、何も無いアスファルトに視線を這わせる。

 今顔を上げれば、視界に入る暗闇全てが恐ろしく見えてしまうから。

 目につくモノ全てから、恐ろしい妖怪が現れそうに思えてしまうから。


 そんな道人の有り様を見て、遠くから姫華がコテンと首を傾げた。

 彼女には、今の道人の恐怖が分からない。だって──


「アイツ、なんで項垂れているのかしら……? 目の前にはイナリさん?しかいないのに」

「ふふ。さて、どうしてでしょうね」


 姫華の目には、項垂れる道人の前に佇む、小さなイナリの姿しか見えなかった。

 その尻尾はゆらゆらと揺らぎつつも逆立っていて、イナリは鼻で笑いながら、ちっちゃな後ろ足で頭を掻いた。

 不思議そうな顔をする姫華に、傍らを飛ぶお千代がクスリと笑いかける。


「案外、のかもしれませんわよ? ま、上手く“ごまかされた”と思っておくのがいいですわ」

「むぅ……? よく分からないけれど……」


 そう言いつつも、姫華の視線と足は前に向いている。

 目指す場所はただ一点。そこに辿り着いて、姫華は歩みを止めた。

 どうしようもなく顔を綻ばせて、そこに立つヒーローを真っ直ぐ見下ろす。


「九十九くん」

「白咲さん」


 呼びかけに応えた九十九の表情は、やはりいつものダウナー染みたそれだ。

 時間の問題もあるだろうが、どこか眠たそうで、見方によれば不機嫌そうで。


 ……だからだろうか。そんな彼の表情に、姫華は“日常”を見た。

 ようやく、“日常”に帰ってきたのだと。およそ半日を費やした“非日常”からの逃走劇に、とうとう終止符が打たれたのだと。


「これで、終わったんだよね?」

「うん。クラスメイトたちにかけられた洗脳は、イナリが解いてくれた。朝の騒ぎも上手く“ごまかして”もらったし……イナリには、いつも助けられているよ」

「あら、わたくしの一助もあったように思えますけど?」

「当然、お千代にも助けられたさ。君たち2人がいないと、僕には……どうする事もできなかった」

「……ううん、そんな事は無いよ」


 九十九の自嘲を、姫華が首を振って否定する。

 綻んだ頬を上手く引き締めて、慈愛の笑みを見せた。

 頬が紅潮しているのは……多分、九十九の使う火の術に熱せられたからだ。きっと、そうに違いない。


「九十九くんは、私を助けてくれたもん。3日前も、今日も。イナリさんやお千代さんの助けもあっただろうけど……それでも、私を助けようって最初に思ってくれたのは、九十九くんなんだよね?」

「……うん。僕が助けたいと思ったから、2人とも力を貸してくれたんだ」

「だったら!」


 姫華が両手を伸ばし、九十九の両手を掴む。

 その拍子にポロリと零れ落ちた火縄銃は、お千代がサッと回収してくれたらしい。

 いきなりの事に目を見開く九十九だったが、そんな事はお構いなしに姫華は互いの両手を握った。


 2人の視線がぶつかり合う。

 九十九の黒い瞳と、姫華の瑠璃色を帯びた瞳が、互いに互いを見つめ合った。

 姫華の真剣な眼差しに、面食らった九十九もまた誠実に見返す。


「だったら……やっぱり、九十九くんのおかげだよ。今日1日だけで、私の常識は全部めちゃめちゃになっちゃったけど……でも、九十九くんが助けてくれなかったら、私はあの妖怪に血を吸われて死んじゃってた」

