カジュアル シャーロックホームズ 「3人の学生」

新訳シャーロックホームズ

第1話

95年に、詳細は省くがある出来事が重なったことでシャーロック ホームズと僕はとある学生街で何週間か過ごすこととなった。これから語る些細ではあるが勉強になった事件に出合ったのはこのときだった。あれが起こったのがどこの大学でどの人間のことだったか読者に知れてしまうような書き方は分別に欠け、よろしくない。心がウッとなるようなスキャンダルは特定されないまま忘れ去られる方がいいのだ。とはいえ、この事件は関係者に配慮しながら書きさえすれば、僕の友人の持つ様々な素晴らしい資質の中のまた1面を照らし出せるケースであると考えるので、出来事や場所、また関わった人たちが特定されないよう十分に注意しながら記していくこととする。

当時僕らはある図書館の近くにある宿の部屋で過ごしていた。ホームズはその図書館に足しげく通って初期のイギリスの国家憲章について調べるなんて骨の折れる作業に没頭していたが、この研究は研究でまたすごいもので、もしかしたらその成果について書いてみることもあるかも知れない。そんなある日の夕方、僕らの共通の知人が宿まで訪ねてきた。ヒルトン ソームズというセントルークズ大で講師をしている人間で、長身に細身で、感情の動かされやすい落ち着きのないタイプの人だった。普段からそういう性格だとはわかっていたが、そのときの彼は落ち着きのなさを通り越して心の乱れを抑え切れないような風でいて、その身に何か普通でないことが降りかかったのは明らかだった。


「ホームズさん。あなたの貴重なお時間を、こちらのために割いていただけると信じています。セントルークズの方で頭の痛い問題が起こりましてね。あなたのような方がたまたまこの街に来てなかったら、どうしていいかわからなくなるところでしたよ。」


「今はちょっと.. だいぶ忙しくしてましてね。他のことに取られてる場合じゃないんですよ。警察のほうに頼んでもらえると僕としてはありがたいんですが。」

ホームズはそう返した。


「ダメです、ダメです。断じてそれはできません。警察を呼んでしまえば途中で止めることもできなくなりますし。今回のことはうちの大学の名誉に関わることでして、スキャンダルだけは絶対に避けたいんです。ホームズさんは捜査力もさることながら、そういう配慮に関しても超一流だと聞いています。だからこの問題はあなたでないとダメなんです。なんとかお願いします、力を貸してください。」


このときの僕の友人の機嫌だが、ベーカー通りのあの部屋から離れている時点で基本的に良いとは言えなかった。この宿の部屋ではあそこのスクラップブックや薬品類、そしてなんといっても雑多な散らかり具合が再現できないのだ。そんなわけでここでは本来の姿よりもいささかピリついた感じはあったのだが、その彼が今、嫌そうながらもしょうがないという風に両肩をヒョイと上げた。相手はすかさず持ってきた話をまくし立てた。

「ホームズさん、まず知っておいてほしいのは、明日はうちの大学のフォーティスキュー奨学金試験の初日なんです。私はそのうちのギリシャ語の試験を担当しているんですが、その試験問題の冒頭にこれまでの講義では扱ったことのないギリシャ語の文を翻訳していくという大問を設定してあるんです。問題用紙に長文が印刷されるんですが、もし受験者が前もってこの長文の内容を知っていたら、当然のことながら試験ではかなり有利となります。だからその文章が印刷された問題用紙の扱いにはかなり気を使うんです。

今日の3時頃なんですが、業者からこの問題用紙のゲラ刷りが届いたんです。その大問というのはユーシディティーズの書いたある章の約半分を翻訳していくというものなんですが、そこに誤字などがあってはいけませんから、ゲラ刷りを受け取ったあと私は学内にある自分の部屋でそれを入念にチェックしていっていたんです。それで4時半になってもまだ作業は終わってなかったんですが、その時間に友人のところでお茶を飲む約束をしていまして。ゲラ刷りをテーブルの上に置いたまま部屋を出て、それから30分以上は空けていたんです。

ご存知と思いますが、うちの大学の扉は2重になっています。内側に緑のベイスの張ってある戸があって、外は重厚な樫製の錠付きのドアです。それで私がお茶から戻ってきたときに、そのドアの鍵穴に鍵が挿されたままになってあるのを見てびっくりしました。自分が出るときに抜き忘れてしまったのかなと一瞬思いましたが、ポケットを触ると鍵はちゃんとありました。ここの部屋のスペアキーの存在は1つしか私は知りませんので、つまりそれは私の下で働く掃除係のバニスターの物ということになるんです。このバニスターというのは私の部屋の管理をもう10年はやってくれている誠実で生まじめな男です。実際その鍵は彼のものでして、なんでも、私が出かけてる間にお茶がいるかどうか尋ねようと部屋に入ったそうで、それで出ていくときにうっかり鍵を抜き忘れてしまったというんです。これが他の日であればたいした問題にもならなかったんですが、よりによって今日だったというのが残念な結果を生むことになってしまいまして。

とりあえず私は部屋に入って室内を見まわしたんですが、そこに侵入した者がいたことはすぐにわかりました。中央の書き物テーブルの上にあったゲラが誰かにいじられていたんです。そのゲラ刷りというのは長いめの用紙が3枚あるものなんですが、そのうちの1枚は床の上にあって、もう1枚は窓際のサイドテーブルの上に、残り1枚はそのままテーブルにありました。」


