九十九奇譚 -リトル・ヤタガラスは夜を往く-

小村・衣須

読み切り版:前編

 九十九神ツクモガミ

 古来より日本では、99年を道具は100年目に魂が宿り、九十九神に成ると言い伝えられてきた。


 日本における神とは、宗教上の絶対的存在ではなく精霊や妖精に近しい存在である。

 それ故に、九十九神たちは幾つもの呼び名を持つ。


 幽霊。お化け。変化ヘンゲ。魑魅魍魎。

 日の当たらぬ夜の世界の住人たち。


 人は彼らを、“妖怪”と呼んだ。





「なぁ、九十九ツクモ。あの噂、知ってっか?」


 ある朝、ある高校での一幕である。

 噂好きの男子生徒が声をかけたのは、教室の隅っこの机に寝そべるようにして顔を見せない1人の男子生徒だった。

 彼はいつも、誰よりも早く登校してはこうして寝たふりをしながら、自分の影を薄くしているのだ。


「なぁなぁ、九十九ってば。起きてんだろ?」

「ん……起きてるよ、光太コウタ


 友人に呼びかけられた彼はもぞりと身じろぎすると、ゆっくりと顔を上げる。


 やや長めの黒髪を後ろで纏めた、同年代の男子と比べても明らかに小柄な体躯の青年。

 彼の名を、八咫村ヤタムラ 九十九ツクモという。


 少しダウナー気味な目を友人に向ける九十九の姿は、一見するとどこにでもいる内気な青年に見えるだろう。

 九十九本人も陰キャを自称している為、その評価はある意味では合っている。


「それで……何? 僕、眠いんだけど……また変な噂でも仕入れてきたの?」

「変なとはご挨拶だな。お前だって知ってっだろ? 灰管アクダの話だよ。アイツ、マジで二股やらかしてたみたいだぜ」


 噂好きの友人、日樫ヒガシ 光太コウタが言うところの灰管とは、九十九たちと同じクラスに在籍する男子生徒、灰管アクダ 道人ミチトの事だ。

 見た目はいいが、如何せん素行が悪い事で知られている。


「ふぅん……相手は?」

「3年の先輩と、同じ2年のサッカー部マネージャー。どっちにも『皆には内緒だぜ☆』とかやってたそうだけど、ついにバレて修羅場だったってよ」

「その先輩って、確かファン多いでしょ。他の男子から締め上げられる未来が見えそう……」


 はぁ、と溜め息を落とす九十九。

 その顔には、明らかに「面倒な事になりそうだ」と書かれているように見えた。


「先輩のファンがクラスに殴り込んでこないといいけど……当の灰管はまだ登校してきてないの?」

「アイツはいっつもこんなもんだぜ? 昔は幼馴染の白咲シロサキと一緒に登校してたそうだけど、今は──」

「──もうっ! いい加減にしてよ道人!」


 廊下から轟く少女の叫び声。

 ざわざわとした喧騒が耳に届いて、顔を見合わせた九十九と光太。

 彼らはたった今話題に上げた少女の到来と、それに続くだろう展開に容易く想像がつき、またも溜め息をついた。


 やがて教室に飛び込んできたのは、1人の男子生徒と、それを追う1人女子生徒の姿。


「チッ……っせーな、そんなくだらねー事、いつまでも言ってんじゃねーよ」

「くだらない、って……2人の女の子に不誠実を働いて言う事がそれなの……!?」


 少女の言葉を聞いて煩わしそうな態度を取る男子こそ、先ほどまで光太が話していた灰管 道人である。

 染めた金髪をガシガシと掻き毟ると、耳につけたピアスが激しく自己主張していた。


 対して道人を咎める少女の名は白咲シロサキ 姫華ヒメカ。道人の幼馴染として知られている。

 平時であれば美少女として人気のある姫華だが、今は険しい顔をして道人を追い、その白い髪を揺らしていた。


「先輩にも、マネージャーの子にも、ちゃんと謝ろう? ねっ? 誠意を以て謝ればきっと……」

「あーっ、もう! うざってーな、お前は俺の親か何かか? 幼馴染だからって思い上がってんじゃねーぞ」


 語気を荒くする道人。

 彼が振り向きながら睨みつけると、姫華の肩が恐怖でビクリと跳ねた。


 道人は素行が悪いものとは言われているが、ある程度は猫を被っている面もあった。

 その為、女子からは「ワイルド系」などと持て囃される事もある彼だが、その本性が乱暴者である事を知る者は一定数いる。


 そして今回、道人は自業自得によってまんまと化けの皮を剥がされてしまった形だ。

 誰の目から見ても、彼は明確に苛立っている。幼馴染の少女を怯えさせてしまう程には。


「そ、そんな訳じゃ……。私はただ、道人にそんな事してほしくないって……」

「そういうところがムカつくってんだよ。何をしようが俺の勝手だろーが」


 不快げな舌打ちがあからさまに響く。

 時刻は朝。まだ先生も来ておらず、この場にいるのは教室に集まった、或いは廊下で騒ぎを見物している生徒たちだけだ。


「あーあー、やってら。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ってか?」

「それはいいんだけど……どいてくれない?」


 さも当然のように九十九の机に腰掛けながら、光太が2人のやり取りを眺める。

 九十九も光太の後ろからひょっこり首を出す形で、ホームルーム前に勃発したトラブルに視線をやった。


「荒れてんなぁ……。流石の灰管も女の子、それも幼馴染に手ぇ上げたりしないよな……?」


 光太がポツリと漏らした。

 確かに、道人が物に、ひいては他人に八つ当たりし始めるのは恐らく時間の問題だ。


 しかし、道人と姫華の諍いに介入しようとする者は誰もいなかった。

 クラスメイトたちは道人に非難の視線を向けこそすれ、自分が巻き込まれる事を厭ってだんまりを決め込むのみ。

 それは光太も同じだった。非力な彼が介入すれば、たちまち道人にぶん殴られてしまうだろう。


 であれば、九十九はどうだろうか。


(……いざとなったら僕が動くから。その時は怪しまれないように箒、ロッカーから取り出してきて)

(はいはい、坊ちゃんは召使いの使いが荒いですねぇ……)


「……? 九十九、なんか言ったか?」


 誰かの呟きと、何かがゴソゴソと動くような音が聞こえ、光太がふいと九十九の方を見る。

 ところが視線を向けても、そこにいたのは変わらぬ九十九の姿のみ。異変など、どこにもありはしない。


「んー? 何も言ってないけど」

「そか。それならいいんだけどよ……アイツらどうすんだろ。そろそろホームルームだぜ? 先生も来るだろうし──」

「うるっさいっ!」


 果たして、事態は動いた。

 教室中に轟く叫びに光太と九十九が目をやれば、とうとうトサカに来た道人が歯を剥いて姫華に迫っているではないか。

 ズン、と足音を鳴らして迫る道人に対して、幼馴染の威圧感に中てられた姫華の体は小さく震えていた。


「いい加減にしろよな、姫華。迷惑なんだよ、俺の前からとっとと失せろ」

「な、んでそんな……。酷いよ、昔はそんな風じゃなかったのに……」


 ピクリ。

 道人の額に青筋が立った。


「いい加減にしろ、って──」


 その時、道人が右手を振り上げる。

 彼が自分に対して行おうとしている事を理解して、姫華が顔を蒼白とさせた。


 一瞬にして戦慄が走る教室。

 小動物のように震える姫華を見て、道人は小さく笑みを浮かべる。

 彼は振り上げた右手を、そのまま姫華へと──


「やめなよ」


 コツン、と。

 不意に差し込まれた箒の柄が道人の右腕を受け止め、姫華に暴力が振るわれる事は無かった。


 いきなり割り込んできた箒に、当事者である筈の道人と姫華でさえギョッと面食らう。

 先ほどまでとは別の意味でざわつく教室の面々は、一体誰の差し金かと箒の主に視線を向けた。

 そこにいたのは、果たして。


「女の子に暴力を振るうのは……ダメだよ」


 九十九だった。

 いつの間にかロッカーから取り出していたらしい箒を逆手に持ち、道人が振り上げた右腕を抑え込んでいる。

 そのダウナー染みた目つきは、傍から見れば不機嫌そうに道人へと注がれていた。


「……あ?」

「え、あなた、は……?」

「えっ……ちょ、ま、九十九!?」


 思わぬ乱入者の正体に、道人と姫華の2人は当惑を隠せずにいた。

 光太はと言えば、自分の後ろで騒ぎを眺めていた筈の九十九が、気が付いた時には騒ぎのど真ん中に躍り出ていた事実にパニックを起こす始末。


 数瞬前まで、教室中の誰もが八咫村 九十九を意識の外に置いていた。

 だって当然だろう。九十九は何1つとしてこの場の騒ぎに関係が無いのだから。

 にも拘らず、彼は今そこにいる。


「暴力なんて振るわないで、ちゃんと話し合ったら?」

「あ……? な、なんだよお前。いきなり割り込んできて、関係無い奴はすっこんでろよ」

「いや……一応、同じクラスメイトだし。それに女の子を殴るのも、殴るのを見過ごすのも、爺ちゃんに『それでも男か!』って怒られるし」

「じっ、お前のジジイがなんだよ! どーでもいいだろーがそんな事。陰キャのちびカラスがしゃしゃり出てんじゃねーぞ!」


 道人が九十九に対してがなり立てる。


 ちびカラス、というのは九十九の渾名だ。

 小学生の頃から周囲よりも小柄だった彼は、その黒くやや長めの髪、そしてどこか陰気な雰囲気と合わせて「ちびのカラス」と揶揄われていた。


 しかし、道人に「ちびカラス」と詰られてなお、九十九は平然としているではないか。

 九十九の視線はチラリと姫華に向けられ、渾名の由来にもなった暗めの目で、困惑する少女の表情を認める。

 そうして、再び道人に向き直る。そこには、荒っぽい言動の目立つ道人に対する恐れの感情は見受けられなかった。


「もうすぐ先生も来るから……ね? 乱暴はしちゃダメだよ」

「チッ……! 根暗がいちいちうっせーんだよ……!」


 そんな舌打ちと共に、九十九の持つ箒が乱暴に振り払われる。

 道人の目は苛立ちでギラギラとしていて、陰気な「ちびカラス」の小柄な姿を捉えていた。


 グッ、と拳を握り締める。

 ネチネチ五月蠅い幼馴染の前に、まずはコイツだ。

 その結論は、乱暴者の灰管 道人にとっては当然の帰結と言えた。


「イキって出しゃばったらどうなるか……教えてやるっ!」


 ダン!と床を踏み鳴らし、道人が右の拳を振り抜いた。


 武術の心得がある者から見れば、それは隙だらけのテレフォンパンチでしかない。

 殴る相手を間違えれば容易く対処されるだろうが、今回の相手はただの根暗な高校生。

 その拳は真っ直ぐに九十九へと向かい、数瞬後には九十九の顔面がグシャグシャに腫れ上がってしまうのは自明の理だ。


「……はぁ」


 結果から言えば、そうなる事は無かった。


「あ──?」


 九十九が軽く向けた箒の柄は、道人の繰り出した拳をまるで奇術か何かのように絡め取り、道人の態勢を大きく崩した。

 その隙を見た九十九が手首を捻ると、箒はまるで生きているかのようにうねり──


 ズッタン!


