夜の家族

蓮乗十互

夜の家族

 平成十一年十月二十五日。

 当初予算要求に係る原課協議を終え席に戻る。時刻は夜の九時半。子供が起

きてしまうかな、と心配しながらも自宅に電話を入れる。

 数回のコールの後に妻が出た。夕食の用意はあるか、と問うと、料理に失敗

してロクなものがないという。帰りに何かを買うことにする。電話を切ろうと

すると、二歳半になる息子が電話口に出た。

「起きてたの?」と私。

「起きてた」と息子。

 寝入りばなだったのだろうか、眠たそうな声だ。

「お父さん帰ってくるかなあ」

「うん、もう少ししたら帰るから。ねんねして待ってて。ばいばい」

「ばいばーい」

 しばらくして東庁舎を出る。見上げると、どの階にもまだ煌々と明かりが灯っ

ていた。県民会館の広場でスケートボードをする若者。北堀の水と木々。自販

機の明かり。来月の鼕行列の練習なのだろう、所々に人が集まっている。低く

重たく打ち鳴らされる鼕のリズム。自転車で走る夜の松江は、秋から冬へと向

かう独特の淡い光に満ちていた。

 買い物をして自宅に戻る。どの部屋も電気が消えていて、扉を閉めると真の

闇になる。そっと閉めたつもりだったけれど、微かな音を聞きつけたのだろう、

じきに襖がひらいて小さな足音が駆けてきた。

「お父さんだあ」

 明かりを付けると、息子が喜色満面で飛び跳ねた。

「ただいま」

「お父さん帰って来たね」

「起きてたの?」

「起きてた」

 台所に入ると、隣室から妻が起き出してきた。買ってきたファストフードの

袋を机上に置くと、息子が見つけて目を輝かせた。

「きーくんも食べる」

「食べるの?」

「食べるの」

 歯を磨いたのに、と妻がいう。また磨けばいいよ、と私がいう。息子は期待

に鼻がふくらんでいる。

 紙袋をやぶって、「ふーふーして食べな」といいながらポテトを渡す。息子

は口をすぼめて、ふっ、ふうっと息を吹きかける。そして、がぶり。

「おいしいねえ」

といって、また息子は笑う。

 妻にも勧めた。彼女は二番目の子供を腹に宿し、つい最近までひどいつわり

でほとんど食欲がなかった。普段は夜食を取らない彼女も、それまでの欠食を

取り返すかのように、チキンを囓った。

 三十四歳の私と、三十歳の妻と、二歳半の息子。家族が夜のテーブルを囲む。

「電話した時、こいつ寝てたかな」と妻に尋ねた。

「ううん、横になって眠そうにはしてたけど。でも、しばらくは寝ないね。お

父さんが帰ってきたんじゃ寝るわけないよ」

 やがて食べ飽いた息子が、私の手を引いて言った。

「お月さま見る」

「見るの?」

「見るの」

 ガラス戸を開けてベランダに素足で降りる。ひやりとざらついた感触を足裏

に感じる。職員宿舎から見る月は、東天高く掲げられた鮮やかな光の円だ。夜

の空気が月の光を含んで冷たい。腰をおろし、息子と同じ目線になって、私は

天を指す。

「お月さまあそこにあるよ」

 息子もベランダに降りて、私に寄り添うように空を見上げた。

「お月さま、きれい」

「きれいだね」

「きれいだねえ」

 息子は目を大きく見開いたまま、すっかり月に心を奪われて身じろぎもしな

い。何かを美しいと感じる心の動きが、こんな小さな身体の中にもう芽生えて

いるのだ──。

 その後せがまれるままに、CDを聴きながら踊って、絵本を二冊読む。気が

つくと時刻は十一時を回っていた。

「もうご本はおしまい。お父さんお風呂に入ってくるから、ねんねしなさい」

 そういった途端に、息子の表情が固まった。ばたりと布団に顔を伏せ、身を

小さくよじる。何も言葉には出さないけれど、全身で「もっと遊ぶ、もっと遊

ぶ」と表現している。こっちへおいで、と妻が声をかけると、息子は顔を伏せ

たまま、もぞもぞと妻の布団に潜っていく。

「じゃあね、おやすみ」

 立ち上がり電気を消した。

 風呂から上がると、息子は既に寝息を立てていた。

 やがて当初予算が本格的に始まる。そうなればもう、毎日息子の寝顔しか見

る事ができなくなる。遊べる時には遊んでやらなくては。

 それに……。

(お前と遊ぶことで、お父さんも生きる力を得ているんだよ。ありがとう)

 生涯言葉にして伝えることはないであろうそんな想いを胸に、私はそっと

息子の小さな頭を撫でた。

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夜の家族 蓮乗十互 @Renjo_Jugo

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