黙って聞いていたホームズがここで反応し、

「1ページ目が床、2ページ目が窓際、3ページ目がそのまま.. 」

と口にした。


「そうです。驚きました。何でわかったんです?」


「どうぞ、その興味ぶかい話を続けてください。」


「.. 私はそれを見て、もしかしたらバニスターが、これは許されないことですが無断でゲラに触れたのかなと考えたりしたんですが、彼に訊いてみたらそんな事はやっていないと真剣な顔で言っていましたし、それに嘘はないと思います。となると残りの可能性は、部屋の前を通りかかった誰かが鍵が挿されたままのドアを見つけて、中に私がいないと考えて試験の問題用紙を盗み見るために入ってきた、ということになります。このフォーティスキュー奨学金というのはかなり手厚いものですから、そのけしからん人間が他の受験者を出し抜こうとしてそんなリスクを冒すというのも考えられなくはないんです。

バニスターはこの状況にかなりうろたえてまして、ゲラ刷りが誰かにいじられたとわかった時には気を失わんばかりになって、フラフラっとよろめいていって部屋にあったイスに座り込んでしまいました。私はとりあえず彼をそのまま座らせておいてブランデーを少し与えてから、室内をじっくり見てみたんです。するとゲラ刷りの位置が変わっていた以外にも、ここに入った人間がいたとの形跡はいくつか見つかりました。窓際のサイドテーブルの上なんですが、ここに鉛筆の削りカスと折れた芯があったんです。つまり侵入者はそのサイドテーブルの上で急いでゲラ刷りを別の紙に写していき、そのときに鉛筆の芯が折れてしまって、そこで削ったということだと思います。」


「すばらしい、」

この興味ぶかい話に聞き入るうち、だんだん本来の機嫌に戻ってきていたホームズが口にした。

「まだ運がありましたよ。」


「他にもあったんです。私のところのその書き物テーブルというのは天面に赤い革が張ってあるものなんですが、これ自体がかなり新しいもので天面はツルツルで汚れなんかも全く無かったんです。これはバニスターも確認してくれると思います。ですが、そこを見てみると表面に7cmくらいの傷ができてあったんです。ちょっと擦ったというようなのではなく、はっきりと切れ目の入ったものでした。それ以外にもこのテーブルには小さくて黒い粘土状の塊が1つ落ちていて、それにはおが屑のようなものが混じってありました。こんなのはゲラ刷りをいじった人間が残していったとみて間違いないと思うんですが、それ以上の足跡なり他の痕跡などは私には見つけることができなかったんです。それでどうしていいかわからなくなっていたときに、ラッキーなことにあなたが今この街にいらっしゃることを思い出して、全てをお任せするつもりでここに飛んできたんです。ホームズさん、お願いします。どうか助けてください。私が抱えるジレンマはわかっていただけると思います。部屋に侵入したのが誰なのかわからないままなら明日の試験は延期しないといけなくなりますし、そんな大事なことを何の説明もなしに行うなんてことは通りませんから、この醜いスキャンダルが表に出てしまうことになるんです。これはうちの学部だけでなく大学全体にとってかなりの痛手となります。だから私はとにかくこの問題を内密に解決させたいんです。」


「見せてもらって、アドバイスできることはさせてもらいますよ、」

ホームズがイスから立ってコートを羽織り、

「その件もおもしろいところが無くはないようですからね。印刷業者からゲラが届いてからですが、部屋には誰か来ていませんか?」


「ダウラット ラスが来ました。同じ棟にいるインド人の学生ですが、明日の試験のことで質問があるとかで。」


「部屋には入りました?」


「ええ。」


「そのときテーブルにゲラが置かれてたと?」


「ええ。確か、そのときはロール状に丸まった状態だったと思います。」


「でも問題用紙のゲラだとわかった可能性はある?」


「あり得ますね。」


「他に部屋に来た人は?」


「いえ。」


「問題用紙のゲラがあなたの部屋にあることを知っていた人はいましたか?」


「いえ、印刷業者以外には。」


「そのバニスターという人はどうです?」


「いえ、彼も知りませんでした。誰も知らなかったはずです。」


「そのバニスターという人は今どちらに?」


「かわいそうにあの男はかなり苦しそうにしてましたので、私の部屋のイスに座ったままにさせてあります。私はとにかく急いでここに来ましたから。」


「部屋を開けたままで出てきたんですか?」


「ええ。先にゲラ刷りは鍵の付いたところにしまって鍵はかけてきましたが。」


「そうですか。ここまでの話で考えると、ソームズさん。そのインド人の学生がその丸まった紙をゲラだと気づいたというのでなければ、侵入者はたまたまあなたの部屋に入ってからゲラがあるのに気づいた、ということになりますが。」


「ええ、私にもそう思えます.. 」


ホームズは意味ありげにニヤッとして、

「では、そちらまで行ってみましょうか。ワトソン、君のケースじゃないと思うよ。あんまり体は要らなくて頭ん中でごちゃごちゃやるやつみたいだから。あ、でもいいよ、もちろん。来たければ来てくれたら。じゃ、ソームズさん、行きましょうか。」


僕らが着いたときには日は沈みかけていた。歴史ある大学の苔のむした中庭から、それほど高くない位置に格子の入った縦長の窓が見え、それがソームズ氏の書斎の窓ということだった。上部が弓なりになったゴシック式の入り口の奥に擦りへった石の段が見え、その段を上がったところがこの棟の1階部分で、ソームズ氏の部屋はその階だった。棟の上の階には3人の学生が暮らしていて、それぞれの階に1つずつ部屋があるとのことだった。ホームズは中庭でいったん足を止めて、ソームズ氏の部屋の窓をじっと眺めた。そしてその窓に近づいていき、つま先を立てて首を伸ばした格好で室内に目をやっていた。