「あ痛ぁっ!?」


 道人は綺麗な軌道を描いて1回転すると、その場にころりと転がった。

 彼の背中が木製の床に叩き付けられて、小気味のいい音を見事に鳴らす。

 一瞬だけチカチカとした目で見上げた瞬間、道人の鼻先に突き付けられたのは九十九が持つ箒の先端。


「…………ね?」

「い、ひっ……!?」


 歪な呼吸が漏れる。


 道人の目には、自分を一瞬の内に制圧してみせた九十九の存在が恐ろしく見えた。

 いきなり殴りかかった自分に鼻白む事なく、それを児戯のように転ばせて、平然と箒の先を向ける。

 その在り方が、まるで非人間的な。まるで“人外”のような──


「~~~~~ッ! お、覚えて、ろ……っ!」


 道人は四つん這いめいた形から這い上がるようにして不格好に立ち上がると、ドタドタと教室を出、廊下を走り去っていった。


 シン、と静まる教室。

 教室のみならず、廊下で見物していた者たちに至るまで、一部始終を見ていた彼らは目の前で起きた事実を上手く理解できずにいた。


 姫華と道人の諍いに関係無い筈の九十九がいきなり割り込んできた、そこまではまだいい。

 だが、九十九の受け答えに苛立ちを覚えた道人が九十九に殴り掛かったかと思えば、一瞬の内に九十九が道人を転ばせていた。


 彼らが知るところの「八咫村 九十九」は、凡そそのような事をする人物ではない筈なのに。

 一体、目の前で何が起きていたのだろうか?


 そこでようやく、道人が教室を出ていった事実を認識した姫華が声を上げる。


「……っ! そうだ、道人──」

「おーい、授業を始めるぞー。ほら、さっさと教室に戻った戻った」


 果たして、タイミングが良いのか悪いのか。

 事態を知らず、丁度のところで教室に入ってきた教師が、周囲の生徒たちに各々のいるべき場所へと戻るよう触れ回る。

 ついたたらを踏んでしまった姫華は、どうすればいいのかと周囲を見回し……


「九十九ぉ、大丈夫だったか? 怪我とかしてない? 灰管の奴に変な事されなかった?」

「大丈夫だよ。光太は過保護だなぁ……」

「そりゃ当然でしょうが……!」


 いつの間にか箒をロッカーに片付け、何事も無かったかのように自分の席へ戻る九十九の姿を見た。





 諸々の授業も終わって放課後。

 夕焼けが川をオレンジ色に染める中、学校を後にした九十九は河川敷を歩いていた。

 傍には、同じく下校中の光太の姿が。尤も、九十九と帰路を共にするような友人は光太くらいしかいない為、ある種当然と言えよう。


「しっかし、朝は大変だったなー? 九十九」

「ん……? いや、大した事じゃなかったよ」


 リュックサックを背負いながら歩き、光太の言葉に対してそう返す。

 少し猫背気味に歩く九十九の姿は、やはり「陽キャ」とは言い難いものがあるが、光太は気にしなかった。

 少し不機嫌そうな、それでいてどこか眠たそうな九十九の瞳も、光太にとっては小学生の頃から見慣れたものだ。


「久々にカッコいい九十九っちが見れて、オレぁ満足ですたい。“魔法の手”も大活躍でしたなー」

「僕のはそんなんじゃないよ……。ただちょっと、手先が器用なだけだって」

「いやいや、それで白咲を助けられたんだからモーマンタイっしょ。どうする? 後ろから白咲が来てさー、『九十九クン、朝はありがとう♪』なんてされちゃったらさ!」

「無い無い。勘違いしたオタクじゃあるまいし──」

「──八咫村くんっ!」


 2人の足が同時に静止する。

 本来であれば2人に対して、もっと言えば九十九に対してかけられる筈の無い少女の声が、2人の後ろから聞こえてきたのだ。

 まさか。そう思った九十九と光太の視線が交差して、まったく同時に後ろを振り向く。


「はぁ……はぁ……ごめんね、いきなり。八咫村くん、あっという間に下校しちゃったから探すのに時間がかかっちゃって……」


 膝に手をついて荒く呼吸する白い髪の少女。

 ここまで必死になって走って来たのだろう。顔を上げて瑠璃色の瞳で2人を見やる彼女の顔は汗ばみ、紅潮していた。


 言うまでもなく、白咲 姫華である。

 明らかに九十九を追って現れたらしい彼女の登場に、九十九は困惑しながらも声をかける。


「え……っと、白咲さん?」

「う、うん。朝の事……まだ、ちゃんとお礼を言えてないから」


 そう言って姫華はピンと背を伸ばし、九十九の目を真っ直ぐと見た。

 姫華の身長は一般的な女子高生のそれであるが、対する九十九が平均よりも背が低く猫背である為に、姫華の方から見下ろす形になっている。

 瑠璃色の透き通った視線が、カラスのように黒い九十九の瞳に吸い込まれていく。


「ありがとう、八咫村くん。道人にぶたれそうになった時……その、正直言うと怖かったの。そこを八咫村くんが助けてくれて、戸惑ったけど……でも、ありがとう」

「いや……そんな、僕は別に……」

「そーでしょそーでしょ? ウチの九十九は凄いんですよ、ええ!」


 どう返したものか。

 そう思い言葉に迷う九十九の不意を打つように後ろから、光太が九十九の肩に手を回す。

 ガッチリとホールドされた九十九の困惑に被せる形で、光太が矢継ぎ早に話し始めた。


「コイツ、人見知りなように見えて昔っから優しくてさー。かくいう俺も、ガキの頃に虐められてたところをコイツに助けてもらったんだー。なっ、九十九?」

「……別に。僕はただ、光太を虐めてた奴が教室の花瓶を壊したのが気に入らなかっただけだし」

「……花瓶?」


 不思議そうな表情を浮かべ、姫華の首が横に傾けられる。


「そ。理由聞いた時は唖然としちゃったけどさー。モノとかケッコー大切に扱う奴なのよ、コイツ。モノの手入れや扱いも上手いしさ、“魔法の手”なんて呼ばれてた事もあったっけ」

「“魔法の手”……? それってもしかして……」


 と、その時だ。


「あっ!?」


 ポーン、という軽い音と共に、3人の横合いからサッカーボールが飛来する。

 河川敷でサッカーをしていた子供たちのものだろう。彼らの誰かが蹴り損ねたボールが、コースを大きく外れて道路まで飛んでいったのだ。

 勢いよく飛び込んできたボールは、音に気付いてそちらを見た3人の方へと──


「ん」


 ……気が付いた時には、ボールは既に九十九の内にあった。

 姫華の前に割り込んだ九十九は、飛来するボールを膝で受け止め、慣れた所作と共にポンポンとリフティング。

 そのまま蹴り上げると、これまた軽い音を立てて河川敷の子供たちへと蹴り返した。


 絶妙な力加減で蹴られたボールはふんわりと宙に浮くと、無事に子供たちに受け止められる。

 こちらに向かって「ありがとうございまーす!」と手を振る子供たちに、同じく手を振り返す九十九。

 その一部始終を、姫華はあんぐりと口を開けて見ていた。


「……どうしたの? 白咲さん」

「八咫村くん……サッカー、できたの?」

「え……小学校の授業でしかやった事無いけど。目立つし……体力無いし、僕」

「昔っからだよ、昔っから」


 頭の後ろで腕を組んで、勝手知ったると笑うのは光太だ。


「鉛筆持たせりゃ文字は綺麗だし、雑巾持たせりゃ床はピッカピカ! おまけに九十九が使う道具はどれも物持ちがいいと来たもんだ! それで昔は“魔法の手”なんて呼ばれてたのさ」

「あんまり好きじゃないんだけどね……それ。僕からすれば丁寧に使ってるだけだし。同じ渾名でも『ちびカラス』の方が好きだな、僕」

「逆に、なんでそっちが好きなのか分かんねぇんだよな……」

「ちびなのは元からだし……僕は好きだよ、カラス。特に、日本神話の八咫烏ヤタガラスとか」

「……ねぇ」


 2人の会話に差し込まれたのは、姫華の声だった。

 姫華の脳裏に過るのは、朝の一幕。まるで自分の半身のように箒を扱い、道人をあっさりと制圧してしまった九十九の所作。


「朝のアレも……もしかして」

「まぁ……あれくらいなら。そういう訓練をきちんと積んだ武道家とかには普通に負けるけど」

「さっきのサッカーボールもさー、スッゲー上手いけど、九十九は『扱うのが上手いのはボールだけで、駆け引きとかはできない』って言うんだ。ふっしぎだよな」


 口をへの字に曲げる光太。

 そこに九十九への嘲笑や侮蔑は一切無いのだから、姫華から見た九十九と光太は凡そ「気安い友人関係」に映った。

 九十九は光太の言葉に首を横に振ると、真っ黒く染まった目を姫華に向ける。


「だから……その。朝の事は、そんなに気にしなくていいよ。今回は、灰管が白咲さんに……女の子に手を上げようとしたから動いただけだし。……あんまり、目立つのは好きじゃないから」

「目立つのは好きじゃない、って……でも、あの時のアレは皆に目撃されて、て…………?」


 ふと、止まる。

 そういえば、と。首を傾げる事があったのだ。


「……ねぇ。日樫くん、だったかしら」

「おっとぉ? 大人気美少女の白咲 姫華さんにまで俺の名前が知られていたとは。何が聞きたいのかな? 俺の住所とバイト先とLINE、ついでにスリーサイズはモチで公開できるぜ。あ、九十九のが知りたかったり?」

「光太ぁ……」

「いえ……そうじゃなくて」


 光太の発言に苦笑いしつつも。

 今の姫華には、どうしても気になる事があったのだ。


「朝の事、って……当事者の私が言うのもなんだけど、結構な騒ぎになってたわよね?」

「ん? マー、灰管は色々有名だし、白咲も美少女だかんな。その2人がギャースカやってたってんだから、そりゃもう学年中で持ち切りに…………?」


 首を傾げる。果たしてその所作は、先ほど姫華が見せたそれと一致していた。

 九十九が難しそうな表情で視線を逸らしていたが、光太と姫華の意識がそちらに向く事は無かった。


「……あり? あんだけの事があったのに、誰も何も言ってなかったな」

「…………やっぱり?」

「んー、多分な? 昼休みに噂する連中もいなかったし……ありー? おっかしいな、俺くんの情報収集センサーも精度が落ちちまったのかな……?」


 腕を組み、むむむと口を尖らせる。

 そうして深く考え込む光太の姿に、九十九が掣肘するように彼の体を揺すった。

 その揺すり方があんまりにも強かった為、光太は「あわわわわ」と間抜けな声を出しながら顎をガックンガックンと動かした。


「揺するな揺するな、揺―すーるーなー。ンモー、九十九ちゃんったら仕方のない子ね! で、どったん?」

「腕組んで熟考なんて……女子の前でする事じゃないでしょ。白咲さんも困っちゃうよ」

「いや……私は気にしてないから。そうね、変な事を聞いてしまってごめんなさい」


 ペコリと礼儀正しく頭を下げる姫華の姿に、今度は九十九と光太の男子コンビが待った待ったと合わせてて制止する。


「とにかく、白咲さんが謝ったりお礼を言ったりする事じゃないから……。僕は僕のエゴでああしただけ。そういう意味では灰管の言う通り、ただの出しゃばりオタクだよ」

「そんな事……いえ、八咫村くんが望まないのなら、この話はもうしないわ。でも、どうしてもありがとうだけは言わせてほしいの」

「……そこまで言うなら……うん。分かった、その感謝を受け取るよ」

「うーん! 青春してるねぇ、お2人さん。つくもんに春が来てオニーサン嬉し…………って、あ」


 素っ頓狂な声を上げて、光太が腕時計を見た。

 その顔には、どう見ても「やべっ」の3文字が書いてある。

 どうかしたのかと訝しむ姫華とは対比的に、光太の焦りに思い当たるところがあった九十九は「あー」と声を出す。


「そういえば、光太……バイト、時間大丈夫?」

「大丈夫じゃないからヤバいんでしょーがっ!? ワリ、九十九&白咲! ハンサム光太サマはここで離脱だ! あばよー!」


 その言葉をこの場に置くだけ置いて、足早に走り去っていく光太。

 いや、あれは「足早に」とか「走り去って」とかではない。全力全開のダッシュだ。

 漫画的に表現するならば、彼の軌跡には砂煙が立っているに違いない。


 そんな友人の慌ただしい別れを見届けた九十九は、もう見えなくなった光太に呆れを見せながらも姫華の方に向きを正す。

 姫華は全力疾走でこの場を去っていった光太の姿にポカーンとしていたが、九十九からの視線に気付いて向き直った。


「じゃあ、その……僕、家はあっちだから。白咲さんは?」

「私は別の方向なの。……どうしても、八咫村くんにお礼を言いたかったから、普段通らない道を走って来たんだ」


 姫華の瞳は九十九を見やったのち、流れるような軌道を描いて河川敷へと移る。

 夕暮れの河川敷では、先ほど九十九がサッカーボールを返した子供たちがサッカーに勤しんでいた。

 その姿を見て、姫華は眩しそうに目を細める。


「道人……さ、昔はあんなんじゃなかったんだ。小学生くらいまでは優しかったの。でも……中学生の時に、悪い先輩に憧れちゃったみたいでさ。そこからかな。アイツが、幼馴染の私にまで当たりが強くなったのは」