「……白咲さん」

「ちゃんと覚えててくれたんだ。誰かに助けてほしい、っていう私の願い」


 微笑みかける。

 頬を赤らめて、口元を緩めて、喜びの感情を押し出して。涙だって、思わず零れてしまったけれど。


「九十九くんは、私のヒーローなんだ。ありがとう!」


 涙ながらの笑顔に、九十九は思わず息を呑む。

 九十九は今まで意識もしてこなかったが、姫華は美少女として学校でも人気の高い人物なのだ。

 そんな少女から自分だけに向けられた笑みである。ドキリとしない訳が無い。


 その頬が姫華同様に赤らんだ事を、傍で見ていたお千代だけが知っていた。

 彼女は「イナリには絶対に教えない」と固く決意したが、当然そんな事は口に出さない。

 ただ、2人の少年少女のやり取りをニヤニヤしながら見守るだけである。


「ど……どういたしまし、て?」

「うんっ! 今日の九十九くん、とっても格好良かったよ!」


 姫華の手を握る力が、自然と強まった。

 女子の体温を超至近距離から感じ取って、陰キャを自称する九十九はついドキマギしてしまう。

 そうやって目を白黒させる九十九の姿さえ、今の姫華にとっては心地よい。


「いやぁ……青春ですわねぇ、アオハルですわねぇ」

「なんでぇ、お千代。お前はああいうの、喜々として茶化しそうと思ってたんだが」

「へんっ、江戸育ちの年寄りキツネには分からないのですわ」


 いつの間にか隣に来ていたイナリの「なにおう」という抗議を聞き流し、お千代はあんぐりと嘴を開いた。

 そこに火縄銃を放り込めば、本来であれば口の中に入らない、ましてや体内に収まる筈の無い火縄銃がたちまち消えていく。

 火縄銃をゴクリと飲み下し、お千代は小さくウインクをしてみせた。


「“れでぃ”から“ひーろー”への感謝の言葉は、何びとたりとも邪魔してはいけませんのよ♪」





「…………あァ、あ」


 街のどこか。

 誰もがその場所を知らない。誰もがその場所に辿り着けない。


 しかし、それは昼の世界の住人に限った話。

 夜の世界の住人であれば、誰もが知っていて、辿り着く事のできる場所。


 その名を、古美術店『現代堂』。

 店内のカウンターにどっかと腰を下ろして、山ン本は大きく溜め息をついた。

 手に持つ長いキセルからは、相も変わらず甘ったるい煙が湧き出ている。


「やられちまったのかい、オフダの奴。これで、“げえむおおばあ”になった“ぷれいやあ”は4人目だねェ」


 儚げに首を振り、キセルを口にする。

 甘ったるく青臭い煙をみ、その目に憂いを宿らせた。


「八咫村家の小倅ねェ……中々どうしてやるじゃないか。“げえむ”の障害なんてモノじゃない。アイツはさながら、“ぼすきゃら”だねェ」


 ふぅ、と煙を吐き出した。

 ヌラリと宙を舞う煙は、その甘ったるい匂いを店内に充満させる。


 その瞬間、四方から無数の物音が起きた。

 ボロボロの掛け軸、薄汚い仏像、無駄に大きな招き猫、何に使うのかさえ分からないブリキの置物。

 店内に置かれたそれら全ての商品が、まるで生きて自我を持っているかのように一斉に動き出したのだ。


 そんなポルターガイスト染みた異変に対して、山ン本は妖しくおぞましく笑うのみ。


「ヒヒヒヒヒッ、そう急くんじゃないよォ。お前さんたちの出番も、ちゃァんと用意してあげるからさァ」


 常識破りの長さを誇るキセルが、山ン本の指先1つでクルクルと回る。

 その度に青臭い煙が舞い踊り、夜闇に満ち満ちた空間を更なる甘ったるさが支配した。