「犯人はドアから入ったと思いますよ。ここは開けられるとしても格子の間のガラス分の隙間しかありませんから。」

僕らの博識の案内人が声をかけた。


「そうですかっ、」

ホームズはそう言って教授に独特の笑い顔を見せ、

「ここを見ててもしょうがないなら、早く部屋に行った方がよさそうですね。」


ソームズ氏がドアの鍵を開け、僕らを部屋へ招き入れようとしたが、まずホームズがじゅうたんの上をチェックするということで、そのあいだ僕らはドア口のところで待たされた。


「何も残ってないみたいですね、」

ホームズが言った。

「こう晴れた日では跡が残らなくても不思議ではないんですが。あ、どうやらその掃除員の体調は戻ったみたいですね。その人が座ってたのを放っておいて出てきたと言われましたが、座っていたのはどのイスです?」


「窓際のそちらのやつです。」


「あぁ、あの小さいテーブルの近くの。あ、じゅうたんの調べは終わりましたんで、もう入ってきていいですよ。ではこの窓際の小さいテーブルの方からいきますが.. ここを見てわかることははっきりしてますね。侵入者は中央の書き物テーブルから1枚ずつゲラの紙を取って窓際のテーブルに置いていった。ここなら書いてる途中でもあなたが戻ってきて中庭を歩く姿が見えますから、すぐに逃げる準備ができると考えたんでしょう。」


「しかしそうはいかなかった、」

ソームズ氏が言った。

「私は通用口の方から入ってきましたから。」


「やりましたね。とにかく侵入した人間はそう考えてこのテーブルを選んだ。ゲラの紙を見ていきましょうか。指の型は.. 残ってないようですね。まずこの1枚を持っていき、写しにかかったと。略字を使ったりしてがんばったとしても、この文字数なら最低でも15分はかかったでしょう。1枚目を写し終わり、ゲラを床に落とす。そしてすぐに2枚目を持っていった。その時にあなたが部屋に戻ってきてしまったことがわかり、急いでここを出ていかないといけなくなった。それはもう急がないといけなかったと思いますよ。侵入したことがバレないようにゲラの紙を元の位置に戻す余裕もなかったくらいですからね。外側のドアを開けたときに、階段の方なんかで急ぎ足の音が聞こえたりしなかったですか?」


「いや.. しなかったと思います。」


「えぇ.. その侵入者ですが、かなりの勢いでゲラを書き写していったために鉛筆の芯を折ってしまった。それであなたの言うようにここで鉛筆を削ってますね。あ、なかなかいいことがわかったよ、ワトソン。その人間が使ったのは一般的な鉛筆じゃないね。ちょっと大きめで芯が柔らかめのやつだ。表面は紺色でメーカー名は銀色で記されてる。その鉛筆の残りの長さは3、4cm。ソームズさん、そんな鉛筆が出てくれば犯人もわかってくるんですが。あぁ、あとこれを削ったナイフは大きめで切れ味の悪いものです。」


ソームズ氏は情報の多さに圧倒されて、

「ちょっと待ってください。他のことは何とかわかりますが、その鉛筆の残りの長さなんていうのは──」


ホームズはテーブルにある削りカスを1つ指でつまんで相手に見せた。木の地の部分の後に青地に“NN”という字が記された部分が続いたものだった。

「ね?」


「.. いや、それを見せられても──」


「ワトソン、君にはいつも言い過ぎてたみたいだね。他にもいるってことだ。このNNが何なのか。ある単語の終わりの文字ですよ。鉛筆といえばヨハン フェイバー (Johann Faber) のものが一般的ですよね。この削りカスを見れば、ふつうこのNNの後にいくつ字が残ってるかも、それとほぼイコールの幅である鉛筆の長さもわかりませんかね?」


ホームズはそれから窓際のサイドテーブルを両手で持ち、それを傾けて室内の電球の方に向けていた。

「書き写した紙が薄くて、このきれいな表面に何か跡でも残っていればと思ったんですが、何も見えませんね。このテーブルはこれだけですね。では、真ん中の書き物テーブルにいきましょうか。この小さな粒が、あなたが言っていた柔らかい黒い塊というやつですね。 四角錐っぽいかたちに、中がくりぬかれた形状.. おっしゃるとおりおが屑みたいなのが混じってますね。いやぁ、これはかなりおもしろいですよ。あとは.. テーブルにできたはっきりした切れ込みという傷ですね。始めは小さく切れてて.. 次第に大きくびりびりと、三角形に破れていってると。や、ソームズさん、この件を持ってきてもらってよかったですよ。.. そちらのドアは何です?」


「その奥が寝室なんです。」


「この一件があってから、そちらには入りましたか?」


「いえ。すぐにホームズさんのところに来ましたので。」


「その部屋も見せていただきたいんですが。あぁ、いい感じの.. 古風な部屋ですね。あ、ちょっと待ってください。先に床を見てみますね。.. 何も残ってないみたいですね。こちらのカーテンはどうでしょう。あ、裏側に服をかけてあるんですね。もしここの部屋に入った人間が身を隠さないといけないとしたら、この裏ということになるんでしょうね。ベッドも低すぎますし、タンスも小さいですから。カーテンの裏には.. 誰もいないでしょう.. ねっ、」

そう言ってカーテンを引くとき、ホームズの顔は何かに備えてか構えた表情となっていた。が、カーテンが開けられてみると、上部に並んだ木の杭に3、4着の上着が掛けられてあるだけだった。そこから目を離したホームズがすぐに床に目を留めてかがみ込んだ。