「白咲さん……」

「……あっ、ごめんね? いきなりこんな話しちゃってさ。今まで誰にも話してこなかったんだけど……つい」

「白咲さんは」


 九十九が、姫華を見る。

 その背は女子の姫華よりも小さく、九十九が姫華を見上げる形になっていた。

 カラスが好きという言葉に違わぬほど、その瞳はカラスの羽根めいて黒い。


「白咲さんは……どうしたいの?」

「……分かんない。アイツのご両親とも疎遠気味だし……もう、関係は元に戻らないかも。恋、っていうのもイチマチ実感が無いもん。多分、私は……」


 小さな呼吸音。


「誰かに……助けてほしいのかな。上手く、言葉にできないんだけど」

「……そっか」


 九十九は、否定しなかった。

 嘲るでもなく、可能不可能を論ずるでも、理想論を語るでもなく。

 ただ、そうか、と。


 ただの相槌のように思えたが、姫華はその「そっか」がやけに心地よく思えた。


「なんてね! 誰にどう助けてほしいかとか、助けてもらってどうとか、その辺全然だもん。あーあ、でもあったらなぁ……」

「…………」

「……もうちょっと、考えてみるよ。また何かあったら、相談に乗ってくれる?」

「……うん。僕でいいなら」


 頷く九十九の姿に、姫華は満足そうに微笑んだ。

 それから、姫華の足は自分が帰るべき方向へと傾いていく。


「それじゃあ、また明日! じゃあね、八咫村くん!」

「うん、また明日。……それと」

「……? まだ、何かあるの?」


 首を傾げる姫華。

 今まさに立ち去ろうとして足を止めた彼女の背中に、九十九はゆっくりと言葉を紡いだ。


「もしも……もしも、何か願いを叶えたいと思っても……『現代堂ゲンダイドウ』って店には入らないで」

「『現代堂』……? そんなお店、あったっけ?」

「地図に載ってない、誰も場所を知らない古美術店。でも、確かにこの街にあるんだ。見つけても、絶対に入らないで……その場を離れて」

「どうして? そのお店には一体何が…………」


 そこで、言葉を切る。

 姫華の目に映る九十九は、真剣な眼差しをしていた。

 その出で立ちが帯びる「無言」に、姫華は確かな誠実さを悟ったのだ。


「……ううん、分かったわ。お店を見つけても絶対に入らない。約束する」

「……ありがとう」

「危ないところを助けてくれたんだもん、この程度ならお礼を言われる内に入らないわ。それじゃ、今度こそまたね!」

「うん、またね」


 手を振りながら、今度こそ姫華は去っていく。

 九十九と姫華は、互いの姿が見えなくなるまで手を振り合い……やがて姫華の姿が完全に見えなくなった頃、九十九は再び歩き出した。

 そうして歩き出して間もない内に、九十九は自分が背負うリュックサックを軽く揺する。


「……朝はありがとうね、イナリ」

「まぁったく、ですよ。坊ちゃんの無茶ぶりは今に始まった事じゃありやせんが、世が世ならわてはストライキを起こしておりやした」


 すると、どうだろうか。

 リュックサックのファスナーが独りでに動き出し、無機質な音を立てながらリュックの口が大きく開く。

 そこからスポリと顔を出したのは──


「そう言わないでよ。“ごまかし”の術を使えるのはイナリくらいなんだから」

「ご当主様がいらっしゃるじゃありやせんか。いくらわてがマスコット的存在とはいえ、寺子屋で堂々と妖術を使わせるのはどうかと思いやすよ、ええ」


 キツネ。

 漫画やアニメに登場するような、大きくデフォルメされたキツネが、そこにいた。

 ふわふわもふもふとした丸っこい体をリュックサックの中に押し込めていたらしいキツネは、ふかふかの耳を外に出してピコピコと震わせている。


 ついでに言うならば、喋っている。

 キツネが、明らかな日本語を話して、九十九の言葉に受け答えをしていた。


「まぁ、あの朝の一件につきましては、わても思うところはありやしたけどねぇ。なんですか、大の男が女子おなごに手を上げるなど! ご当主様があの場におれば、あの男は木刀でボッコボコにされていやしたよ」

「はは……爺ちゃんならそうするよねぇ……」


 九十九からイナリと呼ばれたキツネが、リュックサックの隙間からちっちゃな前脚を出してシャドーボクシングをしてみせる。

 背中越しのやり取り故に互いの姿は見えないが、イナリの言葉に九十九は苦笑いを落とした。


「それで、本日のご予定は?」

「今日は普通に家に帰るよ。爺ちゃんのところで特訓して、ご飯食べて寝る。いつも通り」

「近頃は平和ですしねぇ。『現代堂』がどこかで何かしている、という訳でもなし。このままの平穏が続けばいいんですが……」

「それは難しいと思うよ。……気付いてるでしょ?」

「ええ、まぁ」


 足を止める。

 九十九が振り向いた先には、先ほどまで光太や姫華と話していた場所があった。

 もうよく目を凝らさないほどに遠く離れてしまったが、それでも九十九の視線はその場に向けられていた。


 彼が何を言いたいのか察したイナリもまた、リュックサックの中からその方角を見る。

 ピコピコと震えるキツネ耳は、感じ取ったを示唆しているようで。


「彼女……白咲さん。多分だけど、術の効きが甘かった……だよね?」

「ええ。わての妖術ならば、あの騒ぎを見ていた者たちの認識を“ごまかす”など容易い事。ですが、坊ちゃんと長く交友関係にあった日樫殿はともかくとして、あのお嬢さんには通りが悪かった。となると……」