 山ン本がヌラリと目を瞑る。

 瞼の下で、彼は如何なる策謀を巡らせているのだろうか。


「盛り上がりってのは大事だろう? あたしはね、お前さんたちをどう魅せるか。それで頭が一杯なのさァ」


 目を開く。

 ドロドロと濁り切った目が、店内を視界に収める。


「だから、さ。ちィと待っててくれよ、小童こわっぱども」


 視界一杯に、たくさんの異形たちが映り込んだ。

 先ほどまではいなかった筈だ。否、彼らは確かににいた。彼らはずっとにいた。


 9本の尾を持つキツネがいた。全身に陶磁器を纏う鎧武者がいた。

 烏天狗がいた。鬼がいた。河童がいた。一つ目のついた傘がいた。


 彼らは妖怪である。道具に妖気が宿り、魂が芽生えて変化ヘンゲした魔性の者どもだ。

 山ン本の下に集い、昼の世界を覆し、夜の世界で覇を唱えんとする侵略者たち。

 いずれは“げえむ”の“ぷれいやあ”となり、人間たちに畏れを振り撒いて暴虐の限りを尽くそうとする者たち。


 彼らを一瞥して、山ン本は虚ろに笑った。


「きっと面白くなるからねェ。きっと楽しくなるからねェ。あの小倅を巻き込んでやる“げえむ”は、きっと白熱するに決まってるよォ」


 キセルを杖めいて振り回す。

 もうもうと甘ったるい煙を吐き散らすキセルは、さながら英雄が掲げる戦旗のようにも見えた。

 そして、それはあながち間違ってもいない。少なくとも、彼らにとっては。


 彼らこそ、現代に蘇った妖怪集団。

 この世を夜と闇に落とさんと企む、悪しき魔性の九十九神ツクモガミたち。

 外法から生まれ出でた夜の世界の住人たちによる、最新最高の百鬼夜行。


「一緒に頑張ろうじゃないか。この世界に、妖怪文明を築き上げるのさァ」


 長の名は、大妖怪キセル・ヌラリヒョン。

 そのあざなを、魔王の称号たる“山ン本ヤマンモト”。





 早朝。


「なんか……なーんか、昨日の記憶が朧げなんだよなー。正確には、昨日の朝の記憶なんだけど」

「ふぅん……痴呆? 光太もボケ対策始めた方がいいんじゃない?」

「うるせぇやい。俺ぁそこまで耄碌してねーぜ九十九っち」


 やや肌寒い朝の河川敷を、2人の青年が歩いていた。

 彼らは2人とも、高校に向かう最中である。


 1人は日樫 光太。学生鞄を肩に担いで、自分に起きたらしい異変を訝しむように首を傾げている。

 もう1人は八咫村 九十九。リュックサックを背負った彼は、光太の言葉にすっ呆けるような言葉を返す。


「昨日の朝さー、俺ちゃんとホームルーム出てたよなー? あん時、なんか変なコトがあったよーな……気のせいか?」

「うーん……昨日の授業はバックレたから、よく分かんないや」

「おやおや、真面目一辺倒の九十九くんとは思えない発言頂きましたぁーっ。そういやお前、昨日は見かけなかったんだよな。どした? 風邪でも引いたか?」

「ま、色々あってさ」


 さらりと流すような物言いに、頬を掻きながら「そういうもんか」と追及しない光太。

 彼が頭の後ろで腕を組みながら1歩先を歩くのを見て、九十九は僅かにリュックサックを揺すった。


(それで、昨日の一件は本当に“ごまかし”が効いているんだよね?)

(へぇ。日樫殿や白咲殿のような例外はともかく、ただの人間程度なら容易くわての術にかかりやす。灰管に靡く奴も、白咲殿を蔑む者も、両方もうおりやせん)

(なら良かった……白咲さんも、ちゃんと学校に通えるようになるといいんだけど)