「ワォ、これは何でしょう。」


床にあったのは書斎の書き物テーブルにあったのとそっくりな、あの四角錐型の黒い粒だった。ホームズはそれを手のひらに載せ、電球の光に照らした。

「侵入者は書斎だけじゃなく、この部屋にも落し物をしていったみたいですよ。」


「どうしてこの部屋にまで.. 」


「それは割とはっきりしてると思いますよ。あなたは侵入者が予想してたのとは違う経路で戻ってきた。書斎にいたその人間からすれば、気づいたときにはあなたがドアの外にいたという状況です。だからとにかく自分のことが知れるような物だけバッとつかんでこっちの部屋に身を隠したということでしょう。」


「何てことだっ.. ホームズさん、ということは隣の部屋でバニスターと話してたあのときに、こっちの部屋を開けていたらそいつを捕まえれていたということですか?」


「そのようですね。」


「しかしホームズさん、別の可能性も考えられるんではないですか。寝室の窓は見られました?」


「ええ。格子が入っていて窓枠は鉛製。窓ガラスは3枚で、そのうち1枚は蝶番が付いてるので開閉でき、成人男性が抜けられるくらいの大きさはある。」


「そのとおりです。その窓は中庭の隅っこに当たる部分ですから外からは少し見えにくい位置にあります。犯人は寝室の窓から侵入してきて.. だからここの床に黒い粒があったと。そしてそいつは書斎の向こうのドアが開いていたのを見て、そのまま出ていったとか。」


ホームズはいやいや、という風に顔を横に振り、

「推理も結構ですが、とりあえずもう少し実際の情報を埋めていきましょうか。この棟の階段を使っているのは上に住んでる3人の学生ということですが、その人たちはここの部屋の前を通っていくのが普通なんですか?」


「ええ、そうです。」


「その3人ともが明日の試験を受けると?」


「ええ。」


「3人のうち、ソームズさんが他の生徒より怪しいと感じる生徒はいたりします?」


ソームズ氏は戸惑った顔で、

「いや、難しい質問ですね。何の証明もない段階で疑いを向けるというのは.. 」


「疑いの方をおっしゃっていただけませんか。証明の方はこちらでやりますので。」


「では.. 上の階に住んでる3人がどんな人間かについて簡単に話しますね。まず2階にいる者ですが、名前はギルクリストといって、学業面でも運動面でも優秀な生徒です。ラグビー部とクリケット部に所属してますが、ハードルと幅跳びではうちの大学の代表にも選ばれています。なかなかいい男ですよ。彼の父親はもう亡くなってますが、この地では有名な競馬業で身を崩したジャベズ ギルクリスト卿という人物です。家が傾いてしまったわけですから彼はいま経済的にかなり苦しい状況にありますが、まじめで頑張り屋な男ですから、きっと成功できるはずです。

次に3階の部屋ですが、ここにはインド人のドウラット ラスという生徒が住んでいます。他のインド人と同じようにもの静かで少し何を考えているかわからないタイプです。ギリシャ語は苦手科目のようで成績は良いとは言えませんが、勉強に取り組む姿勢はまじめです。きっちり規則正しいタイプと言えるでしょう。

最後に4階にいる男ですが、マイルズ マクラーレンという名前です。彼はその気が向いているときはかなり優秀な生徒で、頭の良さでは学内でもトップクラスなんですが、気分にムラのあるタイプでして。ずっと集中して何かをするということができず、気まぐれで、まだ確固たる軸というものができてないように思われます。大学1年目には賭けトランプの問題を起こしてもう少しで退学処分となるところでした。今学期は勉強にも身が入っていないようで、明日の試験にはかなりの不安を感じていると思います。」


「彼がいちばん怪しいと?」


「そうまでは言いませんが.. あの3人の中で言えば、そうですね。いちばん無きにしも非ずと言えるのかも知れません。」 


「そうですね。では、ソームズさん。あなたの下で働いているそのバニスターという人の話を聞きたいんですが。」


その掃除員は小柄な50歳くらいの男だった。きれいにヒゲの剃られたその顔は青ざめていて、頭にはだいぶ白いものが混じっていた。単調ではあるが平穏な自身の暮らしに突如として沸き立った波風に未だ動揺が収まってない様子で、肉の多いその顔を引きつらせ、指先をしきりに動かしていた。