「妖術師の素質がある……の?」

「妖術とまでは行きやせんが、勉学を積めばまじない程度なら。それでも現代では珍しい素質でしょうや」

「……狙われる?」

、と言った方が正しいでしょう」


 ちっちゃな前脚を組んで、思い悩むイナリ。

 彼が「むぅ……」と声を漏らしながら体を揺するに連動して、彼が入ったリュックサックもまた揺れる。


「どうした方がいい?」

「一先ずは、ご当主様にご相談しやしょう。経過を見て、問題が無ければそれで善し。しかして、もしも……」

「アイツが」


 イナリの言葉に被せる形で、九十九が呟いた。

 ほんの少し、強い情動を宿しながら。


「『現代堂』が手を出してきたら……僕が動く」





「──くそっ!」


 時はそれから少し後の事。

 街の路地裏にて、道人は苛立ち混じりにゴミ箱を蹴り倒していた。

 金髪を激しく掻き毟る度、彼の「ワイルド系」などと呼ばれ持て囃されていた野性的な顔立ちが歪んでいく。


 地団太を踏んだとて、ストレスが消える訳では無い。

 それでも道人は、人目を気にする事なくアスファルトの地面を踏み叩いた。


「あのちびカラス……っ! 俺に恥をかかせやがって……!」


 道人が苛立つ原因、それはやはり八咫村 九十九の存在だ。

 を生意気にも咎めてきた姫華に対して道人が時、突然割り込んできたのが九十九だった。


 彼の事は前から知っていた。

 道人とつるんでいた友人が、九十九の事を「小学生の頃にダサい陰キャがいた」と嘲っていたのだ。


 いつも暗い雰囲気で、身長も小さい事から皆で「ちびのカラス」と呼んでいたらしい。

 そう揶揄われても何も言い返さなかったという九十九を、ソイツは「こっちにビビって言い返せなかった間抜け」と嗤っていたし、道人もまた「違いない」と嗤っていた。


 そんな「ちびカラス」が、自分に食ってかかった。箒を武器のように持って。

 大方、「女子を守る自分カッコいい!」などと陶酔するラノベオタクなのだろう。道人はそう思ったし、そんな生意気は教育してやろうと思って軽く殴ってやろうとした。


 その結果が、アレだ。

 魔法か何かのように一瞬で転ばされた道人は、鼻先に箒を突き付けられた時、「ちびカラス」に対して恐怖を抱いた。

 渾名通りカラスのように黒い瞳が、非人間的な感情を宿して道人を見据えていた。


 だから、逃げ出した。恥も外聞も投げ捨てて、惨めったらしく。

 その事実は、数時間経った今も道人を苛立たせていた。


 もっと腹立たしかったのは、誰も朝の騒ぎを話題にしなかった事だ。

 まるで「誰も気にも留めていなかった」かのように、当たり前の日常が過ぎていく。

 道人とつるんでいた者たちでさえ、道人を嘲る事は無かった。朝の騒ぎが耳に届いていなかったのか、それとも騒ぎを知った上で流していたのか。


 そんな異常事態の中にあって、道人は「誰も自分を馬鹿にしてこなかった」という安堵と「誰も自分を気に留めなかった」という劣等感とで板挟みになり──この通りだ。

 誰にも自分を馬鹿にされたくないが、誰もが自分に注目してほしい。そんな歪んだ欲求が、道人に激情を抱かせていた。


「それもこれも、全部姫華の奴が原因じゃねぇか。アイツ、幼馴染だからって調子に乗りやがって……!」


 矛先は、姫華にも向けられた。


 大体、彼女が悪いのだ。浮気したからなんだと言うのだ。浮気がバレて修羅場になったからなんだと言うのだ。

 男の遊びに女があれこれ口を出す事自体がそもそもの間違いだと何故気付かないのか。


 そんな、自分勝手極まりない主張が道人の中で煮込まれていく。

 世界の中心。主人公。上の存在。灰管 道人が思い描く「灰管 道人」とは、そういう存在なのだから。


「どいつもこいつも馬鹿にしやがって……! 見返してやる。俺が“上”だって、理解させてやる!」


 そう言って、足元の何かを蹴り飛ばす。

 何かが何であるかなど関係無い。そこにあったから蹴る。それだけだ。

 そうして道人が蹴り飛ばしたゴミ箱の蓋は、何かとぶつかって音を立てた。


「あん?」


 最早、音にさえ苛立ちを覚えてしまうのか。

 道人が歯を軋ませながら顔を上げると……次の瞬間、道人の顔一面に貼り付けられていた「怒り」や「苛立ち」が、見る見るうちに「困惑」へとすり替わっていった。


「こんなとこ、さっきまであったか……? それに路地裏だぞ、ここ」


 道人の目の前には、古ぼけた一戸建ての店が建っていた。

 明らかに現代のそれではない、レトロ調の装飾。それらの材質はどう見ても「古い」というレベルではなく、店の外観は全てがセピア色に染め上げられている。

 窓や壁などはボロボロで、何故建物として機能しているのかが不思議なほどだ。


 そして何よりも、

 苛立ちと共に街を彷徨った末に飛び込んだ路地裏だが、情動のままに八つ当たりを繰り返していた為、周りに何があるかまでは意識を巡らせていなかった。


 それでも、目の前に立つこの店は、こんな狭い路地裏に建っている筈が無いのだ。

 よしんば最初から建っていたとして、誰がこんなところにある古ぼけた店に入ろうと思うのか。


 謎が謎を呼ぶ状況。

 不可解に頭を支配されながらも……不思議と、道人の頭からは先ほどまでの苛立ちが薄れつつあった。

 その事実に気付かぬまま、道人は店に近付いていく。


「しかし古臭ぇ店だな……。えーと、なんて書いてあるんだこれ……?」


 店に立てかけられた看板を認める。

 看板もやはりボロボロで、茶色に薄汚れた木の看板には、墨と筆を用いて店の名前が書かれているようだった。

 一見するとまるで読めたものじゃない文字だったが、道人には何故か読む事ができた。


「……『現代堂』……?」


 道人がその名前を口にした瞬間、店のドアが独りでに開いた。

 突然の出来事に「うおっ!?」と声を出したのも束の間、道人はドアの向こう側からふわりと漂ってくる匂いに気付く。


「くっさ!? なんだ、これ……煙草か?」


 甘ったるく、草の青臭さがこれでもかと詰め込まれた煙。

 どんなチョコレートよりも甘ったるくて仕方がないその匂いに、道人は思わず顔を顰めて腕で口と鼻を塞いだ。

 しかし、その腕は自然と降りていき、気が付かぬ間にその匂いを受け入れるようになっていく。


 そんな彼の足が『現代堂』なる店の入り口に近付いていくのは、果たして道理と言えるだろう。

 何故か開き切ったドアの前に立ち、そうして道人の足は『現代堂』の中へと踏み込んだ。


「古臭ぇ……なんだこれ、ガラクタばっかじゃねぇか」


 おのぼりさんめいて店の中を見回す。

 店内に置かれていたのは、道人の視点では「ガラクタ」としか呼べないモノたちばかり。

 ボロボロの掛け軸、薄汚い仏像、無駄に大きな招き猫、何に使うのかさえ分からないブリキの置物。


 だが、そんなガラクタでも現代っ子の目には物珍しく見えたのだろう。

 甘ったるい煙の匂いを気にする事も無く、道人は店内を奥へ奥へと突き進み……やがて。


「……おやァ、おや」


 古びた木製のカウンターに腰掛ける形で、その男はいた。


「暮れ六つ……がれどきに来るなんて、お前さんも物好きだねェ。ようこそ、『現代堂』へ」

「アンタ、は……?」

「あたしかい? あたしは見ての通り、ここの店主さ。年がら年中、閑古鳥が鳴いてるけどねェ。ヒヒヒヒッ」


 そう言っておぞまし気に笑う男は、凡そ尋常の存在には見えなかった。


 成る程、見てくれは確かに優男だろう。煤こけた着物を着崩し、どこか湿り気の強い雰囲気を帯びてはいるが、そういう「ダサさ」が好きな女子もいるにはいるらしい。

 そんな女子たちにしてみれば、このように老成した気配を持つボンクラ男は魅力的に見えるかもしれない。


 だが、この男はそうじゃない。

 道人の乏しい感性では十全に表現できないが、そうじゃないのだ。

 一般男性の腕ほどに長い煙管キセルを手に持った目の前の男は、世界のありとあらゆる道理の外にいる。そんな気がしてならなかった。


 そんな道人の畏れを知ってか知らいでか、男は恐ろしく長いキセルを口に咥え、煙草の煙を緩く吸い込んだ。


「あたしの事は……そうだねェ、山ン本ヤマンモトと呼ぶといい。そう名乗っている」

「山ン本? 変な名前だな」

「ヒヒヒッ。名前は重要じゃないのさァ。重要なのは、あたしがこの店の番をしているという事だけだからね」


 ふぅ、と山ン本が強く息を吐き出した。

 窄められた彼の口は道人に向けられていて、肺の中に溜め込まれた煙草の煙が彼の顔面に吹き付けられる。

 甘ったるくて青臭い草の匂いを浴びて不快感を露わにした道人は、意識の端で「店の中に漂う匂いはコイツの煙だったのか」と思い当たった。


「わぷっ……!? 何しやがるっ!?」

「ヒヒ、悪いねェ……お前さんみたいなわっぱは、ついつい揶揄いたくなっちまうのさァ」

「な、なんだとっ!? 俺は」

、あるんだろう?」


 息を呑んだ。

 山ン本なる男から向けられたキセルの先端は今、道人の鼻先にある。

 ふわりと漂う甘ったるい匂いを間近で嗅がされて、その上で突き付けられた一言である。


「ウチはいつだってそうさ。願い、想い、望み、欲。そういうモンをぜーんぶ呑み込んで、それでジャブジャブ海を泳ぐ吞舟どんしゅううおこそが、この『現代堂』なのさァ」

「願、い……? 俺が?」

「違うのかい? お前さん、何か願いがあるからここに来たんだろう? この店はねェ、お前さんみたいな『欲望を持った奴』の前にしか現れないんだ」


 キセルを再び手元に戻し、またみ出す山ン本。

 彼の言葉を聞いて、道人の脳裏に蘇るのは……朝の騒ぎと、それに伴う苛立ち。


「……ああ」


 

 願い。そう言われて道人が胸に抱いた欲望は、生意気にも口答えしてきた姫華や、自分に恥をかかせた根暗オタクの九十九への報復ではなかった。


「学校中に、俺の事を知らしめたい。周りの連中に、俺の事を凄ェと思わせたい。いつも俺を舐めてた奴らに、もっと俺の事を見て欲しい」


 承認欲求。

 肥大化したそれが今、道人を突き動かしていた。


 初対面であるにも拘らず、道人は何故か、目の前の山ン本なる男に対して己の歪んだ欲望を曝け出していた。

 そして、それを疑問に思う事も無い。

 彼の欲望をしかと聞いた山ン本は、ニタリとおぞましい笑みを浮かべる。しかし、今の道人にとってはその笑みに意識を割く事さえ無駄なように思えた。


「ヒヒヒヒ、ヒ。お前さんの願いはよォく分かったよ。その欲望、叶えてあげようじゃァないか」


 そう言いつつ立ち上がった山ン本は、恐ろしく長いキセルは持ったまま、ガサゴソと何かを漁り始める。

 山ン本が腰をかがめて何かを探す度に、彼が持つキセルから甘ったるい草の匂いが湧き立っていく。


 傍目から見ればどう考えても異常な時間が過ぎていく。

 最早、道人はこの状況を異常とは認識しなくなってしまったのだろう。

 やがて、目当てのモノを見つけたらしい山ン本が顔を上げ、カウンターの上に置いた。


「……これは?」

「ヒヒッ。ウチの商品の1つ、骨董品アンティークのおふださァ。なんでも願いが叶うと評判だよォ?」

「願いがぁ? こんなボロっちぃお札が、か?」


 カウンターの上に置かれたのは、まさしくお札そのものだった。

 ところどころに染みのついた古臭い紙に、赤やら黒やらのインクでよく分からない文字や紋様が描かれている。

 大きさは紙幣くらいだろうか。絵本に出てくるようなお札がそこにはあった。


「ヒヒヒ、ボロっちぃとはご挨拶だねェ。ウチはガラクタなんて置かないよ」

「けどよぉ……本当にこんなんで願いが叶うのか?」

「それはお前さん次第さァ。まずはお試し、お代は要らないから持っていきな。折り畳んで財布にでも入れておけば、あとは野となれ山となれさァ」


 再びカウンターに腰掛けて、山ン本はキセルから煙草をむ。

 道人が視線を下ろした先には、変わらずお札がカウンターの上に鎮座していた。

 悩みながら顔を上げると、山ン本と視線が交差する。


「覚えておくといい。想いってのはねェ、容易く世界を変えるのさァ。99年も想いを込め続ければ、そりゃ道具だって手足が生えて動き出すものさ。人の願いもおんなじよ」

「……何が言いたいんだ?」

「何って、そりゃァ──」


 その瞬間、道人は全身の鳥肌が立った事を確かに知覚した。

 山ン本の、ヌラリとした視線だけではない。それも恐ろしいのは確かだけれど、それだけじゃない。


「あたしはただ、願いを叶えてやりたいのさァ。人の願いだけじゃなくて……道具の願いも、ね」


 店の至るところから、視線を感じる。

 四方八方、360度から一斉に放たれる値踏みするような目つきが、道人の全身を舐め回すようで。


 しかし、どれだけ意識を巡らせても、店の中の気配は山ン本のものしか無いではないか。

 にも拘らず、あらゆる方向から視線は放たれている。

 お化け屋敷じゃあるまいし。お化けなんて、非現実的なモノなどある訳が無い。


 じゃあ、これはなんだ?