「……やっぱさ、九十九。お前、なんか見えない系の誰かと喋ってない?」

「光太……可哀想に、耳も老化が始まったんだね……」

「よーっし、喧嘩の時間だぜつくもん。お前がサッカーボール、俺はバットを構えたプロ野球選手って設定で行こう」

「異種格闘技戦だぁ……」


 そんな馬鹿話を交わしながら、2人は学校への道をのんびり歩く。

 まさしく平穏そのもの。平和な朝と日常を噛み締めて、九十九は嬉しそうに目を細めた。


 その時である。

 ピタリ、と光太の足が止まる。それにつられて、九十九も歩みを止めた。

 驚いた表情で立ち止まった光太の顔を、九十九が怪訝な様子で覗き込む。


「……どしたの? 光太」

「九十九……アレ、あそこ」

「あそこ、って…………」


 光太が指差した先、電柱にもたれかかるようにして佇んでいたのは。


「……あっ、九十九くん! おはよう」


 白咲 姫華、その人である。

 九十九の姿を認めた姫華は、名前通りの華咲くような笑顔を見せた。


 光太が、更なる驚愕によって口をあんぐり開ける。

 そんな光太を他所目に、姫華はステップを踏みながら九十九へと近付いていく。

 小柄な九十九の前まで到達して、姫華の嬉しそうな視線が九十九を見下ろす形で向けられた。


「白咲さん……おは、よう?」

「うん、おはよっ♪ ね、私も一緒に登校していいかな?」

「なんですとっ!?」


 光太は正気に戻った。

 正気に戻った勢いを殺す事なく、光太の両腕は九十九の両肩を掴んでガックンガックンと揺らしまくった。


「ちょっと!? ちょっとちょっと!? ちょっとちょっとちょっと九十九さぁん!? おたくさぁ、おたくさぁ、白咲とどういう仲になった系のヤツですかぁ!? クラスいちの美少女に『一緒に登校していいかな♪』なんて呼び掛けられる関係性にさぁ、何月何日何時何分何秒世界が何周回った時になったんですかねぇ!?!?」

「ちょ、ちょっと待っ……光太……っ。目が……目がっ、回っ、て……」


 体を前後に揺らされて目を回す九十九。

 そんな彼を見かねたのか、姫華が光太の肩をチョンチョンとつついた。

 それに気付いた光太は、九十九への尋問を中断して姫華へと向き直る。


「おっと、どうしたんだい白咲 姫華さん。俺は今、このクソアホカラッス君を尋問しているところなんだ。大丈夫、コイツはこう見えてやる時はやる男でさ。女泣かせなクズ野郎じゃない事は俺が保証するけど、それでも、こうさ? 経緯とかさ? そういうのが」

「私と九十九くんの関係……知りたい?」

「知りたいです」


 神妙な面持ちで頷いた。

 コロコロと表情の変わる光太が面白かったのか、姫華は片手で口元を隠してクスリと笑う。

 その様子に2人の男子高校生が見惚れる。彼らが見守る中、姫華の指先は自分の唇にそっと添えられた。


「秘密っ♪」

「うん、よし。八咫村 九十九は死刑で。これより刑を執行します」

「ちょっ待っ、白咲さん!? 光太ぁ!?」


 襲い掛かる光太から逃げるように、九十九が走り出す。

 焦りを顔に浮かばせて逃げ回る九十九を光太が追い回し、姫華の周囲をグルグルと回る2人の男子。

 それを見て、姫華はやっぱり面白そうに顔を綻ばせた。


 光太は知らないだろう。クラスメイトたちも知らないだろう。

 姫華が昨日、世にも恐ろしい経験をして、その命さえ危ぶまれた事を。

 この世界には、そんな出来事がたくさんあって、いつ自分の命が脅かされるか分からない事を。


 そして──


(可愛いな、私のヒーロー♪)


 人の命さえ脅かす恐ろしい存在──妖怪を、人知れず退治するヒーローがいる事を。


 彼は自分の命をかけて、周りの人間たちを助ける為に奔走していた。

 もし何かが掛け違ってしまえば、逆に自分の命が失われるかもしれない。そんな危機の中を、彼は勇敢に潜り抜けていった。

 そして、勝った。恐るべき妖怪から、戦いの末に勝利を勝ち取り、日常を守り切ったのだ。


 姫華を助ける為に。


(ありがとね、リトル・ヤタガラス)


 その事実を知る者は、今は姫華ただ1人しかいない。

 でも、姫華にとってはそれで善かった。それが善かった。


 勝利のカラスは正義の味方。

 彼はまた、誰かの為に夜の空を往くのだろう。

 その姿を夢想して、姫華は幸せな気持ちに満たされた。

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九十九奇譚 -リトル・ヤタガラスは夜を往く- 小村・衣須 @lady_Hermit

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