「バニスター、例の残念な件のことを調べててね。」

彼の雇い主が声をかけた。


「はい。」


「聞いたところでは、ドアの鍵を抜き忘れてしまったとか。」

ホームズが始めた。


「ええ。」


「あんな大事な紙がある時にたまたまそうしてしまったというのもおもしろいですね。」


「運が悪かったんです。ただこういうことは私はときどきやってしまうんですが。」


「あなたが部屋に入ったのはいつのことです?」


「4時半くらいでした。先生にお茶を出すのがその時間ですので。」


「部屋にはどれくらいいたんです?」


「先生がいらっしゃらないとわかって、すぐに出ていきました。」


「テーブルの紙を見てみましたか?」


「いいえ、見ていません。」


「どうして鍵を抜き忘れたんでしょう?」


「両手でお茶の載ったトレイを持っていましたので、それで、先にそれだけ持って帰って鍵はすぐに抜き取りに来るつもりでいたんです。ですが、それを忘れてしまって.. 」


「外側のドアですが、勝手に閉まるようにはなってます?」


「いえ。」


「ということはその間ずっと開いていた?」


「はい。」


「もし部屋の中に誰かがいても出ていくことができたわけですね?」


「はい。」


「ソームズさんに呼ばれてここに来たときは、あなたはかなり動揺したとか?」


「はい。長年ここでお世話になっていますが、こんな事は初めてで。もう気を失いそうになってしまいまして.. 」


「そうですか。その、気分が悪くなりだした時のことですが、どこにいました?」


「どこに.. ですか? ドア口のところにいましたが。」


「おもしろいですね。あなたが腰をかけに行ったのはその隅のイスなんですよね? イスならその途中にも置かれてあるのに、どうしてそれには座らなかったんです?」


「.. わかりません。私は座ることができればどのイスでもよかったですから。」


「ホームズさん。それを言われてもバニスターは本当にわからないと思いますよ。あのときは本当にフラフラになっていましたから。」


「ソームズさんが僕を呼ぶのにこの部屋を出ていってからも、あなたはここに残っていたそうですね?」


「ほんの1分くらいです。それからここを出てドアに鍵をかけて、自分の部屋に戻りました。」


「あなたはどの生徒が怪しいと思います?」


「そんなことはっ、私の口からは言えません。この大学の生徒さんの中に、そんなことで得としようと考える人がいるとは思えません。私はそう信じています。」


「わかりました。では、結構です、」

ホームズが言った。

「あ、あと1点だけ。上の3人にはこの部屋で起こったことは伝えてませんか?」


「いえ、何も。」


「彼らと顔も会わしてない?」


「ええ。」


「そうですか。では、ソームズさん、よければいっしょに中庭を歩いてみましょうか。」


中庭に出てみると、あたりは薄暗くなっていた。僕らのいた棟の壁に、3つの黄色い長方形が縦に並んで見えていた。ホームズがそれを見上げて、

「3兄弟はもう部屋に戻ってるみたいですね。ワォ、なんだ? かなり落ち着きのないのがいるようですね。」


インド人学生のいる階だった。窓枠内に黒いシルエットが現れたかと思うとセカセカと行ったり来たりしている。


「1人ひとり、簡単に話を聞いてみたいんですが。構いませんか?」

ホームズが訊いた。


「問題ありませんよ、」

ソームズ氏が答えた。

「この棟は大学でもいちばん古い建物でして、ときどき中まで見学しにくる人もいるんです。私が案内しましょう。」


「名前は、なしでお願いします。」

最初のギルクリストの部屋をノックするときにホームズが口にした。ドアを開けたのは長身で細身、薄茶色の髪をした青年だった。こちらが用件を告げると彼は快く部屋へ通してくれた。部屋の中はめずらしい中世の住宅建築の造りになっていて、ホームズはその中でかなり気に入った箇所があったとかで、どうしてもそれをスケッチしておきたいと言い出した。それで彼がスケッチをしている途中に鉛筆が折れてしまい、ギルクリスト青年から1本借りることになった。さらに自身の折れた鉛筆を削りたいと言ってその青年にナイフまで借りていた。ホームズはこれと同じことを次のインド人学生の部屋でもやっていた。そのインド人学生というのは小柄で鷲鼻の、もの静かな感じの青年だったが、終始こちらを怪訝そうな表情で見て、ホームズの建築観察のスケッチが続いているあいだは露骨に迷惑そうな顔つきでいた。その2つの部屋でホームズが狙っているものを見つけられたのかどうかは僕にはわからなかった。3人目の部屋のときだけ僕らの訪問は徒労に終わることになった。部屋をノックしてもそこのドアが開けられる気配は一切なく、返ってきた反応といえば室内から聞こえてくる罵声だけだった。その声の主は“誰だか知らねぇけど、どっか行ってろ!こっちは明日テストなんだから邪魔すんじゃねぇ!”とわめき立てていた。


「失礼な奴だ、」

階段を降りながら、顔を紅潮させた僕らの案内人が口にした。

「もちろん、彼はノックしたのが私だということはわかってなかったんでしょうが、それにしても礼儀がなっとらん。それに確かに.. 今の状況で考えると、怪しいと言わざるを得ませんな。」


これに対するホームズの返しはかなりおかしなものだった。

「今の生徒の身長ってわかります?」


「いや.. はっきりとは知りませんが。さっきのインド人学生よりは高くて.. ギルクリストよりは低いはずです。たぶん170cmあるかないかだと。」


「そうですか、かなり貴重な情報ですよ。では、ソームズさん、今夜は僕はこれで。」


ホームズがそう言うとソームズ氏はびっくりして声をうわずらせた。

「ホームズさんっ、まさかここで終わりってわけじゃないでしょう? こちらの状況はわかっていただけてますよね? 試験は明日なんです。何か判断を下すにしても今日しか残ってないんです。誰かがあのゲラ刷りを使って不正を働いたんなら試験は行えませんし、今夜なんとかしないといけないんです。」


「とりあえず今はそのまま何もしないで構いません。明日の朝早くにお部屋に伺いますから、そこで話をして、その段階でどうするか提案できるかと思います。それまでは何も変更しないで、すべてそのままでいてください。」


「.. わかりました。」


「ま、お気を楽になさって。解決の手だては見つけてみせますよ。この黒い粒と、あと鉛筆の削りカスは借りていきますね。では、また明日。」


ソームズ氏と別れ、暗い中庭に出てからもう1度振り返って棟を見上げてみると、あのインド人の学生はまた部屋をうろうろしていた。他の2つの窓には人影は映っていなかった。