「…………ッ」


 道人はカウンターのお札をひったくると、ポケットの中に仕舞い込んだ。

 そうして足早に、或いは逃げるように店の外へと出ていく。

 甘ったるい煙を掻き分け、店の中のあらゆるモノから目を逸らしながら出ていく道人の背中を、山ン本はおぞまし気に嘲笑った。


「ヒヒヒヒヒッ。毎度ありィ」


 路地裏の外から垣間見える夕暮れは、もう地平線の彼方へと沈みゆく寸前。

 お札がポケットから零れ落ちていない事を確かめながら、道人は言語化できない不快感と恐怖を胸に路地裏を走った。


 走る自分の背後に、今も『現代堂』なる古びた店があるかなど。

 今の道人には、考えたくもない事だった。





 それから、3日が経った。


「…………なに、これ」


 姫華には、目の前で起きている事がとても信じられなかった。


「道人ぉ、今日は私とデートしよ? ねっ?」

「灰管、あとで飯食いに行こうぜ! お代はぜーんぶ俺の奢りでいいからさ」

「今日の授業、灰管の苦手なとこだったろ? あとでノート見せてやるよ」

「そ、その……道人くん。あたし、クッキー……焼いてきた、んだ。食べて欲しいな」

「やっぱり道人は最高だぜェーッ!」


 このところ学校に来なかった道人が今朝、久々に登校してきた。

 そう聞いた姫華は、ついつい気になって足早に教室へと赴き……この異常事態を目の当たりにしたのだ。


 男子。女子。陽キャ。陰キャ。クラスの分け隔てすらなく、たくさんの生徒たちが道人に群がっていた。

 誰もが親愛の情を浮かべて道人を囲んでは、恍惚としながら彼をチヤホヤと持て囃している。

 この場の誰も、それを異常事態とは認識していなかった。遠目から眺めている者たちでさえ、道人に群がる者たちに「いいなぁ」と羨望の眼差しを向けていた。


「おっほー、灰管ってばモテモテだねぇ。いいなー、俺もあそこに混ざりてーなー」

「……そうだね」


 九十九、ただ1人を除いては。

 いつものように朝早くに登校してきた彼は、道人に群がる者たちの異変を当然のように知覚していた。

 そしてそこに混ざろうとする光太をあの手この手で引き留めて、じっと観察し続けていたのだ。


 そんな九十九の視界に、フラフラとした足取りの姫華が映り込む。


「……みち、と……?」


 いつもの姫華であれば、3日前のやり取りを思い出す事ができただろう。

 それから教室中を見回して、九十九を見つけ、未だ正気である彼に接触する事もできただろう。


 しかし、そうではなかった。

 灰管 道人という幼馴染に対して残っていた僅かな「情」が、この異常極まりない事象を前に姫華を動転させ、その思考を曇らせていた。

 今の狭まった姫華の視界には、九十九の姿は映らない。


「何、やってるの……? 道人」


 その一言はいやに透き通っていて、喧噪の中にあった教室全体によく染み込んでいった。

 テレビの一時停止めいて喧噪が静まる。その瞬間さえ恐ろしいと、姫華の本能が警鐘を鳴らす。

 教室中の視線が全身に突き刺さる感覚を、姫華は確かに覚えたのだ。


 誰から言われるでもなく、取り巻きたちの塊がパックリと割れ、真ん中でもみくちゃにされていた道人が姫華と相対する。

 姫華の目が見開く。3日前の諍いが嘘のように道人の表情は満ち足りていて、独善的な慈愛に溢れていたのだから。


「……ん? ああ、なんだ姫華か。そんなところで間抜けヅラしてどうしたんだ?」

「まぬ……いえ、そんな事より。その……それは、どういう状況なの……!?」

「あー? 見て分かんねぇのか、前からそうだったけどダッセェ奴だなぁ」


 道人が鼻で笑うと、それに連動して周りの生徒たちもゲラゲラと嘲るように笑い出す。

 その中には、姫華と親しい、或いは姫華を慕っていた者たちも多くいた。

 彼らが一斉に自分を嘲笑い出した光景に一瞬、姫華は自分が異世界にいるのではないかと錯覚する。


 やがて道人は、両腕を広げて自分を大きく見せた。

 彼が広げた腕には、取り巻きの女子たちが我先にとしな垂れかかり、瞬く間に人のカーテンを形成する。


「コイツらは俺のさ。俺の魅力を真に理解して、俺を慕う奴らの集まりだよ。お前みたいなブスとは違って、俺が如何に素晴らしいかをきちんと分かってるんだ。そうだろ? お前ら」

「当ったり前だよなぁ! 道人は俺の親友だぜ!」

「灰管くん、本物のワルみたいでカッコいい……」

「わっ、私は最初から分かってたもんね! 道人がちゃんとカッコいいってコト!」


 思い思いの反応を見せる生徒たち。

 傍から見て、彼らを「愚か」と断じられる者が果たしてどれほどいるだろうか?

 尋常の者であれば、彼らを「愚か」ではなく「おぞましい」と思う事だろう。


「……あ、ぁあ……!?」


 姫華もまた、その1人だ。

 親しかった筈の友人1人1人が、姫華の目には人のカタチをしたクリーチャーに見えていた。

 これは何かの間違いだろうか? 自分はまだ、ベッドの中で夢を見ているのだろうか?


 自然と、姫華の足が後退る。

 一刻も早く、この場から逃げ出したい。そんな悲鳴にも似た感情が、姫華の心中に渦巻いていた。


 だが、残酷にもそれが許される事は無かった。

 顔一面に恐怖を貼り付けた姫華の姿に、道人が勝ち誇るように笑みを見せたのだ。


「で? どうだ?」

「どうだ……って」

「これでお前も、自分が如何に馬鹿で間抜けで、見る目の無い節穴かよーく分かったろ? だからさ」


 道人から姫華に対して、手が差し伸べられた。

 ひぅ、という小さな声が姫華の口から漏らされる。

 自分に向けて伸ばされたその手を、地獄に住まう悪魔の手と幻視したとして、誰が姫華を責められるというのか。


「お前も、こっちに来いよ。不本意ながらも幼馴染だからな、たくさん可愛がってやる」


 恐ろしかった。

 名作と謳われるホラー小説とて、ここまでの恐怖を演出する事は無いと思えた。


 姫華は、自分の足が小鹿めいて震えている事にようやく気付く。

 差し出された道人の手は艶々と綺麗で、力仕事やスポーツをした事によるマメの形跡すら無い。

 この手を掴めば、全てが終わる。それだけは、虚実定まらぬこの空間にあって姫華には確信できていた。


「…………ぃ、や」


 故に姫華は、長期的に見れば最適解でも、この場においては不適格な選択をした。


「嫌……っ! 近寄らないで……!」


──ゴツンッ!


「痛っ……!?」


 不意に、姫華の額に何かがぶつけられた。

 その痛みに一瞬目を瞑り、何が起きたのかと視線を下に落としてみれば、そこには消しゴムがコロリと転がっていた。


 その事実を上手く理解できず、顔を上げる。

 視線の先では、消しゴムを投げたらしき女子生徒が姫華を強く睨みつけていた。

 高校に入学した当初から姫華と親しかった子だ。


「このブス! 灰管くんの誘いを拒否するなんて何様のつもりよ!」


 彼女がそう罵声を浴びせたのを皮切りに。

 道人に侍っていた生徒たちは、これ幸いと姫華に罵詈雑言を浴びせ始めた。


「そうだ! せっかく灰管が誘ってやってんのに、なんだよその反応は!」

「道人くん……可哀想。最低だよね、あの女……」

「美少女とか持て囃されていい気になりやがって!」

「お前なんかなぁ、道人に比べりゃ何の価値も無いゴミなんだよ!」


 姫華の人格を、姫華の全てを否定する悪意の嵐。

 親しかった筈の友人たちから一斉に放たれた憎悪に、姫華の瞳孔が激しく揺れる。


「あ……ぁ、なん、で……みんな、どうし、て……」


 じわり。

 瞳から滲み出した涙は、もう止まる術を知らなかった。


「…………」


 そして、そのおぞましい光景を。

 教室の隅の席から、九十九が嫌悪の表情と共に眺めていた。


「ケッ、なんだよ白咲の奴。自分の言動が原因だってのに涙浮かべちゃってさー。自業自得だっての」

「……様子見していた僕のミスだ。早く動かないと、白咲さんが危ない」

「危ない、って……ああ、お前も白咲を断罪するんだな? よーしよし、それならこの光太サマもひと肌──」

「光太ッ!!」


 声を荒げた九十九の姿に、光太がギョッと驚いた。

 光太の知る限り、九十九が声を荒げた事は滅多に無いのだから。


 九十九の手は、光太の両肩を強く掴んで離さない。

 そのまま小柄な体躯に見合わぬ膂力で押し込まれ、光太は無理やり席に座らされた。


「つ、九十九っち? 一体どうしたってんだ……?」

「話はあと! もうなりふり構ってられない……イナリ!」

「はいはい。とはいえ、もう動いてやすぜ」


 リュックサックからピョコリと顔を出した小さなキツネのイナリ。

 彼が視線を向けた先では、道人の取り巻きたちによる姫華の罵倒が未だ続いていた。

 激情に駆られたその中の1人が、近くにあった水筒を掴み、大きく投擲のフォームを見せる。


「このクソ女め、天罰だ!」


 この場のに酔った彼にとって、ステンレス製の水筒を人にぶつけると相手に怪我を負わせてしまうかもしれない事など、どうでもよかった。

 むしろ、白咲 姫華という悪人を正義の名の下に断罪するのだから当然とさえ思っているのだろう。


 水筒をこちらに投げつけようとする男子生徒の姿を認め、姫華は顔を蒼白とさせる。

 かと言って、上手く回避できるだけの精神状態など、数分前に失われてしまっていた。


 ステンレス製の硬く冷たい水筒が、今まさに男子生徒の手を離れ──


「いくらなんでも、それは不条理というものですわ」


 バサリ、と羽根のはためく音がする。

 その時、生徒たちは確かに、自分の視界一面に映り込む漆黒の羽根のシャワーを見た。


 姫華に向けられていた罵詈雑言が、ピタリと止まる。

 その美しくも、どこか恐ろしい幻想的な光景に、今まさに水筒を投げようとしていた男子の手も降ろされていった。


 視界を独占するかのように舞い散る大量の羽根は、やがてその場にいた取り巻き1人1人の瞳の奥底へと飛び込んでいき……。


「な、なんだ!?」

「前が……前が見えねぇ!?」

「てっ、停電!?」


 その場に残ったのは混乱のみだった。

 先ほどまで喜々として姫華を詰っていた生徒たちは、まるでかのように混乱し、慌てふためいている。

 慌ただしく周囲を見回すも、視界は黒一色。中には、体勢を崩して転げ落ちた者もいた。


「姫華!? クソッ……どこに行った、姫華ぁ!?」

「きゃあっ!?」


 当然、それは道人も例外ではない。

 つい数秒前まで目の前にいた筈の姫華が、突如として真っ黒になった視界と共に消え去った。

 その混乱で暴れた道人の足が、彼に侍っていた女子生徒を蹴り倒す。


「な……にが、起きたの……?」


 そんな、先ほどまでとはまた違う異変の発生に、姫華はポカンとしていた。

 同時に、それは光太も同様だった。首を傾げる光太を抑え込みながら、九十九はこの異変を起こした相手の正体を悟る。


「あん……? なんで灰管たち、あんなにパニクってんだ?」

「黒い羽根に視力の低下……お千代チヨか!」

「如何にも。“めくら”の術でお千代の前に出る者はおりやせん。それよりも、坊ちゃん」

「分かってる。……光太」

「え、何何? どしたん? ってか、リュックの中に何入れてんだそれ……キツネのぬいぐる」


 ポスン、と音を立てて。


「あいや、失敬」


 リュックサックから飛び出したイナリが、光太の座る机の上に立つ。


 短くちっちゃな四肢に、ふっかふかの尻尾、丸々とした胴体、大きな頭部。

 成る程、確かにイナリの出で立ちは、デフォルメされたキツネのぬいぐるみと言われても遜色のないものだろう。


 そんなイナリが光太の目を覗き込み、自身のつぶらな瞳を妖しく輝かせた。

 丸々ふかふかの尻尾がぶわりと逆立ち、一瞬の内に光太はイナリから目を離せなくなった。


「【コンコンコンコンコンコン】」

「あ…………え…………?」


 イナリの瞳に見つめられた光太は、ボーっと熱に浮かされたように目の焦点を歪めていく。

 やがてイナリの尻尾が元に戻ると同時、目の焦点がハッキリと合った光太は我に返り、周囲を見回した。

 彼の視界にまず飛び込んできたのは、わちゃわちゃとパニック状態の道人と取り巻きたち。


「……うわ、なんじゃアレ」

「光太……今までの事、覚えてる?」

「え? あ、うーん……? なんか、気分がふわふわしてたような……。でもなんか、ハーレム状態の灰管を見て羨ましがってたよーな……って、気持ち悪っ!? 灰管の野郎を皆でチヤホヤしてたとか気持ち悪っ!? なんだこれ催眠もののエロ同人!?」

「やっぱり……イナリ」

「ええ。間違いありやせん、妖術でさ」


 ちっちゃな後ろ脚だけで立ち、これまたちっちゃな前脚を組みながらイナリが断言する。


「彼の白面金毛が使うような傾国のまじないではありやせんが、人を誑かしてふにゃふにゃの傀儡にする類いのものでしょう。西洋かぶれの“はいから”な連中が好んで使うと聞きやす」

「西洋の術……それじゃあ、やっぱり下手人は」

「十中八九、『現代堂』の手先でしょうや。ですが、どうされるおつもりで?」

「現物を抑えるのは当然だけど……それよりも、まずは白咲さんの……」

「九十九? つくもん? へい、九十九っち? 俺にはチミがキツネのぬいぐるみちゃんとお喋りしているようにしか見えないんだけど……大丈夫? 疲れてない? お前んちのお爺さんとちゃんとお話ししてる?」