「.. さて、ワトソン。どう思った?」

大きな通りへと出てからホームズが訊いてきた。

「何かトランプのゲームでもやってる感じだよね。3枚あるカードから1枚選んで、みたいな。あの3人の中に犯人がいるはずなんだけど、1人選ばないといけないとしたら、君だったら誰にする?」


「いちばん上のあの口の悪い奴じゃないか? 成績も3人の中じゃ1番悪かったみたいだし。ただあのインド人も何かありそうだな.. 部屋の中であんなうろつくことあるか?」


「それは何てことないと思うよ。何かを暗記していこうってときにああいう行動になる人間は多いし。」


「僕らのことをかなり変な目で見てたし。」


「君でもそうするだろ。次の日が試験で1秒も無駄にできないってときに、知らない奴がかたまって押しかけてきたらね。や、あの態度は別に何もないね。鉛筆も、ナイフも.. 問題なかった。わかんないのはあいつだよ。」


「誰?」


「誰って、バニスターだよ、掃除員の。この件にどう関わってるんだか。」


「すごくまじめな人間に見えたけどな。」


「僕にもそう見えたよ。だからわからないんだ。何でまじめで誠実な人間が── あ、文具屋があったね、見てみないと。」


この街にある大きめの文房具屋は4軒だったが、その4軒ともでホームズはソームズ氏の部屋から持ち帰った鉛筆の削りカスを店員に見せ、この鉛筆があれば定価より高く買うつもりだけど、と伝えていた。が、4軒とも返ってきた答えは同じで、それは一般的なサイズのものじゃないのでいま店には置いていない、注文で取り寄せることならできる、といったものだった。ホームズはこの結果にもさしてめげた様子は見せず、しょうがないという風に少しおどけた感じで両肩を上げた。

「残念、ワトソン。これをたどれたら決定的だと思ったんだけど、ダメだったよ。でも、ま、これがなくても固めていけるとは思うけど。あぁもう9時近いよ。宿のおばさんが7時半にグリーンピースを出すとか言ってなかったっけ? 部屋でタバコは吸い放題だし食事の時間も守らないじゃあ、君はもう追い出されるかも知れないよ。そうなったら僕も運命を共にしないといけないわけだし。まぁそうなるにしても、その前にこの事件は終わらせとかないとね。この気の休まらない大学講師にうっかり者の用務員、未来ある3人の若者って事件をね。」


それから彼がこの件のことを口にすることはなかったが、宿に戻って遅い夕食を終えてからは長いあいだ考えに耽っているようだった。次の日の朝8時に、僕がベッドから起きて着替えなどの身支度を済ませたタイミングで彼が僕の寝室へと入ってきて、

「あぁ、ワトソン、もうセントルークズに行かないと。朝ごはん抜きでいいか?」


「いいよ。」


「早く行って何かしっかりした情報をあげないと、いよいよあの人いっぱいいっぱいになるだろうから。」


「あげられるようなしっかりした情報があるってこと?」


「うん。」


「結論も出てるってこと?」


「そうだよ、ワトソン君。もう謎は解けてるから。」


「でも、あれから新しい証拠なんて出てないんじゃぁ..?」


「何のためにこの僕がわざわざ朝の6時にベッドを出たと思ってんの。2時間もがんばって8kmは歩いて、何も得てないわけないから。これっ。」


ホームズが差し出した手のひらに、あの小さな黒い四角錐状の塊が3つ載ってあった。


「えぇ..と、昨日持って帰ってきたのって2つじゃなかったっけ?」


「だから3つ目が今日の朝の分だよ。この第3があったところに第1、第2もあったって考えるのが普通だろ。ね、ワトソン。じゃ、行こう。我らがソームズさんの頭痛を取り除いてやりに。」


その大学講師の部屋近くまで来たとき、かわいそうに彼のあせりは最高潮にまで達しているようだった。試験はあと数時間で始まるし、未だ2つの大きな選択肢の間で板挟みとなっているのだ。この不祥事を公にして試験を止めるか、公表しないまま不正を働いた者に高額の奨学金を与えるか。中庭から窓越しに見えるソームズ氏はじっとしていられないようでセカセカと動き続けていた。僕らが部屋へ行くと、両手をこちらに伸ばして駆け寄ってきて、

「あぁ、来てくれましたか。もしかしてこの件のことはあきらめられたんじゃないかと思ったりしてたんですが。 .. それで、どっちにすればいいでしょう? 試験は行うべきですか?」


「ええ。試験はそのまま実施してください。」


「ここに侵入した輩は?」


「その人間が試験を受けることはありませんよ。」


「それが誰かわかったんですか?」


「ええ、そう思います。それで、この件なんですが、公にさせるつもりがないのでしたら、僕ら預かりということで何もかもこっちで決めていきませんか? 私的裁判ということで。ソームズさんはそちらに座ってもらえますか。ワトソンはそこで。僕は真ん中のこのアームチェアーでいいですかね。これで脛にキズを抱えた人間はかなりプレッシャーを感じるはずですよ。ではベルを鳴らしてください。」


ベルが鳴らされ、戸が開いて掃除員のバニスターが姿を現した。彼は僕らが用意した裁判チックな陣形を前にして一瞬戸惑った顔をしてから、萎縮した様子で部屋に足を踏み入れてきた。


「そちらのドア、閉めてもらえます?」

ホームズが声をかけた。

「では.. バニスターさん。昨日、本当にあったことを話してもらいましょうか。」


掃除員は青い顔になって、

「すべて、お話ししましたけど.. 」


「他に何も言うことはないと?」


「ええ、何にも。」


「では、僕の方から、こうじゃないかなと思うことをしゃべっていきますね。昨日、あなたはそこのイスに座ったということですが、それは何かを隠すためにそうしたんじゃありませんか? 部屋に侵入していた人間のことが知れてしまうような何かを。」


バニスターは怯えた表情になって、

「そんなことはありません。」


「まぁ、あくまでこっちがそう思ったということですから、」

ホームズは丁寧に、

「率直に言って、そういう証拠を掴んでるわけじゃないんですがね。ただじゅうぶんにあり得ることだと思いますね。あなたはソームズさんが出ていってすぐ、寝室にいた男を部屋から逃がしてあげてるんだから。」


バニスターはカラカラになった唇を舐めてから、

「.. 男なんていませんでした。」


「ダメだね。さっきの質問は本当のことを答えてた可能性もあるけど、今のは完全に嘘だ。」


ここで掃除員の表情に少し挑戦的なものが走った。

「男なんていませんでした。」


「もう.. あんたねぇ──」


「いいえっ。誰もいませんでした。」


「そうくるんだったらしょうがない。これ以上訊いても無駄みたいですね。ちょっとここで残っててもらえます? そこの寝室のドアの横で立っててもらって。では、ソームズさん、お手数ですがギルクリスト青年の部屋まで行って、ここに来るよう言ってきてもらえませんか。」


ソームズ氏はその生徒を連れてすぐに戻ってきた。連れてこられた青年は、背が高く機敏でしなやかな身のこなし、足取りも軽く誠実そうな顔つきと、まさに理想的な若者といった風だった。今この青年の戸惑った青い瞳が僕らを交互に見まわしていて、その目が奥に立つバニスターの姿を捉えたときに動揺が走ったのが確認できた。


「ドアを閉めて、」

ホームズが声をかけた。

「さて.. ギルクリストさん。今この部屋にいるのは僕たちだけです。ここでしゃべることは誰にも知られることはありませんので、率直な話をしましょうか。僕らが知りたいのは、ですよ。どうして君みたいな立派な生徒が、昨日みたいな事をやってしまったのかということなんです。」


哀れな青年は面食らったように一瞬体を引き、驚きと非難のこもる目を奥のバニスターに向けた。


「違いますっ、ギルクリストさん。 私は何も、何もしゃべっていませんっ。」

掃除員が声を上げた。


「今しゃべったも同然ですけどね.. 」

ホームズが口にした。

「さあ、ギルクリストさん。今のバニスターさんの言葉で、状況がどうなってしまったかはわかると思います。君がやるべきことは、もうすべてを話してしまうことじゃないですか?」


ギルクリスト青年は片手を顔の前に上げ、少しのあいだ何とか感情をコントロールしようとしていたようだが、ふいにテーブルのそばの床に膝を突き、両手のひらで顔を覆ってしまった。そして堰を切ったように泣きじゃくった。


「さぁさぁ、」

ホームズが穏やかな口ぶりで、

「人が犯す過ちだから。誰も君のことを冷淡な犯罪者とか思っているわけじゃありませんよ。僕の方からソームズさんに何があったのか説明していくのがいいでしょうね。それで間違ってるところがあったら言ってください。それでいいね? あ、答えなくていいです。僕が間違ったことを言ってないか聞いててください。

ソームズさん。僕は、あなたが誰もこの部屋にゲラがあったことを知らなかったと、掃除員のバニスターさんでさえも知らなかったとおっしゃっていたときから、これがどういったケースなのかの見当は付いていました。この場合もちろん印刷業者の犯行という線は除外します。あれを印刷した業者ならここに持ってくる前にいつでもゲラの中身は見れたわけですから、わざわざこの部屋に忍び込んで写しを取らないといけない理由がありませんからね。あとインド人の学生が質問しに来たという話ですが、それも僕は重視していませんでした。用紙はそのときロール状だったということですから、それが何の紙なのかは彼にはわからなかったでしょうからね。そしてこの部屋に侵入した人間がたまたまテーブルに大事なゲラがあるのを見つけて.. なんて可能性もほぼ無いだろうと思っていました。では犯人はどうやってこのテーブルにゲラがあることを知ったのか。

中庭でそこの窓の調べをしていたときに、ソームズさん、あなたは僕が、犯人が窓から侵入したと疑ってると思ってらしたようでちょっとおかしかったですが、そうではありません。向かい側に別の棟もあってそこに窓も並んでいて、誰かに見られるリスクのなかで昼間に窓に体をくぐらせて.. というのは僕の考えにはないことです。僕があのとき見ていたのは、どのくらいの背の高さがあれば窓の前を通るときにテーブルにある紙が何なのかまでわかるか、ということだったんです。だからあのときすでに、この棟に住んでいるという3人の生徒の中にかなり背の高い人間がいれば、その生徒を重点的に見ていけばいいという腹積もりでいました。

それからこの部屋の中を調べましたが、侵入者が窓際の小さいテーブルで写し作業をしたのでは、という話をしましたね。ただ中央の書き物テーブルにあった手がかりについては僕も最初はよくわかってなかったんです。ですがあなたからギルクリストという生徒は幅跳びの選手だというのを聞いたときに、急にその手がかりがはっきりとした形を帯びてきて、一気に事件の全体像まで見通すことができたんです。その時点で僕がやるべきは、その線に合う証拠を探していくだけとなりました。それもすぐに見つけることができましたがね。