「ごめん、光太。少し黙っていてほしいんだ」

「えっ、あ、はい」


 すとんと座る光太を他所に、光太は騒動の中心に立つ姫華へと目をやった。


「ぇ……あの、わた……し……」


 突然、道人がクラス中の友人たちを侍らせた。

 突然、仲が良かった筈の友人たちが自分を罵倒した。

 突然、道人を始めとした友人たちがパニックを起こし出した。


 姫華が生きていたそれまでの世界は、たった5分かそこらでいとも容易く崩壊した。

 パニックについては、九十九側の存在が姫華を助ける為に引き起こしたものだが、それを知る術など姫華が持ち合わせている訳も無し。

 彼女にとって重要なのは、自分には予知も理解もできないナニカが起きていて、姫華にはそれをどうする事もできないという事実のみである。


「姫華ぁ……姫華ぁ!」

「ひ、ぁ……!?」


 姫華の肩が跳ねた。

 彼女の透き通った瞳は、瞳孔を揺らしながらも確かに道人の姿を捉えた。


 視界が曇ってよく見通せないらしき彼は、3日前にも見せた独りよがりな苛立ちを露わにしている。

 その有り様が、どうしようもなく姫華の心を恐怖に駆り立てた。


「~~~~~ッ!」


 駆け出す。

 1秒でも早くこの場から逃げたい。その一心で、姫華は動かない足を無理やり動かし、教室を後にした。

 当然の事ながら、それを道人たちに知覚できる道理は無い。


 恐怖の涙を零しながら教室の入り口を飛び出した姫華の後ろ姿に、九十九は思わず立ち上がった。

 視界の隅では、光太の頭の上に乗ったイナリが何かを唱えている。イナリが言葉を紡ぐ度、光太の表情がトロンと眠たそうに蕩けていった。


「坊ちゃん!」

「分かってる! 僕は白咲さんを追うから、イナリは騒ぎの“ごまかし”を頼んだ!」

「召使いの使いが荒いですなぁ、分かりやした!」

「あれぇ……? 九十九ぉ、どっか行くのかぁ……?」

「光太、ごめん! 今日の授業、全部バックレるから! 光太はそのまま眠ってて!」

「分かったぁ…………ふにゃあ」


 机に寝そべって蕩けた顔で眠り出す光太を背に、九十九もまた教室を飛び出した。


 ホームルーム前であるにも拘らず、廊下はいやに静かで誰もいない。

 廊下に躍り出た九十九は、素早く周囲を見回した。その振る舞いには、いつものダウナー染みた内気な「ちびカラス」など面影1つとして無い。

 教室を出た姫華がどこに行ったのか。それを探るべく、九十九の黒い瞳は廊下一帯に視線を巡らせて──


ぬらぬらり」

「──ッ!?」


 ヌラリ、と周囲に漂う煙。

 どんな菓子をも凌駕するほどに甘ったるく、ありとあらゆる草の青臭さを詰め込んだようにも思えるほど、人を不快にさせる煙の匂い。

 それが、一瞬の内に廊下全体を覆い尽くした。


「この、煙草の匂いは……っ!」

ぬらぬらりとぬらぬらり」


 九十九は顔を上げた。

 視線の先は煙に塗れて何も見通せない。それでも、九十九にはある種の確信があった。

 煙の向こう側には、会いたくもない……不俱戴天の敵がいる。


ひょんと出でたる──」


 煙は、それそのものが意思を持っているかのように、生き物めいた動きを見せた。

 風の1つも吹かない廊下の中にあって、ゆらゆらと幽鬼めいて蠢いた煙はやがて、九十九との遮蔽にならないところまで遠ざかっていく。

 九十九の視界を遮っていた煙が無くなった事で、煙の向こう側にいた男の姿が完全に見えるようになった。


 着崩した着物は煤こけていて、全身には湿り気を思わせる雰囲気がべったりと貼り付いている。

 ベトベトとした目つきは、その男が理外の存在である事を何よりも雄弁に語っていた。


 腕ほどに長いキセルを片手で持って、その先端から甘ったるい煙を吐き出しながら。

 九十九の存在を認めた男は、ヌラリとした笑みを見せつける。


「あたし、かな?」

「お前は……っ!」


 そこにいたのはやはり、九十九が予想した通りの人物。

 古美術店『現代堂』の主人を名乗る男、山ン本だ。


「おやおやァ? 八咫村の小倅が、寺子屋をほっぽり出してどこへ行くというんだい。あたしと少し遊んでいきなよ」

「お前に構っている暇は無いんだ。そこをどけ……!」

「ヒヒヒ。が、これはまた随分な物言いだねェ。狸爺はお前さんにどういう教育をしているんだか。なァ──」


 ヌラリ。

 山ン本の粘ついた視線が巡り、自分の背後にいる何者かへと意識を向けた。


「お前さんの方からも、その辺を教えてくれないかい?」

「……ご生憎様、ご当主ダーリンの教育は完璧ですの。わたくしから言うべき事は何も御座いませんわ」


 煙を掻き分け、空中にぽっかりと穴が空く。

 それは今の今まで肉体を透明化させて潜伏していた者が、その透明化を徐々に解除しつつある事の証左であった。

 その事をより明らかに表すように、ぽっかり空いた穴は次第に小さな鳥の形を取っていく。


 九十九が苦い風に顔を歪める。

 がそこに潜伏していた事を、九十九は知っていた。

 知っていたが故に、山ン本の不意を打てる事を期待していたが……結果はまんまと山ン本に見破られた形となる。


「お千代……ごめん」

「まぁ、若様。そのようなお顔をしないでくださいまし。肝要なのは、この場をどう切り抜けるか。そうでしょう?」


 お千代チヨと呼ばれた者の正体は、漆黒のスズメだ。

 くりくりとした藍色の目が小さく煌めくその体は、真っ黒に染まった羽毛に包まれている。

 手の平サイズの黒スズメは、パタパタとちっちゃな羽をはためかせながら山ン本を睨みつけていた。


「あの“れでぃ”を追いたいのでしょう? なら、こんなペテン師はさっさとやっつけてしまえばいいのですわ」

「ペテン師、ねェ……ヒヒヒッ、まァ『昼』の側からすれば、そうも言いたくなるよねェ」


 キセルを咥えて煙草をみ、聞く者を不快にさせるような笑い声を漏らす。

 山ン本の目はヌラリと妖しく蠢いて、九十九という背の小さな青年を見た。

 九十九は山ン本に対して、敵意の一切を隠しもしていない。もしも手元に武器があれば、九十九はたちまち山ン本への攻撃に用いていただろう。


「……今回の一件も、お前の差し金だろ。灰管に何を渡した?」

「ヒヒヒヒヒ。そりゃァお前さん、に決まってるじゃないかァ。今晩くらいには、そろそろ変化ヘンゲするんじゃァないかねェ。だから、お前さんたちにその邪魔をしてほしくないのさァ」


 山ン本の口から、粘り気の強い煙が吐き出される。

 吐息混じりの煙は、やはり九十九が嫌悪するほどに甘ったるい匂いに満ち満ちていた。

 九十九の拳が、痛いほどに握り締められる。


「お前は……『現代堂』の連中はいつもそうだ。人の心をガラス細工みたいに歪めて壊して……何が目的なんだ」

「何が、って……分からないのかい? あァ、言った事は無かったけなァ」


 虚無的に嘲笑う。

 ヌラリ、とキセルの切っ先を揺り動かして、やがて煙の湧き出る先端は九十九へと向けられた。


「これはね、お前さんらが言うところの“げえむ”なのさァ」

「ゲーム……だって?」

「そうさ。人の欲望を吸って育った子たちが、人を誑かして、人を貶めて、昼の世界をひっくり返す。それを成した子に、あたしの持つ“山ン本ヤマンモト”のあざなを譲り渡す。これはそういう“げえむ”で、あの子は今回の“ぷれいやあ”なのさァ」

「世迷言ですわね」


 山ン本の背後で、お千代がバッサリと切り捨てた。

 その言葉を聞いた山ン本が、背後のお千代に対してヌラリと威圧感をぶつけにかかる。

 しかし、山ン本の帯びるおぞましい圧を受けてなお、お千代はつんと澄まして宙に浮いていた。


「“山ン本”とは即ち魔王のあざな。ですが、今の現世うつしよで魔王を名乗ったからとてと言うのですか。お猿のお山の大将の、しみったれたハリボテ王冠が関の山じゃありませんこと?」

「ヒヒッ、言うねェ。けれどさ、がイイんじゃァないか」


 ヒヒヒ、と口角を吊り上げる。

 そうしてキセルを咥える山ン本の在り様を、人はきっと「狂気」や「暗黒」などというありきたりな語彙で表現するのだろう。

 そんな凡百の言葉で、山ン本の帯びる深淵を理解できる筈が無いというのに。


「お山の大将気取ったケツの青いエテ公が、我こそは魔王也と叫び散らして持て囃されて。がイイんだよ。そんな阿呆をしたいから、あたしは“げえむ”を起こしたのさァ」

「そんなふざけた理由で、白咲さんを……!」

「んー……? あァ、あの嬢ちゃんねェ。今の世にまじない使いの才を持って生まれるたァ思わなんだが、それまでだねェ。あの子の生き肝の1つでも喰らってみれば、ウチの子たちも大層強くなるとは思うけど──」


 キセルを薙刀めいて動かせば、カツンという軽い音と共に何かが弾かれた。

 弾かれたモノの正体は、九十九が山ン本に向けて投げ放ったシャーペン。不意打ち気味に放たれたそれを、山ン本は何でもないようにキセルを動かして弾いてみせた。

 怒りを剥き出しにする九十九を前にして、山ン本はしてやったりとおぞまし気に口元を歪める。


「どうやら、そうは問屋が卸さないようだねェ。ヒヒヒヒ、怖い怖い。これだからは嫌なのさァ」

「……若様。この場は既に幽世かくりよ、見える全てがアイツの縄張りですわ。お気を付けを」

「……うん、分かった」


 九十九の頷きを見やり、パタパタとお千代が羽ばたいた。

 漆黒の羽根は、彼女が「若様」と呼ぶ青年の動きを今か今かと待っている。


 九十九はポケットに手を突っ込むと、腰を屈めて走り出す為の姿勢を取った。

 ヌラリと嘲笑う山ン本は未だ、キセルを持ってその場に佇むのみである。


「ここを突破する。白咲さんを追わないと……相手の狙いは彼女だ!」

「然るべく。仔細、わたくしにお任せあれですわ♪」


 廊下の床を蹴り飛ばし、九十九が山ン本に肉薄する。

 それに合わせる形で、お千代もまた空中から挟み撃つ。


「ヒヒヒヒ、ヒ。逢魔刻おうまがときは近いねェ」


 その様を、山ン本はキセルをみながら嘲笑っていた。





「はっ……はぁっ……はぁ……!」


 走る。只々、走る。

 どこに逃げるとか、どこまで逃げるとか、そんな事は微塵も考えちゃいなかった。


 教室を飛び出した姫華はそのまま学校からも逃げ出して、ひたすらに街を走り続けていた。

 目に見えない恐怖から逃れる為に、考え得る限り遠くへ。


「だ、れが……誰が、誰がの……っ!?」


 掠れた喉で、そんな事を呟いた。


 家族、駄目。

 姫華の両親と道人の両親は仲が良かった。

 クラスメイトがなのだ、家族が毒牙にかかっていないとはとてもじゃないが断言できない。


 別の学校に行った友人、駄目。

 姫華は見てしまった。親友と思っていた女子が、自分に消しゴムを投げつけて罵声を浴びせる様を。

 アレが異常事態なのは分かっていたが、それでも友人程度の縁を信用できるかと言えばそうではない。


 街の人たち、駄目。

 見ず知らずの小娘を助けてくれる奇特な人間が、どこにいるというのか。

 もしかしたら、道行く人々は姫華を監視しているのかもしれない。そんな妄想さえ、姫華の脳裏を次々に過っていく。


「誰も……いない……っ!」


 悲痛にそう漏らす。

 少なくとも、今の姫華の視点では、信頼できる人物などただの1人もいなかった。


 全員が敵に見える。全員が道人の手下に見える。

 一体どこの誰ならば、道人の影響を受けていないのだろうか。いや、最早この街の全てが道人の手中に収まってしまったとさえ思えてしまう。

 この街の全てが牙を剥き、無様にも逃げ出した姫華を喰らおうとしているのではないのか。


「……あ……い、やぁ……っ!」


 走りながら、ボロボロと涙を零す。


 冷静になって考えてみれば、姫華の思考は些か誇大妄想と言わざるを得ない。

 きちんと理論的に考える事ができる者ならば、姫華が抱いた恐怖に対して「いや、それはおかしい」と指摘する事ができるだろう。


 だが、それが今この場にどう寄与するというのか。

 親しかった者たちが敵に回り、自分に向けて罵声を浴びせて、あまつさえ物さえ投げてくる。

 その衝撃と恐怖を未成年の少女が受けたとして、冷静かつ理論的な思考を維持する事ができると、本当に断言できるだろうか?