あのとき何があったのかは、こうです。この青年は昨日の午後、運動場で幅跳びの練習をしていた。そして練習が終わって幅跳び用の靴を手にぶらさげてこの棟に戻ってきていた。ご存知のように幅跳び用の靴の裏には鋭い突起がいくつか付いていますね。そしてここの書斎の外を通ったときに、背の高い彼には室内のテーブルに置かれていたゲラが見えたんです。そして、その用紙は何なんだろうと気になった。これだけなら何もなかったんでしょうが、いざ棟の中に入ってみて部屋の前を通るとき、掃除員の不注意でドアに鍵が挿さったままになっているのが見えてしまったんです。ここで彼は衝動に駆られます。部屋に入って、さっきの紙が試験の問題用紙なのかどうか確かめてみたいという衝動です。彼にとってこの部屋に入っていくこと自体はそんなにリスクのあることではありません。先生に質問しようとして入った、という言い訳を用意しておけばいいですからね。そして実際に部屋に入った彼はテーブルにあるのが本当に試験問題のゲラだとわかった。そしてこのチャンスを利用したいという誘惑に負けてしまい、テーブルの上に靴を置いて.. 窓際のイスには何を置いたの?」


「手袋.. 」

青年が答えた。


ホームズは奥で立つバニスターに向かって目を見開きながら、

「手袋を、置いたと。それからゲラを1枚ずつ持っていって写しを始めた。彼はソームズさんは正面の門を通って戻ってくると予想してましたから、その小さい方のテーブルで作業をしておけば戻ってくる姿を見つけられると踏んでたんです。でもご存知のとおり実際にはソームズさんは通用門から棟に入ってきた。突然ドアの外に足音を聞いた彼は逃げ場を失ってしまい、急いで自分の靴だけつかんで寝室へと飛び込んだ。手袋をつかんでくるのは忘れてしまいましたがね。このテーブルの傷ですが、始めは点のようなものから寝室のドア側に向かって大きく破れていっていますね。これは寝室に向けて靴が引っ張られた、つまり侵入者は寝室の方に向かっていったということを示しています。このときに靴の裏の突起に付いていた土が落ち、テーブルの上と寝室の床から黒い粒が見つかったというわけです。僕は今日の朝、学内の運動場に行ってきましたが、幅跳びの練習場には黒い粘土状の土が入れてありました。そしてその上に樹皮を砕いた物かおが屑かがまぶされてあるのも確認できました。これは選手がすべらないようにそうするんだそうです。これで合ってますか、ギルクリストさん?」


青年はすでに上体を起こし、顔を前に向けていた。

「はい、それで間違いありません。」


「何てことだっ.. 何も言うことはないのか?」

ソームズ氏が訊いた。


「ありますが、自分の罪が暴かれて晒されてしまった今の状況では、まともにしゃべれそうにありません。ですが、手紙を持ってきました。昨日、寝付けないなかで明け方に書いたものです。自分の罪が発覚するとわかる前に書いたものです。これをどうぞ、先生。そこに書いてあるのがわかると思います。“明日の試験は受けずに、話をいただいていたローデシアの警察での任務に就くことに決めました。すぐに南アフリカへ向かうつもりです”と。」


「君が不正に得たもので利益を得ようとしないことがわかったのはよかったが、なんでまたそんな決断を?」

ソームズ氏が訊いた。


「正しい方に導いてくれた人がいるんです。」

青年が返した。


「バニスターさん、どうぞこっちへ、」

ホームズが奥の掃除員に声をかけた。

「僕の今の話から、寝室にいた人間をこの部屋から逃がせたのは、あなた以外にいなかったことははっきりしてるでしょう。あのときあなたは部屋に残ったままでいて、出るときにドアの鍵もかけたということですからね。侵入者が寝室の窓から出ていったというのも考えにくいですし。この件の最後の謎を教えてもらえませんか? あなたの今回の行動の理由というのは何なのか。」


「知っていれば単純なことです。ただあなたの千里眼を持ってしても、これは知りようがなかったでしょうが.. 私は以前、この方のお父様であるジェイベス ギルクリスト卿のお屋敷で執事をしていたことがあるんです。あの家が傾いてしまって執事の仕事も無くなってしまいましたが。その後にこの大学で掃除係として働くことになったんですが、たとえ身を落とされても私のご主人でしたから、ご恩は忘れたことはありませんでした。だからこの大学に入学された息子さんのことは私なりにいつも見守っていたんです。 それで昨日.. 先生に呼ばれてこの部屋に入ったとき、イスの上の薄茶色の手袋がすぐに目に飛び込んできました。その手袋は何度も見たことがありましたから誰の持ち物かはわかりましたし、それがここにあるということがどういうことなのかを即座に理解しました。あれが先生に見つかってしまったらそれでおしまいです。私は倒れ込むようにそのイスの上に腰を落とし、先生があなたを呼びに行くのにここを離れるまで絶対に動きませんでした。それで先生が出ていった後で寝室のドアが開いて.. 昔のご主人の息子さんが出てこられたんです。自分の膝の上であやしていたお方です。ギルクリストさんはすべてを話してくれました。私がこの人を助けようと思ったのは当然のことではありませんか? それと死んだお父様なら言っていたであろうことを伝えたことも。こんなことで利益を得てはならない、と。私のしたことは許されないことだったんでしょうか?」


「そんな事はありません、」

ホームズが感情のこもった声でそう答え、イスから立った。

「ソームズさん、これで問題は解決されたかと思います。宿で朝食が待ってますので。行こう、ワトソン。あぁ、ギルクリストさん、君にはローデシアで素晴らしい未来が待っているはずですよ。今回は沈んでしまいましたが、そこから君がどれだけ上がることができるのか、見せてほしい。」



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