 白咲 姫華には、断言できなかった。

 故に彼女は、こうして見えない敵から逃げているのだ。


 逃げて、走って、逃げて、走って。


 当然、姫華の体力では1時間すら十全に走れる訳が無い。

 だから時折、誰もいないところに隠れ潜んで縮こまり、人の気配を感じてはまた走る。


 走って、逃げて、隠れて、走って、逃げて、隠れて、走って。


 ただひたすらに走り続けた果てに……


「はぁっ……! はぁっ……! は、ぁあ……っ!?」


 遂に、限界が訪れた。


 僅かに視界の邪魔をする謎の煙を掻き分けたところで、姫華の足は動きを止める。

 とうとう走れなくなって、足を動かす事さえできなくなって。

 夥しい量の汗と涙を流しながら、姫華はその場に座り込んでしまった。


 足がジクジクと痛い。

 筋肉が激しく熱を帯びていて、もう1歩も歩く事は叶わない。

 何か言葉を紡ごうとしても、口から出るのは荒い呼吸音以外に無い。


 空を見上げる。視界一杯に、オレンジ色の世界が飛び込んできた。

 太陽はあと少しで地平線の向こう側へと沈みゆく頃合い。夕暮れ時だ。


 今が午後6時と仮定して、学校で起きた事件が午前9時よりも少し前。

 その差分は、都合9時間。


 街の中を走っていた時間よりも、誰かに見つからないよう隠れ潜んでいた時間が圧倒的に多かったとはいえ、ここまで長時間を歩き回っていたのだろうか?

 いくら常軌を逸した恐怖に支配されていたとはいえ、白咲 姫華というただの女子高生に、そんな事が可能なのだろうか?


 例えば、の話である。

 

 そのくらいの突飛なナニカでも無い限り、こんなに胡乱な結果が成立するとは思えない。


 しかし、今の姫華にそんな事を考える余裕はひと欠片たりとも存在していない。

 ほんのりと鼻腔をくすぐるでさえ、彼女の意識を惹く事なく消え去っていった。


「…………ぁ、ここ……」


 顔を上げた事で、姫華が気付いた事実にはもう1つある。

 限界を迎えた姫華が座り込んでいる今この場所は、姫華もよく知る街の郊外だった。


 ただただ「敵から逃げる」という衝動のままに走り続けていた姫華の逃走経路は、極めてジグザグしたもの。

 目に見えた道を反射的に選び続けた結果として、姫華は無意識下で「よく知る道」ばかりをグルグルと通っていたのだ。


 ……あれだけ走って、あれだけ逃げ続けて。

 自分は未だ、街の外にすら出ていない。


「う……グスッ……ひっく、うぇえん……」


 その事実が、どうしようもなく堪えた。

 姫華は声を押し殺して泣き出すが、次第に泣き声が漏れ出ていく。

 誰もいない夕暮れの郊外に、少女の哀しみだけが沁み込んでいった。


「……ようやく、見つけたぁ……!」


──そんな筈など無かった。


 聞き慣れた、しかし今は聞きたくなかった声が背後からして、姫華の体がビクリと震えてしまう。

 嫌だ。振り向きたくない。そんな感情が頭の中にパンパンと詰め込まれていく。

 それでも、姫華の首はゆっくりと後ろを向いた。錆びたブリキ人形のように、カタカタとぎこちなく。


「みち、と……」

「ちょこまかと逃げやがって……! 姫華ぁ、もうお前に逃げ場は無ぇぞ」


 頬をひくつかせながらそう語るのは、灰管 道人に相違無かった。

 朝に起きていた失明のパニックは既に収まったらしく、苛立ちでギラギラと光る道人の目は、狂気的に姫華を捉えて離さない。

 姫華が走り続けて限界を迎えたのと同じように、彼もまた精神状態が限界に近いのは火を見るよりも明らかだ。


「随分と手古摺らせやがったなぁ……姫華の癖にっ!」

「道人……なん、で……? それに、そ、の……」


 震える指で、道人の後ろを指し示す。

 姫華の揺れる瞳孔が見通した先には……道人に侍るようにして立つ、複数人の男たちがいた。

 その誰もが見るからに野蛮で粗暴で、凡そ礼儀正しい人間とは思えない。


「だれ、なの……?」

「あーん? ああ、コイツらか。コイツらも俺の下僕さぁ。な? お前ら」

「へへっ、その通りだぜぇ」

「ほーん、ソイツが目当ての女かよ。上玉じゃねぇか」

「道人に呼ばれたからなぁ、そりゃ従うっしょ?」


 下卑た笑いが夕暮れの路地に木霊する。

 最低な欲望を視線に込めて放ってくる男たちの存在に、姫華は全身に怖気が走る事を止められなかった。

 後退ろうにも、走り通しで足はロクに動かない。


「ひ、ぅ……!?」

「ああ、それとさぁ。なんで、だっけ? そりゃお前、SNSって知らねぇか?」


 これ見よがしに道人が取り出したのは、1台のスマホ。

 画面には、某SNSが表示されていた。

 その画面を姫華に見せびらかして、道人は勝利を確信しながらゲラゲラと嗤う。


「俺は下僕をいくらでも増やせるんだぜぇ? SNSを使えば、街中に放った下僕どもがみーんな監視カメラに早変わりよ!」

「…………!」


 姫華の表情が蒼褪めた。

 やっぱり、合っていたじゃないか。街中みんなが、敵だったじゃないか。

 絶望に染まった瞳から、もう何度目になるかも分からない涙が零れていく。


 そんな姫華の有り様を見て、道人はより一層愉悦の感情を昂らせた。

 自分の懐に手を突っ込んだ彼は、そのまま服の内をまさぐったのちに1枚のお札を取り出す。

 襤褸切れ染みたお札には赤や黒のインクで紋様が描かれていて、道人がつけたらしい折り目もついていた。


「ひ……ひひひひひ。このお札ってスゲェよなぁ。最初はただの眉唾ものかと思ってたけどさぁ……スッゲェだろ、これ!? お札持ってるだけで、俺を持て囃す下僕どもがワンサカさ!」

「言ってる、意味が……分からないわ」

「分かんねぇ!? 分かんねぇって言ったのか!? 姫華が、俺に!」


 突如として声が荒げられる。

 一瞬で起きた道人の変貌に、姫華はただ震えるしかなかった。

 道人の指は、またしても自分自身の金髪へと伸ばされる。


「いつも、そうだ……いつもそうだ! お前はいつもいつも、俺に逆らいやがるっ」

「なにを……言ってる、の」

「うるせぇっ! 俺が何かする時、お前はいつも俺に口答えしていた! 俺はお前よりも……っ、誰よりも上なんだぞ!? なんでどいつもこいつも、俺に指図するんだ!」


 ガシ、ガシ、ガシガシガシ。

 染めた金髪を見ていて痛くなるほどに掻き毟り、遂には地団太まで踏み鳴らす。

 道人が苛立ちを露わにする姿は、姫華の目から見ても常軌を逸していると言わざるを得なかった。


 自分に都合の悪い時、彼が頭を掻き毟る癖は知っている。

 だが、それを抜きにしたって目の前のこれはどうだ。まるで正気とは言えやしない。

 あまりにも髪を掻き過ぎるあまり、道人は額から血さえ流していた。


「俺に指図すんなよ……! 俺を上に見ろよ! 俺を、俺を俺を俺を俺を俺をォ!! 俺を馬鹿にすんじゃねぇっ!!」


 頭皮から血が出るほどに掻き毟り、駄々を捏ねる子供のように地団太を繰り返す。

 その様を見た他人から、自分がどう思われるかさえ考慮の外に追いやって、ただ自我を通す事だけを優先する。

 変わり果てた道人を見て、姫華は絶望や恐怖さえ置き去りに、呆然とするしかなかった。


 姫華には、心当たりの1つも無い。

 3日前、道人の浮気を咎めた際に逆上されたあの時から今日に至るまで、彼女は道人と会ってもいなかった。

 今日だ。今日の朝、突如として道人はなった。自分の周りにいた友人たちも、道人に中てられたかのようになった。


 意味が分からなかった。

 ただ、もっと意味が分からなかったのは。


「まぁまぁ、そう荒れんなよ道人」

「大丈夫大丈夫、灰管には俺らがついてるって」

「そうよ、俺たちは道人がスゲェって事をちゃーんと分かってるからさ」

「あ……ああ、そうだな。悪い、ちょっと熱くなってたぜ」


 道人が「下僕」と称する、会った事も無い粗暴な男たち。

 彼らは癇癪を起こした道人に辟易する事も、嘲笑も軽蔑もする事なく、彼の癇癪に寄り添って言葉をかけていた。


 彼らは、道人のなんなのだろうか。道人とはどういう関係なのだろうか。

 分からない。何も分からない。たったの数時間で、姫華の常識は何もかもが活かせなくなった。


「……ぁ……」


 ダラン、と姫華の腕から力が抜ける。もう、疲れてしまったのだ。


「だが、それももう終わりだ。コイツらがな、んだってよ。これを機に、お前も鼻っ柱を折ってもらいな」

「…………」

「ダンマリか。最後までつまんねぇ奴だな、お前。ホラ、もうやっちまえよ」


 その言葉を皮切りに、不良たちがゾロゾロと動き出す。

 下衆な欲望を満たす事しか考えていないような男たちが1歩近付いてくる度に、姫華は自分の寿命が1分1秒と目減りしていくように錯覚した。

 これから彼らは、人を人とも思わない残酷な暴力を振るってくるに違いない。


 それでも、姫華はもうどうでもよかった。

 足は動かないが、動かす気すら起きない。ここで自分の人生が終わるなら、それでもいい気さえ湧いてくる。


「ひはは。コイツ、もう諦めちまったみてぇだぜ」

「それはそれで遊び甲斐があるじゃねぇか。オラ、立て!」


 不良たちが姫華の髪を掴む。

 美しい白色の髪がブチブチと音を立て、引っ張られるにつれて姫華は痛みで顔を顰めた。

 自分に逃げ場が無い事を決定的に思い知った姫華の目からは、一切の光が消え去った。


 そうして光を失った目で前を見てみれば、そこには狂気一色に嘲笑う道人の姿。

 姫華はしかし、そんな道人の遥か後方に。


(……八咫村……くん。どうしてるの、かな…………)


 今の今まで思い当たりもしなかった、あの小さなクラスメイトを幻視した。


「あっははははははははは! いい気味だぜ姫華ぁ! 俺に逆らうからこーなるんだよ、ええ!?」

「ふゥむ……お楽しみのところ申し訳ないのだけどね」

「あん? なんだよ、いいところだってのに。言いたい事があるならさっさと…………?」

「では、お言葉に甘えて端的に」


 道人は言葉を失った。

 さっきまでの威勢は、水をぶっかけた火種のようにどこかへと消え失せた。

 だって、そうだろう。


。貴様との関係はここまでだ、人間」


 お札が、宙に浮いていた。

 つい数秒前まで、道人が己の武器であるかのように振り回していた筈の古ぼけたお札が、道人の手を離れて宙に浮いたのだ。


 それだけならば、突風が吹いたとか、勢い余って投げてしまったなどと言い訳もつくだろう。

 けれども、道人の手を離れたお札は妖しく光を帯びると、何の前触れも無しに声を発し始めた。


 録音とか腹話術とか、そんなチャチなものではない。

 道人の目には、お札が意思を持って喋り出したようにしか見えなかった。


「このまま、人間どもの愚行を見物するのも悪くは無い。が、我が輩は契約にはきちんと則りたいタチなのだ」

「あ……あ、ぁあ……っ!?」

「あ? どうしたよ灰管、そんな声出して……って……」


 今まさに姫華を乱暴しようとしていた男たちが、道人の異変に気付いて動きを止める。

 姫華をその場に放り投げて振り向けば、そこにはやはり光り輝きながら宙を泳ぐお札があった。


「痛っ…………え……?」


 地面に投げ飛ばされた痛みを押し殺して、姫華もまた空を見た。そして、唖然とする。

 その場の誰もがそうだった。姫華も、道人も、男たちも、誰もがお札の異変を目の当たりにした。


 お札は水を得た魚めいて空中を泳ぐように飛び回り、やがて空中のある一点で静止する。

 その背後では、夕焼け空が青みを帯びていた。太陽はあとほんの数秒ほどで沈み切るだろう。


変化ヘンゲに必要な欲望は集まった。であれば、道具がいつまで経っても人間に従い続ける義理なぞ無いだろう?」


 ブクリ。

 お札が膨張する。

 道理も、物理法則も、質量保存の法則さえも無視して、宙に浮いたお札は風船のように膨れ上がった。


 ブクブクと怖気の走る異音を奏でながら、肥大化を繰り返すお札。

 その中で、徐々に腕や足、首のようなナニカが形成されていく事を、その場にいた者たちは知覚した。

 肥大化に伴って発生する音も、ブクブクからミチミチへ。その異音は、さながら筋肉が軋む音のようで。


 そうして、道人たちが呆然とする中。


「──クッ」


 太陽が完全に沈み切った地平線をバックに、は姿を現した。


「クハハハハハハハハッ! やった、やったぞ! 遂に我が輩は、肉の体を手に入れた!!」


 は、恐ろしく肌の白い男だった。

 成人男性すら超す長身は、ヨーロッパの貴族を思わせる夜会服に包まれている。

 その上から羽織られた漆黒の外套マントは、闇夜を想起するほどに黒く、どこかコウモリの羽根のようにすら見えるだろう。


 街を覆いつつある夜の帳の中心で、空中を踏み締めながら高笑いを上げる貴族風の大男。

 死人と錯覚してしまうほど白い肌を持ったその出で立ちは、まさしく──


「ば、化け物……っ!?」

「ふん。我が輩がこうして肉の体を得たというのに、なんだねその反応は。そのように愚劣な物言いで、我が輩を十全に畏れたつもりかね」


 その一瞬、姫華は確かに見た。見えた、と言った方が正しいか。

 空中に立つ大男の口元で、ギラリと光る牙を。


「折角だ。この場の貴様らに、我が名を知らしめるのも一興か。いいだろう! 我が名に畏れを抱き、跪くがいい」


 バサリ、とマントを翻す。

 風も無いのにはためく真っ黒いマントは、夜の闇に溶け込むように馴染んですらいた。


「我が名はオフダ・キュウケツキ。九十九神ツクモガミだ」

「キュウケ……吸血鬼!? いや、でも九十九神って……?」

「やれやれ、今の人間はそのような事さえ忘れ去ってしまったのかね。我らは等しく、元は貴様ら人間に生み出されたというのに」


 嫌悪と共に歯を剥く、オフダ・キュウケツキなる大男。

 彼が一たび歯ぎしりすれば、鋭く磨かれた1対の牙が誇らしげに見え隠れする。


「99年を生きた道具は、魂と肉の体を得て自我を持つ。だが、今の人間はモノを大事に扱うという事をとんと知らぬ。我らが長は九十九神が生まれ得ぬこの世を憂い、そして一計を案じたのだ」


 ピッ、と指を立てる。

 オフダ・キュウケツキの人差し指は死人のように白く、それでいて長い。

 血の気の失せた指先には、ナイフ染みて鋭利な爪が光っていた。


「──外法。仮初めの魂を込めた道具を人間どもに手渡して、その人間どもの願いを叶える形で欲望を啜り取る。そうすれば、99年を経ずとも道具は九十九神に成る、変化ヘンゲする! そう、今の我が輩のようにな!」

「そ、んな……!? じゃ、じゃあ……今まで俺をチヤホヤしてくれたアイツらは……っ!?」


 道人の喉が震える。

 彼には心当たりがあった。この場にいる人間の中で唯一、彼だけには心当たりがあった。


 目の前でオフダ・キュウケツキなどという珍妙な名乗りを上げた大男、その元になったお札は、あの時『現代堂』の主人にもらったものなのだから。

 そのお札を身につけているだけで、誰もが道人を慕い、チヤホヤする為に群がってくれたのだから。

 お札さえあれば、自分に反抗する姫華を為に、誰もが義憤を燃やしてくれたのだから。


 もし、そうではないとしたら?


 果たして、その答えはオフダ・キュウケツキが出してくれた。

 嘲りの笑みと共に。


「そんなもの、我が輩の力に決まっているだろう。我が魅了チャームの魔法は万能、只人であれば誰もが能無しの傀儡になる魔の力よ。我が輩はただ、貴様を介して欲望を喰らう為に魔法を使っていたに過ぎん」

「じゃあ…………俺は、もう……」

「もう、も何も」


 ジロリ、と。

 オフダ・キュウケツキの真っ赤な瞳に睨まれた道人が、呼吸の仕方を忘れてしまうのも無理は無いだろう。


「貴様は己が、道具チートも無しに他者を惹き付けられるとでも思っていたのかね?」


 その一言で、全てが終わった。


「あ、ぁあああぁぁああぁぁあぁあぁああああぁぁぁぁぁああああぁ……っ!?」


 膝をつく道人。

 天国だった3日間がただの虚構だと、その一言で思い知らされた。

 視界が歪み、上手く呼吸ができなくなる。尋常ではないほどの汗が溢れ出し、パクパクと開閉する口からは涎さえ垂れてくる。


 道人も同じだった。

 灰管 道人もまた、この3日でそれまでの常識や道理を破壊されていた。

 姫華との違いはシンプル。姫華は破壊された常識に心を搔き乱され、道人は破壊された常識に悦を覚えていた。


 故に、その悦が反転する事は、ある種の因果応報と言うべきだろう。


「……さて、はもういいだろう。我が輩には、これからやるべき事があるのでね」


 壊れてしまった道人に対する興味も失せて、オフダ・キュウケツキはクルリと視線を動かした。

 その深紅に濁った瞳は、つい先ほどまで姫華を甚振ろうとしていた不良たちへと向けられる。

 彼らの常識では計れない理外の存在に、不良たちから「威勢」の2文字は失われたと言っていい。


「ひっ!?」

「今の我が輩はあくまで、我らが長の催す“げえむ”の“ぷれいやあ”。“ぷれいやあ”に望まれているのは、昼の世界を闇に落とし、我ら夜の世界の住人が覇権を握る事」


 オフダ・キュウケツキの指先がゆっくり動く。

 その人外染みて長く爪の鋭い指先が指し示すのは、やはり視線の先にいる不良たちだ。


 狙われている。

 頭の足りない粗暴な者たちであっても、その程度の理解は本能で行えた。


「まずは手堅く……そのいのちを頂こうか」


 意地汚い舌なめずりの音が、夜の郊外に反響する。

 その音が聞こえなければ、不良たちにとってどれだけ幸福だったかは、今はもう分からない。


「ひ──ひぃぃいいいいぃぃいいいいいぃっ!?」


 故に、男たちが一斉に逃げ出すのは当然の帰結だ。

 彼らが「上玉」「遊び甲斐がある」と言っていた姫華さえ置き去りにして……いや、座り込んだまま立ち上がれない彼女の存在に、今の彼らは一瞬でも意識を向ける事さえしなかった。

 況や、姫華よりも遠くにいた道人の存在なぞ。


「たっ、助けてくれっ! に、逃げないで……俺をっ、助けっ」

「うるせぇっ! 勝手に死んでろ!」


 掠れた声で道人が絞り出した助けを求める言葉を、不良の1人は一瞬で切り捨てた。

 先ほどまで彼らが道人を慕っていたのは、ひとえにオフダ・キュウケツキの使う魅了チャームの魔法ありきの結果。

 であれば、魔法の効果が切れた今、どうして彼らのような破落戸が道人に手を差し伸べるだろうか?


 道人などというを切り捨てるだけ切り捨てて、男たちは逃げる。

 惨めったらしくドタドタと疾走する不良たちはこの日、自分たちの無法よりも恐ろしいモノが、この世には存在する事を理解した。

 尤も、その理解はもう遅いと言わざるを得ないのだが。


「逃がすと、思っているのかな?」


 コウモリの群れが、夜の闇を引き裂いた。

 真っ赤な目を持つ無数のコウモリが、不良たちすら追い越して彼らの目前に回り込む。

 それに思わず足を止め、立ち竦む男たちの前で、コウモリの群れは1つの塊を形成した。


 塊と化したコウモリたちはあっという間に人の形へと変貌を遂げて、数瞬も経たない内にオフダ・キュウケツキの姿へと戻る。

 オフダ・キュウケツキは不良たちの前に立ちはだかると、猟奇的な笑みと共に牙を剥く。


「分からないのかね? 今の貴様らは最早、まな板の上の鯉なのだと」

「ばっ、化け物っ! 化け物が、なんで俺たちを……っ!」

「化け物、化け物と喧しい。貴様ら人間は、何故そのようにありきたりな名で我らを呼び畏れるのか」


 失望したように首を振る。

 わざとらしく溜め息までついてみせたオフダ・キュウケツキの振る舞いは、平時の不良たちであれば、侮辱されたと受け取るだろう。

 だが、今の彼らから見たの振る舞いは、自分たちへの死刑宣告にしか聞こえない。


「我らを呼ぶならば、もっと相応しい名があるだろう。さぁ、叫んでみせろ。誰もが知る名だぞ。我らを畏れる為に、貴様ら人間が生み出した名を! 今こそ叫んでみるがいい!」


 夜闇を背にして、オフダ・キュウケツキは高らかに謳い上げる。

 この名こそ、『夜』から『昼』への宣戦布告だと言わんばかりに。


「──“妖怪”、と!!」

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